1.東部市民センター図書室にて

 光祭文化部門と地域ふれあいフェスティバルにて行った郷土史展示からこのホームページ作成までの3年間を振り返るにあたって、まず、思い出すのは、このホームページ作成までたどり着く過程で、私が関わった全ての方々に対して、私は、喧嘩してきたということだ。精神的にも肉体的にも、喧嘩するだけの体力がなければとても乗り切れなかった。従って、私が、一方的に、郷土史展示からホームページ作成までの過程を書くということは、一歩間違えたら、体制批判のアジをとばすことになってしまう。しかし、私が、郷土史展示からホームページ作成までの過程を明らかにする主旨は、今後、このような活動をしていく人々に、少しでも活動のヒントを与えることができたらいいと思う点にある。私は、いつも、「文化を根底から支える仕事がしたい。」と思っていて、その過程で、このような事実に遭遇したわけで、このホームページは、そのような私の思いを実現したいと言う欲求の現われの1つに過ぎない。従って、私は、このページでは、できる限り、自分の感情を入れず、事実のみを記述するように心がけるつもりである。しかし、私の記述は、私の側に立った記述であることをしっかり理解して、このページを読んでいただきたい。

 私の家族が桃花台ニュータウンに家を買い、引っ越してきたのは、2000年5月のことである。私は、それまでパートで働いていた職場での仕事を続けながら、家の購入・引越しとやっていたので、子供や学校に目を向けることもなく、毎日、職場と家の往復だった。そんな私が学校に目を向けるようになったのは、私の息子が小学6年生だった、平成14年(2002年)夏のことだ。夏休みに小学校で親子除草作業があり、参加した私は、草むしりの最中、はちの群れに襲われた。その時、私は、当時小学校に赴任してきたばかりの校長先生と初めて話をした。

 話は変わって、私は、結婚して仕事をやめてから、学芸員の資格が取りたくて、通信制の大学に入学した。学芸員になるには、教員の免許もあるといいと本に書いてあったので、中学2種社会の教員免許を取得するための単位も勉強した。結果として、学芸員の資格は取って卒業したのだが、教員の免許は取得しなかった。教員免許取得の単位は全て取ったのだが、教育実習をやらないで卒業したからだ。なぜ、教育実習をやらなかったかというと、物理的には、二人目の子供を産んで、教育実習どころではなくなってしまったということはあげられる。しかし、学芸員になりたいという情熱はあっても、教員になりたいという気持ちは、それほど強くはなかったというのが、教育実習を受けなかった一番の理由だろう。

 私は、通信制の大学の卒業と、学芸員の資格と教員免許取得のために、東京の大学で、1年間2〜3週間ほどのスクーリングに3年間通学した。そこで、非常に多くの人と出会ってきた。その中で最も大勢を占めていたのが、教員になりたくて教員免許取得の勉強をしている人達だ。私のように学芸員になりたくて教員免許の勉強をしている人には、スクーリングの期間中、一人も会わなかった。一人だけ、野球部の監督になりたいから教員免許取得の勉強をしている人以外は、教員になりたいから教員免許取得の勉強をしている人ばかりだった。しかも、教員になりたいという情熱はすごいものがあり、その感情には私もついていけないと思うことがしばしばあった。更に、教員免許を取得しても、教員として働ける人はごく少数だ。いくらテストでいい点を取っても、教員にはなれない。みんなそういう現実は知っていると思うのだが、教員志望のあの情熱は一体どこから来るのか不思議だった。この人達が教員の卵以前の人達で、この中から、教員の卵になって、卵から成長して校長や教頭になっていくのは、一体どういう人達なのか、当時の私には全く想像できなかったのだった。ある教員志望で学校事務の仕事をしながらスクーリングに来ている人が言っていた。「校長や教頭は、教員とは全く違う人達なんだよ。」

 生涯教育に興味があり、生涯教育の勉強がしたいと思っている私は、教育実習を受けることなく、大学を卒業した。私にあるのは、学芸員の資格だけだ。でも、教員になりたいと思ったことはなく、生涯教育に関する勉強は続けていきながら、今日まで来た。

 話は元に戻って、夏休みの親子除草作業で息子の小学校の校長先生と初めて会って、いろいろ話を聞くことができた。「教員になりたい」という情熱の塊の教員以前の人達にたくさん会って、教育現場を敬遠してしまった私だが、保護者として校長先生の話を聞くと、「では、私も何か探してみましょう。」という気になるのだった。校長先生にもいろいろな人がいるとは思うが、私に、「学校を活性化できるようなものを探してみます。」という気をおこさせることができるというのは、やはり、普通の教員とは違うのだと思う。普通の教員の方々は、大概、「子供たちのために」という言葉を口にする。確かに、学校は子供たちのための施設だ。しかし、校長先生から「子供たちのために」という言葉を聞くことはなかった。校長先生から聞こえてくるのは、「学校のために」とか「地域のために」とか、そういう言葉だった。もし、あの時、校長先生が私に対して、「子供たちのために」といっていたら、私は、今、このホームページを作るようなことはなかったと思う。

 「学校や地域を活性化したい。でも、なかなか自分の思い通りには物事が運んでいかない。」夏休みの除草作業の時、校長先生はこのようなことを言われていたと私は解釈している。それ以来、「学校と地域の活性化」という言葉が私の頭の中に残りつづける。私が大学で中学2種社会の免許取得のために勉強したことの1つに、自分の住んでいる地域の地理や歴史を調べてレポート提出をすると言うものがあった。この単位を取得するために、図書館をいくつもまわったことを思い出した。「そうだ。これと同じことを桃花台ニュータウンでもやってみたらいいんじゃないか。」そう思って、東部市民センターの図書室の郷土資料コーナーを訪れたのは、その年の秋だったと思う。そこで、「桃花台ニュータウン遺跡調査報告書」を初めて読んだのだった。