4.光ヶ丘中学校教頭先生との活動

 11月1・2日に光ヶ丘中の文化祭と地域ふれあいフェスティバルが行われるのに、9月の中旬をすぎても、PTAの副会長とは、メールの交換をたまにするくらいで、一度も顔を合わせていない。思えば、私が主人と会うのですら、夜遅くと朝早くしかない。ましてや、同じ職場でない限り、顔を合わせることはない。私は、働いていると言ってもパート勤務なので、会社にいるのは、月17日だけだ。従って、これから光ヶ丘中学の教頭先生と会って、文化祭と地域ふれあいフェスティバルの郷土史展示を実行することに関しては、私一人で動いてもいいように、PTA副会長にお願いした。そのかわり、経過はメールで副会長に報告するということにした。このとき以降、このHPに至るまでは、私と光ヶ丘中学校や小牧市教育委員会文化振興課との間で話を進めていくこととなる。

 平成15年度の光ヶ丘中の文化祭と地域ふれあいフェスティバルの郷土史展示は、教頭先生と私の二人三脚だった。教頭先生は、私がパートの休みの日に時間をあけてくださった。今から思うと、私は、いつも「時間がない、時間がない。」といらいらしていたような気がする。そんな私に教頭先生はいつも、「そんな風に急ぐ田中さん(私の名前)には、私はとてもついていけないなあ。私はいつも、学校には朝一番遅く出勤するし、とてものんびりしてるから。」とおっしゃっていた。

 教頭先生が郷土史展示のためにやる仕事は、展示の場所や展示機材を確保したり、展示の写真を確保したりする外部との折衝や私の展示に対する助言や補助だ。私が郷土史展示において外部と折衝したのは、光ヶ丘中学校以外には、小牧市教育委員会文化振興課だけだ。しかし、郷土史展示の場所を確保するのも結構苦労したらしい。私は、地域ふれあいフェスティバルの実行委員ではないので、その話し合いに参加したことは一回もないが、教頭先生は、私の側についてくれて、何とか場所を確保したらしい。なぜ、郷土史展示だけえこひいきするのかといった声もあったと聞いた。

 私が郷土史展示のためにやる仕事は、展示の構想を考えることや展示の説明パネル作り、発掘調査現在地の現場写真を撮って写真パネルにすること、そして、文化祭当日の郷土史展示のディスプレーや展示の監督などだ。私は、展示の構想に関しては、もし、私が当日展示ができなくなっても、誰が読んでもわかるように、詳細に、計画案を作ることを心がけた。計画案は、パソコンのエクセルで作成した。(展示の略図、使用する机の数や位置、机の種類、椅子の種類や数、展示図書の種類や置く場所はもちろんのこと、アンケートの内容、枚数、置く場所などなど。)また、展示の説明パネルは、教頭先生が助言されたように、読みやすいように、できるだけ大きい字で、また、簡単でわかりやすい文章で、ルビもふって、パソコンのワードで作成した。(これは、小中学生対象と言うことが根底にあったからである。)

 ところで、この郷土史展示のメインは、もちろん、篠岡古窯跡群の出土遺物の写真パネルと発掘調査当時の写真パネルである。これらのものを管理しているのが、小牧市教育委員会文化振興課であることを教頭先生は知っておられて、私の知らない間に文化振興課と連絡を取っていた。夜8時くらいに私の携帯に連絡を入れてきた教頭先生は、「小牧市役所の文化振興課というところに、中嶋さんという人がいて、この人が、篠岡古窯跡群のことに関しては、右に出るものがいないほどよく知っている。中嶋さんが一度田中さんに会ってみたいと言われているので、田中さんが中嶋さんと会える日を教えてもらえないか。そのときに、出土遺物と発掘調査当時の写真の件をはっきりさせてもらえないか。」と言ってきた。文化振興課の中嶋さんと会えるのは、土・日・祝日以外の私がパートの休みの日だ。しかも、9月も終わり頃だったので、日にちの選択肢はあまりなく、都合のいい日の朝10時に小牧市役所南庁舎2階の文化振興課にお伺いすると言うことで、教頭先生に伝えてもらうことにした。恥ずかしい話ですが、その時、私は、小牧市教育委員会が市役所にあるということに初めて気づいたのだった。