旧参道・ダイモン〜西の沢〜女坂

たたら製鉄の図

このホームページ管理人作たたら製鉄の図

 人類が最初に鉄を発見したのは、空から降ってきた隕石からであるという説が現在の最も有力な説である。紀元前3000年のエジプトの墓の中から発見された鉄のビーズのネックレスは、隕石の一部である隕鉄製と推測されている。人類が初めて人工の鉄を作るようになったのは、紀元前1900年頃のヒッタイト帝国(現在のトルコの地に昔栄えた帝国)であるという説が現在のところ有力であるが、この説に疑問を呈する学者もいる。この製鉄技術がシルクロードを通って中国に伝わったのが紀元前771年頃であるとされている。その後、朝鮮半島などを経由して、日本に鉄の文化が伝わった。日本に鉄製品が入ってきたのが縄文時代晩期といわれているが、たたら製鉄が日本で始まったのは、5世紀前後と考えられている。(しかし、考古学の研究からもっとさかのぼる可能性も指摘されている。)

 さて、たたら製鉄の技術は、意外にも単純なもので、しかも、私たちの身の回りにあるもので鉄ができてしまう。鉄鉱石は、現在では、全て輸入に頼っているが、それは、大量生産・大量消費という現代社会のしくみによって、そうなっているのであって、たたら製鉄で使う鉄鉱石(砂鉄)は、花崗岩が風化して砂になったものの中に含まれている。花崗岩は、日本列島全域に分布しており、「小牧市史本文編」(小牧市教育委員会 昭和52年3月発行)によると、大山地内には、花崗岩類は露出している。木炭や送風装置であるふいごも山にある木から作ることができるし、大山廃寺周辺に篠岡古窯跡群があったことからもわかるように、炉の材料となる粘土も周辺にある。

 昭和52年(1977年)8月25日から昭和52年(1977年)9月30日の期間に行われた大山廃寺第4次発掘調査によって、児神社境内付近には、11世紀末から12世紀(平安時代の後期)にかけて、金属溶解炉とその関連施設(古代たたら)が存在していたことがわかった。たたら製鉄の操業で必要となる施設は、以下の通りである。

1.鉄鉱石(砂鉄)の採集と運搬→鉄穴流し(かんなながし)による砂鉄の選別と砂鉄を運んだ道が遺跡の山の中にあるはずである。

2.たたら炉によるケラ(溶けた鉄)の生産

3.たたら炉で生産されたケラ(溶けた鉄)を冷却する鉄池(かないけ)

4.たたら炉で生産されたケラ(溶けた鉄)を砕く大どう場

5.4をさらに小さく分割する小どう場

6.砕いた鋼を選別する鋼造り(かねつくり)場

7.鋼以外の不十分なケラ(溶けた鉄)を加熱して、叩いたり、のばしたりしながら不純物を除き、炭素量を調節して、包丁や釘などの材料となる鉄を作る大鍛冶場

8.木炭を焼く炭焼き場

9.ケラ(溶けた鉄)を型に流し、梵鐘などの鋳物を造る場所

10.良質のケラ=玉鋼(溶けた鉄)で日本刀を作る鍛冶場

11.たたら操業に従事する職人たちが住む場所→たたら操業に従事する人々には、もちろん僧侶も含まれていただろうが、僧侶にはできないような専門的な職人知識がたたら操業には必要であったとこのホームページ管理人は考えている。

12.たたら操業によってできた鉄製品を収納・管理する建物→特に日本刀などの武器庫がたたら場の近くにあったのではないか。

 第4次発掘調査において発掘された大山廃寺の古代たたらは、たたら炉の中心部が発掘されただけである。たたら製鉄を大山廃寺の中で行うためには、最低でも、上にあげた施設とそこで働く人が必要になってくる。そして、このたたら製鉄所での過酷な重労働に耐える心の力をつけてくれるもの、「なぜ、たたら場で働くのか。」の答えをみつけてくれる役割を担っていたものが、大山廃寺であったと、このホームページ管理人は考える。

 製鉄の原料は鉄鉱石だが、平安時代以降の製鉄遺跡では、全国的に、鉄鉱石から砂鉄を選別して、砂鉄を製鉄の原料とするようになった。砂鉄は、「鉄穴流し(かんなながし)」という手法によって採集されていた。「鉄穴流し(かんなながし)」とは、簡単に説明すると、山の上から水の流れを作って、風化した花崗岩(土砂)を下に流し、その水の流れの間に沈んだ重い砂鉄を採るというもので、古くからこの工法によって、砂鉄は採集されていた。そして、「鉄穴流し(かんなながし)」は、金属溶解炉から比較的近い位置にあったという特徴もあった。この点が、鉄鉱石を全て海外からの輸入に頼っている現在の日本の鉄鋼業界とは全く違うところである。平安時代の日本の鉄の生産は、現在の日本の大量生産・大量消費とは違って、自給自足であったと考えるとわかりやすい。

 さて、下の図の茶色い部分が、大山廃寺遺跡の中で、鉄鉱石があったとこのホームページ管理人が考えた場所で、青い部分が、「鉄穴流し(かんなながし)」があったと、このホームページ管理人が考えた場所である。地元民が「ダイモン」と呼んでいる旧参道から藪の中に入っていく感じで、奥に進んでいく(下図では、西の方面に進んでいる。児神社は正確に南を向いて建っている。)と、石がごろごろした所にたどりつく。そして、石がごろごろした所には、必ず、沢のようなものがあり、その沢には、所々、人間が作ったと思われる石の建造物が残っている。管理人が気がついた石がごろごろした所は、下図の2か所にある。しかし、この2か所は、とてもよく似ている風景を持っていて、そこに入り込んでしまうと、自分がどちらの石がごろごろした場所にいるのかわからなくなる。自分がどちらの石がごろごろした場所にいるのか、分からなくなった時は、ごろごろした石を上まで登っていくと、どちらも、林道大山池野線に出て、自分が、どちらの石がごろごろした場所にいたのかがわかる。

 そして、下図の緑色の線は、地元の人々が旧参道のことを「ダイモン」と呼んでいたことを「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 小牧市教育委員会 昭和48年11月発行)を読んで知ったこのホームページ管理人が、とても不思議に思って何度も散歩していたコースである。このホームページ管理人は、このコースを歩いていた当初は、石のごろごろした場所が「ダイモン」の跡なのかと思っていた。しかし、「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年(昭和54年)3月発行)に、第4次発掘調査において、金属溶鉱炉とその関連施設を発掘したことが書かれてあり、「鉄穴流し(かんなながし)」の古い写真が、石のごろごろした所にそっくりだった。つまり、金属溶鉱炉とその関連施設があった11世紀末から12世紀にかけての大山廃寺遺跡の中で、石のごろごろした所は、鉄鉱石の鉱山で、そこに流れる沢の跡は鉄穴流し(かんなながし)、そして、旧参道は、鉄鉱石から採集した砂鉄を金属溶鉱炉まで運ぶ道ということになる。

 「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 小牧市教育委員会 昭和48年11月発行)では、地元民が「ダイモン」と呼んでいる場所は、旧参道のことだと書かれてあり、著者の入谷氏も「ダイモン跡」は「大門跡」の意味だと思っていたので驚いたと書いている。また、愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第一巻(大正12年〜昭和17年 愛知県発行)の中の、「第六 史跡(その四)五、東春日井郡篠岡村 大山寺跡」(愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事 小栗 鉄次郎著 昭和三年三月 愛知県)において、著者の小栗鉄次郎氏は、「大門跡と称する所があるが、今礎石は見当たらぬ、ここから約一間であった道幅が二間に広まって、本堂跡に達している。」と書いている。「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年(昭和54年)3月発行)によると、第2次発掘調査において、地元民が「ダイモン」と呼んでいる旧参道の南側を調査した結果、旧参道の南側において、中世の遺物が多数出土した。このことから、旧参道の南側には、中世には遺構が存在していたことがわかる。しかし、この時、奈良朝様式の軒丸瓦の出土があったにもかかわらず、奈良・平安朝の遺構は検出できなかった。

 「ダイモン」とは、ギリシャ神話では、精霊のことをいう。精霊とは、個人に宿る神のことである。江岩寺住職から聞いた話はこうである。「旧参道より向こう(下図の旧参道より西側のこと)は、昔、僧侶同士の戦争があったときの激戦地で、石がごろごろした所は、戦争で死んだ僧侶たちの墓であり、先代から、旧参道より向こう(下図の旧参道より西側のこと)には足を踏み入れないように言われている。」

 では、「ダイモン」とは「大門」のことではないのか、と問われれば、「大門」があった可能性もあるとこのホームページ管理人は考える。例えば、国の重要文化財である高野山金剛峯寺の大門は、現在のような大門になる以前は、数百m下方の旧道にあった鳥居だった。大山廃寺遺跡の旧参道のあたりも、11世紀末から12世紀にかけて、鉄鉱石採集場への目印として、鳥居ぐらいの大きさの小さな門が建っていた可能性はある。その後、中世に入って、金属溶鉱炉とその関連施設が埋められて新しい礎石建物が建てられたのと時期を同じくして、以前あった門を壊して、満月坊のような僧侶の生活の場を確保したことも考えられる。

 第4次発掘調査において、金属溶鉱炉とその関連施設が発掘されたという事実が、11世紀末から12世紀にかけての大山廃寺遺跡のイメージを変えてしまう。11世紀末から12世紀にかけて、果たして、金属溶鉱炉とその関連施設付近に本堂が建つゆとりがあったのかと思う。第4次発掘調査が行われた児神社境内のあたりは、11世紀末から12世紀にかけて、鉄を冷却する池、鍛冶場、炭焼き場、鉄製品を管理する建物などがひしめきあっていたはずである。ということは、大山寺の本堂跡は、少なくとも、11世紀末から12世紀にかけては、別の場所にあったはずだ。

大山廃寺跡旧参道・ダイモン〜西の沢〜女坂の地図

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年(昭和54年)3月発行)の中の「図版U 大山廃寺付近航空測量図」に、このホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

撮影地点1

児神社境内

第4次発掘調査において、金属溶鉱炉とその関連施設が発掘された場所である児神社境内の風景。2007年11月管理人撮影。

撮影地点2

女坂から望む旧参道入り口

女坂から旧参道をのぞむ。先に大山廃寺遺跡の説明板が見えるが、そこから先は、旧参道である。2007年11月管理人撮影。

撮影地点3

旧参道入り口にある大山廃寺説明板

女坂と旧参道の間に建っている大山廃寺遺跡の説明板。2007年10月管理人撮影。

撮影地点3の周辺で撮影した写真

第2次発掘調査満月坊地区の現在の写真

第2次発掘調査満月坊地区。2018年1月このホームページ管理人撮影。

撮影地点3周辺にある井戸の跡

撮影地点3周辺にある井戸の跡。2018年2月このホームページ管理人撮影。

撮影地点4

旧参道入り口から女坂を望む

旧参道(ダイモン)から女坂をのぞむ。2007年11月管理人撮影。

「大門跡と称する所があるが、今礎石は見当たらぬ、ここから約一間であった道幅が二間に広まって、本堂跡に達している。」

愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第一巻(大正12年〜昭和17年 愛知県発行)「第六 史跡(その四)五、東春日井郡篠岡村 大山寺跡」(愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事 小栗 鉄次郎著 昭和三年三月 愛知県)より抜粋。

撮影地点5

旧参道の風景

旧参道の跡(ダイモン)を西に向かって撮影する。旧参道から藪の中に入っていく感じで、奥に進んでいく(上図では、西の方面に進んでいる。)と、上図では奥の方にある石がごろごろした所にたどりつく。2007年10月管理人撮影。

撮影地点6(1)

女坂にある説明板の奥にある風景

大山廃寺遺跡の説明板の裏から、何となくあるような気がする道を奥に進んでいくと、第4次発掘調査地点から近い方の石がごろごろした所にたどりつく。2007年10月管理人撮影。

撮影地点6(2)

撮影地点6(1)正面

撮影地点6(1)の石のごろごろした所を正面から撮る。2007年10月管理人撮影。

撮影地点7(1)

女坂にある説明板の奥にある沢

石がごろごろしている場所には、必ず、ごろごろした石の帯と垂直または平行に沢のようなものが流れている。この沢のようなものが、このホームページ管理人には、「鉄穴流し(かんなながし)」に見える。2007年12月管理人撮影。

撮影地点7(2)

女坂にある説明板の奥にあるごろごろした石

このごろごろした石を上まで登っていくと、上図の林道大山池野線の場所に出る。そして、この林道大山池野線に出た場所を右に進むと撮影地点8の大山廃寺駐車場の入口に着く。2007年10月管理人撮影。

撮影地点8

大山廃寺駐車場入口

大山廃寺駐車場入口。2007年10月管理人撮影。

撮影地点9(1)

旧参道奥でみつけた石標柱

この「愛知県」の石標柱はかなり前にここに据えられたものと思われる。「県」の字が旧字であることから、恐らく、少なくとも太平洋戦争以前からここにあるのだろうと思われる。しかし、誰が、何の目的で、この石標柱をここに置いたのか、このホームページ管理人にはわからない。2007年11月管理人撮影。

撮影地点9(2)

旧参道奥にある石を並べたような場所

大山廃寺駐車場に近い石のごろごろした所から奥の石のごろごろした所に直接行く道はない。大山廃寺駐車場に近い石のごろごろした所からは、一旦、旧参道に戻ってから、この写真の場所の前を通り、奥の石のごろごろした場所にたどりつく。2007年11月管理人撮影。

撮影地点10

旧参道奥にある石のゴロゴロした場所

大山廃寺駐車場に近い石のごろごろした所よりも、奥の石のごろごろした所の方が、スケールが大きい。また、「鉄穴流し(かんなながし)」と思われる沢の大きさも、奥の石のごろごろした所の方が大きい。2007年11月管理人撮影。

撮影地点11(1)

林道大山池野線

奥の石のごろごろした所にある、「鉄穴流し(かんなながし)」と思われる沢のようなものを上まで登っていくと、林道大山池野線のこの地点にたどり着く。2007年11月管理人撮影。

撮影地点11(2)

林道大山池野線の上にあるダム

奥の石のごろごろした所にある、「鉄穴流し(かんなながし)」と思われる沢のようなものを上まで登っていくと、林道大山池野線にたどりつくが、上まで登って、正面を見ると、このダムが目に入る。2007年11月管理人撮影。

撮影地点12

旧参道奥にある沢

奥の石のごろごろした所にある、「鉄穴流し(かんなながし)」と思われる沢のようなもの。ここを登っていくと、撮影地点11(2)のダムが正面に見える。2007年11月管理人撮影。

撮影地点13

撮影地点13にある石の建造物

奥の石のごろごろした所にある、「鉄穴流し(かんなながし)」と思われる沢のようなものは、この地点で終わる。これは、人間の作ったダムのようなものなのではないか。つまり、ここで水をせきとめて、花崗岩の土砂の中から砂鉄を採集したのではないか。2007年11月管理人撮影。

撮影地点13周辺で撮影した写真

撮影地点13周辺で撮影した石標柱

撮影地点13周辺で撮影した石標柱である。沢を挟んで向こう側にあった。2007年11月撮影。

撮影地点14(1)

撮影地点14(1)にある大きな石

撮影地点13から南は、行き止まりになっていて、行くことはできない。そこで、南を向いて立つと、左上方にこの岩が見える。この岩に向かって、崖をよじのぼると(よじのぼるといっても、ロッククライミングのようなことはない。恐らく、相当昔に、ここには、上に行く道があったと思われる。)、この岩から先は、確かに人が作ったと思われる古道がある。2007年11月管理人撮影。

撮影地点14(2)

古道南側にあった杉林

撮影地点14(1)の岩から東へのびる古道の南側の景色。なお、江岩寺住職の話によると、この杉林は、第2次世界大戦後まもなく、この平地を埋めるように植林されたらしい。大山の地域は、かなり古くから開発を繰り返してきたということがわかる。また、この撮影地点14(2)の景色は、このホームページ管理人が遭遇した自殺遺体が見ていた景色でもある。(2007年の日本全国の自殺者数は3万人を超えていた。)2007年11月管理人撮影。

撮影地点14(3)

大きな石を下った所から撮影した古道

撮影地点14(1)の岩から東へのびる古道の景色。この古道には、撮影地点15にある「文部省」「史跡境界」と刻まれた石標柱がいたるところに、いくつもある。こんなにたくさんの石標柱を、一体、誰が、何の目的で打ち込んでいったのだろうか。2007年11月管理人撮影。

撮影地点14(4)

古道から見える礎石

撮影地点14(1)の岩から東へのびる古道の北側(撮影地点14(2)の地点よりもう少し東に進んだ所)にはこのような礎石のある風景が見える。2007年11月管理人撮影。

撮影地点14(4)周辺で撮影した写真

礎石が見える古道に打ち込まれていた石標

礎石が見える古道に打ち込まれていた石標柱。2007年11月撮影。

撮影地点14(4)奥の山の中の風景その1

撮影地点14(4)奥の山の中の風景その2

撮影地点14(4)から北側に、第2次発掘調査地点に向かって山を登っていくと、中間あたりの山の中の風景は、こんな感じである。2007年12月撮影。

撮影地点15

古道に打ち込まれた石標柱

礎石が見える古道に打ち込まれていた石標。2007年11月撮影。

撮影地点15で撮った、「文部省」「史跡境界」と刻まれた石標柱。石標柱の半分くらいまで枯れ葉に埋もれている。2007年12月撮影。

撮影地点16

古道を抜けたところにある女坂から見上げた風景

撮影地点14・15の古道から女坂に出て、女坂を児神社方面に向かって登っていくと、大山廃寺の説明板が見える。このホームページ管理人は、いつも、大山廃寺駐車場に車を駐車して、このコースを散歩していた。2007年10月管理人撮影。

撮影地点16周辺で撮影した写真

撮影地点16を南側へ下った平地にあった井戸

撮影地点16を南側へ下った平地にあった池

撮影地点16の女坂を南側へ下ると、D5平地が見える。女坂からD5平地に登ると、そこには、このような風景があった。2007年11月撮影。

撮影地点16に向かって登る女坂

撮影地点15から女坂に出て、撮影地点16まで女坂を登る途中で上を見ると、このような風景である。2007年10月撮影。

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