ジロド

大山廃寺と大山古墳群の地図

「小牧市遺跡分布地図」(小牧市教育委員会 1991年3月発行)の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだものである。

2018年現在のジロド付近の写真

2018年現在のジロド付近。2017年12月14日このホームページ管理人撮影。

「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)に掲載されているジロドの写真

「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)44ページに掲載されているジロドの写真をこのホームページ管理人スキャナーで写す。

 「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)によると、昭和46年(1971年)3月以前のジロド付近は、この写真のようであったとのことだ。その後、石碑や神社の鳥居が児神社境内に移され、大山廃寺跡の説明板や観光案内板が立てられ、2018年現在のジロド付近となった。

 ところで、「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)によると、ジロドには、以前「地蔵堂」が建っていたという説と「二郎堂」が建っていたという説の2つがある。まず、「地蔵堂」についてであるが、寛永元年(1624年)に洞春周仙和尚の聞き記したものとして、次のような伝説がある。

「大山の路傍に石の地蔵尊があった。往来の人が馬にまたがったまま、その前を通り過ぎたら、たたりがあった。そこで、江岩寺の和尚が村民にはかって、山上のよき土地を選んで堂をこしらえ、地蔵尊を移して供養した。」

そして、この地蔵尊は、「現在、大山村中央の字苗田山広山に祭られ、毎年旧盆二十四日が例祭、村施餓鬼、地蔵施餓鬼、提灯祭が行われている。」と「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)に書かれていたので、このホームページ管理人は、苗田山に登ってみた。

苗田山の中で見た祠の跡のようなものの写真

苗田山にて、2018年4月23日このホームページ管理人撮影。これが苗田山に移された「地蔵堂」か?瓦の模様がかわいい。

苗田山地蔵堂前にある石板の写真

苗田山にて、2018年10月9日このホームページ管理人撮影。苗田山に移された「地蔵堂」と考えられるつぶれた祠の前にうずもれていた石板。このホームページ管理人が刷毛で掃除して撮影したもの。

 一方、「二郎堂」とする見方は、児神社で発行している「大山児社御由緒」に次のような記述があると「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)は伝える。

「参道鳥居の所に焼死した二郎の 霊を慰める二郎堂の遺跡があった。」

 2018年現在、「ジロド」と呼ばれる場所にあるのは、大山廃寺跡の説明板や観光案内板と、道路を挟んで左右に置かれた、明治三十年(1897年)酉五月日付の「奉」と「献」の2つの石碑だけだ。この2つの石碑は、児神社に移転された石鳥居と関係があると考えられる。しかし、「ジロド」は、明治時代には大山窯株式会社があり、2018年現在は「福祉の郷」という老人ホームや障碍者自立支援施設が建ち並ぶ場所と苗田山の中間地点にあり、「ジロド」から北に行けば江岩寺、北西に行けば林道大山池野線を通って、やがて児神社に到達するという、大山廃寺跡や大山古墳群の観光の基点になる場所である。そのような重要な場所で、江戸時代初めころ「たたり」という出来事があり、地蔵堂あるいは二郎堂は、苗田山に移された。そして、昭和46年(1971年)3月には、ジロドに残されていた石鳥居や石碑が児神社に移された。江戸時代初期にジロドで起こった「たたり」とは、一体、どのような出来事だったのだろう。

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