「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年3月発行)の中の「図版U大山廃寺付近航空測量図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。
大山廃寺跡塔跡を東側から撮る。(アブラシボリを登って塔跡に着いた地点)2017年12月このホームページ管理人撮影。
第1次大山廃寺発掘調査で検出された遺構の図。「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年発行)より、図版V 塔跡周辺地形測量図の上にこのホームページ管理人がペイントで書き足したもの。
塔跡にある16個の礎石と1個の心礎を測ったところ、塔の規模は、7.2m四方(3間×3間)である。柱と柱の間は、東西南北ともに等しく、2.4m間隔あり、四天柱の間も2.4m間隔であった。また、礎石は、斑状花崗岩である。四天柱および側柱の礎石は上面を平坦に加工しただけの自然石であるが、心礎は、中央に直径51cmの円形凸座があり、その周囲に幅16cm、深さ6cmの環状の溝と、そこから外側へ放射状に溝が2条掘りこまれている。これは、柱の湿気抜きの細工である。また、塔の西の側柱礎石から、基壇の上端部までは、約3mであった。つまり、この塔では、心礎は、基壇の上面から3m下の深い場所に据えられていた。日本の初期寺院(飛鳥時代)の塔の特徴として、基壇の上面から3m以上深い場所に据えられた心礎の中に仏舎利(仏様の骨)が安置され、その上に心柱が立てられたことがあるが、大山廃寺の塔跡から、器に入れられた仏舎利が発見されたという記事は、この発掘調査書の中には書かれていない。
大山廃寺跡塔跡心礎。2007年10月このホームページ管理人撮影。
第1次大山廃寺発掘調査で検出された遺物の図。「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年発行)より、図版V 塔跡周辺地形測量図の上にこのホームページ管理人がペイントで書き足したもの。
塔跡では、瓦の出土量が多く、土器は、あまり出土しなかった。まず、瓦について発掘調査報告書に書いてあったことをまとめる。発掘調査報告書48pの一覧表によると、塔跡では、軒丸瓦10個体・軒平瓦12個体出土したとある。
「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年発行)より、写真図版]W・]Y軒丸瓦をスキャナーでコピーしたもの。
この軒丸瓦は、素弁8弁蓮華文軒丸瓦で、白鳳様式である。発掘調査報告書には、以下のように書かれてある。
「直径約16cmを計る灰白色の須恵器の焼成で、中房に1−8の蓮子を配し、弁の先端が桜花状に反転する素弁と楔形の間弁を8個配す。弁の彫りはシャープで比較的深い。素弁縁の外縁は高く直立し、瓦側面はへらによるシャープな削り調整が施され、外縁頂部平坦面と直角をなす。瓦裏面には丸瓦部から連続する布目痕が残る。この布目痕は、瓦裏面下端の一部を除いて、全面にみられる。また、丸瓦の接合部を境にして、下半部は、上半部よりわずかに薄くなっており、中央部に浅い段が認められる。布目痕には、「一本づくり瓦」にみられるしぼり痕は認められない。瓦裏面中央には布の上から押さえた親指の跡が認められる。また、丸瓦部は行基葺で、凸面は横方向のナデ調整と縦方向の削り調整でタタキ目を完全に消している。凹面は、布目痕をそのまま残すが、両側付近は荒いへら削りを施す。この丸瓦部は、塔出土の行基葺丸瓦に比べて、著しく厚いものになっている。」
「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年発行)より、写真図版]Z・]\軒平瓦をスキャナーでコピーしたもの。
塔跡で出土した軒平瓦は、均整唐草文軒平瓦で、天平様式である。「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年発行)の写真図版に載っている軒平瓦の中で、塔跡で出土した軒平瓦の写真は、写真図版]\のNo.25のみであるが、参考資料として、上の写真図版をこのホームページに載せることにした。なお、塔跡にて出土した軒平瓦について、発掘調査報告書には、以下のように書かれてある。
「発掘調査以前から塔跡出土品として紹介され、平城宮跡6682型式と類似することが指摘されていた。文様構成は、平城宮跡6682型式とほぼ同一の2回転半の均整唐草文であるが、中心飾がやや異なり、唐草文の巻きが強すぎる点、隅飾りが蕨手様の巻文になる点、外区珠文が上は8個、下は9個と少ない点など若干の差異がある。塔跡から出土した軒平瓦の胎土は、硬質で灰白色を呈する。瓦の形は、直線顎と曲線顎がある。直線顎の瓦は、凹面全体に布目痕が残り、凸面に大きな深い縦の縄目タタキ痕が残る。布目タタキ痕は、瓦から8cmほど内側まで横ナデで消す場合がある。塔跡から3個体出土した。(25)一方、曲線顎の瓦は、凹面全体に布目痕を残し、瓦近くだけ面取りのため布目痕が消される。凸面は、縦方向のナデによってタタキを消している。塔跡出土軒平瓦の大半を占め9個体を数える。多くは、二次的火熱のためか、ひどく軟質である。(24)
「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年発行)より、図版]]X塔跡出土土器・C区出土須恵器・緑釉陶器をスキャナーでコピーしたもの。
一方、塔跡で出土した土器は、瓦の出土量に比べて、きわめて少ない。上にある図版のNo.81〜85が塔跡出土土器である。「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 1979年発行)には、次のように書かれている。
平瓶(81)
平底で、胴部はやや湾曲しつつ立ちがあり、肩は、くの字状に屈折する。肩部には、1条の沈線をめぐらす。底径11.5cm、肩径17.0cm、肩までの高さ6.1cmを計る。岩崎41号窯式(700年前後)あるいはそれに若干先行する形態である。この平瓶は、塔基壇下の地山面直上から出土しており、塔建設の時期を考える貴重な資料である。
杯蓋(82)
宝珠形のつまみを有し、体部は浅く弧を描き、口縁近くで外反し、口縁を垂下させる形態で、口径14.2cm、器高3.6cmを計る。8世紀後半以後によくみられる形態である。第4トレンチ出土である。
小形壺(83)
底部片で、底外面は糸切底である。D34トレンチから出土した。
椀(84)
内外面に灰釉を施した椀で、直接的な重ね焼きを行っている。腰はやや張り、口縁部はほぼ直線状である。高台は袋状で、底外面に糸切痕を残す。口径11.5cm、器高4.0cmを計る。折戸53号窯式(950〜1000年)に比定できる。塔北のトレンチから出土。
山茶椀(85)
高温焼成により石化した椀で、高台は低い三角高台で、もみ殻圧痕がつく。胴はわずかに張る。内面には降灰による自然釉がかかる。鎌倉時代後期に比定できる。D34トレンチから出土した。
<7世紀初め頃>
聖徳太子の政治
仏教興隆の詔
飛鳥文化
法隆寺の建設
マホメットがイスラム教をおこす
中国に唐がおこる
<7世紀中頃>
大化の改新
薄葬令や火葬の普及により古墳が衰える
イスラム帝国ができる
<7世紀末頃>
塔創建に先立って造営されていた何らかの施設が火災によって焼失する。
(塔の基壇土は焼土層の上に築成されており、基壇土の下の焼土層の中から、7世紀末から8世紀初め頃の須恵器平瓶が出土した。)
律令国家の成立
和同開珎
白鳳文化
法隆寺が全焼する
壬申の乱がおこる
中国にて唐帝国が最大領域を支配する
東ローマで火薬発明
<8世紀初め頃>
塔の創建。塔が建てられたときは、瓦に関しては、軒丸瓦のみ葺かれていて、軒平瓦は葺かれていなかった。
(塔跡周辺から出土した多数の軒丸瓦は、白鳳様式(7世紀末〜8世紀初頭)である。これと同じ種類の軒丸瓦(素弁8弁蓮華文軒丸瓦で、丸瓦部は行基葺瓦という)は、篠岡古窯跡群の篠岡2号窯・篠岡78号窯(7世紀後半から8世紀初頭にかけて瓦と陶器を焼いていた窯)からも出土している。)
奈良(平城京)に都が移り、奈良時代の政治が始まる。
唐の文化が栄える
<8世紀中頃>
塔に軒平瓦が葺かれる。
(塔跡周辺から出土した多数の軒平瓦は、天平様式(奈良時代中期から後期、つまり、8世紀中頃)である。また、塔跡において、この軒平瓦と同じ時代の軒丸瓦の出土はなかった。従って、軒丸瓦の差し替えはあまり行われなかったと考えられる。つまり、塔に軒平瓦が葺かれたときは、屋根の全面的な補修ではなかったことになる。)
天平文化
国分寺・国分尼寺の詔
遣唐使
鑑真が唐招提寺を建てる。
唐の文化が栄える。
<8世紀末頃>
軒丸瓦と軒平瓦が葺かれた三重塔か五重塔が建っていた。
(8世紀末から平安期にかけての瓦の出土例がない。)
最澄が比叡山(延暦寺)を開く。
京都(平安京)に都が移され、平安時代の政治が始まる。
西ヨーロッパに封建社会が始まる。
キリスト教が唐に伝わる。
<9世紀>
塔の廃絶。以後、塔は再建されなかった。
(第4トレンチから出土した須恵器杯蓋は、8世紀後半以後によく見られる形態である。また、塔跡から平安期の遺物は出土していない。塔跡に残る遺物はほとんどが瓦であった。)
最澄と空海が唐に留学し、最澄は天台宗を、空海は真言宗を伝える。
藤原氏が政治の実権を握る。(貴族政治)
イスラム帝国の最盛期