1.苗田山の紹介

大山廃寺と大山古墳群の地図

「小牧市遺跡分布地図」(小牧市教育委員会 1991年3月発行)の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだものである。

苗田山遠景の写真

西洞池のほとりから見る苗田山。2018年4月28日このホームページ管理人撮影。

 苗田山は、大山地区の真ん中あたりにポコッと突き出た、標高116m位の山である。地元の人は、苗田山のことを前山とか裏山とか呼んでいるとのことだ。(Terunobu Hashimoto氏談)

 木曽川の水を知多半島まで届ける愛知用水は、入鹿池近くの県道明治村小牧線にある白山トンネルから地下に潜り、大山の地下を通って、苗田山東南部に開けられた大山トンネルから地上に出る。そして、愛知用水大山トンネルから総合公園市民四季の森の間に広がる田園地帯は、古代の水田地割の名残である条里遺構を残している。

愛知用水大山トンネルの写真

苗田山東南部に開けられた愛知用水大山トンネル。2018年4月12日このホームページ管理人撮影。

古代条里遺構を残す大山の田園地帯の写真

愛知用水大山トンネル付近から総合公園市民四季の森の方向を見て撮影。長地型の地割が、ほぼ正確な方位をとって東西に連なっている。2018年4月12日このホームページ管理人撮影。

 ところで、このホームページ管理人が苗田山という名前を確認した文献は、2つしかない。1つは、「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)であり、もう1つは、「大山窯発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 平成9年(1997年)3月発行)である。

1.「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)にある苗田山に関する記述

 伝説として、寛永甲子元年(1624年)中秋、江岩寺の洞春周仙和尚が聞き記したものが次のような内容である。

「大山村の路傍に石の地蔵尊があった。往来の人が馬にまたがったままその前を通り過ぎたら、たたりがあり、その無礼を大いに戒められた。そこで、江岩寺の和尚が村人に諮って、山上のよい土地を選んで、新しい小さな堂を造り、石の地蔵尊を安置して、供養し、敬った。そして、その地蔵尊は、末永く、人々の鑑となって、山村を守った。なお、この地蔵尊は、現在大山村中央の字苗田山広山に祭られ、毎年旧盆二十四日が例祭、村施餓鬼、地蔵施餓鬼、提灯祭りが行われている。」

 「大山廃寺遺跡概説」著者の入谷氏は、この地蔵尊は、苗田山に移る前は、ジロドにあったとしている。なお、この伝説が聞き記された1624年は、徳川幕府第3代将軍徳川家光の時代で、キリスト教禁教令が厳しくなっていく中で、スペイン人の来航が禁止された年である。この後、キリスト教徒に対する取り締まりは年々厳しくなっていき、島原の乱が勃発し、農民統制が強まり、日本は長崎の出島でオランダと中国に接するのみとなった。そして、この状態は明治時代まで続くのである。

2.「大山窯発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 平成9年(1997年)3月発行)にある苗田山に関する記述

 大山窯発掘調査は、小牧市による福祉の郷整備事業に伴う調査で、平成6年(1994年)11月22日から平成7年(1995年)3月14日まで実施され、調査面積は570uである。この発掘調査によってわかったことは、次のことである。

 大山窯は、小牧市北東部の大字大山地内の西端に位置する標高82〜86mほどの低丘陵上に立地する。大山窯の住所は、小牧市大字大山字岩次212−1他で、2018年現在、大山窯の跡地は、障碍者自立支援施設や老人ホームなどの福祉施設が建ち並ぶ福祉の郷となっている。

老人ホームなどが建ち並ぶ福祉の郷

老人ホームなどが建ち並ぶ福祉の郷の風景。2018年4月28日このホームページ管理人撮影。

福祉の郷から望む風景

福祉の郷から望む風景。障碍者自立支援施設の向こうには、桃花台ニュータウンのマンションが左手に、右手に小牧山を望むことができる。2018年1月26日このホームページ管理人撮影。

 大山焼は、江戸時代に全く陶器生産が行われていない地域に明治5年(1872年)ころから新たに出現したもので、周辺の陶磁器生産地の技術を導入する形で成立したものと考えられる。染付磁器については、美濃窯との関連が注目され、赤絵磁器については、犬山焼との関連が注目される。法人登記簿によると、「大山焼株式会社」の設立は、明治38年(1905年)10月30日で、資本金5千円、本店は大山窯の所在地と同じで、目的は、大山焼の製造販売であり、名古屋市東区中市場町在住の櫻井昇太郎、大山在住の橋本恒三郎、野口在住の永井兼松の3名が取締役に名を連ねている。解散は明治43年(1910年)11月である。

 また、大山窯に関する地元の人々の言い伝えでは、江戸時代末(19世紀中頃)にすでに窯が開かれていたとするものもあり、はっきりしない。明治43年(1910年)ころの大山窯操業当時のことを知る大山在住の古老に聞いた話は、次のようである。

 大山窯は登り窯で、三段構成、内部の高さは5尺5寸(約167cm)ほどあり、大山焼に使う土は現大字大山字苗田の神社跡地付近(明治24年(1891年)の地図によると苗田山のこと)から採取し、大八車に乗せて窯場まで運んだという。運び込んだ土は1間半(約2.7m)の大きさの樽に入れ、三段階の工程を経て、粘土を作った。焼き物の種類は、茶碗・どんぶり・徳利などで、特に徳利の胴部には全て「小牧町」と書いてあった。窯の周辺には20軒ほどの家があり、30人くらいの職人が住んでいた。この頃の大山窯の責任者は窯職人の橋本定蔵であり、その息子の橋本カンイチも絵師として大山焼に携わっていたが、廃業後は東濃へ移った。

大山窯発掘調査で出土した磁器

大山窯発掘調査で出土した陶器

大山窯発掘調査にて出土した陶磁器の数々の写真である。「大山窯発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 平成9年(1997年)3月発行)より抜粋した。

明治24年大山窯周辺の地図

「大山窯発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 平成9年(1997年)3月発行)3ページに掲載されている「挿図2 大山窯周辺図(明治24年(1891年))」

 以上が2018年現在このホームページ管理人が確認している苗田山に関する記述です。

苗田山略図

このホームページ管理人が作成した苗田山の略図です。

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