7.北新池古墳

大山廃寺と大山古墳群の地図

「小牧市遺跡分布地図」(小牧市教育委員会 1991年3月発行)の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだものである。

北新池古墳石室の写真

「小牧の文化財 第2集」(小牧市教育委員会 昭和46年(1971年)3月発行)26ページに掲載されている北新池古墳石室内部の写真をスキャナーで写す。

北新池古墳関係図

「小牧の文化財 第2集」(小牧市教育委員会 昭和46年(1971年)3月発行)27ページに掲載されている北新池古墳関係図をスキャナーで写す。

 神尾前古墳から谷を挟んですぐ西側に北新池古墳がある。「小牧の文化財 第2集」(小牧市教育委員会 昭和46年(1971年)3月発行)には、次のように書かれている。

 古墳の標高は110m、小牧市大字野口にある北新池の北端にあり、白山の中腹にある丘陵の裾に位置している。古墳形は、直径10m、高さ3mほどで、山の斜面に造られている古墳時代後期(6〜7世紀)の円墳である。円墳の盛土の一部が流れたため、石室の一部(北端)が露出しかかっているので、そこから人間の出入りが可能である。

 石室内部は、ほぼ完全な形を保つ石室と羨道と思われる一部が確認でき、盛土が流出して小穴が開いている。石室は、南北3.9m、東西1.8m、高さ1.27mで南を向き、北面の壁が崩れたため、石や土が石室に流れ込んで凹凸が激しい。また、盗掘されているため遺物は残っていない。石室の東・西・北面壁は、0.4〜0.5mの大きさの岩が4段積み重ねられている。西面壁は、天井に近くなるにしたがって、狭くなっている。東面壁は、底面に直角に立っている。天井石は、大きな岩4個で造られている。一方、羨道の底面の石は、2個露出しているが、横岩、天井石は見られない。

 古老の話によると、明治の頃、地元のやくざがこの石室で賭場を開いていたと伝えられている。従って、地元の人々は、この古墳の石室を博打場と言って恐れ、余り近づかなかったということである。

北新池古墳

北新池古墳の説明板から奥に入り、古墳の裏側に回り込んで撮影したもの。つまり、北新池古墳の西側の写真で、2018年6月27日このホームページ管理人撮影。この写真の左側に人の出入りが可能な穴が開いていた。

土のうでふさがれた古墳の穴

人が出入りすることができた北新池古墳の穴は、2018年現在、土のうでふさがれている。2018年6月27日このホームページ管理人撮影。

 「小牧の文化財 第2集」(小牧市教育委員会 昭和46年(1971年)3月発行)の北新池古墳のページを読んでわかることは、北新池古墳は、羨道と石室の一部が壊れている、ということだ。この状態は、野口古墳と似ているが、野口古墳は、石室は露出しているが、壊れていない。北新池古墳の羨道を壊したのは誰なのか、一体、何の目的で北新池古墳の羨道を壊したのか。明治時代のやくざが賭場に困って、古墳の一部を壊したのだろうか。このホームページ管理人は、明治時代のやくざが北新池古墳の羨道と石室の一部を壊したとは考えていない。

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