野口・大山古墳群考察

1.日本書紀が記述する壬申の乱

 日本書紀によると、672年に古代日本最大の内乱である壬申の乱が勃発した。壬申の乱の経過は以下の通りだ。

 660年代後半頃、天智天皇(大化の改新を行った中大兄皇子)は、自分の弟の大海人皇子を後継者とする考えを覆し、自分の息子である大友皇子を後継者とする意思を見せ始めた。その後、病に臥せった天智天皇を見て、大海人皇子は、後継者を大友皇子に譲って、出家を決意し、奈良県吉野に下って、出家した。672年1月、天智天皇は、近江宮(現在の滋賀県)に近い京都山科で崩御する。そして、大友皇子は近江朝廷を継承した。

 672年7月、大海人皇子は、奈良県吉野を出立し、美濃・伊勢・伊賀・熊野などに住む豪族の信を得ることに成功した。そして、不破の関(現在の岐阜県関ケ原町)を封鎖し、東海道・東山道を手中に収めた。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は、軍勢を二手に分けて、大和(現在の畿内)と近江(現在の滋賀県)の二方面に軍勢を送り出した。一方、24歳の大友皇子率いる近江朝廷軍は、うまく兵力を動員することができなかった。そして、近江朝廷軍が瀬田橋の戦い(現在の滋賀県大津市)で大敗すると、大友皇子は大津の長等山で自害して果てた。

 673年、大海人皇子は即位して天武天皇となり、都を近江(現在の滋賀県)から飛鳥(現在の奈良県)に遷した。そして、論功行賞と秩序回復を行い、天武天皇は、天智天皇よりも更に中央集権制を進めていったのである。(参考「Wikipedia壬申の乱」

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