野口・大山古墳群考察

2.大友皇子は生きていた

 壬申の乱で敗れた大友皇子は、大津の長等山で自害して果てたというのが、現在の日本の歴史の通説だ。明治政府は、大友皇子に「弘文天皇」という名前まで付けた。宮内庁は、弘文天皇陵を長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)に治定している。言い伝えによると、大海人皇子軍の将軍が、自害した大友皇子の首を持って、野上行宮(のがみのかりみや 現在の岐阜県関ケ原町)にいた大海人皇子のもとに行き、首実検をした。その後、その首を埋葬した「自害峰」が岐阜県関ヶ原町にある。

 しかし、愛知県岡崎市には、大友皇子に関係する様々な遺跡が残されている。そして、それらの遺跡の説明板等を読み、内容を簡単にまとめると、次のようになる。

 672年7月、近江( 現在の滋賀県)朝廷にて大海人皇子に攻められ、戦況が不利になったことを知った大友皇子は、周囲の者たちに「大友皇子は自害した。」という噂をいいふらして、十数人の従者たちと共に、密かに、難波(大阪)まで退いた。そして、難波の港から船に乗って、紀伊半島を回り、伊勢で一旦船を降りて、伊勢神宮に参拝した。その後、大友皇子一行は、伊勢神宮から再び船に乗り、三河湾を渡って、西尾から矢作川をさかのぼった。矢作川をさかのぼっている途中で、船は真っ二つに折れ、船の舳先がたどり着いた先が岡崎市舳越町だ。そこは、大友皇子の従者の一人である長谷部氏の郷里であった。

 長谷部氏の郷里に住む人々は、25歳くらいで岡崎市舳越町にたどり着いた大友皇子のことを温かく迎え入れ、竹藪の中に住居を造って、大友皇子を住まわせた。それが、「史蹟大友皇子丸藪之館跡」だ。大友皇子は、その住居の隣に神明社という神社を建てた。そして、玉泉寺という寺を建て、近江朝廷を出るときに大友皇子が持っていた三体の仏像(天智天皇作)を安置した。

 大友皇子が40代で亡くなったとき、従者の長谷部氏は、岡崎市小針字神田に古墳を造り、大友皇子を葬った。大友皇子に従って岡崎市に来た13人の従者が亡くなると、そのたびに、大友皇子が眠る小針古墳の周囲に塚が造られ、葬られていった。そして、長谷部氏は、大友皇子をしのんで、大友天神社という神社を造り、その所在地を大友といい、村落を長瀬村と名付けた。大友天神社では、秋の例祭の際、必ず、滋賀県大津市にある近江神宮から代理参拝があるという。

 ところで、このような大友伝説は、愛知県岡崎市の他にも、房総半島にある千葉県君津市・匝瑳市・旭市にもある。千葉県君津市・匝瑳市・旭市の大友伝説では、大友皇子と共に近江朝廷を運営していた中臣秀勝や蘇我赤兄らの名前の他に大友皇子の后である耳面刀自命(みみもとじのみこと)や正妃である十市皇女の名前が出てくる。つまり、大海人皇子軍に攻められて近江朝廷を脱出した大友皇子一行は、難波(大阪)から船に乗り、伊勢神宮を参拝した後、三河湾から矢作川に入る途中で二手に分かれた。船の舳先に乗った大友皇子一行が到着したのが岡崎市で、大友皇子の妻子一行が到着したのが房総半島にある千葉県君津市・匝瑳市・旭市だったと考えられる。そして、愛知県岡崎市にある大友皇子関連遺跡も千葉県君津市・匝瑳市・旭市にある大友皇子関連遺跡も、2019年現在まで、地元の人々によって大切に保存されている。

参考ホームページ

「飛鳥の扉 番外編「大友皇子伝説」」

参考文献

「壬申乱と条里遺構」武田 勇著 昭和52年(1977年)10月発行

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