野口・大山古墳群考察

3.2018年11月23日愛知県岡崎市大友皇子関連遺跡探訪記

大山1号墳

大山1号墳。2017年10月27日このホームページ管理人撮影。

名前のない古墳の写真

野口・大山古墳群の中で、大多数を占める名前のない古墳のうちの1つ。2017年10月27日このホームページ管理人撮影。

 「野口・大山古墳群の特徴」のページで述べたように、野口・大山古墳群には、壊れている古墳と壊れていない古墳があり、大多数の古墳は、壊れていない。では、壊れた古墳は、なぜ、壊されたのだろう。このホームページ管理人は、このことを考えているうちに、江岩寺が「大山寺は、天武天皇が壬申の乱後に創建した。」と言い伝えていることを思い出した。ということは、これらの古墳は、壬申の乱と何か関係があるのだろうか?壬申の乱で敗れた大友皇子はどこに墓があるのだろう?もしかして、野口・大山古墳群の中に大友皇子の墓があり、それが、野口・大山古墳群の中では数少ない壊された古墳で、その上に天武天皇が大山寺を建てたのではないか?そんなことを考えながら、パソコンで、「壬申の乱 大友皇子 墓」と検索したところ、「飛鳥の扉 番外編「大友皇子伝説」」というサイトに行きついた。

 「飛鳥の扉 番外編「大友皇子伝説」」「Wikipedia壬申の乱」のサイトには、壬申の乱で敗れた大友皇子の墓は、滋賀県大津市や愛知県岡崎市にあると書かれている。「もしかして、野口・大山古墳群の中に大友皇子の墓があり、その上に天武天皇が大山寺を建てたのではないか?」という私の考えは、いとも簡単に覆され、私はがっかりしてしまった。しかし、このホームページ管理人の自宅がある愛知県小牧市から愛知県岡崎市は、滋賀県よりは近い場所にある。くやしいから、一度、愛知県岡崎市にあるという大友皇子の墓に行ってみようではないか。そう考えて、2018年11月23日、このホームページ管理人は、愛知県岡崎市にある大友皇子関連遺跡を調査するため、愛知県岡崎市に向かった。

愛知県岡崎市大友皇子関連遺跡地図

このホームページ管理人が調査した、愛知県岡崎市大友皇子関連遺跡の地図である。「スーパーマップル東海三県道路地図」(2000年7月 昭文社発行)146ページ岡崎公園の地図の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだものである。

 「愛知県岡崎市にある大友皇子陵墓が見たい。」という思いだけで、参考サイトを一瞥しただけで、愛知県小牧市にある家を出たこのホームページ管理人が岡崎市をめざすために最初に選択した交通機関は、愛知環状鉄道だった。愛知環状鉄道は愛知県春日井市にある高蔵寺駅から山の中を通って瀬戸市に入り、再び山の中を通って豊田市に入り、トヨタ自動車本社工場等を眺めながら、再び山の中を通り、岡崎駅を終点とする内陸鉄道だ。このホームページ管理人が高蔵寺駅から愛知環状鉄道に乗るのは、愛・地球博が開催された2005年以来、13年ぶりのことであった。このホームページ管理人が愛知環状鉄道に乗って、岡崎まで行くのは、初めてだ。そもそも、愛知県岡崎市に行った記憶が子供のころの記憶で、岡崎城の桜のことしか覚えていない。つまり、このホームページ管理人は、45年ぶりくらいに愛知県岡崎市に行くわけで、初めての岡崎の旅といっても過言ではない。しかも、参考サイトを詳しく見ることもなく、「まあ、行けるだろう。」的な今回の旅で、目的が達成されたわけはないのである。

 切符を買うという経験を久しぶりにして、愛知県春日井市にある高蔵寺駅を出発した愛知環状鉄道は、山の中を進む。瀬戸市に入り、瀬戸は本当に山の中にある街だとこのホームページ管理人は思った。そして、瀬戸市を抜けると、人気のない山の中を鉄道は進んで行く。ごくたまに、駅前にニュータウンが建設されている場面に出くわすことがある。そして、山を抜けると突如として、高層ビルが立ち並ぶ大都市に入る。乗車する人の数が急に増える。鉄道は、トヨタ自動車のおひざ元である豊田市に入ったのである。鉄道は、しばらくは、大都市豊田市の中を進むが、トンネルを抜けると、また、山の中に入る。そして、ごくたまに、駅前にニュータウンが建設される場面を見て、鉄道は岡崎市に入る。徐々に家の数も増えてきた。

 そして、2018年11月23日12時42分、このホームページ管理人は、愛知環状鉄道を北野桝塚駅で降りた。目指す大友皇子関連遺跡は、この駅から南側に向かって歩いたところにあるはずだ。この日のこのホームページ管理人の計画では、北野桝塚駅で降りて、北野廃寺跡を見て、地図によるとその南側にある大友皇子関連遺跡に向かうはずだった。

 愛知環状鉄道北野桝塚駅を降りると、駅の南側正面に三菱自動車技術センターの大きな建物が見える。そこで、三菱自動車技術センター方面に向かわず、左側のバス停留所が続く道に沿って、南方面に10分ほど歩くと、北野廃寺跡のモニュメントが見える。北野廃寺跡のモニュメントを過ぎたところには、小さな石仏の祠も見える。モニュメントがないころには、この小さな石仏の祠が北野廃寺跡へ行く目印だったのだろう。このホームページ管理人は、北野廃寺跡のモニュメントや小さな石仏の祠を確認して、道路標識通り、道を向こう側へ渡り(つまり、モニュメント前を右折する。)、まっすぐ進んで、住宅街の中に入って行った。

北野廃寺跡モニュメント

北野廃寺跡モニュメント。このモニュメントは、北野廃寺跡から出土した瓦を忠実に再現している。2018年11月23日撮影。

モニュメント隣にある小さな石仏の祠

モニュメント隣にある小さな石仏の祠である。モニュメントができる前は、この小さな石仏が北野廃寺跡へ導く道標の役割を果たしていたのだろうか?2018年11月23日撮影。

 そして、住宅街の中を進んで行くと、細い路地の中に突然、北野廃寺跡入り口の看板がある。そこは、車が1台ぎりぎり通れるくらいの道で、近くには、「この周辺に自転車を停めないでください。」という看板もある。もちろん駐車場はないので、北野廃寺跡へ行く場合は、歩いて行くという選択をした方がいい。

北野廃寺跡入り口

住宅街の中にある北野廃寺跡入り口の看板。2018年11月23日撮影。

北野廃寺跡について

 北野廃寺跡は、豊田市にある舞木廃寺跡と小牧市にある大山廃寺跡塔跡と共に、昭和4年(1929年)国の史跡に指定された。北野廃寺跡・舞木廃寺跡・大山廃寺塔跡を国の史跡にするために尽力した人物は、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事であった小栗鉄次郎である。

(続く)

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