弥勒堂・太鼓堂

大山廃寺の地図

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版U 大山廃寺付近航空測量図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

 弥勒堂・太鼓堂は、2021年現在の児神社社務所と大山廃寺駐車場一帯にあったとされるお堂だ。詳しいことは、「児神社」のページで書いたので、弥勒堂・太鼓堂のページでは、「児神社 4.社務所と大山廃寺駐車場」のページで書いたものをそのままこのページに載せることとする。

 児神社社務所は、お祭りのときのみ開放されているが、普段は、無人で、閉まっている。大山廃寺駐車場は、標高183m前後、約20m四方の広さを持ち、児神社社務所の西側に広がっている平坦地にある。社務所・駐車場・道路は、昭和47年(1972年)、地元住民による整備工事によって建設されたもので、昭和47年(1972年)以前は、この平坦地には、一本松があり、一本松付近には、「供養塚」と称する高さ約60cm、広さ約3uほどの半壊の小丘があったとのことだ。昭和47年(1972年)の駐車場工事のとき、一本松付近を掘り起こしたら、五輪塔の頭にあたる相輪の一部が出土した。(「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)より。)

大山廃寺駐車場のある場所の昭和47年(1972年)以前の写真

昭和47年(1972年)以前の大山廃寺駐車場にあった一本松の写真。「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)39ページにある写真をスキャナーで写したもの。

江戸時代17世紀頃、尾張藩は、村々の庄屋に村絵図を作成させ、尾張藩に提出させたが、大山村の庄屋が尾張藩に提出した大山村絵図が下のものである。この絵図によると、現在の大山廃寺駐車場あたりには、弥勒堂があった。「江岩寺寺籍調査表」に、弥勒堂には、当時焼け残った弥勒菩薩四天王太鼓が安置してあったとする記述があると「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)は伝える。

近世村絵図大山村

近世村絵図の大山村をスキャナーで写したもの。

昭和53年度(1978年)に実施された第5次発掘調査によると、現在の社務所西側大山廃寺駐車場付近には、平安時代後期(11世紀前半)には、直径30cm前後の大きな柱が10本立つ、6.9m×4.8mの大きさの建物が建っていた。この建物の上層の整地土上面に焼土面が見られ、この建物の火災による廃絶がうかがわれる。この建物が火災によって廃絶した跡に建った建物が弥勒堂であり、弥勒堂は、焼け残った太鼓を安置していたのではないか。そして、弥勒堂はやがてなくなり、一本松だけがその土地に残り、一本松もやがてなくなって、大山廃寺駐車場となった。江岩寺には、当時の太鼓胴だと伝える割れた太鼓胴の一部が保存されていると「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)は伝える。

 2021年現在、江岩寺境内の中にある薬師堂の中に、割れた太鼓胴の一部が保存されている。寛文八年(1668年)三月に的叟が書いた「大山寺縁起」には、「仁平2年(1152年)3月15日、比叡山延暦寺の僧兵が攻めてきて、大山峰正福寺の大伽藍は一つ残らず焼失したが、弥勒菩薩と太鼓堂・鐘堂等は焼けずに残った。」とある。

薬師堂の中にある割れた太鼓胴の一部

薬師堂の中にある割れた太鼓胴の一部を別の角度から撮影

上の写真は、2021年現在、江岩寺薬師堂の中にある割れた太鼓胴です。2021年6月16日このホームページ管理人が江岩寺薬師堂の中で撮影した。

2018年現在の大山廃寺駐車場の写真

弥勒堂・太鼓堂があったと伝わる2018年現在の大山廃寺駐車場を社務所裏側から撮る。2018年4月1日このホームページ管理人撮影。

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