2.大山2号墳

大山廃寺と大山古墳群の地図

「小牧市遺跡分布地図」(小牧市教育委員会 1991年3月発行)の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだものである。

「小牧の文化財第2集」掲載大山2号墳

「小牧の文化財第2集」(小牧市教育委員会 昭和46年(1971年)発行)25ページより抜粋した大山2号墳。

 2018年現在、大山2号墳は滅失している。「小牧の文化財第2集」(小牧市教育委員会 昭和46年(1971年)発行)によると、滅失前の大山2号墳は、古墳の盛り土はなく、石室の損壊も激しかったとのことだ。そして、石室は西面壁と北面壁の一部の巨石を残しているのみで、規模は不明である。大山2号墳は、築造方法からみて、大山1号墳と同時代の7世紀前半に築造された後期古墳である。

 しかし、現地を訪れると、そこに古墳があったと思われる雰囲気が残っている。まず、大山2号墳の石室があったと考えられる場所に行ってみる。

大山2号墳入り口

大山2号墳の石室があったと考えられる場所の写真である。2018年10月9日このホームページ管理人撮影。

大山2号墳の石室があったと考えられる場所1

大山2号墳の入り口から少し中に入ると、このような感じである。2018年10月9日このホームページ管理人撮影。

大山2号墳の石室があったと考えられる場所2

大山2号墳の石室があったと考えられる場所1から更に奥に入って行くと、こんな感じである。2018年10月9日このホームページ管理人撮影。

大山2号墳の石室があったと考えられる場所3

大山2号墳の石室があったと考えられる場所4

大山2号墳の石室があったと考えられる場所2から左右の風景を眺めてみる。藪の中だった。2018年10月9日このホームページ管理人撮影。

大山2号墳の石

大山2号墳の石室があったと考えられる場所から出て、林道大山池野線を児神社方面に登ると、すぐの曲がり角に、西洞池を背景にして、このような石がある。(上の地図の?B地点)この石は、大山2号墳の石室を形成していた石の一部なのではないか。2018年7月14日このホームページ管理人撮影。

 ところで、上の地図を見てもわかる通り、滅失した大山2号墳の近くには、経塚跡と呼ばれている場所や大きな枝垂れ桜と枝垂れ桜の根元にある白いきつねの祠がある。つまり、滅失した大山2号墳と経塚跡と大きな枝垂れ桜と白いきつねの祠は、もともとは1つのつながった場所だったのではないかと思われるのだ。ここで、視点を経塚跡に移してみよう。

林道大山池野線ができる前の経塚跡の写真

「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)38ページの写真をこのホームページ管理人がスキャナーで写したもの。

 「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)によると、現在の林道大山池野線入り口から50m位山の方に入った左手に、松や雑木がはえ、シダ類に覆われた半壊の丘があったとのことだ。林道大山池野線を造った時の道路工事で、左手にあった丘を半壊したとき、この地点から、経巻の蓋ではないかと思われる丸い金具と刀が出土した。刀は、保管者が古物商に売却したという話だが、経巻の蓋は、江岩寺に保管されていた。入谷氏が江岩寺の住職に見せてもらうと経巻の蓋は、小型の銅鏡であった。入谷氏は、「大山廃寺遺跡概説」の中で、経塚と呼ばれていたものは、実際には、古墳であったのではないかと書いている。

2018年現在の経塚跡の写真

2018年現在の経塚跡。2018年3月23日このホームページ管理人撮影。この枝垂れ桜の向こうに滅失した大山2号墳石室部分がある。

 枝垂れ桜は、ソメイヨシノよりも1週間ほど早く開花し、木の寿命が長いことが特徴です。花言葉は、優美とごまかしです。優美は、見た目の華やかな印象から付けられました。ごまかしは、垂れ下がった枝の姿が何かを隠しているように見えることから付けられました。(HP「HORTI by Green Snap」参照)

枝垂れ桜の根元にあるキツネの祠

枝垂れ桜の根元には、白い小さなキツネがたくさん入った祠がある。2018年3月25日このホームページ管理人撮影。

 キツネの祠と言えば、稲荷信仰である。全国に約3万社あると言われている稲荷神社の総本社は、京都にある伏見稲荷大社である。伏見稲荷大社の社伝によると、伏見稲荷大社は、渡来系氏族である秦氏によって創建された。

 秦氏の出自については、様々な説がある。例えば、朝鮮半島の百済系氏族であるとする説、朝鮮半島の新羅系氏族であるとする説、チベット系民族であるとする説、景教徒(キリスト教ネストリウス派)ユダヤ人であるとする説などである。3世紀末に百済から日本に帰化したともいわれているが、疑問視する声もある。しかし、渡来系氏族秦氏は、日本に来てから日本の政治に深く関与している。

 古墳時代から飛鳥時代(6世紀末〜7世紀)に日本で活躍した秦河勝は、聖徳太子の側近として、仏教礼拝をめぐって対立があった蘇我・物部の戦いにおいて、聖徳太子を守りながら、物部守屋の首を斬ったと言われている。物部守屋は、日本には古来より八百万の神がおり、仏教は、日本古来の宗教とは相いれないとする立場の人間であった。

 秦氏は、日本の九州北部に到着してから、東へと歩を進め、関西の中央政権のみならず、関東地方にまで進出した。そして、秦氏の集団は、全国各地で、土木や養蚕、機織りなどの技術を発揮した。(Wikipedia秦氏参照)

 これらの情報をもとにして、大山2号墳について考察してみる。

 墳丘も石室もない大山2号墳の前に鏡や刀を埋めた経塚があり、経塚の隣にお稲荷さんの祠がある。このホームページ管理人が想像する物語は、こうだ。

 672年夏、大友皇子と大海人皇子の間で壬申の乱が勃発した。大海人皇子は、東国の兵力を美濃に結集して、不破道を封鎖し、近江にて大友皇子の軍に勝利して、大友皇子を自殺に追い込んだ。壬申の乱は、以後の日本の政治機構、祭祀、文化に朝鮮半島や中国から伝来した様々な宗教を取り入れ、日本を中国唐のように国際色豊かな国にするのか否かを決める戦いだった。壬申の乱に勝利した大海人皇子は、仏教・キリスト教など様々な多国籍文化を国の統治機構や文化の中に取り入れながら、以後の日本の政治を担っていかなければならない。

 しかし、日本に中国唐から様々な宗教・文化が伝来してからも、日本古来の八百万の神信仰は、衰えることを知らず、大海人皇子の政策に反対し続けてきた。そして、八百万の神信仰を持つ人々が集い、古墳を築いて、信仰を守り伝えてきたのが、野口・大山にある古墳群だ。古墳は、先祖の墓であると同時に一族が集合して祭祀を行う場所であり、地域の人々の公園である。そして、この古墳群の中では、たびたび、様々な他国の宗教を国の祭祀の中に取り入れることに反対をする人々が集い、集会を開いていた。しかし、様々な他国の宗教を国の祭祀とすることに反対する勢力は、今、壬申の乱で近江朝廷に足止めされている。

 秦綱手が率いる秦氏は、壬申の乱で大海人皇子側についた。全国各地に秦一族は散らばっているが、そのうちの尾張地方北部の大草地域にいる秦氏は、人のいなくなった大山2号墳の前にいた。墳丘には、他国宗教反対・日本は八百万の神の国であるとするスローガンの壁画がある。そして、秦氏が合図をすると、秦氏の率いる兵士たちは、一斉に馬で古墳に突っ込んでいく。ほどなく、古墳の墳丘は馬に蹴られて、あるいは人の手によって打ち砕かれ、他国宗教反対・日本は八百万の神の国であるとするスローガンの書かれた壁画は跡形もなく壊されていった。そして、むき出しになった石室を見た秦氏は、石室にも他国宗教反対・日本は八百万の神の国であるとするスローガンが書かれているのを見た。そして、秦氏は、石室も崩し、他国宗教反対・日本は八百万の神の国であるとするスローガンのある壁画は、自分の仕事の証拠に持ち帰ることにした。これで、主君である大海人皇子も安心することだろう。

 そして、古墳の石室の中に埋葬してあった鏡や刀や人骨が周囲に散らばっているのを見た秦氏は、兵士たちに、塚を作って、人骨や鏡や刀を集めて埋めるように指示した。そして、秦氏は、人骨や鏡や刀を埋めた塚の前に地域の住民を集めて、こう説明した。

 「これからは、人が死んだら、古墳を造るようなことはせず、小さな墓碑を建てて、そこに埋葬することになります。この塚には、これから日本の隅々まで浸透していくであろう唐から伝来した宗教の経巻が納めてありますので、大事にしてください。ここにあった古墳の代わりに、我々秦一族が、この地域の農業振興のために稲荷信仰の祠を建てておきました。以後、この地域の農業が栄えますように。そして、今まで古墳が多く存在してきたこの山の中には、中国や朝鮮半島から伝来した様々な宗教寺院が建てられることが決まっています。」

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