児神社

児神社の地図

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年3月発行)の中の「図版X C区地形測量図及び遺構概略図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

 児神社は、標高182m前後の山の中にある。山肌を背にして、まっすぐ南を向いて建つ児神社本殿前には、東西27m、南北35mの広さを持つ平坦地が広がる。2018年4月現在のこの平坦地の地図が上の図であり、昭和49年度から昭和53年度(1974年〜1978年)まで、小牧市教育委員会による発掘調査が行われた場所である。

 児神社の由来を簡単に紹介する。児神社が建立される前、この山の中には、「西の比叡山 東の大山寺」「大山三千坊」とも称されるほどの大きな山岳寺院である大山峰正福寺が建立されていた。しかし、大山峰正福寺は、比叡山と法論を生じ、仁平2年(1152年)3月15日、比叡山から僧兵が攻めてきて、大山峰正福寺は、一山丸ごと焼き払われた。その時、焼け死んだ二人の稚児の魂を慰めるため、久寿2年(1155年)11月16日、都から鷹司宰相友行が勅使として大山に派遣されて、建立した神社が児神社である。(詳しくは、大山廃寺跡の言い伝えのページを参照してください。)勅使として都から派遣された鷹司宰相友行は、焼け死んだ二人の稚児を「多聞童子」「善玉童子」として、「天照大神」「少彦名命」と共に児神社の祭神とし、年に何回かの祭りを行うこととした。2018年現在、児神社では、1月に元旦祭、4月第1日曜日(旧暦3月15日)にちごまつり、10月に例祭が行われている。

1.児神社本殿・狛犬A・狛犬B

2.あずまや・石灯篭A・柳の切株

3.手水鉢

4.社務所と大山廃寺駐車場

5.石灯篭B・石灯篭C

6.石碑A・石碑B・石灯篭D・石灯篭E・石の鳥居

7.礎石跡

8.児神社境内一帯は本堂跡か?(このホームページ管理人の見解)

1.児神社本殿・狛犬A・狛犬B

児神社本殿と狛犬A・Bの写真

児神社本殿と狛犬A・B。2018年3月30日このホームページ管理人撮影。

本殿の石段には、「平成九年九月吉日」と彫られている。本殿の西側(本殿に向かって左側)に小さな祠がいくつか並んでいる。狛犬Aには、昭和十一年三月と彫られているのが見えるが、狛犬Bは、判読できず。狛犬Bの横に枝垂れ桜の切株がある。

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2.あずまや・石灯篭A・柳の切株

児神社の写真

児神社のある平坦地の真ん中あたりから児神社本殿に向かって撮影した。あずまや・石灯篭A・柳の切株・石灯篭B・石灯篭Cが見える。2018年3月4日このホームページ管理人撮影。

本殿の前にある建物をこのホームページ管理人は、「あずまや」と呼ぶが、「拝殿」と呼ぶ人もいれば、「舞台」と呼ぶ人もいる。4月第1日曜日のちごまつりのときは、下の写真のようになる。あずまや前の石灯篭Aは、「奉寄進石燈籠」の文字以外は判読できず。柳の切株は、「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年3月発行)の中にある写真によると、発掘調査時には存在したので、発掘調査の後、切られたことがわかる。

ちごまつりのときのあずまやの写真

ちごまつりのときのあずまや。2018年4月1日このホームページ管理人撮影。

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3.手水鉢

お祭りのときだけ、ひしゃくがいくつか置かれ、水が龍の口から出てきて、鉢いっぱいにあふれる姿を見ることができるが、普段は、何もない石鉢である。しかし、この手水鉢は、室町時代からあるもので、手水鉢正面に何やら線が彫られているように見えるが、判読できず。大正12年(1923年)1月発行の「東春日井郡史」には、江戸時代に書かれた張州府志によると、「永享十三年二月、大西之士某寄進」とあると書かれている。愛知県史跡名勝天然記念物調査報告第一巻(大正12年〜昭和17年 愛知県発行)「第六 史跡(其四)五、東春日井郡篠岡村 大山寺跡」(愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事 小栗 鉄次郎著 昭和三年(1928年)三月 愛知県)によると、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事である小栗鉄次郎は、「永享十三年三月二十七日」と読んでいる。永享13年は、1441年であるが、永享13年2月17日に永享は嘉吉に改元されている。ところで、手水鉢の後ろにある龍のついた石碑の日付は、大正十一年(1922年)一月と彫られている。

ちごまつりの日の手水鉢の写真

ちごまつりの日の手水鉢。2018年4月1日このホームページ管理人撮影。

手水鉢正面の写真

手水鉢正面。2018年3月30日このホームページ管理人撮影。

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4.社務所と大山廃寺駐車場

児神社社務所は、お祭りのときのみ開放されているが、普段は、無人で、閉まっている。大山廃寺駐車場は、標高183m前後、約20m四方の広さを持ち、児神社社務所の西側に広がっている平坦地にある。社務所・駐車場・道路は、昭和47年(1972年)、地元住民による整備工事によって建設されたもので、昭和47年(1972年)以前は、この平坦地には、一本松があり、一本松付近には、「供養塚」と称する高さ約60cm、広さ約3uほどの半壊の小丘があったとのことだ。昭和47年(1972年)の駐車場工事のとき、一本松付近を掘り起こしたら、五輪塔の頭にあたる相輪の一部が出土した。(「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)より。)

大山廃寺駐車場のある場所の昭和47年(1972年)以前の写真

昭和47年(1972年)以前の大山廃寺駐車場にあった一本松の写真。「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)39ページにある写真をスキャナーで写したもの。

江戸時代17世紀頃、尾張藩は、村々の庄屋に村絵図を作成させ、尾張藩に提出させたが、大山村の庄屋が尾張藩に提出した大山村絵図が下のものである。この絵図によると、現在の大山廃寺駐車場あたりには、弥勒堂があった。「江岩寺寺籍調査表」に、弥勒堂には、当時焼け残った弥勒菩薩四天王太鼓が安置してあったとする記述があると「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)は伝える。

近世村絵図大山村

近世村絵図の大山村をスキャナーで写したもの。

昭和53年度(1978年)に実施された第5次発掘調査によると、現在の社務所西側大山廃寺駐車場付近には、平安時代後期(11世紀前半)には、直径30cm前後の大きな柱が10本立つ、6.9m×4.8mの大きさの建物が建っていた。この建物の上層の整地土上面に焼土面が見られ、この建物の火災による廃絶がうかがわれる。この建物が火災によって廃絶した跡に建った建物が弥勒堂であり、弥勒堂は、焼け残った太鼓を安置していたのではないか。そして、弥勒堂はやがてなくなり、一本松だけがその土地に残り、一本松もやがてなくなって、大山廃寺駐車場となった。江岩寺には、当時の太鼓胴だと伝える割れた太鼓胴の一部が保存されていると「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)は伝える。

2018年現在の大山廃寺駐車場の写真

2018年現在の大山廃寺駐車場を社務所裏側から撮る。2018年4月1日このホームページ管理人撮影。

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5.石灯篭B・石灯篭C

児神社境内にある石灯篭B・Cの写真

児神社境内にある石灯篭B・C。2018年3月30日このホームページ管理人撮影。

石灯篭B・Cは、模様が細かい所で微妙に違う。この石灯篭の模様の特徴は、鹿・ボタンの花・山・波・江戸小紋の地おち七宝つなぎの透かし彫り・江戸小紋の菊桐つなぎが立派に彫られていることだ。児神社境内の中にある5つの石灯篭の中では、石灯篭B・Cが最も立派な灯篭に見える。石灯篭Cは判読不能だが、石灯篭Bは、昭和九年四月と彫られている。

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6.石碑A・石碑B・石灯篭D・石灯篭E・石の鳥居

石碑A・石碑B・石灯篭D・石灯篭E・石の鳥居は、昭和46年(1971年)3月までは、「ジロド」と呼ばれる場所にあった。(「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)参照)2018年現在、石碑A・石碑B・石灯篭D・石灯篭E・石の鳥居があったジロド付近には、小牧市が作成した大山廃寺跡の説明板と史跡散策路マップが立っている。

大山付近の地図

大山付近の地図。小牧市遺跡分布地図(1991年3月 小牧市教育委員会発行)の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)に掲載されているジロドの写真

「大山廃寺遺跡概説」(入谷哲夫著 昭和48年(1973年)11月発行)44ページに掲載されているジロドの写真をこのホームページ管理人スキャナーで写す。

2018年現在のジロド付近の写真

2018年現在のジロド付近。2017年12月14日このホームページ管理人撮影。

児神社境内の石鳥居とその向こうの風景

児神社境内南側にある石段から石鳥居を眺める。2018年3月30日このホームページ管理人撮影。

石灯篭D・石灯篭E・石の鳥居は、文字などが刻まれているのかどうかわからない。石灯籠Eには、かろうじて、「天明」の文字が読み取れる。天明は、18世紀末、江戸時代の元号である。

児神社境内にある石碑Bの写真

児神社境内にある石碑B。2018年3月30日このホームページ管理人撮影。大正十一年と刻まれている。その他は判読できず。

児神社境内にある石碑Aの写真

児神社境内にある石碑A。2018年3月30日このホームページ管理人撮影。「児神社 右 善光寺 明治二十八年五月」と刻まれている。このホームページ管理人が10年前に初めて児神社を訪れた時、この石碑Aの「右 善光寺」の意味が分からなかった。しかし、今、この石碑Aが昭和46年(1971年)3月までは、「ジロド」と呼ばれる場所にあったと知って、納得した。ジロドのあの場所から右に進むと、県道明知小牧線に出て、県道明知小牧線をどんどん右に進むと中央自動車道に到達する。中央自動車道は、ここから先、右に進むとやがて長野県松本市に到達し、東京都の新宿までつながっている。

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7.礎石跡

児神社境内南東部にある礎石跡の写真

児神社境内南東部にある礎石跡。2018年2月このホームページ管理人撮影。

児神社境内南東部にある礎石跡は、言い伝えでは、鐘楼堂跡である。昭和50年度(1975年)と昭和51年度(1976年)に行われた第2次・第3次発掘調査によると、中世には、この場所には、中禅寺薬師堂などに匹敵する規模を持つ礎石建物SB02という独立した小堂が存在していたことがわかった。そして、礎石建物SB02の東隣には、大量の古代瓦や土器・釘などが出土するあなが見つかった。一方、大山廃寺発掘調査では、中世以降の遺構は検出されていない。中世陶器以降の遺物も発見されず、児神社境内においては、児神社以外の建物は、織田信長が権力を握る16世紀後半の安土桃山時代には、衰退していったものと考えられる。

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8.児神社境内一帯は本堂跡か?(このホームページ管理人の見解)

 古くからの地元の言い伝えでは、児神社境内一帯は、本堂があったとされている。寛文8年(1668年)に的叟によって書かれた大山寺縁起は、仁平2年に焼死した二人のちごを祀るために児神社を建てたと記しているが、本堂のあった場所を記していない。ただ、大山寺縁起は、本堂について、次のように記している。

「本堂は、21.72u、54.3mの回廊、左右に18の堂があり、前に五重塔がある。そのうち、弥勒菩薩と太鼓堂と鐘楼堂等は、焼け残った。」

 そして、大山寺縁起が記す本堂の記述は、焼失前の本堂の様子を思い出して記したものである点も見逃せない。

 一方、昭和49年度(1974年度)から昭和53年度(1978年度)まで行われた大山廃寺発掘調査では、児神社境内一帯の発掘調査を行っているが、発掘調査報告書は、児神社境内一帯は本堂跡であると明確に断言していない。発掘調査報告書の記述は以下の通りだ。

「<C区(児神社境内一帯)>造成面の規模や遺構の検出状況等から見て、本寺院の中心部をなすとみられる地区である。」

 ただし、昭和49年度(1974年度)から昭和53年度(1978年度)までの間に大山廃寺発掘調査が行われた場所は、児神社境内一帯と参道下満月坊地区と塔跡のみである。

 そして、児神社の背後に連なる山々の中には、無数の大小の平地が確認できる。塔跡や児神社のある背後の山々のことを地元の人々は「本堂が峰」と呼ぶ。このホームページ管理人は、7世紀にはこの地に存在していた大山寺が、16世紀前半あたりまで900年の長きにわたって経営されている間に、本堂の位置を変えていったのではないかと考えている。900年近くある歴史の中での大山寺の一つの時代の節目は、なんといっても、比叡山から僧兵が攻めてきて、一山丸ごと焼き払われた平安時代末期の仁平2年(1152年)のことだろう。仁平2年(1152年)の前と後では、本堂の位置は違うのではないだろうか。児神社境内一帯に本堂があったのは、鎌倉時代以降、中世の話で、仁平2年(1152年)以前は、本堂が峰のどこかに本堂があったのではないだろうか。

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