2.かっぱの腕のひじの上:八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)

今回訪れる東海湖のほとり

(ペイントで書き込んだ東海三県の地図は、「スーパーマップル東海三県道路地図」(昭文社 2000年7月発行)の見開きのページにある「東海主要部索引図」を使用した。)

 八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)を紹介するときは、八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)の周囲にある高蔵寺・五社大明神社・高蔵神社・春日井市玉野町周辺も紹介しなければならない。このホームページ管理人が八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)を訪れることになるきっかけは、高蔵寺という寺だ。高蔵寺にある説明板には、次のように書かれていた。(このホームページ管理人の解釈は次のようなものだ。)

 「鹿乗り薬師の縁起」

 高蔵寺の御本尊は薬師如来で、鹿乗り薬師という。鹿乗り薬師は、高蔵寺の東方約545mの位置にある鹿乗ヶ淵の深淵から白鹿に乗って出現した。(このホームページ管理人が地図で調べたところ、その場所は、庄内川(玉野川)を鹿乗橋から少し下流方面に進んだ位置だ。)鹿乗ヶ淵の深淵から白鹿に乗って鹿乗り薬師が出現したとき、竜神が毎晩、燈明を掲げて、道を照らし、高蔵寺のある地にお祀りした。従って、高蔵寺の山号は、燈明山という。平安時代後期(12世紀頃)、仏師の名工春日が、霊木に、一刀刻むごとに恭しく三礼しながら、薬師如来像を彫り、高蔵寺に安置した。」

 2024年現在、高蔵寺と鹿乗橋の間には、JR中央本線が走っていて、高蔵寺から直線で鹿乗橋に行くことはできない。高蔵寺から鹿乗橋に行くためには、JR高蔵寺駅まで行き、高蔵寺駅南口から県道205号下半田川春日井線(このホームページ管理人が春日井の古墳ロードと呼ぶ県道)に出て、春日井市玉野町方面に戻るというのがいいと思う。このホームページ管理人は、高蔵寺を訪れた別の日に、鹿乗橋周辺を訪れ、鹿乗橋や鹿乗橋近くの八幡神社を訪問した。

 鹿乗橋近くにある八幡神社は、入尾城跡に建てられている。入尾城は、平安時代後期(12世紀頃)の源平の争乱の60年ほど前に建てられた城で、15世紀の入尾城主は、水野氏だ。水野氏は、愛知県知多郡美浜町にある野間海岸と河和口のかっぱ像(かっぱの陰部)の近くに住む長田氏(源義朝暗殺で有名)の末裔というのがネットの情報だ。しかし、かっぱの胸部にある宇宙山乾坤院(愛知県知多郡東浦町大字緒川字沙弥田4)を菩提寺とする水野氏(末裔には、徳川家康の実母である於大の方がいる。)とは無関係なのだろうか?

 また、高蔵寺墓地から高座山遊歩道を登ると、高座山頂上に高蔵神社がある。高蔵神社の磐座は、東海湖が隆起した後の東海湖の姿(今から100万年前か?)だと、このホームページ管理人は考える。高蔵神社は、名古屋市熱田区にある高座結御子神社の奥宮であるというのが、「東春日井郡誌」(大正12年(1923年)1月編纂)からの情報だ。名古屋市熱田区にある高座結御子神社の周囲には、断夫山古墳や白鳥古墳や熱田神宮がある。熱田神宮は、熱田台地の先端にあり、少なくとも江戸時代(17世紀から19世紀)には、熱田神宮に近い宮の渡しから南側は海だった。高蔵神社から熱田神宮周辺へ行く道程は、まさに、山を下り、海へ向かうという感覚そのものだとこのホームページ管理人は考える。そして、今から100万年前頃、何かが起こって、東海湖は、熱田神宮周辺から北側が隆起して、南にあった海が熱田神宮周辺まで迫ってきた、と、このホームページ管理人は考える。高蔵神社磐座の前にある祠は、熱田神宮周辺であるとこのホームページ管理人は考える。高蔵神社磐座にある祠から下の眺めは、小さい石が転々と下まで続き、石が左に並んで終わる。これは、熱田神宮に近い宮の渡しから南側を見たとき、このホームページ管理人が想像できた光景だ。宮の渡しから南側は海で、海に小さい島が並ぶのは、知多半島だ。そして、今から100万年前頃、猿人は原人に進化した。

このようなことを考えながら、このホームページ管理人は、このページを作っていきます。

1.八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)周辺

2.高蔵寺周辺

3.高蔵神社

4.五社大明神社

5.春日井市玉野町周辺

6.高座結御子神社周辺

7.断夫山古墳と白鳥古墳周辺

8.熱田神宮周辺

9.宮の渡し公園

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1.八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)周辺

八幡神社の周辺の地図

(ペイントで書き込んだ地図は、「スーパーマップル東海三県道路地図」(昭文社 2000年7月発行)の50~51ページにある「高蔵寺」を使用した。)

瀬戸市鹿乗町交差点の写真

 瀬戸市鹿乗町交差点です。この場所から後ろに振り返ると八幡神社があります。この写真の鹿乗町交差点を左折すると、県道15号名古屋多治見線で、しばらく進むと、庄内川沿いを走り、風光明媚な風景を見ながら、JR定光寺駅から多治見市まで行きます。この写真の鹿乗町交差点を過ぎると、道が二股に分かれ、左に行くと、瀬戸市まで続く国道155号線で、右に行くと、東谷山フルーツパーク方面に向かう国道155号線です。この写真の正面に見える山は、東谷山で、山の中に守山古墳群がある。この写真に写る東谷山の手前に写る灰色の建造物は、愛知環状鉄道です。2024年4月19日13時22分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社の石標柱の写真

 前の写真から後ろを振り返ると、八幡神社の石標柱がある。この石標柱は、建造年月日がわからないが、多分、後ろの生け垣に隠れているのだと思う。2024年4月19日13時12分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社の石標柱から神社の中に入る前の写真

 八幡神社の石標柱と神社の中に入る位置関係はこのようです。八幡神社の石標柱は、道路側を向いていて、鳥居の向きとは違う点に注目する。このホームページ管理人が訪れた中では、神社の石標柱と鳥居の向きが同じであるというのが一般的だったが、瀬戸市鹿乗町の八幡神社は、石標柱と鳥居の向きが違うようだ。八幡神社は、入尾城跡にあるということを伝えたかったのだろうか。入尾城跡の説明板と八幡神社の石標柱の向きが同じだ。2024年4月19日13時23分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社入り口にある手水鉢の写真

 八幡神社の鳥居をくぐるとすぐに、左側に手水鉢がある。このホームページ管理人は、手水鉢に彫られた文字を「清水」だと解釈した。もともとこの位置にあった手水鉢なのかは疑問だとこのホームページ管理人は考える。八幡神社の中に清水の湧く場所があるとか?あるいは、八幡神社の近くを流れる庄内川のこととか?あるいは、この写真の手水鉢の左側にある水道管をひねると、湧水が出てくるとか?2024年4月19日13時13分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社の様子の写真

 手水鉢の場所から正面を見ると、八幡神社の様子がわかる。石垣の上に拝殿と、拝殿の向こうに本殿が見えるという点で、この八幡神社が入尾城跡に建てられているということがわかる。この写真の拝殿の左奥に見える石碑が「河伯」石碑です。「河伯」石碑は、石垣の上、本殿横に置かれていることから考えて、入尾城跡に住んでいた人物と「河伯」は、密接な関係にあるとこのホームページ管理人は考える。入尾城跡の説明板とご神木は、この写真には写っていないが、この写真の右側にあります。2024年4月19日13時14分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社のご神木の写真

 八幡神社のご神木は、ブナ科のアベマキで、枝周りは東西17m、南北16mある。根元周りは4.3mで、幹回りは2.9m、高さは20mある。樹齢は約250年です。瀬戸市内では、八幡神社のアベマキの根元周りが最も大きく、幹回りが瀬戸市内で最も大きいアベマキは、定光寺町にある。八幡神社のアベマキは、樹勢が盛んで、これからも大きく育ちそうです。八幡神社のアベマキは、春は新芽が美しく、夏には、樹液にカブトムシやクワガタムシが集まり、秋には、たくさんのドングリを落とします。(八幡神社にあるアベマキの説明板より。)八幡神社のご神木も石垣の上にある。この写真のアベマキの右手前に写る説明板が、入尾城跡の説明板です。2024年4月19日13時14分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

入尾城跡の説明板の写真

 「Wikipedia入尾城」には、次のようにある。入尾城は、保元の乱(1156年)・平治の乱(1160年)頃、平景貞によって築城された。入尾城は、玉野川(庄内川)峡谷の断崖を利用して築城され、近くには入尾の渡しがあった。入尾城を築城した平景貞は、水野太平太と名乗り、水野氏(桓武平氏)の始祖となった。水野氏(桓武平氏)は、武家となり、承久の乱(1221年)のときは、一族をあげて朝廷方について、鎌倉幕府軍(北条氏方)と戦った。南北朝の動乱(14世紀)のときは、水野氏は、一族の中で、南朝方と北朝方に分かれ、共に、功績を上げたようだ。江戸時代(17世紀から19世紀)には、尾張藩士として、要職に就いたようだ。

 ここで、このホームページ管理人が注目するのは、平治の乱(1160年)のときの平景貞の動向だ。平治の乱(1160年)は、後白河天皇の側近の信西と摂関家の藤原信頼の戦いに端を発する。しかし、平治の乱は、人間関係が複雑に絡み合う戦いで、信西と藤原信頼の戦いは、後白河上皇と二条天皇の戦いにも発展した。後白河天皇方の武家は平清盛で、藤原信頼方の武家は源義朝(源頼朝の父)だ。つまり、京都の平安京では、信西と藤原信頼の戦い・後白河上皇と二条天皇の戦いは、平清盛と源義朝(源頼朝の父)の戦いとなる。

 結果、平治の乱(1160年)では、平清盛が勝ち、源義朝は、子供の頼朝を連れて、京都を脱出し、東に逃げる。東に逃げる途中、源義朝は、子供の頼朝と別れ、知多半島野間海岸(愛知県知多郡美浜町)にある大御堂寺(野間大坊)近くに住む長田氏の家に逃げ込む。しかし、長田氏は、主君である源義朝を裏切り、源義朝が風呂に入っているときに、源義朝を暗殺した。長田氏は、大御堂寺(野間大坊)に源義朝の墓を造り、平清盛に寝返って、桓武平氏となった。

 入尾城を築城した平景貞は、桓武平氏長田氏の支流だ。平景貞が源義朝暗殺に関わったかどうかは、わからない。しかし、このホームページ管理人は、平景貞が源義朝暗殺に関わったと考える。入尾城は、平景貞が、鎌倉幕府に隠れて、ひっそりと、しかし、防御は万全にして暮らす城というイメージがぴったり当てはまるとこのホームページ管理人は考えるからだ。その後、長田氏は、親子共々、源頼朝によって粛清され、長田氏の家系は途絶えた。一方、長田氏の支流である桓武平氏水野氏は、江戸時代(17世紀から19世紀)まで続く武家の家柄となった。

 そして、知多半島野間海岸(愛知県知多郡美浜町)が、東海湖のほとりであるかっぱの陰部にあることから、長田氏は、東海湖のほとりにあるかっぱ伝説を継承する一族ではないかとこのホームページ管理人は考える。

 2024年4月19日13時14分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社本殿横にある河伯石碑の写真

 八幡神社拝殿奥の本殿横に「河伯」と彫られた石碑がある。2024年4月19日13時18分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社本殿横にある河伯石碑のアップ写真

 「河伯」は、日本では、かっぱのことだ。一方、「河伯」は、中国神話では、黄河の神で、人の姿をしており、白い亀や白い竜の引く車に乗っている。若い女性をいけにえとして求め、いけにえが絶えると、黄河に氾濫を起こすという話もある。このホームページ管理人は、東海湖のほとりに住んでいたかっぱは、中国と関係があるように思えてならない。そして、日本で、かっぱは、余りいい印象でとらえられていない。しかし、現在地球に住む人間は、人間以外の生物からはあまりよく思われていないのではないかとこのホームページ管理人は考える。つまり、かっぱは、私たち人間のことではないかとこのホームページ管理人は考える。

 ところで、この写真の河伯石碑の「河伯」の文字の下に「中重地」と読める文字が入っている。「中重地」とは、本殿と中門の間にある空き地という意味だとこのホームページ管理人は考える。この写真にある河伯石碑の右側には本殿の祠があるので、この写真にある河伯石碑の左側にもう一つ門があったのだろうか?そして、その門(あるいは鳥居)の向きは、八幡神社の石標柱の向きと同じであった可能性がある。2024年4月19日13時19分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社本殿の一番左にある祠の写真

 八幡神社の本殿には、3つの祠がある。この写真の祠は、八幡神社本殿の左側にある祠の写真だ。この写真に写る祠の左側には、この写真には写っていないが、河伯石碑がある。2024年4月19日13時19分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社本殿の真ん中にある祠の写真

 八幡神社の本殿には、3つの祠があるが、真ん中にある祠が一番大きい。この写真に写る真ん中の祠の右側の扉にあるXの模様は、直違紋(すじかいもん)という家紋のことだとこのホームページ管理人は考える。直違紋(すじかいもん)は、丹羽氏の家紋であるというのがネットの情報だ。丹羽氏が八幡神社の再建に尽力したのだろうとこのホームページ管理人は考える。2024年4月19日13時19分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社本殿の一番右にある祠の写真

 八幡神社本殿の一番右にある祠の写真です。この写真の右側に写っていないが、ご神木のアベマキがある。2024年4月19日13時19分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鳥居近くにある石灯籠の写真

 八幡神社鳥居をくぐるとすぐの場所に建つ石灯籠の写真です。このホームページ管理人は、この石灯籠の足の部分に彫られてある「嶋中安全」の文字に注目する。(「嶋中安全」の裏側には、「秋葉山」と彫られてあった。)

 このホームページ管理人は、今から約100万年前頃、東海湖が隆起して、南にあった海が熱田神宮のすぐ南まで迫ってきて、知多半島は、海に浮かぶ島になったと考えている。そして、入尾城を築城した平景貞が水野太平太と名乗り、水野氏(桓武平氏)の始祖となった頃(12世紀中ごろ)、桓武平氏長田氏の住居は知多半島野間海岸(愛知県知多郡美浜町)の近くにあった。つまり、桓武平氏長田氏が住んでいた場所は島だったと、このホームページ管理人は考える。ということは、平治の乱(1160年)で平清盛に敗れて、東へ逃げた源義朝は、船に乗って、長田氏の住居に逃げ込んだということになる。

 今から約100万年前頃、海に浮かぶ島々だった知多半島は、いつ頃、現在のような姿になったのだろう。知多半島が現在のような陸続きの半島となったのは、江戸時代(17世紀から19世紀)以降のことではないかとこのホームページ管理人は考える。

 2024年4月19日13時16分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

入尾城説明板近くにある石灯籠の写真

 このホームページ管理人がもう1つ気になった石灯籠が入尾城説明板近くにある石灯籠だ。この写真の石灯籠の足には、「紀元二千六百年記念」と彫られている。紀元二千六百年記念とは、昭和15年(1940年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った国家行事のことである。昭和15年(1940年)の日本は、日中戦争真っただ中で、翌年には、太平洋戦争が始まる。そのような状態の中、紀元二千六百年記念という国家行事は、全国11万もの神社において、大祭が行われた。2024年現在から84年前の話です。2024年4月19日13時17分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社鳥居の裏側の写真

 八幡神社鳥居の裏側には、何かが彫られているようだが、何が彫られているのかは判別できない。もしかしたら、紀元二千六百年記念という国家行事に伴って建てられた鳥居ではないかと、このホームページ管理人は推測するが、本当のところはわからない。このホームページ管理人は、八幡神社の鳥居には、建造年月日と奉納した人々の名前が刻まれているのではないかと推測する。2024年4月19日13時21分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋のたもとの写真

 八幡神社から道なりに北方向(春日井市にある高座山方向)に少し歩くと鹿乗橋がある。この写真は、鹿乗橋のたもとで撮影した。この写真の中央に写る正体不明の石の向こうに自動車進入禁止の看板が見える。鹿乗橋は、2024年現在、自動車は一方通行の橋で、この写真の向こうからこちらへ(春日井市から瀬戸市へ)の方向のみ自動車は通ることができる。2024年4月19日13時25分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋の写真

 鹿乗橋の歴史は次の通りです。

 鹿乗橋は、愛知県道53号春日井瀬戸線のアーチ橋として、明治43年(1910年)にメラン工法により建設された、全長73m・幅4.5mの鉄製アーチ橋です。昭和5年(1930年)には、岡崎から多治見間や瀬戸記念橋から高蔵寺間を走る鉄道省営バスが鹿乗橋を通った。昭和22年(1947年)には、鹿乗橋の木製の橋板が鉄製になった。昭和26年(1951年)3月には、鋼鉄製のアーチ部分が老朽化したため、コンクリートで固めて補強した。そして、昭和26年(1951年)の鹿乗橋の改築以来、2024年現在に至るまでの73年間、鹿乗橋はここにある。鹿乗橋は、明治時代(20世紀)に造られた11のスチールアーチ橋のうちの1つで、2024年現在まで現存する大変貴重な橋である。

 このホームページ管理人は、これからこの橋をこちらから向こうへ徒歩で渡りますが、自動車は、向こうからこちらへ(春日井市側から瀬戸市側へ)の一方通行です。鹿乗橋は、狭い橋で、自動車1台と人間一人がぎりぎり渡ることができるほどの幅しかない。歩道と車道の境もない。このような橋なのに、1トントラックがバンバン走るので、鹿乗橋を渡るときは、交通事故に注意してください。2024年4月19日13時25分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋から庄内川下流方向を眺めた写真

 鹿乗橋から庄内川下流方向(春日井市高蔵寺町方面)を眺めた写真です。この写真の正面に写る大きな橋は、愛知環状鉄道の橋です。(この写真の橋を右に行くと高蔵寺駅で、左へ行くと瀬戸市方面です。)愛知環状鉄道の橋の向こうに写る小さい橋は、多分、水道橋です。この写真に写る庄内川のあたりに入尾の渡しがあったとこのホームページ管理人は考える。「高蔵寺の御本尊は薬師如来で、鹿乗り薬師という。鹿乗り薬師は、高蔵寺の東方約545mの位置にある鹿乗ヶ淵の深淵から白鹿に乗って出現した。」に該当する場所は、この写真の場所だとこのホームページ管理人は考える。この写真の左側に写る山は東谷山で、山の中に守山古墳群がある。2024年4月19日13時35分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋から庄内川上流方向を眺めた写真

 鹿乗橋から庄内川上流方向(春日井市玉野町方面)を眺めた写真です。この写真の左側に見える集落は、春日井市玉野町です。春日井市玉野町には、南北朝の動乱(14世紀)で、後醍醐天皇が崩御した後、後醍醐天皇側近で南朝方のなか姫一行が、春日井市玉野町にある有力者の家に泊まっていたところ、通報を受けた北朝方の武士の闇討ちに会い、ほぼ全員討ち死にしたという伝説がある。この写真の左端に切れて写る山は、高座山です。この写真の正面に写る山は定光寺などがある瀬戸市の山々です。「入尾城は、玉野川(庄内川)峡谷の断崖を利用して築城され、近くには入尾の渡しがあった。」というイメージにぴったりの写真だとこのホームページ管理人は考える。2024年4月19日13時27分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋の橋げたの写真

 鹿乗橋の橋げたがいい雰囲気で、つい、スマホのレンズを向けた。2024年4月19日13時27分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

愛知県道53号春日井瀬戸線の写真

 鹿乗橋を瀬戸市側から春日井市側に向かって渡り切って、右側を見ると、愛知県道53号春日井瀬戸線である。この写真の道は、春日井市玉野町方面に向かう。地図によると、春日井市玉野町の踏切前より向こうへ続くJR定光寺駅までの道は、県道205号下半田川春日井線である。愛知県道53号春日井瀬戸線は、春日井市玉野町の踏切を渡って、北に向かい、春日井市都市緑化植物園の前を通り、県道508号内津勝川線の西尾町あたりで合流する。つまり、昭和5年(1930年)に走っていた鉄道省営バス岡崎から多治見間は、岡崎から鹿乗橋を渡ったのち、内津峠を越えて、多治見市に行ったとこのホームページ管理人は考える。2024年4月19日13時28分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋向かいにある祠の写真

 鹿乗橋を瀬戸市側から春日井市側に渡り切ると、正面に石仏の祠がある。この石仏の祠は、断崖をくりぬいて、埋め込まれている。この写真の石仏がある断崖の上をJR中央本線が通っている。この写真の右側に進むとJR多治見駅方面で、この写真の左側に進むと、JR高蔵寺駅方面である。鹿乗橋を境にして(この写真に写る祠を境にして)、この写真の右側に行く道が愛知県道53号春日井瀬戸線で、この写真の左側に行く道が県道205号下半田川春日井線(このホームページ管理人が個人的に「春日井の古墳ロード」と呼ぶ道)である。2024年4月19日13時31分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

祠の中の石仏の写真

 前の写真の祠の中の石仏は、馬頭観音であると、このホームページ管理人は考える。昭和5年(1930年)で考えると、この石仏を境にして、この写真の右へ行く道が多治見市方面で、この写真の左へ行く道が春日井市高蔵寺町方面であると、このホームページ管理人は考える。2024年4月19日13時30分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

県道205号下半田川春日井線の写真

 瀬戸市側から春日井市側に鹿乗橋を渡り切って、左側を見ると、県道205号下半田川春日井線(このホームページ管理人が個人的に「春日井の古墳ロード」と呼ぶ道で、この写真の道を進むと左側、県道205号下半田川春日井線と庄内川の間に古墳が点在する。)である。この写真の道を進むと、春日井市高蔵寺町である。この写真の中央、道の右側に写る白いガードレールのある場所を正面から撮影した写真が次の写真です。2024年4月19日13時30分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

JR中央本線の写真

 前の写真に写る白いガードレールを正面から撮影する。この写真の鉄橋の上をJR中央本線が通る。この写真の鉄橋の下を流れる川は高座山から流れる川で、庄内川に注いでいる。2024年4月19日13時28分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋バス停の写真

 前の写真の白いガードレールの場所から、県道205号下半田川春日井線を少し高蔵寺町方面に進むと、名鉄バス鹿乗橋バス停がある。この写真のバス停の左側に建つ石柱は、何を意味するのだろうか?ここが、入尾の渡しのある場所であるという意味か。それとも、「高蔵寺の御本尊は薬師如来で、鹿乗り薬師という。鹿乗り薬師は、高蔵寺の東方約545mの位置にある鹿乗ヶ淵の深淵から白鹿に乗って出現した。」に該当する場所であるという意味か。2024年4月19日13時33分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋遠景の写真

 前の写真の鹿乗橋バス停のある場所から、鹿乗橋と庄内川を撮影する。鹿乗橋がアーチ橋であることがわかる。鹿乗橋バス停から庄内川に下りることはできない。2024年4月19日13時34分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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2.高蔵寺(愛知県春日井市高蔵寺町)周辺

高蔵寺の周辺の地図

(ペイントで書き込んだ地図は、「スーパーマップル東海三県道路地図」(昭文社 2000年7月発行)の50~51ページにある「高蔵寺」を使用した。)

 このホームページ管理人は、このページの項目になっている「2.高蔵寺周辺」から「9.宮の渡し公園」までにある文化財を見て、次のようなことを考えた。

 今から約300万年前、宇宙から地球上のあらゆる場所に来たかっぱたちの一部が、中国大陸から日本の東海三県のある場所に渡って来て、東海湖や琵琶湖を造った。かっぱたちの組織は、中国大陸がその支部だったが、中国大陸の上組織は、宇宙にあるどこか他の天体にあった。(これがどの天体であったかは、現時点で、このホームページ管理人には、わかっていない。)そして、宇宙から中国大陸を経由して、日本の東海三県のある場所にやってきたかっぱたちは、地球に来てから約200万年ほどの間は、東海湖や琵琶湖のほとりで、子孫を増やし、平和な生活を送っていた。

 しかし、今から約100万年前頃、日本の東海三県のある場所に地殻変動が起きた。(御嶽山や富士山や室生火山群の噴火が原因かもしれない。)その時、熱田神宮のある場所から北側の大地は隆起し、南にあった海が熱田神宮のある場所近くまで迫ってきた。知多半島は、海に浮かぶ島々になった。東海湖や琵琶湖はなくなってしまい、東海湖や琵琶湖のほとりで、平和な生活を送っていたかっぱたちは、ほとんどが死んだ。

 しかし、東海湖や琵琶湖のほとりに住むかっぱたちの中で、わずかだが、生き残ったものたちがいた。それが、かっぱの子供たちだ。中国大陸から救助は来なかった。なぜなら、火山の噴火や地殻変動は、地球規模で起こっていたからだ。中国大陸支部のかっぱたちに東海湖周辺に住むかっぱたちを助けに来る余裕はなかった。かっぱの子供たちは、自分たちを率いる大人たちなしで、地球に住み続けなければならなくなった。子供は、大人から文化や道徳を学んで、次に進んでいく。大人からの教育なしに大人になった子供たちは、今までかっぱの先祖たちが歩んできた歴史を次の世代に伝えることができない。しかし、かっぱの子供たちが何もわからないかといわれるとそうでもなく、生き残ったかっぱの子供たちは、何となく、おぼろげながら、自分の記憶をたどって、暗闇の中を進んでいく。そして、大人なしで育っていく子供たちは、原人に進化した。

 このホームページ管理人が知っている歴史の中で、原人は、今から約1万年前に、もう一度、進化して、現在の人類になる。このホームページ管理人は、「2.高蔵寺周辺」から「9.宮の渡し公園」までにある文化財を見て、100万年から200万年間隔で、地球上には、大規模な地殻変動が起きて、そのたびに、人類は、絶滅しかけるのだが、絶滅から逃れることができたものが進化して、別の生き物になるという考えを持つことができた。そのたびに、人間の文化は一旦途絶える。もしかしたら、かっぱたちの本部の天体から、かっぱが来て、子供たちの教育というものがいかに大切なものであるかをかっぱの子供たちに伝えたのかもしれないと、このホームページ管理人は考える。そして、他の天体から助けに来たかっぱは、進化したかっぱの子供たちを見て、かっぱの子供たちであると認識するのに時間がかかったのではないかとこのホームページ管理人は考える。

高蔵寺山門から見る高蔵寺の写真

 高蔵寺の説明板などを見て、このホームページ管理人が解釈したことは、高蔵寺の歴史が、時代ごとにぶつ切れになって、伝わっている、ということだ。そして、ぶつ切れになった寺の歴史と歴史の間が、スムーズに結びついていかない。しかし、このホームページ管理人は、「東春日井郡誌」(大正12年(1923年)編纂)の記述を基に、高蔵寺について、説明したいと考える。

 このホームページ管理人は、「鹿乗ヶ淵の深淵から白鹿に乗って鹿乗り薬師が出現したとき、竜神が毎晩、燈明を掲げて、道を照らし、高蔵寺のある地にお祀りした。」という記述にある、高蔵寺のご本尊薬師如来が、高蔵寺の歴史の始まりだと考える。(従って、高蔵寺の山号は、「燈明山」という。)その後、承平3年(933年)に、全国行脚の途中に高蔵寺のある地を訪れた、比叡山延暦寺の僧侶の知蔵僧正が高蔵寺を創建した。昔は、12坊の大伽藍が建ち並んでいた。(このホームページ管理人の考えでは、高座山の中に12坊あった。)平安時代後期(12世紀頃)、仏師の名工春日が、霊木に、一刀刻むごとに恭しく三礼しながら、薬師如来像を彫り、高蔵寺に安置した。(現在は、高蔵寺の薬師堂に安置されている。)

 室町時代(14世紀末から15世紀末)には、高蔵寺は、室町幕府管領の斯波武衛家の祈願所となった。しかし、戦国時代(16世紀)に兵火により、ほとんどの坊が焼失し、焼失を免れた1坊が現在の高蔵寺となった。(このホームページ管理人は、永禄4年(1561年)、今川氏と通じて信長打倒をもくろんだ斯波義銀たちの画策が発覚し、織田信長が斯波義銀たちを追放して、斯波武衛家が滅亡したという事件に高蔵寺が巻き込まれたと考える。斯波義銀は、その後、津川義近と改名して、織田信長と和解し、津川家は、明治時代(19世紀から20世紀)以降も華族として続いた。)

 2024年4月12日14時16分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。高蔵寺の後ろに写る山が高座山です。石標柱にある「高蔵毘沙門天尊」については、後の写真で説明します。

鹿乗橋向かいにある祠の写真

2024年4月19日13時31分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

祠の中の石仏の写真

2024年4月19日13時30分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

 「東春日井郡誌」(大正12年(1923年)編纂)911ページにある「高蔵寺」には、次のような記述がある。このホームページ管理人の解釈は次の通りだ。

 別に安置した馬頭観音菩薩の古い言い伝えは、次の通りだ。1220年頃、玉野川(庄内川)の辺りに住んでいた小比企という漁師は、子供ができないことを悲しみ、高座山にある毘沙門天尊に、子供ができるように、祈願をしていた。ある時、夢のお告げに基づいて、玉野川の東北芳池で網を引いたところ、五彩の光と共に、観音像が網にかかって現れた。小比企は不思議に思って、その観音像を家に安置して、供養したところ、やがて、子供が授かった。小比企は、喜びの余り、堂を建立して、観音像を安置した。この言い伝えにより、観音像は、子供を授かる霊仏として、参詣するものが多く、人々は、子福の観音といった。

 このホームページ管理人は、鹿乗橋を瀬戸市側から春日井市側に渡ったとき、その正面に見えた、崖の岩をくりぬいて安置された馬頭観音像がこの言い伝えにある観音像であると考えます。

高蔵寺山門から振り返った風景の写真

 高蔵寺山門から振り返ると、JR中央本線が目の前を横切っている。この写真のJR中央本線を右に進むとJR高蔵寺駅に行き、左に進むと、春日井市玉野町からJR定光寺駅方面に行きます。この写真の左端に切れて写る山は、東谷山で、山の中には、守山古墳群があります。2024年4月12日14時16分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺山門から振り返った左側風景の写真

 前の写真の位置から、左側を見る。写真の道は、春日井市玉野町の五社神社に続く道です。写真の道の右側にJR中央本線が写る。この写真の中央に写る電信柱の位置にあるJR中央本線を越えた右側に鹿乗橋があり、馬頭観音の祠がある。2024年4月12日14時16分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺山門から振り返った右側風景の写真

 前の前の写真の位置から、右側を見る。写真の道の右側に隣接して、JR高蔵寺駅北口がある。道の左に写るのは、JR中央本線です。2024年4月12日14時16分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺の入り口の写真

 これから、高蔵寺の中に入っていきます。この写真の位置から振り返ると、駐車場があり、春日井市教育委員会の高蔵寺の説明板がある。2024年4月12日14時14分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺本堂周辺の写真

 高蔵寺本堂とその周辺です。高蔵寺の山号は、燈明山で、天台宗の寺です。この写真の本堂の右隣に切れて写っている建物が高蔵毘沙門天尊です。高蔵寺の墓地は、高座山の斜面にある。ご本尊の薬師如来は、本堂ではなく、薬師堂の中にあるようだ。(この写真には写っていない。)高蔵寺の文化財は、春日井市指定文化財として、絹本着色十二天画像と曾呂利宗八所持刀がある。

 曾呂利宗八は、戦国時代後期(15世紀)に篠木荘(愛知県春日井市関田から出川)を通る下街道あたりを拠点にした野盗の大親分で、忍者でもあった。(春日井市出川と大泉寺の間を通る下街道の旅人に土を担がせ、富士塚を造ったことで有名だ。)曾呂利宗八が延徳元年(1489年)に病死したとき、部下たちは、小牧市大草にある福厳寺に葬式をするよう頼んだ。福厳寺の盛禅和尚が外で曽呂利宗八の葬式をしていると、天が曇りだし、雷鳴と大雨と共に黒雲の間から怪物が火を噴きながら曽呂利宗八の棺桶に襲いかかった。曾呂利宗八の部下たちは逃げたが、盛禅和尚は、曾呂利宗八の棺桶の上に座ったまま、お経を唱えた。怪物は盛禅和尚に驚いて、逃げ去り、天は青空になった。春日井市関田に曽呂利塚という墓があり、円福寺には、曽呂利宗八が使った陣太鼓がある。高蔵寺が所持している刀は、曾呂利宗八が所持していた刀だ。今でも雨の降る晩、曾呂利宗八の亡霊が鬼火をともし、内津川の堤防を行ったり来たりするという。

 2024年4月12日14時18分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。高蔵寺境内の中は、桜吹雪が舞い、思わず、見とれてしまった。

高蔵寺境内の桜の写真

 高蔵寺の境内にあるこの写真の桜の隣にある看板には、「保存樹 ソメイヨシノ(バラ科) 16-31 春日井市長」と書かれてある。接ぎ木をした立派な桜の古木だとこのホームページ管理人は思った。(ソメイヨシノは接ぎ木で増える。)2024年4月12日14時19分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。桜吹雪がきれいだった。

高蔵寺境内の桜の隣の大きな石仏と五輪塔の写真

 この大きな石仏の台座には「三界萬霊等」と刻まれているので、この石仏は、この世のすべての生き物を供養しているとこのホームページ管理人は考える。しかし、この写真の石仏の右前方に写る五輪塔が気になる。このホームページ管理人は、高蔵寺のこの石仏が、南北朝動乱(14世紀)や戦国時代動乱(15世紀から16世紀)を見続けてきているのかとも考える。特に、南北朝動乱(14世紀)のときは、高蔵寺のある地域一帯は、戦場の真っただ中にあったのではないか(主に南朝方の砦)とこのホームページ管理人は考える。2024年4月12日14時23分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺境内の本堂と薬師堂と高蔵毘沙門天尊の写真

 この写真の左端に切れて写っているのが高蔵寺本堂で、本堂の右隣にあるのが高蔵毘沙門天尊で、高蔵毘沙門天尊の前に写っている建物が薬師堂です。高蔵寺のご本尊である薬師如来像が置かれているのが薬師堂であるとこのホームページ管理人は考える。薬師堂では、毎月8日の午前8時半から午前9時半の間に縁日法要が行われている。縁日法要は、薬師ごま供養といい、祈願の趣旨(世界平和や工事安全や夫婦円満など)を護摩木に書いて薬師如来像に託すものである。「鹿乗ヶ淵の深淵から白鹿に乗って鹿乗り薬師が出現したとき、竜神が毎晩、燈明を掲げて、道を照らし、高蔵寺のある地にお祀りした。」という記述にある、高蔵寺のご本尊薬師如来像は、平安時代後期(11世紀中ごろから12世紀)に、平安仏師の名工春日が製作したものである。薬師如来像は、高さ141.5cmの座像で、桧の素木を材料にした寄木作りである。薬師如来像のお顔は、端正な少年のお顔をしており、玉眼が入っている。薬師如来像の両脇には、日光・月光菩薩がいる三尊形式で、薬師如来と日光・月光菩薩の周囲には、十二神将の像が廻っている。(高蔵寺境内にある説明板より。)2024年4月12日14時20分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺境内にある高蔵毘沙門天尊の写真

 「東春日井郡誌」(大正12年(1923年)編纂)には、次のような記述がある。小児の守り神である高蔵毘沙門天尊は、古くは、高座山の頂上にあって、高蔵社と称していて、熱田高蔵宮(現在、熱田神宮の摂社である高座結御子神社)の奥の院と言い伝えられてきた。しかし、後の時代になって、高蔵寺の境内に遷座した。高蔵毘沙門天尊の前にある子安井戸では、毎年6月1日に井戸のぞきの祭事がある。2024年4月12日14時24分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵毘沙門天尊前にある子安井戸の写真

 高蔵毘沙門天尊前にある子安井戸にある説明板には、次のように書かれている。「高蔵の井水に影を写し見よ 心の垢はありやなしやと」全舜和尚 子供に恵まれない人や子供の夜泣きに困っている人の信仰を集めているあらたかな井戸です。毎年6月1日に井戸のぞきの行事が行われます。

 2024年4月12日14時23分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵毘沙門天尊前にある子安井戸の中の写真

 高蔵毘沙門天尊前にある子安井戸の中をのぞく。熱田神宮摂社の高座結御子神社(名古屋市熱田区高蔵町9-9)も子育ての神様として有名で、子預け虫封じの厚い信仰があり、高座の井戸のぞきは、多くの親子連れでにぎわう。2024年4月12日14時24分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺境内から高蔵寺墓地へ行く入り口の写真

 薬師堂の奥あたりにある「奉納西国三十三所供養」石碑から高蔵寺墓地に上ることができるが、このホームページ管理人は、ここから高蔵寺墓地に行かないで、高蔵寺の外にある階段から高蔵寺墓地に入る。2024年4月12日14時22分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺山門横の写真

 高蔵寺の山門横に高蔵寺のご本尊薬師如来像の説明板があり、説明板の後ろに大きなクスノキがある。高蔵寺を塀の外から眺めると、説明板の後ろにあるクスノキが一番大きい。2024年4月12日14時21分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺山門からJR中央本線を眺めた写真

 これから、高蔵寺を出て、高蔵寺の外から高蔵寺墓地に入っていきます。高蔵寺山門からは、JR中央本線が見える。2024年4月12日14時27分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺の外から高蔵寺の塀を眺めた写真

 高蔵寺の外に出て、高蔵寺の塀を眺めると、大きいクスノキが目に入る。この写真は、高蔵寺の塀をJR高蔵寺駅方面(西)に向かって眺めている。2024年4月12日16時00分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺の外の写真

 高蔵寺から外に出て、高蔵寺の前の道路を東(春日井市玉野町方面)に向かう。この写真の道の右側に見える道路は春日井市玉野町にある五社神社に向かう道路で、五社神社へ向かう道路の右側に見えるのがJR中央本線です。2024年4月12日14時29分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺の外のにある石碑の写真

 高蔵寺を出て、前の写真の道から少し先(東)に進むと、左側の山の中に「白龍大神」と刻まれた石碑を見上げることができる。このホームページ管理人が今までいくつか訪れた東海湖に関わる遺跡には、必ずと言っていいほど、○○大神という名前をみつけることができる。このホームページ管理人は、「○○大神」というのは、東海湖があった今から300万年前に存在した、かっぱたちのリーダー(現在でいう区長とか村長とか)の名前か、もしくは、かっぱたちの遺志を継ぐ者の名前であったのではないかと考えている。2024年4月12日14時30分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺墓地に続く階段の写真

 「白龍大神」の石碑の横に階段があるので、この階段を上って、高蔵寺墓地に行きます。2024年4月12日14時30分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

階段の上にある祠の跡1の写真

 前の写真の階段を上ると、祠の跡に行くことができる。「東春日井郡誌」(大正12年(1923年)編纂)には、次のような記述がある。高蔵寺は、昔は、十二坊あったが、永禄(1558年から1570年)の兵火によって、ことごとく燃え尽き、実相坊が一坊だけ残った。残った実相坊が現在の高蔵寺となった。その他の十一坊は、山の中の所々に古跡を残した。その古跡には、鎮守や山王社や金毘羅社や観音堂などがある。2024年4月12日14時32分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

階段の上にある祠の跡2の写真

 階段の上の山の中には、このようなつぶれた祠もある。2024年4月12日14時33分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

階段の上にある神社の写真

 階段を上って、高蔵寺墓地に近い場所にあった神社です。2024年4月12日14時36分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺墓地にある高座山遊歩道の看板の写真

 前の写真の神社から振り向くと、近くに高蔵寺墓地があり、高座山遊歩道の看板が目に入る。2024年4月12日14時37分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺墓地から見る風景の写真

 高蔵寺墓地から見る風景です。この写真の中央にJR中央本線高蔵寺駅が写る。この写真の右端の山の上にある建物群は、中部大学の建物群です。この墓地に眠る人々は、日々、開発されていく愛知県春日井市内や名古屋市内の様子を見ていることだろう。2024年4月12日14時39分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高座山参道入り口の写真

 高蔵寺墓地にある高座山参道入り口から高座山に入ります。2024年4月12日14時38分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高座山登山道途中にある広場の写真

 前の写真の高座山参道入り口から登山道に入り、道なりに進むと、この写真のある広場に出ます。2024年4月12日14時44分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高座山登山道途中にある広場にある石造物の写真

 前の写真の広場には、このような石造物がある。この石造物も、このホームページ管理人が遺跡を見に行くとよく見る石造物です。2024年4月12日14時44分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ご来迎の碑の写真

 広場にあるご来迎の碑です。広場にある説明板(高座地区コミュニティ推進協議会 平成17年(2005年)11月吉日)には、次のように書かれてあった。

 「ご来迎の碑」由来

 承平3年(933年)、延暦寺の知蔵僧正が諸国巡教の旅に出て、途中、高倉の地に来た。高倉の地の山紫水明な景色を眺めた僧正は、この地に仏法興隆の兆しありと考えた。僧正は、ある日の夜半過ぎ、高倉山に踏み入り、静かに座禅を組んで、深い瞑想をしていると、微かな明かりが浮き出てきて、七色に光り輝き、やがて、東の空は美しい瑠璃色に澄み渡り、御仏がお出ましになって、厳かに告げられた。「我は、東方瑠璃浄土の教主、薬師如来である。人々の苦しみを救うため、再び現れるであろう。その時には、白い鹿に乗り、玉野川(庄内川)の景勝の渕より出現するであろう。」と。僧正は、禅定から覚め、東の空に向かって、静かに合掌していると、山の背から、赤々と朝日が昇ってきた。その日は、ちょうど、春のお彼岸のお中日のことでありました。今、薬師如来様は、燈明山高蔵寺境内の薬師堂に祀られています。

 2024年4月12日15時47分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

広場から登る高座山登山道の写真

 広場から更に先に続く登山道を登っていきます。2024年4月12日14時48分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高座山遊歩道の地図の写真

 広場から高座山遊歩道をさらに登っていくと、この写真の看板が目に入ります。2024年4月12日14時49分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高座山遊歩道の地図から先に進んだ高座山遊歩道1の写真

 高座山遊歩道の地図のある場所から更に高座山遊歩道を先に進みます。2024年4月12日14時49分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高座山遊歩道の地図から先に進んだ高座山遊歩道2の写真

 前の写真の場所から更に高座山遊歩道を登っていくと、シダが両側に生える場所を通過する。この写真の風景は、愛知県小牧市野口にある市民四季の道に似ているとこのホームページ管理人は考える。2024年4月12日14時55分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高座山遊歩道にあるミツバツツジの写真

 高座山遊歩道にあるシダの間には、ミツバツツジが生える。そして、ミツバツツジは、高座山遊歩道でたくさん見ることができる。登山道に沿って、ミツバツツジが数多く生える様子は、愛知県小牧市の大山・野口の古墳群と同じだ。2024年4月12日14時57分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高座山遊歩道にある古墳?の写真

 前の写真の場所から更に高座山遊歩道を登ると、このような場所に出る。高座山南すそと庄内川の間には、高蔵寺古墳群という古墳群がある。この写真の石の山も古墳ではないかとこのホームページ管理人は考える。2024年4月12日14時59分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

前の写真の石の階段の上の写真

 前の写真の石の階段を上ると、このような場所に出る。山の中に寺の跡があったり、古墳があったりするこの感じは、愛知県小牧市にある大山廃寺跡や野口古墳群と同じだ。2024年4月12日15時01分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

前の写真のアップの写真

 前の写真の祠にさらに近づいて、写真を撮影する。この祠の下にある石は古そうだ。2024年4月12日15時01分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社への道の写真

 前の写真の古墳の山を下りて、登山道を少し登ると、この写真の看板がある。看板通りに先に進む。2024年4月12日15時01分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

見晴らし台からの眺め1の写真

 前の写真の看板を過ぎたあたりで、山が開けていて、見晴らし台に出る。見晴らし台からは、名古屋市まで見える。この写真の中央より少し右側に名古屋駅高層ビル群が見える。この写真の名古屋駅高層ビル群の左側に熱田神宮があるはずである。従って、見晴らし台からの景色の中央は、熱田神宮ということになる。2024年4月12日14時59分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

見晴らし台からの眺め2の写真

 見晴らし台から伊勢神宮の方向を見てみると、正面にミツバツツジが写る。この写真の中央より左寄りに名古屋駅高層ビル群が見えるので、名古屋駅高層ビル群の右側、つまり、この写真の中央の位置、ミツバツツジのある位置に伊勢神宮があるはずである。2024年4月12日15時03分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

見晴らし台から高蔵神社への道の写真

 見晴らし台を過ぎ、さらに登って、高蔵神社へ行きます。2024年4月12日15時07分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

見晴らし台から高蔵神社への登山道に生えるミツバツツジの写真

 高蔵神社に近づくごとにミツバツツジが増えていくような気がする。2024年4月12日15時40分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社に近い登山道からの眺めの写真

 見晴らし台から高蔵神社に向かって登っていくと、高蔵神社に近い場所で、もう一度、山が開けて、眺めがいい場所に出る。この写真の左側に切れて写る山は東谷山だとこのホームページ管理人は考える。そうすると、この眺めは、三河湾と知多半島の先端の師崎にある羽豆神社や篠島・日間賀島方面を見ているとこのホームページ管理人は考える。2024年4月12日15時36分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社直前の登山道から高蔵神社方面を見た写真

 前の写真の位置から更に登山道を登ると、何か見えてくる。高蔵神社だ。2024年4月12日15時08分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社直前の登山道の写真

 高蔵神社直前の登山道には、白くて小さくて丸い何かがたくさんある。高座山は水晶が採れる山で、昔は、採掘していたという情報をネットで見た。2024年4月12日15時29分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社の写真

 高蔵神社に到着した。2024年4月12日15時11分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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3.高蔵神社

高蔵寺の周辺の地図

(ペイントで書き込んだ地図は、「スーパーマップル東海三県道路地図」(昭文社 2000年7月発行)の50~51ページにある「高蔵寺」を使用した。)

高蔵神社石標柱の写真

 高蔵神社の石標柱側面には、「昭和三年(1928年)十一月」と彫られている。昭和3年の日本の歴史は、第1回普通選挙が行われる中、一方で、治安維持法が改正され、無期・死刑が追加された。

 高蔵神社と関係するかどうかはわからないが、「平成21年度名古屋市博物館企画展 小栗鉄次郎ー戦火から国宝を守った男ー(名古屋市博物館 平成21年(2009年)8月1日発行)」の中の「Ⅰー1-3遺跡の現状を記録する」のページに掲載されている小栗鉄次郎の日誌をこのホームページにて紹介する。

昭和3年(1928年)10月17日、高蔵寺町で、瓦の発掘、唐草瓦、巴瓦出土(高蔵寺瓦窯報告書によると、昭和3年(1928年)10月30日、高蔵寺町史編纂委員の水野茂氏と遺跡を実査した。高蔵寺瓦窯について、史跡名勝天然記念物調査会の当初の認識は、寺跡だった。)

昭和5年(1930年)12月13日、京大島田(貞彦)氏、三森(定男)氏、吉田(富夫)氏同行し、上志段味銅剣発見地及び、鳥居(龍蔵)氏がいうメンヒル(メンヒルとは、ヨーロッパ先史時代に建てられた単一で直立した巨石記念物のこと)を見る。長谷川(佳隆)氏の案内にて高蔵寺瓦窯跡、古墳等を見る。

昭和15年(1940年)7月17日、長谷川佳隆氏へ、高蔵寺瓦窯跡発掘に関し、充分注意するように依頼す。

昭和15年(1940年)7月19日、高蔵寺町へ電話をかけ、古瓦窯跡保存の件につき、依頼す。(帰宅後)まもなく、丹羽主税氏来宅。来週の日曜日、高蔵寺において、古窯跡発掘のはずであるが、役場より禁止してほしいと申し出があったと伝えられる。発掘を宣伝することはよくないこと、遺跡を壊滅しないように注意することを話した。

昭和15年(1940年)7月23日、午後に高蔵寺町に電話をかけ、明日、瓦窯跡を見に行くことを申し出る。長谷川佳隆氏が愛知県庁に来て、約1時間話して帰られた。明日会うことを約束した。

昭和15年(1940年)7月24日、9時着、長谷川佳隆氏に迎えられて一緒に役場に行き、兵事社寺主任と会い、同行して、(高蔵寺町)字小吹(にある)瓦窯跡に行き、実測する。磁石を忘れたため、付近で借り、方位を見て、東南より同一個所を2枚と南西より1枚を撮影して、途中、窯業者の家で製品を見て、窯などを見て、役場に帰り、台帳整理、図など調査する。

 瓦窯跡があった高蔵寺町字小吹は、2024年現在の高蔵寺町3丁目にある小吹児童遊園(JR中央本線高蔵寺駅より南、庄内川の北にあり、東谷橋の近く)付近ではないかとこのホームページ管理人は考える。高蔵寺瓦窯跡は、昭和15年(1940年)名古屋郷土研究会の調査で、瓦窯であることが明確になり、小栗鉄次郎氏は、従来の成果をまとめて、報告した。高蔵寺瓦窯跡で出土した瓦類は、藤原宮(5世紀には天皇の后が住み、7~8世紀には、天武天皇の妃である持統天皇が藤原の地(奈良県橿原市周辺)に宮殿を建てた。藤原京は、奈良時代に平城京が建てられる以前の日本の首都だとされる。)で使用された瓦と関連が深く、戦後、同じ木型を用いて製作された製品の存在も明らかになる。

2024年4月12日15時12分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社祠の前の写真

 高座山頂上にあった高蔵毘沙門天尊跡が高蔵神社の中にあるのかどうか、このホームページ管理人にはわからない。しかし、このホームページ管理人は、高蔵神社の石造物が、今から100万年前くらいに隆起した後の東海湖周辺の姿ではないかと考える。今から約300万年前に宇宙から来たかっぱたちが造った東海湖だったが、今から約100万年前、富士山や御嶽山や室生火山群などの噴火に伴って、東海湖が隆起し、海が熱田神宮の南まで迫ってきて、伊勢湾や三河湾ができ、知多半島は、海に浮かぶ島になった、と、このホームページ管理人は考える。従って、この写真に写る祠は、熱田神宮であるとこのホームページ管理人は考える。

 この写真の右端に祠が写るが、この写真の祠の左側が南で、写真には写っていないが、写真の祠の右側が北方向である。この写真の向こうが西で、手前が東方向である。従って、この写真に写る、祠の前を南に向かって点在する石は、伊勢湾方面にある知多半島の島々であるとこのホームページ管理人は考える。この写真の左端に切れて写る石は愛知県知多郡美浜町の野間海岸あたりであるとこのホームページ管理人は考える。石は、この写真の左端向こうから左端手前に向かって、円を描くように並べられていて、この写真の手前の左端に切れて写る石が愛知県知多郡美浜町の河和海岸あたりではないかとこのホームページ管理人は考える。つまり、この写真の向こうが伊勢湾で、この写真に写っていないが、手前が三河湾であるとこのホームページ管理人は考える。この石が誰かの手によって移動されていないことを祈る。

2024年4月12日15時13分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社祠の前2の写真

 この写真の中央より左寄りに祠が写るが、この写真の祠の向く方向が南で、写真の祠の後ろ側が北方向である。この写真の向こうが西で、手前が東方向である。この写真の祠の前から、円を描くようにこちらに向かってくる石の列は、知多半島の三河湾側の島々(知多郡東浦町とか愛知県半田市とか知多郡武豊町とか知多郡美浜町河和など)であるとこのホームページ管理人は考える。この写真に写る祠の後ろ側に写る石の山は、熱田神宮より北側の隆起した東海湖であると、このホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時13分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の周辺の写真

 この写真に写る祠の右側が東で左側が西で、祠の後ろが北である。祠の後ろに写る石の山は、この写真の左側に向かって徐々に高くなっていって、急にかくんと崖になって落ちる。この写真の祠の後ろに写る石の山の左端は、養老山地と琵琶湖であるとこのホームページ管理人は考える。今から100万年前頃、琵琶湖も東海湖と共に隆起したとしたら、2024年現在ある琵琶湖は、生き残ることができたかっぱたちが造った人造湖ということになると、このホームページ管理人は考える。そして、養老山地は、2024年現在も隆起を続けている。

2024年4月12日15時14分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠のアップ写真

 この写真に写る祠は南を向いている。つまり、この写真の右側が東で、左側が西で、祠の後ろが北方向である。この写真に写る祠の扉にあるXの模様は、直違紋(すじかいもん)という家紋のことだとこのホームページ管理人は考える。直違紋(すじかいもん)は、丹羽氏の家紋であるというのがネットの情報だ。丹羽氏が高蔵神社の祠の再建に尽力したのだろうとこのホームページ管理人は考える。では、この写真に写る祠の右隣にある石仏は、何を意味するのだろう。熱田神宮の南東方面に、熱田神宮摂社の鈴御前社(すずのごぜんのやしろ)がある。熱田神宮摂社の鈴御前社(すずのごぜんのやしろ)は、2024年現在の場所に移る前は、正覚寺(熱田神宮の南東方面、国道1号線の北側にある。)の東にあり、南向きに建っていたというのがネットの情報だ。鈴御前社(すずのごぜんのやしろ)の祭神は、雨細女命(あめのうずめのみこと)という女神だ。ということは、この写真の高蔵神社の祠の右側に写るこの石仏は、尼さんか?つまり、熱田神宮の熱田大神が男だとしたら、鈴御前社(すずのごぜんのやしろ)の祭神は熱田大神の奥さんとか?というのが、このホームページ管理人の考えだが、どうだろうか?

2024年4月12日15時14分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の後ろにある石造物を西から撮影した写真

 前の写真の祠の後ろにある石造物を西側(前の写真でいうと、祠の後ろの石造物の左側)から撮影する。この写真の中央より左側にある大きな石造物は、今から100万年前に隆起した東海湖のうちの熱田神宮より北側にある部分のうち、養老山地や琵琶湖や岐阜県部分ではないかと、このホームページ管理人は考える。この写真の大きい石造物の右側に見える半分くらいの大きさの石の部分が、隆起した東海湖の愛知県北部部分(例えば、愛知県犬山市とか愛知県丹羽郡扶桑町とか愛知県江南市とか愛知県一宮市とか愛知県小牧市とか愛知県春日井市とか。)ではないかとこのホームページ管理人は考える。そして、この写真の左側に見える大きい石造物と右側に見える半分くらいの大きさの石の間にある溝のような部分は木曽川ではないかとこのホームページ管理人は考える。この写真の右側にある半分くらいの大きさの石の右側に切れて写る部分は、庄内川が含まれた濃尾平野の部分ではないかとこのホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時14分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物の北側部分を東側から撮影した写真

 この写真の左端に切れて写る石は、前の写真の大きな石造物の一番北側(前の写真でいうと大きな石造物の最も左側)にある部分です。この写真は、前の写真の大きな石造物の北側を撮影した。この写真の中央の標高が高い部分にある石の山(この写真の最も奥にある石の山)が飛騨山脈で、飛騨山脈の南側には御嶽山があり(この写真の最も奥にある石の山の手前にある石)、御嶽山の南側には、岐阜県中津川市がある(この写真の御嶽山と考えられる石の手前に写る左右に平たい石)と、このホームページ管理人は考える。この写真の中央の石の列の左側に、源流から流れる木曽川があるのではないかと、このホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時16分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物を東側から撮影した写真

 この写真には写っていないが、この写真の左側に高蔵神社の祠がある。祠の後ろにある大きな石造物を東から見ると、西から見るのとは違った雰囲気がある。この写真の中央にある大きな石造物は、隆起した東海湖の岐阜県部分と琵琶湖である、とこのホームページ管理人は考える。この写真に写る大きな石造物の左側手前にある半分くらいの大きさの石が隆起した東海湖の愛知県北部部分(例えば、愛知県犬山市とか愛知県丹羽郡扶桑町とか愛知県江南市とか愛知県一宮市とか愛知県小牧市とか愛知県春日井市とか。)ではないかとこのホームページ管理人は考える。そして、この写真の中央より右下斜めに、木の葉や小枝に隠れて、隆起した石の部分が見える。この写真に写る大きな石造物の左側手前にある半分くらいの大きさの石と、その左下に写る三角の石の間を流れるのは庄内川であるとこのホームページ管理人は考える。この写真の中央左下に写る三角の石は、猿投山ではないかと、このホームページ管理人は考える。猿投山の北にあるのは、愛知県瀬戸市だ。

2024年4月12日15時16分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物を南側から撮影した写真

 高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物を南側から撮影する。この写真に写る大きな石造物の左のもっとも上にある石は、隆起した琵琶湖なのではないかと、このホームページ管理人は考える。この写真の琵琶湖の右側にある石は、隆起した養老山地ではないかとこのホームページ管理人は考える。この写真の中央より下に写る半分くらいの大きさの石は、隆起した東海湖の愛知県北部部分(例えば、愛知県犬山市とか愛知県丹羽郡扶桑町とか愛知県江南市とか愛知県一宮市とか愛知県小牧市とか愛知県春日井市とか。)ではないかとこのホームページ管理人は考える。大きな石造物と半分くらいの大きさの石の間には木曽川が流れると、このホームページ管理人は考える。2024年現在、木曽川、長良川、揖斐川は、木曽三川といい、特に木曽川は、岐阜県羽島市周辺から南に向きを変えて、伊勢湾に流れ込む。そして、木曽川は、暴れ川といって、木曽川下流部分は、太古から、その流れる地域を変えてきた。

2024年4月12日15時16分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物の東側を撮影した写真

 この写真の中央左端に切れて写る四角い石が、祠の後ろにある大きな石造物です。この写真は、祠の後ろにある大きな石造物の東側にある石列を撮影している。この写真の石列は愛知県の三河地方に相当するかとこのホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時17分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

前の写真の東側を撮影した写真

 前の写真の東側を撮影する。この写真の場所より東側には、自衛隊基地のフェンスがあり、フェンスの先には進むことができない。この写真の石列は、静岡県に相当すると、このホームページ管理人は考える。つまり、この写真の石列は、富士山をイメージしているのではないかとこのホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時17分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の後ろから祠の北側にある大きな石造物を撮影した写真

 祠と大きな石造物・半分くらいの大きさの石の間には、点々と石が並んでいる。半分くらいの大きさの石の手前に並ぶ石列は、庄内川を越えた名古屋市北区とか西区とか東区ではないかとこのホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時18分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物の東側を撮影した写真

 この写真の左側に切れて写る四角い石造物が隆起した東海湖の内の岐阜県と琵琶湖部分だとこのホームページ管理人は考える。従って、四角い石造物の右側にある石の山は、岐阜県と長野県の間にある飛騨山脈や御嶽山だとこのホームページ管理人は考える。御嶽山や飛騨山脈の山々が噴火したら、隆起した東海湖に住んでいたかっぱたちの多くは、犠牲になるだろうとこのホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時18分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物を撮影した写真

 この写真に写る大きな石造物の最も左側上にちょこんと載っているように見える石(後の写真で、この石は、独立していることがわかる。)が今から約100万年前に隆起した琵琶湖であると、このホームページ管理人は考える。琵琶湖と考えられる石と右隣の石の間には、小さな隙間がある。「最新理科便覧 愛知県版」(浜島書店 2005年12月発行)10ページ~11ページにある「愛知県の生い立ちと化石」によると、今から約300万年前にあった東海湖と古琵琶湖は、今から約100万年前にはなくなり、養老断層ができて、養老断層に沿って、古木曽川が流れていた、となっている。ということは、今から約100万年前に隆起した養老山地は、古琵琶湖を持ち上げて、隆起したのだろうか?つまり、2024年現在になっても隆起を続けている養老山地の頂上には、水がなくなった琵琶湖の底の土があるのだろうか。そして、隆起した琵琶湖の水は、西(この写真の左側)に流れて、盆地にたまり、生き残ることができたかっぱたちが、盆地にたまった水たまりを昔の琵琶湖と同じような形に造っていったのが、2024年現在の琵琶湖であると、このホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時18分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物の東側を撮影した写真

 この写真の左側に切れて写る四角い石造物が祠の後ろにある大きな石造物です。この写真の中央左に切れて写る三角の石が猿投山だとこのホームページ管理人は考える。この写真の中央に写る小さな石のかたまりの後ろあたりから、庄内川がこの写真の左側に向かって流れているのではないかとこのホームページ管理人は考える。猿投山の東は、豊田市なので、この写真の中央の猿投山から右側に行く道は、豊田市永太郎町宮(昔は、小原村といった。)にある星の宮神社に行く道で、この写真の右端に星の宮神社があるとこのホームページ管理人は考える。猿投山から右側に行く細長い部分には、かつて、細長い東海湖があったのだが、約100万年前くらいに隆起したというのが、このホームページ管理人の考えです。

2024年4月12日15時19分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物の東側を撮影した写真

 この写真の中央左に切れて写る四角い石が高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物なので、この写真に写るのは、愛知県三河地方、つまり、この写真の中央に写る石は、三ヶ根山ではないかとこのホームページ管理人は考える。愛知県三河地方は、今から約300万年前は、東海湖が存在していない陸地であったと、このホームページ管理人は考える。だから、かっぱたちが多く居住していたのではないかとこのホームページ管理人は考える。だから、渥美半島には、貝塚が多く分布しているのだと、このホームページ管理人は考える。しかし、今から約100万年前頃、御嶽山や富士山が噴火し、三河地方の土地も様々な場所で隆起したとこのホームページ管理人は考える。三河湾ができたのは、今から約100万年前頃かとこのホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時20分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物のうち古琵琶湖と考えられる石を撮影した写真

 高蔵神社にある祠の後ろにある大きな石造物のうち、最も西(この写真では最も左)にあるこの石は、古琵琶湖とこのホームページ管理人は考える。古琵琶湖と考えられる石は、この写真の右隣にある石との間に細長い隙間を持つ。2024年現在になっても隆起を続けている養老山地の頂上には、水がなくなった古琵琶湖の底の土があるのだろうか。そして、隆起した古琵琶湖の水は、西(この写真の左側)に流れて、盆地にたまり、生き残ることができたかっぱたちが、盆地にたまった水たまりを昔の琵琶湖と同じような形に造っていったのが、2024年現在の琵琶湖であると、このホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時20分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社にある祠の東側にある石列を撮影した写真

 前の前の写真を違う角度から撮影した。この写真に写るのは、愛知県三河地方、つまり、この写真の中央に写る石は、三ヶ根山ではないかとこのホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時20分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社の最も東側にある石列を撮影した写真

 高蔵神社という空間の最も東側にある石列を撮影した。前の写真よりも東側にあり、富士山をイメージしているのではないかとこのホームページ管理人は考える。この写真の場所より東(この写真の場所より右側)には、自衛隊基地のフェンスがあり、この写真の場所より右側(東側)に進むことはできない。

2024年4月12日15時20分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社の最も東側から西側を眺めて撮影した写真

 この写真の中央に写る四角い石造物が、高蔵神社の祠の後ろにある大きな石造物です。高蔵神社の祠はこの写真の左側にあるが、写っていない。この写真に写る四角い大きな石造物の手前にある石列が、隆起した愛知県三河地方であると、このホームページ管理人は考える。富士山をイメージした場所から、隆起した東海湖を見ていると、このホームページ管理人は考える。

2024年4月12日15時20分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社の最も東側から北側を眺めて撮影した写真

 この写真の中央左に切れて写る四角い石造物が高蔵神社祠の後ろにある大きな石造物です。この写真は、高蔵神社の最も東側から北側を眺める。つまり、富士山をイメージした場所から西北方向にある、御嶽山や飛騨山脈を眺めていると、このホームページ管理人は考える。この写真の中央に写るのは、自衛隊基地のフェンスです。

2024年4月12日15時20分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社の祠の後ろにある四角い大きな石造物をすぐ東側から撮影した写真

 この写真の左側に高蔵神社の祠があるが、この写真には写っていない。この写真に写る大きな四角い石造物の右端上にちょこんと切れて写る、小さな四角い石が隆起した琵琶湖であるとこのホームページ管理人は考える。つまり、この写真は、今から約100万年前に隆起した東海湖のうち、岐阜県部分をすぐ東側から見ていると、このホームページ管理人は考える。この写真の隆起した岐阜県部分の左側に隙間(このホームページ管理人は木曽川と考える。)を隔てて、愛知県北部の部分が切れて写る。この写真の左側に祠(このホームページ管理人は熱田神宮と考える。)があるが、この写真には写っていない。

2024年4月12日15時20分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社の祠と祠の後ろにある四角い大きな石造物をすぐ東側から撮影した写真

 この写真の左側、木の左隣に写るのが高蔵神社の祠です。この写真の右側に切れて写るのが、四角い大きな石造物です。高蔵神社の祠は、熱田神宮であるというのがこのホームページ管理人の考えです。この写真の祠の左側にある石仏は、木に隠れて、写っていない。

2024年4月12日15時21分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社の祠から祠の南側を撮影した写真

 高蔵神社の祠の前に立ち、祠の南側を撮影する。この写真に写る石列は、知多半島であるとこのホームページ管理人は考える。この写真の右側に写る石列が、知多半島の伊勢湾側(愛知県常滑市や愛知県知多郡美浜町の野間海岸側)であるとこのホームページ管理人は考える。この写真の左側に写る石列が、知多半島の三河湾側(愛知県知多郡東浦町や愛知県半田市や愛知県知多郡美浜町の河和海岸側)であるとこのホームページ管理人は考える。従って、この写真の左側には、写っていないが、愛知県三河地方があり、この写真の右側には、写っていないが、伊勢湾の隣に、三重県桑名市や三重県鈴鹿市や三重県津市や三重県伊勢市があるとこのホームページ管理人は考える。今から約100万年前、御嶽山や富士山の噴火と共に、東海湖が隆起し、東海湖の南方面にあった海が熱田神宮のすぐ南まで迫ってきて、知多半島にある、標高の高い場所にある主要な街は、海に浮かぶ島になったというのがこのホームページ管理人の考えです。2024年現在は建物が建っているので見ることはできないが、名古屋市という大都市がなかったら、名古屋市熱田区にある宮の渡し公園から南側を眺めると、このような風景を見ることができたのではないかとこのホームページ管理人は考える。そして、今から約300万年前、宇宙から地球に来たかっぱたちは、昔住んでいた星が住めなくなったから、地球に来たとこのホームページ管理人は考える。2024年現在、私たち人類は、地球以外の場所に住むことはできない。

2024年4月12日15時21分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社の最も西側を撮影した写真

 高蔵神社の最も西側には、自衛隊基地のフェンスがあり、フェンスの先に行くことはできない。ここで、航空自衛隊高蔵寺分屯基地(第4補給処高蔵寺支処)の歴史を簡単に説明する。(「玉川小学校HP:校区紹介:校区の歴史と文化財:11高蔵寺工廠と自衛隊分屯基地」と「航空自衛隊高蔵寺分屯基地(第4補給処高蔵寺支処)HP」参照。)

 航空自衛隊高蔵寺分屯基地(第4補給処高蔵寺支処)の前身は、昭和16年(1941年)に創設された高蔵寺工廠(名古屋陸軍兵器補給廠高蔵寺部隊)である。

 昭和12年(1937年)に日中戦争が始まり、昭和13年(1938年)には、国家総動員法が公布され、日本が第2次世界大戦への道を進んでいた昭和14年(1939年)2月11日、愛知県春日井市木附・高蔵寺(岩成・白山)地区の地主が、高座小学校の講堂に集められ、名古屋陸軍第3師団の責任者から説明を聞いたのち、用地買収の文書に強制的に調印させられた。高蔵寺工廠は、高座山の周囲112万94㎡の敷地に本部などの建物と物資集積用の6棟の大型倉庫、砲弾に火薬を詰める作業所、弾薬保管施設などを建てた。高蔵寺工廠の任務は、戦車砲・高射砲・りゅう弾砲などの弾丸に火薬を詰め、保管することであった。高蔵寺工廠では、数百人の作業員が働いていて、作業員の多くは、小牧市、名古屋市、多治見市方面からの通勤者だったが、高蔵寺工廠の中には、遠方から来る作業員のための寮や社宅もあり、学徒動員の学生や朝鮮半島から来た人々も多く働いていた。高蔵寺工廠で、作業中の火薬の爆発事故はなかった。

 昭和20年(1945年)8月、太平洋戦争終戦とともに、高蔵寺工廠(名古屋陸軍兵器補給廠高蔵寺部隊)は解散した。昭和20年(1945年)10月、沖縄から米軍海兵部隊が進駐してきて、高蔵寺工廠弾薬保管施設にあった砲弾の処理作業が始まる。高蔵寺工廠弾薬保管施設にあった、完成した砲弾は、中国への賠償品として、貨車で積み出された。残った火薬は、東谷橋下流の庄内川の河原で燃やして処理された。残った火薬処理の時、地元の人たちが、半ば強制的に火薬処理に駆り出され、火薬処理中に火災が発生して、死傷者が出た。

 弾薬処理が終わった昭和22年(1947年)、米軍は撤退し、旧高蔵寺工廠(名古屋陸軍兵器補給廠高蔵寺部隊)の敷地の一部が、農地として、地元に払い下げられる。昭和23年(1948年)4月、旧高蔵寺工廠(名古屋陸軍兵器補給廠高蔵寺部隊)本部の建物を利用して、小学校や保育園が開かれた。しかし、昭和27年(1952年)に朝鮮戦争が始まると、極東米空軍6414部隊(高蔵寺部隊)が高座山に進駐してくる。米軍は、標高193mの高座山山頂にレーダーサイトを設置して、弾薬の補給基地とした。小学校と保育園は、別の場所に移動した。

 昭和33年(1958年)になると、米軍は撤退し、航空自衛隊が高蔵寺分屯基地として、旧高蔵寺工廠(名古屋陸軍兵器補給廠高蔵寺部隊)の敷地の一部を使用する。航空自衛隊高蔵寺分屯基地は、第4補給処高蔵寺支処といい、航空自衛隊が使う弾薬を保管し、必要に応じて供給する役目がある。米軍が高座山山頂に設置したレーダーサイトを利用して、高蔵寺管制教育分遣隊(第5術科学校第1分校)があったが、平成13年(2001年)7月に閉校となり、高座山山頂にあったレーダーサイトは撤去された。

 航空自衛隊高蔵寺分屯基地(第4補給処高蔵寺支処)は、平成6年(1994年)3月には、補給分位物品管理官が廃止され、平成10年(1998年)4月には、整備補給課の不発弾処理班が東北支処に付け替えになるなど、少しずつ縮小傾向にあるというのがこのホームページ管理人の考えだ。現在の航空自衛隊高蔵寺分屯基地のイベントとしては、8月に行われる盆踊り大会と11月に行われる高座山ハイキングがある。11月に行われる高座山ハイキングは、高座山山頂までの1.2kmのハイキングで、高座山山頂は360度の絶景だ。平成30年(2018年)には、高座山に住む妖精をイメージした「こうぞうZ」というマスコットキャラクターが作られた。11月に行われる高座山ハイキングでは、このマスコットキャラクターが、参加した人々に好評だ。しかし、このホームページ管理人がこのホームページで写真を発表した、高蔵神社の大きな石造物は、航空自衛隊高蔵寺分屯基地(第4補給処高蔵寺支処)の敷地外にあるため、高座山ハイキングのコースには含まれていないと、このホームページ管理人は考える。令和4年(2022年)8月には、航空自衛隊高蔵寺分屯基地(第4補給処高蔵寺支処)の周囲おおむね300mの上空において、小型無線機(ドローン)等の飛行が禁止となった。高蔵神社にて、小型無線機(ドローン)を使用する場合は、航空自衛隊に対して、手続きが必要となる。フェンスを乗り越えて航空自衛隊高蔵寺分屯基地(第4補給処高蔵寺支処)の敷地内に入った場合は、大型犬が隊列を組んで、こちらに向かってくるそうです。

2024年4月12日15時23分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社の最も西側にある自衛隊フェンスから自衛隊敷地内を撮影した写真

 このホームページで発表した高蔵神社の石造物の写真は、今から約100万年前に隆起した東海湖の姿を石造物で表現したとこのホームページ管理人は考える。そして、高蔵神社の石造物の続きは、航空自衛隊の敷地の中に続いているのではないかと、このホームページ管理人は考える。もし、高蔵神社の石造物の続きが航空自衛隊の敷地内まで続いているとしたら、この写真にある航空自衛隊の西側フェンスの敷地内には、今から約100万年前の近畿地方の姿があるのではないだろうか、とこのホームページ管理人は考える。今から約100万年前の近畿地方は、どうなっているのだろう。今から約100万年前、瀬戸内海はあるのだろうか。

2024年4月12日15時23分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵神社石標柱と見晴らし台の間にある山道を撮影した写真

 高蔵神社から出て、見晴らし台まで下る途中の山道に、白くて小さい玉のようなものがたくさん散らばっている。高座山は、水晶が採れる山で、五社大明神社からご来迎の碑までの登山道では、水晶採掘に使用されていた機械や採掘場跡を見ることができるそうです。

2024年4月12日15時29分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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4.五社大明神社

高蔵寺の周辺の地図

(ペイントで書き込んだ地図は、「スーパーマップル東海三県道路地図」(昭文社 2000年7月発行)の50~51ページにある「高蔵寺」を使用した。)

五社大明神社入り口から見る風景の写真

 高蔵寺の北北西方面に五社大明神社があり、五社大明神社からも、高蔵神社に上るルートがある。この写真からもわかるように、五社大明神社は、高座山の中腹にあります。

2024年4月12日13時40分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社入り口の写真

 五社大明神社の中にある「五社大明神社の謂」の石板には、次のことが刻まれている。

 五社大明神社の社伝は明らかではないが、祭神がいずれも尾張氏の祖神であることから推して、その創立の古いことが知られる。創立当初の位置は不明である。明応2年(1493年、明応の政変が起こった年で、明応の政変以降、室町幕府の将軍家が2つに分かれる。明応の政変が戦国時代の始まりであるとする学者もいる。)再建の棟札があり、大永8年(1528年、織田信長が生まれる6年前で、徳川家康の実母である於大の方が生まれた年)に今の地に遷宮されたと伝えられるも、いずれの地からか、不詳である。更に、承応4年(1655年、江戸幕府4代将軍徳川家綱の時代)にも再建されたという。(「東春日井郡誌」(大正12年(1923年)編纂)754ページ「村社 五社大明神社」によると、承応4年(1655年)には、高座山頂上にある高蔵神社も再建されている。)明治45年(1912年)日吉社、大正7年(1918年)高蔵社及び厳島社が合祀された。昔、熱田神宮の高倉明神を祀っていたので、高倉地と呼ばれた。また、熱田高蔵宮(現在の高座結御子神社)の奥宮であったとも伝えられる。

 以上の「五社大明神社の謂」の内容から、このホームページ管理人が解く謎は、2つある。謎その1は、五社大明神社創立当初の位置はどこか?謎その2は、誰が、どのような目的で、五社大明神社を愛知県春日井市高蔵寺町まで移動させたのか?このホームページ管理人は、この2つの謎を解く鍵は、「東春日井郡誌」(大正12年(1923年)編纂)754ページ「村社 五社大明神社」にある「五社大明神社の祠官は、水野氏。」という一文にあると考えている。つまり、五社大明神社は、水野氏が管理している神社なのだ。では、水野氏とは誰か?このホームページ管理人は、水野氏こそが、今から約300万年前に宇宙から地球に下り、東海湖を造ったかっぱたちのリーダーたちの一人の末裔であると考える。

 現在、このホームページ管理人の頭の中に水野氏は二人いる。

 一人目の水野氏は、保元の乱(1156年)・平治の乱(1160年)頃、入尾城(愛知県瀬戸市鹿乗町)を築城した平景貞で、平景貞は、入尾城(愛知県瀬戸市鹿乗町)に来てから水野太平太と名乗り、水野氏(桓武平氏)の始祖となった。また、平景貞は、愛知県知多郡美浜町(野間海岸の周辺)に住む長田氏の支流であると言われる。

 二人目の水野氏は、愛知県知多郡東浦町(知多半島の付け根の東部周辺)に住む水野氏だ。愛知県知多郡東浦町は、徳川家康の実母である於大の方が生まれた地で、於大の方は、水野氏から松平氏に嫁いで、徳川家康を産んだ。従って、愛知県知多郡東浦町の水野氏は、徳川幕府の運営に深く携わることになる。

 この二人の水野氏が、全く別人なのか、それとも、同じ一族なのかは、これからの東海湖の調査で明らかになってくるとこのホームページ管理人は考える。水野氏を調査することは、今から約300万年前に存在した東海湖を調査することであるとこのホームページ管理人は考える。そして、現段階では、入尾城(愛知県瀬戸市鹿乗町)を築城した平景貞を祖とする水野氏と愛知県知多郡東浦町の水野氏は同じであるとこのホームページ管理人は考える。現段階では、二人の水野氏が同じ一族で、愛知県知多郡東浦町から愛知県岡崎市周辺にあった神社を高座山中腹に持ってきたとこのホームページ管理人は考える。愛知県春日井市にある高座山は、昔は、もっと、一般人が入ることができない山だったとこのホームページ管理人は考えるので、高座山の中腹に神社を遷座させることができるのは、よほどの権力者だとこのホームページ管理人は考える。

 また、五社大明神社の中には、「五社大明神社の謂」の石板とは別に、五社大明神社の祭神を刻んだ石板がある。「五社」大明神社なので、祭神は5つ、主祭神と共に祀られる神が2つある。

 五社大明神社の祭神は、スサノオノミコト(ヤマタノオロチを退治して、草薙剣を手に入れ、天照大御神に献上した。)と大碓尊(ヤマトタケルの双子の兄で、猿投山に陵墓がある。)とヤマトタケルと菊理比売尊(イザナキとイザナミの仲を取り持つ縁結びの神様)と天目一個尊(製鉄(鍛冶)の神様で、目が一個だった。天にいる目が一個の神様という意味だとこのホームページ管理人は解釈した。今から300万年前、宇宙から地球に来て、東海湖を造ったかっぱたちは、目が二つとは限らなかったとこのホームページ管理人は考える。目が1つのかっぱや、目が3つのかっぱや、3つ以上目があるかっぱもいたが、進化の過程で、目が2つになったと、このホームページ管理人は考える。)の5つである。相殿神(主祭神と共に祀られるようになった神様)は、高倉地命(尾張氏の祖で、神武天皇東征で神武天皇を助けた。高い倉の主で、貯蔵した穀物を守り、穀物の豊かさを保証する神様というネットの情報もある。)と大巳貴命(大国主のことで、出雲大社の祭神は、大国主大神)の2つです。

2024年4月12日13時40分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社入り口の横にある石碑の写真

 五社大明神社の入り口に向かって左側横に、駐車場方面を表側に見て、開墾記念碑の石碑が建つ。開墾記念碑の裏側が神社側を見る。開墾記念碑の裏側の写真が次の写真です。

2024年4月12日13時42分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社入り口の横にある石碑の裏側の写真

 前の写真の開墾記念碑の裏側が五社大明神社側を見る。開墾記念碑の裏側には、「食糧危機突破事業 昭和21年(1946年)5月建 区長 水野愛三代」と刻まれている。昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終戦を迎えるが、物資不足が深刻で、日本政府から配給される食糧や生活必需品は、配給が滞り、人々は、飢えに苦しんだ。日本政府は、食糧危機に対して、GHQ(連合国総司令部)に食糧輸入の承認を求めた。昭和21年(1946年)2月、米軍の余剰食糧である小麦粉が日本に引き渡された。世界各国やユニセフ、国際NGOからも様々な援助を受け、日本は、食糧危機を回避することができた。五社大明神社の周辺に住む人々は、食糧危機を突破するため、神社周辺を開墾して、畑や田にして、食糧を作ったのではないかとこのホームページ管理人は考える。

2024年4月12日13時41分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社本殿に上る途中の風景の写真

 五社大明神社本殿に上る参道には、左右に様々な神様の祠や石碑を見ることができる。様々な神様の祠や石碑を見ながら参道を登っていくのは楽しい。

2024年4月12日13時45分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社厳島社と山神社の写真

 この写真の真ん中に写る大きい祠が厳島社で、この写真の祠の左側に写る小さい石碑が山神社の石碑です。厳島社の総本山は、広島県廿日市市にある厳島神社である。広島県廿日市市の厳島神社のある厳島には、島の中央に、弥山という標高535mの神体山がある。弥山の山頂には、巨石が連なっていて、山岳信仰の対象であったと言われている。これは、五社大明神社と高蔵神社の関係に似ていると、このホームページ管理人は考える。厳島社は、大正7年 (1918年)に、高蔵社と共に、五社大明神社に合祀された。

2024年4月12日13時45分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の中にある下総国宗吾大明神拝礼所と刻まれた石碑の写真

 五社大明神社の参道を上っていく途中で、「下総国宗吾大明神拝礼所」と刻まれた石碑を見つけた。17世紀中ごろ(江戸時代前期)、下総国佐倉藩領(現在の千葉県佐倉市周辺)に佐倉惣五郎という義民がいた。佐倉惣五郎は、佐倉藩領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために、東京上野にある寛永寺に参詣する徳川幕府4代将軍徳川家綱に直訴した。直訴の結果、佐倉惣五郎の訴えは聞き届けられた。しかし、佐倉惣五郎夫妻は磔となり、男子4人も死罪となる。その後、下総国佐倉藩領主堀田氏は改易となり、徳島へ配流となった。

 このホームページ管理人は、五社大明神社だけではなく、愛知県春日井市や小牧市など多くの場所で、「下総国宗吾大明神」と刻まれた石碑を見た。つまり、「下総国宗吾大明神」の伝説は、千葉県佐倉市から遠く離れた愛知県に伝わっていて、愛知県周辺の人々は、皆、この伝説を知っていたということになる。江戸幕府と御三家尾張藩は、これほどまでに、密接なつながりを持っていたのだ。徳川家康の実母である於大の方は、水野氏から松平氏に嫁いで、徳川家康を産んだということが、尾張藩が徳川幕府御三家筆頭に選ばれた理由の一つであるとこのホームページ管理人は考える。

2024年4月12日13時47分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の中にある蚕霊尊と刻まれた石碑の写真

 茨城県神栖市日川900にある蚕霊山千手院星福寺には、蚕霊尊「馬鳴菩薩」が祀られている。星福寺には、金色姫の伝説がある。継母に疎まれた金色姫は、獅子吼山に捨てられるが、獅子に乗って帰ってきてしまう。次に、継母は、金色姫を鷹群山に捨てるが、鷹に育てられて都に戻ってくる。次に、継母は、金色姫を海眼山という島に捨てるが、金色姫は漁夫に助けられ、都に戻る。次に継母は、庭に深く穴を掘って、金色姫を埋めるが、継母は、土中から光明が輝くのを恐れて、桑の木を彫って作ったウツロ船に金色姫を乗せて、海に流す。この船は、日本にある常陸国(現在の茨城県)豊良湊に流れ着き、付近に住む人が金色姫を助けて、介抱するが、金色姫は亡くなる。金色姫の霊魂は蚕になった。そして、脱皮前の蚕が動かなくなることを、獅子の眠、鷹の眠、庭の眠、船の眠とたとえるようになった。

 茨城県神栖市日川720(星福寺のすぐ近く)にある蚕霊神社には次のような伝説がある。紀元前286年(孝霊天皇5年)の3月、豊浦浜(茨城県神栖市日川)の漁夫権太夫が、沖に漂う木船を引き上げると、船の中に美しい少女が倒れていた。少女は天竺(インド)の王様の娘で、金色姫といった。茨城県神栖市の日川地区は、欽明天皇の時代(6世紀中ごろ)に金色姫がインドより養蚕を伝えた養蚕発祥の地とされる。

 享和3年(1803年で、江戸時代)3月26日、常陸国(現在の茨城県)の原舎の浜(ネットの情報では、現在の茨城県舎利浜)に奇妙な形状の船が流れつき、船の中には、女性が一人乗り込んでいた。その女性の背の高さは、約151cm、色は青白く、眉毛と髪が赤黒く、歯は白く細かい。約60cm四方の箱を持っていて、手放そうとしない。船の中には謎の文字があった。(このホームページ管理人は、ネットに流れるその文字を見たとき、韓国語のハングルに似ていると思った。)このことを、ネットでは、江戸のUFO目撃情報虚舟漂着事件という。

 このホームページ管理人は、五社大明神社の中にある蚕霊尊と刻まれた石碑や山神社と刻まれた石碑の雰囲気が、愛知県知多郡東浦町にある水野氏の菩提寺である宇宙山乾坤院から少し離れた場所にあった「宇宙山乾坤院」と刻まれた石碑に似ていると思った。

2024年4月12日13時48分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の中にある手水鉢の写真

 五社大明神社の本殿に上る途中の参道右側に、この写真の手水鉢がある。この手水鉢は、石をくりぬいて作っているようだ。しかし、不思議な形の手水鉢だ。手水鉢のある祠の屋根真ん中に雲のような模様がある。このホームページ管理人は、この手水鉢がUFOに似ている気がしてならない。

2024年4月12日13時48分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の中にある八幡社の写真

 五社大明神社の参道にある祠の中で、この八幡社の祠を覆う大きな祠が目立つ。このホームページ管理人には、五社大明神社参道にある祠の中で、この写真の八幡社の祠が最も立派に見える。しかも、この写真の八幡社の祠は、他の祠に比べて、五社大明神社の本殿のあるスペースに最も近く、五社大明神社の参道の最も上にある。そして、五社大明神社の参道の最も上にある八幡社の祠を見て、このホームページ管理人が思い浮かぶ八幡社は、愛知県瀬戸市鹿乗町にある八幡神社だ。愛知県瀬戸市鹿乗町にある八幡神社は、入尾城跡に建てられている。保元の乱(1156年)・平治の乱(1160年)頃、入尾城を築城した平景貞は、水野太平太と名乗り、水野氏(桓武平氏)の始祖となった。そして、入尾城跡にある八幡神社には、「河伯」と彫られた石碑がある。つまり、五社大明神社の参道にある祠や石碑を見ながら本殿まで上っていくと、愛知県瀬戸市の水野氏(桓武平氏)と愛知県知多郡東浦町にいる水野氏は、同じ水野氏ではないかとこのホームページ管理人には思えるのだ。しかし、もし、愛知県瀬戸市の水野氏(桓武平氏)と愛知県知多郡東浦町にいる水野氏が違う水野氏であるとする力が働いたとすれば、それは、徳川家康の実母である於大の方の実家の水野氏が桓武平氏(しかも、知多郡美浜町に住む長田氏は、源頼朝の父である源義朝暗殺で有名で、長田氏の支流が桓武平氏の水野氏である。)であってはまずいとする力が働いた結果だとこのホームページ管理人は考える。徳川家康は、源頼朝を尊敬していたと言われ、本姓に「源氏」を使用していたこともあった。(Wikipedia「徳川家康」参照。)

2024年4月12日13時50分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の本殿前にある透き塀の写真

 前の写真の八幡神社の祠から、更に、本殿前のスペースに上ると、本殿前のスペースには、まず、透き塀がある。透き塀の向こうに本殿がある。この時点で、このホームページ管理人は、何とも言えない神社の圧力を感じる。

2024年4月12日13時50分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の拝殿に向かって右側の風景の写真

 五社大明神社の拝殿の向こうに本殿があり、拝殿に向かって右側のスペースには、二十二夜の石碑がある。五社大明神社の二十二夜石碑の一番上にある廿の字が十の字を横に2つ並べて作られている。このホームページ管理人には、二十二夜石碑の一番上にある廿の字が、十字架を2つ並べて作られているように見える。十字架を2つ並べて作られているように見える二十二夜石碑を、このホームページ管理人は、愛知県小牧市の大山廃寺跡の近くにある苗田山で見た。愛知県小牧市の大山廃寺跡の近くにある苗田山の二十二夜石碑と愛知県春日井市の五社大明神社拝殿前にある二十二夜石碑は何か共通点があるとこのホームページ管理人は考える。

 二十二夜とは、月齢の二十二夜のことで、二十二夜の月齢の夜に飲食を共にした後、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという行事を行った講中(仲間組織)があった。二十二夜講中(仲間組織)は、ほとんどが女人講で、群馬や埼玉を中心に、宮城・福島・新潟・長野・岐阜・愛知にも分布する。

 五社大明神社にある祠や石碑には、女性であるとか、キリスト教徒であるとか、外国人であるとか、江戸時代(17世紀から19世紀)では弱者であった者たちに関するものが多いとこのホームページ管理人は考える。つまり、徳川家康の実母である於大の方や実家の水野氏は、江戸時代の弱者に目を向けていたのではないかとこのホームページ管理人は考える。もしかしたら、江戸時代から明治維新(1867年ごろ)に向かう世の中の動きを影で牽引してきたのは、徳川家康の実母である於大の方や実家の水野氏であったのではないかとこのホームページ管理人は考える。つまり、江戸時代から明治維新(1867年ごろ)に向かう世の中の動きを影で牽引してきたのは、尾張藩ではないかとこのホームページ管理人は考える。

2024年4月12日13時51分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の拝殿に向かって右側にある二十二夜石碑の写真

 前の写真にある二十二夜石碑だけをアップして撮影する。2024年4月12日13時51分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の拝殿の写真

 五社大明神社の拝殿です。拝殿の前の賽銭箱にある家紋は五七桐紋で、普通に考えると、豊臣秀吉の家紋です。水野氏の家紋とは違う。(なお、ネットの情報では、愛知県瀬戸市の水野氏(桓武平氏)の家紋と愛知県知多郡東浦町の水野氏(徳川家康の実母である於大の方の実家)の家紋は、細部が違うだけで、基本的には同じ沢瀉紋である。)拝殿の後ろに本殿がある。2024年4月12日13時52分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の拝殿内部の写真

 五社大明神社の拝殿入り口に内部をのぞくことができる箇所がある。そこから、五社大明神社拝殿内部を撮影した。この写真の拝殿の奥に本殿がある。2024年4月12日13時52分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の拝殿と本殿の写真

 五社大明神社拝殿に向かって左側から、五社大明神社の拝殿と拝殿の奥にある本殿を撮影する。2024年4月12日13時53分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の中にある御嶽山神社の写真

 五社大明神社の拝殿に向かって左側のスペースには、御嶽山神社がある。この写真の御嶽山神社の右側に切れて写る建物は五社大明神社の本殿です。

 ところで、このホームページ管理人は、愛知県春日井市、小牧市などで多くの御嶽神社を見てきたが、五社大明神社の拝殿に向かって左側のスペースにある御嶽山神社は、見た目は御嶽神社なのだが、石碑をそれぞれ見ると、少し違う。江戸時代後期(18世紀)に御嶽山を一般庶民に開放した普寛行者の石碑や石像に交じって、○○大神と彫られた石碑がいくつか存在する。そのうちの一部をここで紹介する。

 この写真の一番上に写る「御嶽山神社」と彫られた石碑の一段下左端には、「三笠山大神」と彫られた石碑が見える。三笠山は、群馬県多野郡上野村にある霊山で、木曽御嶽信仰の主神の1つである三笠山大神を祀る。また、御嶽山神社と彫られた石碑の右下には、「忠兼大神」と彫られた石碑が見える。「忠兼」をネットで検索すると、大久保忠兼という江戸時代の旗本(大名の下の殿様)の名前が出てくる。大久保忠兼は、静岡県中部で5000石を知行した旗本で、大久保玄蕃知行所3代目当主である。もしかしたら、愛知県知多郡東浦町の水野氏(徳川家康の実母である於大の方の実家)の信頼できる部下が、大久保忠兼で、大久保忠兼は、熱心な御嶽信仰の信者であったかもしれない、と、このホームページ管理人は考える。また、「御嶽山神社」と彫られた石碑の一段下にある祠の右側には、石碑の上半分に「御嶽大神」という文字が見える。(「御嶽大神」の下半分は、木々に隠れて読むことができない。)「○○大神」は、このホームページ管理人が東海湖関係の遺跡を調査しているときによく目にするものだ。

 今から約300万年前にかっぱたちが造った東海湖だったが、今から約100万年前、御嶽山や富士山などの噴火によって、東海湖は壊れ、海が熱田神宮前まで迫ってきたとこのホームページ管理人は考える。今から約100万年前に噴火して東海湖を壊し、かっぱたちを絶滅寸前まで追い込んだ御嶽山は、生き残ったかっぱたちによって、恐るべき山として、あがめられてきたのではないだろうか、と、このホームページ管理人は考える。

2024年4月12日13時54分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の中にある宮城遥拝所と刻まれた石碑の写真

 五社大明神社の拝殿に向かって右側に進むと、宮城遥拝所と刻まれた石碑が建っている。この石碑の向かって右側面には、昭和19年(1944年)1月建之と刻まれている。宮城遥拝とは、特に、第2次世界大戦中に、天皇への忠誠と戦意高揚を図る目的で、東京にある皇居の方向に向かって敬礼する行為である。東京にある皇居の方向は、この写真の右側です。

 ところで、この写真の宮城遥拝所と刻まれた石碑から写真の奥に向かって道がある。この道は、高蔵神社に続く道である。この写真に写る道を奥に進むと、「入山禁止」の看板と結界を示す縄がこのホームページ管理人の胸あたりの場所に張られていて、「入山禁止」の看板と結界を示す縄の場所をくぐって右側に進むと、水晶鉱山の跡を見ながら、ご来迎の碑のある場所に着くというのがネットの情報です。このホームページ管理人は、第2次大戦中に五社大明神社を守る水野氏の心の中には、高蔵神社の磐座があったような気がして仕方がない。水野氏の心の中の宮城とは、高蔵神社の磐座のことであるとこのホームページ管理人は考える。

2024年4月12日13時56分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の中の最も奥の写真

 前の写真の宮城遥拝所と刻まれた石碑から写真の奥に向かってある道を進んでいくと、左手に津島社の祠を見てから、この場所に突き当たる。この写真には写っていないが、この写真の右側に「入山禁止」の看板がある。この写真の結界を示す縄は、このホームページ管理人の胸あたりの場所に張られている。「入山禁止」の看板と結界を示す縄の場所をくぐって、山の稜線に沿って、この写真の右側に進むと、水晶鉱山の跡を見ながら、ご来迎の碑のある場所に着くというのがネットの情報です。つまり、この結界を示す縄の先は、名古屋市熱田区にある高座結御子神社の奥宮である高蔵神社の磐座です。2024年4月12日14時02分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の中の最も奥にある入山禁止の看板の写真

 前の写真に向かって右側には、この写真に写る入山禁止の看板がある。このホームページ管理人は、五社大明神社奥にある結界を示す縄と入山禁止の看板を見て、何となく圧力を感じ、また、虫が多いこともあって、この縄をくぐって先に進むことができなかった。虫が多いこの感じは、愛知県小牧市にある大山廃寺跡がある山と同じ感じだとこのホームページ管理人は思った。高蔵寺墓地から高座山遊歩道を進んで高蔵神社に行く方が、行きやすいとこのホームページ管理人は思った。2024年4月12日14時02分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

五社大明神社の本殿がある場所から出た場所から望む景色の写真

 五社大明神社の本殿を出てから、この風景を撮影した。この写真の左側から中央にかけて延びる緑の山すそは、東谷山の山すそです。東谷山には、守山古墳群という古墳がたくさん存在している。この写真の東谷山の手前には庄内川が流れているはずだが、この写真には、はっきり写っておらず、この写真の左側に東谷橋と考えられる橋の頭の部分が写っている。(拡大するとわかる。)このホームページ管理人は、この写真を撮影した後で、高蔵寺に行き、高蔵寺墓地から高座山遊歩道を通って、高蔵神社へ向かった。2024年4月12日14時09分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

5.春日井市玉野町周辺

今回訪れる東海湖のほとり

(ペイントで書き込んだ東海三県の地図は、「スーパーマップル東海三県道路地図」(昭文社 2000年7月発行)の見開きのページにある「東海主要部索引図」を使用した。)

春日井市玉野町周辺の地図

このホームページ管理人がペイントで作成した、愛知県春日井市玉野町周辺の略図です。

 このホームページ管理人の考えは、次の通りだ。

 今から約300万年前、愛知県春日井市にある高座山は、東海湖の南端にあり、高座山より北側は東海湖が広がっていた。従って、今から約300万年前、高座山より南側から愛知県瀬戸市の水野川北側までは、陸地で、東海湖を造った、宇宙から来たかっぱたちが多く居住していたとこのホームページ管理人は考える。しかし、今から約100万年前、御嶽山や富士山や室生火山群が噴火したことなどにより、高座山から北側は隆起して、高座山より標高が高くなり、東海湖はなくなってしまった。宇宙からきて東海湖を造ったかっぱたちは、絶滅寸前の状態となった。

 しかし、土地が隆起して東海湖はなくなってしまったが、東海湖に由来する水たまりのような池は、高座山より北側に点在したとこのホームページ管理人は考える。例えば、愛知県小牧市大草にある太良上池や太良下池などから流れ、庄内川に注ぐ八田川は、東海湖にゆかりのある場所である。このホームページ管理人は、春日井市都市緑化植物園の中にある大久手池は、東海湖由来の水たまりのような気がしてならない。そして、大久手池から流れ、庄内川に注ぐうぐい川は、東海湖由来の川である気がしてならない。

 従って、「5.春日井市玉野町周辺」のページで、このホームページ管理人は、庄内川からうぐい川をさかのぼって、春日井市木附町、外之原町、細野町を通り、春日井市都市緑化植物園の中にある大久手池までの間にある文化財を紹介しながら、東海湖について考えたいと思う。

<5-1>高蔵寺第5号墳

高蔵寺5号墳と高蔵寺工廠周辺の地図

 このホームページ管理人がペイントで作成した高蔵寺5号墳と高蔵寺工廠周辺の地図です。

高蔵寺5号墳と3つの石碑

 このホームページ管理人は、春日井市植物園にある大久手池から流れ、庄内川に注ぐうぐい川周辺の文化財を説明するにあたって、最も基盤になる文化財が高蔵寺第5号墳であると考える。高蔵寺第5号墳と3つの石碑を観察すると、今から約300万年前に高座山より北側にあった東海湖を造った宇宙人の一端が垣間見える。

 高蔵寺第5号墳の向きと3つの石碑の向きは、異なる。3つの石碑が東を向いていることに対して、高蔵寺第5号墳は、北東方向を向いている。「春日井古墳散策マップ(春日井市教育委員会文化財課 令和2年(2020年)発行)」と春日井市立玉川小学校ホームページの校区紹介のページによると、高蔵寺第5号墳は、次のようである。

 高蔵寺第5号墳は、昭和47年(1972年)に春日井市教育委員会によって発掘調査された。高蔵寺第5号墳は南西方向に入り口がある横穴式石室の円墳で、羨道(棺を置く玄室と古墳外部を結ぶトンネル状の道)の長さは3.3mあった。棺を置く玄室は、長さ4.7m、最大幅2.2mあった。古墳から出土した遺物は、須恵器5種類19点の他、鉄の刀・矢・馬具・金環などの金属製品7種17点が確認された。遺物の出土状況から、高蔵寺第5号墳は、複数回の使用があったと考えられる。

 上の写真は、2025年3月7日16時3分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。この写真に写る、高蔵寺第5号墳と3つの石碑の背後にある山は、東谷山で、守山古墳群がある。

高蔵寺5号墳近くにある3つの石碑

 高蔵寺第5号墳の近くには、3つの石碑や木がある。この写真に写る3つの石碑は、写真の手前から、御所中明神石碑、竣工記念碑、頭の葉の部分に穴の開いた木の陰に隠れて玉川大神石碑が並んでいる。3つの石碑は、東の方向を向いていて、頭の葉の部分に穴の開いた木は、高蔵寺第5号墳と同じ北東方向を向いている。御所中明神石碑・竣工記念碑・玉川大神石碑は、3つとも同じ昭和56年(1981年)4月に建てられている。このホームページ管理人は、御所中明神石碑・竣工記念碑・玉川大神石碑は、区画整理で、高蔵寺第5号墳周辺の土地を正確に東西南北に分けて田園にしたときに建てられたものであると考える。

 上の写真は、2025年3月7日15時41分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。3つの石碑の背後に写る山は、東谷山で、守山古墳群がある。東谷山と3つの石碑の間には、庄内川が流れるが、この写真には写っていない。

高蔵寺5号墳近くにある御所中明神石碑

 高蔵寺5号墳近くにある3つの石碑のうち、最も農道側にあるのは、御所中明神石碑です。このホームページ管理人は、「御所中明神」と聞くと、五社大明神社を思い出す。五社大明神社といえば、水野氏です。この石碑も水野氏と関係があるのかと考えてしまう。

 この写真の御所中明神石碑に向かって右側に建てられた説明板に書かれた内容を要約すると、次の通りです。

 足利尊氏率いる北朝方と後醍醐天皇率いる南朝方が戦っていた南北朝時代(14世紀)、吉野に逃れた後醍醐天皇が亡くなると、後醍醐天皇の女官「なか媛」(御所中様の事)は、南朝に味方していた人達を頼って、各地をさまよった。そして、なか媛は、後醍醐天皇の後継者で、征夷大将軍でもあった宗良親王が信濃(長野県)の飯田で南朝方をまとめる噂を聞く。なか媛は、35名ほどの家来と共に、宗良親王のもとに向かうべく、玉野川(庄内川)を船でさかのぼった。途中、なか媛は、玉野の南屋敷に住む知り合いの旧家に宿泊する。しかし、なか媛を見張っていた北朝方が闇討ちを仕掛け、なか媛の家来は次々と討ちとられ、なか媛も自害をして果てる。しかし、なか媛の家来たちの中で、二人の家来が、北朝方の襲撃から逃げ延び、玉野に戻ってくる。玉野に戻ってきた二人の家来たちは、北朝方によるなか媛(御所中様)闇討ちの事実を後世に伝え、なか媛や家来たちの霊を慰めた。北朝方に襲撃されたなか媛と家来たちの位牌は、太平寺に安置されている。(ふるさとの会)

 さて、後醍醐天皇の女官なか媛(御所中様)を見張っていた北朝方とは、誰だろう。なか媛たちが襲撃された愛知県春日井市玉野町から最も近い場所にある北朝方は、愛知県瀬戸市鹿乗町にある八幡神社にゆかりのある水野氏だろう。水野氏は、南北朝時代(14世紀)、一族が生き延びるため、一族の中で南朝方と北朝方に分かれ、それぞれ、功績をあげたと言われる。

 南北朝動乱は、想像以上に人間関係ドロドロの内戦だったとこのホームページ管理人は考える。後醍醐天皇が亡くなった直後から、北朝方に寝返る南朝方も相当多かったとこのホームページ管理人は考える。もしかしたら、愛知県瀬戸市鹿乗町にある八幡神社の水野氏と後醍醐天皇の女官なか媛は知り合いだったのかもしれない。そして、水野氏は、なか媛を生きた姿のまま、北朝方に差し出すつもりだったのかもしれないとこのホームページ管理人は考える。なか媛は、自分たちが味方だと思っていた水野氏が自分たちを襲ってきたことに気が付いて、裏切りによる絶望の果てに自害したのかもしれないとこのホームページ管理人は考える。しかし、水野氏も一族を守らなければならないという思いがある。「御所中明神」の石碑を見ながら、このように考えるこのホームページ管理人であった。

 上の写真は、2025年2月14日13時50分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

高蔵寺5号墳近くにある竣工記念碑

 竣工記念碑は、3つの石碑の真ん中に位置している。3つの石碑の中では、最も高さがあり、唯一長方形の石碑だ。この石碑には、「玉野地区圃場整備事業 竣工記念碑 衆議院議員 丹羽兵助書」と刻まれている。丹羽兵助氏は、衆議院議員丹羽秀樹氏の祖父である。丹羽氏といえば、愛知県犬山市にある大県神社だが、大県神社の祖神は、大県大神である。大県大神と玉川大神は仲間なのだろうか?

 上の写真は、2025年2月14日13時50分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

高蔵寺5号墳近くにある玉川大神石碑

 高蔵寺第5号墳と最も近い位置にあるのが玉川大神石碑だ。従って、高蔵寺第5号墳に埋葬されていた人々は、玉川大神の子孫たちであるとこのホームページ管理人は考える。そして、玉川大神は、今から約300万年前に東海湖を造った宇宙から来たかっぱたちのリーダーの一人であったという話の流れで、以下の写真を見ていこう。

 上の写真は、2025年2月14日13時49分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

玉川大神石碑と高座山

 高座山頂上近くにある高蔵神社の石造物は、玉川大神たちの子孫が造ったとこのホームページ管理人は考える。玉川大神たちは、宇宙からきて、今から約300万年前に東海湖を造り、今から100万年前に御嶽山や富士山や室生火山群の噴火などによって、東海湖はなくなり、自分たちは、絶滅寸前に追い込まれたことを後世の人々に伝えたかったのだとこのホームページ管理人は考える。

 上の写真は、2025年2月14日13時50分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

玉川大神石碑が見る風景

 玉川大神石碑が見る東方向を撮影した。この写真の右下に写る石は、高蔵寺第5号墳の石です。玉川大神石碑が見ているのは、愛知県瀬戸市にある定光寺方面の山々です。この風景の先に定光寺があり、愛知県瀬戸市下半田川町がある。愛知県瀬戸市にある定光寺には、初代尾張藩主徳川義直の墓がある。玉川大神が生きた今から約300万年前は、愛知県春日井市玉野町から愛知県瀬戸市下半田川町に至る地域一帯は、玉川大神の支配地域であったのではないかとこのホームページ管理人は考える。(愛知県瀬戸市下半田川町については、このホームページの「2.東海湖のほとりの姿(このホームページ管理人の見解)」の中の「2.かっぱの腕のひじの上」の中の「★愛知県瀬戸市北部地域(愛知県瀬戸市北部を流れる水野川より北側)」で詳しく記述する予定です。)

 ところで、愛知県瀬戸市にある定光寺に墓がある初代尾張藩主徳川義直の父親が徳川家康であり、徳川家康の母親が於大の方で、於大の方の実家が水野氏である。高座山ふもとにある五社大明神社が水野氏が守る神社であることからも、江戸時代(17世紀から19世紀)に愛知県春日井市玉野町から愛知県瀬戸市下半田川町に至る地域一帯は、水野氏の影響力が大きかったとこのホームページ管理人は考える。玉川大神の子孫は水野氏で、水野氏は、江戸時代(17世紀から19世紀)に徳川幕府の幕閣として、権力の中枢にいた、と、このホームページ管理人は考える。

 上の写真は、2025年2月14日13時52分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

玉川大神石碑の隣にある木

 玉川大神石碑と竣工記念碑の間に、頭の葉の密集する部分の真ん中に穴が開いた木がある。この木の向きは、玉川大神石碑と違って、北東方向を向いている。この木の向きは、高蔵寺第5号墳の向き(高蔵寺第5号墳は、開口部が南西方向で、玄室(棺を納めた場所)が北東方向)と同じである。

玉川大神石碑の隣にある木の穴の中からのぞいた風景

 玉川大神石碑の隣にある木の頭にある葉が密集した場所に開けられた穴の中からのぞいて撮影した風景です。外枠の葉にスマホレンズの焦点があってしまって、風景はうまく撮影できません。2025年3月7日15時42分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

玉川大神石碑の隣にある木の前から見た風景1

玉川大神石碑の隣にある木の前から見た風景2

玉川大神石碑の隣にある木の前から見た風景3

玉川大神石碑の隣にある木の前から見た風景4

 上の4枚の写真は、玉川大神石碑の隣にある木の前に立って、木の葉が密集した部分に空いた穴の方向に向かって、撮影した風景の写真です。写真は、4枚とも2025年3月7日15時43分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影したもので、上から撮影した順番に写真が並んでいます。2枚目の写真と3枚目の写真は、右上端に写った白いものにスマホレンズのピントが合って、風景がぼけている。2枚目の写真と3枚目の写真の右上端に写った白いものは何だろう。この写真を撮影したとき、高蔵寺第5号墳の南西開口部あたりに小さい虫が集まって飛んでいたが、その虫の集団からはぐれた虫かな。この写真に写る北方向は左側で、南方向は右側です。

 ところで、高蔵寺第5号墳から北東方向には、御嶽山がある。そして、高蔵寺第5号墳が地上に姿を現す冬から春にかけて、高蔵寺第5号墳の北東方向の夜空に見えるのは、北斗七星だ。北斗七星は、北極星の周囲を回っていて、高蔵寺第5号墳が草葉の陰に隠れる夏から秋にかけて、高蔵寺第5号墳の北東方向の夜空に見えるのは、カシオペア座だ。(「星座を見つけよう」参照)北斗七星もカシオペア座も北極星を見つける目印となる星だ。北極星は、地球軸の傾きによって、約25,800年で元に戻る。2025年現在の北極星は、こぐま座α星だが、紀元前12,000年頃は、こと座α星であったというのが、Wikipedia北極星からの情報だ。今から約300万年前の北極星はどこの星だったのだろう。しかし、このホームページ管理人が他の地域の東海湖の調査をしていると、火星という星から来たという神社もある。この地球上に今から約300万年前に現れた宇宙人は、複数の星からやってきているのではないかというのが、現段階でのこのホームページ管理人の考えです。

高蔵寺第5号墳を北側から見る。

 この写真の右端に、木の葉が密集した頭の部分に穴が開いた木が写っている。この木の向きと高蔵寺第5号墳の向きは同じだ。つまり、この写真に写る高蔵寺第5号墳の左側に棺を納める玄室があり、この写真に写る高蔵寺第5号墳の右側に開口部があり、羨道というトンネルがあって、玄室につながっていた。2025年3月6日13時33分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

高蔵寺第5号墳の南西にある開口部から玄室を見る。

 高蔵寺第5号墳の南西にある開口部から玄室を見ると、定光寺などがある瀬戸の山々の上に北東方向の空を見上げることができる。2025年3月6日13時34分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

高蔵寺第5号墳の南西にある羨道から玄室を見る。

 高蔵寺第5号墳がまだ存在していたころ、トンネルであった羨道から棺が納めてある玄室を見ている。2025年3月6日13時35分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。2025年現在は、この写真に写る定光寺などがある瀬戸の山々の上に北東方向の空を見上げることができる。

高蔵寺第5号墳の玄室の石壁を見る。

 古墳の石壁は、どの古墳を見ても、何か絵が描かれているような気がするとこのホームページ管理人は考える。2025年3月6日13時35分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

高蔵寺第5号墳を北東方向から見る。

 高蔵寺第5号墳が円墳であることが最もよくわかるのは、高蔵寺第5号墳を北東方向から眺めた時だとこのホームページ管理人は考える。この写真に写る高蔵寺第5号墳の右側に木の葉が密集した頭の部分に穴が開いた木が写っている。この木の向きと高蔵寺第5号墳の向きは同じだ。この写真の高蔵寺第5号墳の背後に見える山は東谷山で、東谷山の中には守山古墳群がある。この写真に写る東谷山の前には庄内川が流れているが、この写真には写っていない。2025年3月6日13時39分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

高蔵寺第5号墳の北東方向から玄室を見る。

 高蔵寺第5号墳の北東方向から玄室に近づいて、高蔵寺第5号墳の玄室の中を撮影する。2025年3月6日13時37分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。この写真の高蔵寺第5号墳の背後には東谷山が写る。

高蔵寺第5号墳の石壁のアップ写真

 高蔵寺第5号墳の玄室の中に入り、北東方向に向かって左側の石壁を撮影する。なんか、絵が描いてあるような気がする。2025年3月6日13時35分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

高蔵寺第5号墳の石壁のアップ写真2

 前の写真に写る高蔵寺第5号墳の石壁の向かいの石壁を撮影する。2025年3月6日13時35分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

高蔵寺第5号墳の玄室

 高蔵寺第5号墳の玄室を撮影する。高蔵寺第5号墳の玄室からの眺めは、定光寺がある瀬戸市の山々の上に北東方向の空が広がる。2025年3月6日13時42分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

夏から秋にかけての高蔵寺第5号墳の玄室

 夏から秋にかけて、高蔵寺第5号墳は草むらの中です。この写真は、高蔵寺第5号墳の玄室です。2022年9月12日16時25分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

夏から秋にかけての高蔵寺第5号墳の玄室の石壁

 高蔵寺第5号墳の玄室の北東方向に向かって左側の石壁です。夏から秋にかけて高蔵寺第5号墳を訪れると、高蔵寺第5号墳が古墳であることがこの部分でわかる。2022年9月12日16時26分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

夏から秋にかけての高蔵寺第5号墳の玄室の石壁2

 前の写真の向かいにある高蔵寺第5号墳の玄室の石壁です。2022年9月12日16時26分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

夏から秋にかけての高蔵寺第5号墳の様子

 北東方向から見た高蔵寺第5号墳の様子です。2022年9月12日16時28分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

夏から秋にかけての高蔵寺第5号墳の様子2

 北側から見た高蔵寺第5号墳です。2022年9月12日16時29分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

夏から秋にかけての玉川大神石碑の様子

 夏から秋にかけて、玉川大神石碑も草葉に覆われます。2022年9月12日16時29分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した。

<5-2>高蔵寺工廠跡

高蔵寺5号墳と高蔵寺工廠周辺の地図

 このホームページ管理人がペイントで作成した高蔵寺5号墳と高蔵寺工廠周辺の地図です。

 「郷土誌かすがい第25号(昭和59年(1984年)12月15日発行)HP版 ふるさとの歴史 工廠(梶田久忠(春日井郷土史研究会会員)著)」によると、昭和12年(1937年)に日中戦争が始まり、昭和14年(1939年)に第2次世界大戦が始まると、愛知県春日井市鳥居松・鷹来・西山・高蔵寺には、次々と大規模な軍需工場(造兵廠)が造られた。つまり、昭和14年(1939年)以降、終戦となる昭和20年(1945年)までの間、愛知県春日井市内は、全域にわたって、軍需産業の街になった。従って、2025年現在、愛知県春日井市内に自衛隊基地が多いのは、そのような歴史の展開の結果である。これからこのHPで紹介する高蔵寺工廠跡は、昭和14年(1939年)に始まり、昭和16年(1941年)に完成し、昭和20年(1945年)8月に解散した名古屋陸軍兵器補給廠高蔵寺部隊の遺跡である。名古屋陸軍兵器補給廠高蔵寺部隊は昭和20年(1945年)8月の終戦とともに解散したが、その建造物は、全てなくなったわけではなく、所々にその残骸を残していると、このホームページ管理人は考える。このホームページは、HP春日井市立玉川小学校校区紹介「11 高蔵寺工廠と自衛隊分屯基地」の記述を参考にして、作りました。

 高蔵寺工廠は、高座山のふもと、春日井市玉野町から木附町に至る間に造られた。その広さは、112万9000㎡(東京ドーム約24個分)あり、本部などの建物と6棟の大型倉庫、砲弾に火薬を詰める作業所、弾薬保管施設などがあった。高蔵寺工廠には、南入口と北出口の2つの門があった。(つまり、高蔵寺工廠内に入る者は、南から入り、北へ出る一方通行だった。)五社神社南東部に弾薬木箱の集積場があり、名古屋陸軍が使用する火薬や砲弾などの物資は、引き込み線を使って専用列車で運ばれた。

 名古屋陸軍は、当初、現在のJR高蔵寺駅付近から高座山を抜けるトンネルを掘る予定だった。しかし、時間がかかるため、現在のJR中央線から分岐して、愛知県春日井市玉野町を通り、愛知県春日井市木附町に至る専用線を建設し、専用列車にて、使用する火薬や砲弾などの物資を運ぶことにした。専用線は、全長2.8kmあり、JR中央線から分岐して、愛知県春日井市玉野町と愛知県春日井市木附町でうぐい川にかかる2つの鉄橋を渡って、高蔵寺工廠のプラットホームに入るルートだった。専用列車は、機関車D51の半分の大きさのC11が使用された。弾薬以外の資材は、馬車やトラックでも運ばれた。

 火薬や砲弾などの物資を運ぶ専用列車が現在のJR中央線から分岐する分岐点には信号所があり、助役以下3~4人の駅員がいて、ポイントの切り替えを行っていた。当時の中央線は単線で、1日約13本の列車が走っていたが、列車のすれ違いができる場所が現在のJR大曽根駅と現在のJR多治見駅のみであった。そこで、名古屋陸軍は、現在のJR神領駅と池田(現在のJR古虎渓駅)に信号所を建設し、列車の待避場とした。

 火薬や砲弾などの物資を運ぶ専用列車が現在のJR中央線から分岐する分岐点から高蔵寺工廠のゲートに入ると、2つのプラットホームがあり、これを挟んで、5本の線路があった。火薬や砲弾などの物資は、専用線からトロッコに積み替えて、奥の作業所へ運ばれた。プラットホームの北側(現在の愛知県春日井市木附町にある自衛隊官舎付近)には、転車台(機関車の方向転換所)があり、数人がかりで、機関車C11の乗った転車台を押して回していた。

 高蔵寺工廠の専用線の建設や停車場での砲弾の積み下ろし作業は、愛知県春日井市玉野町と木附町から多くの人が勤労奉仕で動員された。高蔵寺工廠の専用線は、昭和20年8月15日の終戦以降は、昭和32年(1957年)まで使用された。その後、愛知県春日井市玉野町の区画整理により、昭和42年(1967年)に専用線は撤去された。

高蔵寺第5号墳のある場所から玉野町側の高蔵寺工廠跡に向かう。

 愛知県春日井市玉野町側にある高蔵寺工廠跡を見に行くときのベースキャンプは、高蔵寺第5号墳です。高蔵寺第5号墳を出て、西に見える高座山を目指して歩きます。この写真の正面に見える山が高座山です。この写真に写る道を右に向かう。2025年2月14日13時54分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺第5号墳のある場所から玉野町側の高蔵寺工廠跡土台1に向かう。

 この写真の道をまっすぐ進むと徒歩約5分で隣をJR中央線が走るバス通りに出る。隣をJR中央線が走るバス通りに出たら、左折して、徒歩約3分でうぐい川橋に着く。うぐい川橋を渡ってすぐ、玉野町側の高蔵寺工廠跡土台1が左手に見えます。2025年2月14日13時55分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

うぐい川橋

 うぐい川橋に着いた。この写真に写るうぐい川橋の手前を右に入るとJR中央線のうぐい川橋梁です。うぐい川橋を渡って左手に玉野町側の高蔵寺工廠跡土台1と墓地が見える。2025年2月14日14時00分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

うぐい川橋梁

 JR中央線のうぐい川橋梁です。ここを見るのは、後程にして、先に、うぐい川橋を渡って、玉野町側の高蔵寺工廠跡土台1と墓地を見ることにします。2025年2月14日14時00分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

うぐい川橋梁を走るJR中央線の電車

 うぐい川橋梁を走るJR中央線の電車です。この写真の右方向にJR多治見駅があり、この写真の左方向にJR高蔵寺駅がある。従って、この電車は、JR高蔵寺駅に向かう電車です。うぐい川橋を渡った直後にある玉野町側の高蔵寺工廠跡土台1と墓地の前から撮影した。2025年2月14日14時15分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

玉野町側の高蔵寺工廠跡土台1と墓地

 うぐい川橋を渡ってすぐ、左側を見るとこの風景です。この写真に写る玉野町側の高蔵寺工廠跡土台1の向こうに墓地があり、墓地の向こうにうぐい川が、この写真の左側から右側に向かって流れる。うぐい川は、この写真の右側で庄内川に合流するが、この写真には写っていない。この写真に写る墓地の場所には、かつて、玉野古墳群という多くの古墳があった。つまり、高蔵寺工廠の火薬や砲弾などの物資を運ぶ専用列車が現在のJR中央線から分岐する分岐点にある信号所は、玉野古墳群を見下ろす場所にあったということになる。そして、JR中央線から分岐する分岐点にある高蔵寺工廠の専用線の信号所は、うぐい川が庄内川に注ぐ庄内川の場所まで続いており(上の地図の土台1と土台2)、かなり大規模だ。2025年現在、高蔵寺工廠跡土台1と土台2は、(株)八洲の所有となっているようだ。この写真の中央に写る山は東谷山で、東谷山の中には守山古墳群がある。2025年2月14日14時16分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台1から見る高座山とJR中央線

 高蔵寺工廠跡土台1に背を向けて、高座山とJR中央線を撮影する。このホームページ管理人は、高蔵寺工廠跡土台1は、高蔵寺工廠専用線の信号所の施設であると考える。そして、高蔵寺工廠専用線の信号所は、まるで、JR中央線を通過する電車を見張っているようだとこのホームページ管理人は考える。第2次世界大戦中、JR中央線に乗車する乗客は、高蔵寺工廠を見ることができたのだろうか。2025年3月6日13時51分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地と高蔵寺工廠跡土台1

 前の写真の場所から振り返って、これから、かつて玉野古墳群のあった墓地まで、階段を下りていきます。この写真の中央部の左から右にうぐい川が流れている。うぐい川は、この写真の右側で庄内川に注ぐが、この写真には写っていない。この写真の中央に写る山は東谷山で、東谷山の手前に庄内川が流れている。2025年3月6日13時52分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地へ続く階段から見る高蔵寺工廠跡土台1

 墓地へ続く階段を下りながら、右手に高蔵寺工廠跡土台1を眺める。この写真に写る高蔵寺工廠跡土台1の隣の木の向こうに、さらに大きい高蔵寺工廠跡土台2がある。2025年3月6日13時52分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地へ続く階段から見るJR中央線

 墓地へ続く階段を一歩下りたところで、振り返って、JR中央線を撮影する。この写真の右側に進むとJR多治見駅で、左側に進むとJR高蔵寺駅です。この写真の階段の左側に写るコンクリートの土台が高蔵寺工廠跡土台1です。2025年3月6日13時52分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台1

 墓地へ続く階段を下りながら、右手に見る高蔵寺工廠跡土台1です。このホームページ管理人は、高蔵寺工廠跡土台1は、高蔵寺工廠専用線がJR中央線と分岐する場所にある信号所の施設だと考える。2025年3月6日13時53分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地に下りる階段

 墓地まで階段を下りて、今来た道を振り返る。この写真の階段の左側に、写っていないが、高蔵寺工廠跡土台1がある。この写真の階段の右側にも高蔵寺工廠専用線の信号所跡か何かの施設が建っていたのだろう。この写真に写る階段の右側にある雑木林の右側を、向こうから手前に向かってうぐい川が流れる。2025年3月6日13時54分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の風景1

 墓地に下りてきました。墓地の入り口近くには、「この墓苑内で工事をされる業者の方々へ 玉野墓苑使用規則17条の定めにより、工事をされる場合は、必ず下記まで連絡してください。玉野墓苑管理委員会」の看板がある。かつて玉野古墳群のあったこの墓地は、地元の方々にとても大切にされているようだ。この写真の看板の後ろに写る柵の向こうにうぐい川が流れる。2025年3月6日13時54分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の入り口から見た高蔵寺工廠跡土台1

 墓地の入り口から高蔵寺工廠土台1へ入ることはできない。というより、危ないので、入らない方がいい。高蔵寺工廠土台1は、墓地の近くにある会社の(株)八洲の所有であるようだ。(株)八洲は、この墓地の建設にも関与したとこのホームページ管理人は考える。この写真の左側に切れて写っていないが、この墓地に眠る人々の中のリーダー的存在とこのホームページ管理人が考える人の墓がある。その墓の写真は、後程出てきます。2025年3月6日13時54分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の入り口から見た高蔵寺工廠跡土台1

 前の写真の続きで、墓地の入り口から見た高蔵寺工廠土台1です。2025年3月6日13時54分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の入り口にある墓

 墓地の入り口にあり、墓地の中で一番目立つ墓です。この写真に写る墓の後ろに見えるのは、高蔵寺工廠土台1です。墓碑銘には次のように刻まれている。

「川地白江守員致(1780~1867)

本名 豊吉

18歳にして、諏訪の名匠立川和四郎に師事。玉野秋葉神社(郷土誌かすがいによると、五社神社境内にある。)、内々神社、五社神社、太平寺千体仏、経堂、観音堂、祇園山車等を手がける。その業績により、水野代官所から白江守の位を受ける。」

 水野代官所とは、愛知県瀬戸市中水野町にあった代官所で、瀬戸市立水野小学校校門横に「水野代官所跡」の石碑がある。

 天明元年(1781年)に尾張藩によって行われた「天明の改革」で誕生した代官制度により、従来の国奉行制度に代わり、領内を分割して治める代官制度として、水野代官所がおかれ、春日井郡と美濃国の一部を含む111か村6万石余りを治めた。初代代官は、瀬戸市水北町にあった御林方奉行所の水野正恭奉行が兼任した。水野代官の下に補佐4人の手代と各地の番人を監督する8人の同心がいた。明治維新により、水野代官所は、慶応4年(1868年)7月に廃止となった。

 「郷土誌かすがい第32号HP版(昭和63年(1988年)3月15日発行)」の中の「郷土探訪 立川流建築と春日井(伊藤浩(市文化財保護審議会委員)著)」によると、川地白江守は、名を豊吉員致(かずむね)といい、玉野村(現在の愛知県春日井市玉野町)の川地伊之右衛門の長男に生まれた。技工を好み、修行中に、偶然、内々神社の改修にあたっていた立川富棟に弟子入りして、高弟の一人となった。文政2年(1819年)に官(水野代官所)より白江守の名を授けられた。慶応3年(1867年)10月10日88歳で死去した。

 つまり、天明元年(1781年)の1年前の1780年に生まれた川地豊吉員致は、幕末の江戸時代を生きた。川地豊吉員致は、宮大工となって、活躍し、39歳のとき、水野代官所から白江守の位を授けられた。そして、慶応3年(1867年)10月10日88歳で死去した。慶応3年(1867年)10月14日に大政奉還があり、時代は明治時代となる。白江守の位を授けた水野代官所は、慶応4年(1868年)7月に廃止となった。ところで、水野代官所が授けた名前の中の「白江」は、うぐい川のことだろうか?

2025年3月6日13時55分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の入り口にある墓の墓石

 前の写真の墓石を見ると、「藤原氏川地白江守員致」と刻まれている。このホームページ管理人は、この墓石の「藤原氏」に注目した。南北朝時代、後醍醐天皇が亡くなって、後醍醐天皇の側近なか媛一行が、愛知県春日井市玉野町で、北朝方からの闇討ちにあい、なか媛は、35名ほどの家来と共に、討たれた。なか媛一行が闇討ちにあった場所に建てられた墓碑銘の中に、藤原氏は何人かいた。このホームページ管理人は、愛知県春日井市内において、平安時代(8世紀末から12世紀末)以降、菅原氏と藤原氏の争いがあったと考えている。(Facebook「ご近所文化部記者クラブa版」参照してください。)そして、愛知県春日井市玉野町は南朝方で、南朝方は藤原氏と関係がある。

 また、幕末(19世紀)を生きた「藤原氏川地白江守員致」は、水野氏の配下にいる。このホームページ管理人は、水野氏は、尾張藩にいて、明治維新に深く関わったと考えている。「藤原氏川地白江守員致」は、水野氏と共に、明治維新に深く関わったのではないか、と、このホームページ管理人は考える。

2025年3月6日13時55分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の中にある石仏

 前の写真の墓碑銘付き墓に向かって左隣にこの写真の石仏が並んでいる。この写真の石仏の左の先にうぐい川が流れ、その先で庄内川に合流するが、この写真には写っていない。この写真に写る石仏の後ろに高蔵寺工廠土台1が写り、高蔵寺工廠土台1の後ろに高座山が写っている。2025年3月6日13時55分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の中の風景1

 墓地の中にある墓です。この写真の墓の向こうに写る柵の向こう側をうぐい川が流れる。2025年3月6日13時56分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の中の風景2

 この写真の墓の向こうに写る柵の向こう側をうぐい川が流れる。2025年3月6日13時56分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の外側を流れるうぐい川1

 うぐい川は、墓地の外側をぐるっと回るように流れています。2025年3月6日13時57分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の外側を流れるうぐい川2

 墓地の外側をぐるっと回るように流れるうぐい川は、墓地の端(高蔵寺工廠跡と考えられる建物跡の周辺)からは、向こう側に流れを変えて、庄内川に合流していきます。2025年3月6日13時57分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の外側を流れるうぐい川3

 うぐい川は、この写真に写る五輪塔と高蔵寺工廠跡と考えられる土台1と墓地の境界の柵のあたりから、この写真の左側に向かって、その流れを変えて、庄内川と合流していく。2025年3月6日13時57分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の中で最も目立つ墓1

 墓地の中で最も目立つこれは、石仏と墓石をピラミッドのように積んで、できている。この写真の墓石のピラミッドの向こうに見えるのが、高蔵寺工廠跡土台1です。2025年3月6日13時57分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の中で最も目立つ墓2

 前の写真の墓石と石仏のピラミッドを正面から撮影する。2025年3月6日13時59分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

墓地の入り口の様子

 これから、墓地を出て、階段を上って、JR中央線と隣り合わせに走るバス通りに出たら、この写真の左側に進んで、高蔵寺工廠跡土台2を見に行きます。この写真の中央より左側に写るのは、「藤原氏川地白江守員致」と刻まれた墓石と墓碑銘です。「藤原氏川地白江守員致」と刻まれた墓石と墓碑銘の向こうに高蔵寺工廠跡土台1が写っている。2025年3月6日14時00分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台1

 前の写真の場所から、階段を上って、JR中央線と隣り合わせに走るバス通りを左側に向かい、高蔵寺工廠跡土台1を過ぎたあたりから、振り返って、高蔵寺工廠跡土台1を撮影する。この写真の道の左側にはJR中央線が写る。墓地は、この写真の右側にあるが、切れて写っていない。高蔵寺第5号墳は、この写真の中央に写る竹林の向こう方面にある。2025年3月6日14時03分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台1と墓地

 高蔵寺工廠跡土台1を過ぎたあたりから、振り返って、高蔵寺工廠跡土台1と墓地を撮影する。この写真の墓地の向こうに写る柵の向こうをうぐい川が流れる。この写真の中央に写る高い山は東谷山で、東谷山の前を庄内川が流れるが、この写真には写っていない。2025年3月6日14時03分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

バス通りから見るうぐい川

 高蔵寺工廠跡土台2へ向かう途中、高蔵寺工廠跡土台1を過ぎたあたりのバス通りの左側には、うぐい川が流れる。2025年3月6日14時03分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

うぐい川に下りる道

 前の写真の場所から、高蔵寺工廠跡土台2へ向かう途中、ガソリンスタンドがあり、ガソリンスタンドの手前にうぐい川に下りる道がある。このホームページ管理人は、このガソリンスタンドも高蔵寺工廠の名残がある気がしてならない。2025年3月6日14時04分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

うぐい川に下りる石の階段と河鹿橋1

 前の写真の場所から更に道を下りると、道は石の階段になり、石の階段は、うぐい川にかかる河鹿橋(かじかはし)に続く。2025年3月6日14時09分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

うぐい川に下りる石の階段と河鹿橋2

 この写真に写る橋は、うぐい川にかかる河鹿橋(かじかはし)です。この写真の橋の下にはうぐい川が流れている。この写真の右側がうぐい川下流で、この地点の先で、庄内川に合流する。この写真の左側はうぐい川上流で、高蔵寺工廠跡土台1と墓地に続く。2025年3月6日14時05分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

河鹿橋1

 「郷土誌かすがい第75号 平成28年(2016年)11月1日 HP版」の中の「春日井の橋名に発するもの」(桜井芳明(春日井市文化財保護審議会会員)著)に「河鹿橋(かじかはし)玉野町」についての記述がある。その記述を要約すると次の通りです。

 幕末(19世紀中頃)の話だとこのホームページ管理人は考える。江戸時代(17世紀から19世紀)には、河鹿橋(かじかはし)はまだなく、河鹿橋(かじかはし)周辺に住む地元の人々は、岩づたいにうぐい川を渡っていた。ある時、雨で増水したうぐい川を無理に渡ろうとした旅人が、増水したうぐい川の急流に流されて、水死するという事故が2件続いた。この事故を悲しんだ飼野に住む文吉は、自分のお金で、長さ15mの欄干の付いた堅牢な橋を架けた。これが河鹿橋(かじかはし)である。文吉の功績は、水野代官所(天明元年(1781年)に尾張藩によって設置され、明治維新・大政奉還後の慶応4年(1868年)7月に廃止となった代官所)に聞こえ、文吉は、水野代官所から褒美を受けた。

 明治時代(19世紀から20世紀)に入り、県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)が建設され、うぐい川橋ががかかると、河鹿橋(かじかはし)の利用は激減した。その後、昭和25年(1950年)に愛知県春日井市玉野町一帯が「愛知県立玉野川公園」に指定された。河鹿橋(かじかはし)は、庄内川とうぐい川の中州に造成された公園に入る主要経路となった。昭和29年(1954年)、文吉の造った欄干の付いた橋は撤去され、コンクリート製の河鹿橋(かじかはし)が架けられた。これが、2025年現在にうぐい川にかかる河鹿橋(かじかはし)である。

 その後、行楽地としてにぎわった河鹿橋(かじかはし)周辺だったが、やがて、来遊者も減少し、竹林や雑木林が目立つようになる。2025年現在、庄内川とうぐい川の中州は、土壌がよく、平らな土地であるので、「玉野ふるさと農園」となっている。昔は、河鹿橋(かじかはし)で、玉野の精霊流しをしていたが、現在は、河鹿橋(かじかはし)よりもうぐい川上流にかかる「ふもと橋」で、玉野の精霊流しが実施されている。

 河鹿橋(かじかはし)の橋名の由来は、谷川の岩間に住む「カジカガエル」である。カジカガエルは、体の色が暗褐色で、後ろ脚に吸盤があり、オスは、美声を発するという。もしかしたら、江戸時代(17世紀から19世紀)には、愛知県春日井市玉野町にある河鹿橋(かじかはし)周辺には、カジカカエルが生息していたのかもしれないとこのホームページ管理人は考える。

2025年3月6日14時06分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。この写真の中央に写る高い山は東谷山で、東谷山の前を庄内川が流れている。

河鹿橋から下流を見る。

 河鹿橋から下流を見ると、庄内川が流れている。庄内川は、この写真の正面に写るうぐい川との合流地点で、この写真の左から右へ流れている。現在は、ふれあい橋で行われている玉野の精霊流しは、昔は、この写真に写る地点で行われていたとこのホームページ管理人は考える。2025年3月6日14時06分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

河鹿橋から上流を見る。

 河鹿橋から上流を見ると、この写真では木々に隠れて見えないが、高蔵寺工廠土台1と昔は玉野古墳群だった墓地がある。2025年3月6日14時06分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

河鹿橋から見るガソリンスタンド

 これから、かじか橋から県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)に戻って、高蔵寺工廠跡土台2を目指します。この写真の正面に写るガソリンスタンドも、高蔵寺工廠跡を利用して造られているとこのホームページ管理人は考える。この写真の正面のガソリンスタンドは、一般の人も利用できるのか、(株)八洲の所有なのか、このホームページ管理人にはわからない。この写真の右側がうぐい川の上流で、左側がうぐい川の下流(庄内川との合流地点)です。この写真の正面に写る階段を上った場所に県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)がある。2025年3月6日14時07分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台2

 かじか橋から階段を上って2分で県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)に着いたら、左折して、徒歩2~3分で、高蔵寺工廠跡土台2に着きます。高蔵寺工廠跡土台2は、現在は、(株)八洲所有の駐車場になっている。そして、高蔵寺工廠跡土台2は、高蔵寺工廠跡土台1の2倍以上の広さがある。そして、高蔵寺工廠跡土台2が終わる飼野のバス停付近に、JR中央線から高蔵寺工廠跡に入る専用列車の引き込み線があったようだ。従って、高蔵寺工廠跡土台1と高蔵寺工廠跡土台2を合わせた、このホームページ管理人の想像以上に大きな高蔵寺工廠専用線信号所がこの周辺にあった。2025年3月6日14時13分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台2

 この写真の中央に写る山は東谷山です。東谷山は守山古墳群という古墳が密集している山で、東谷山の頂上には、尾張戸神社がある。尾張戸神社は、ヤマトタケルノミコトの奥さんであるミヤズヒメが創建したと言い伝えられ、守山古墳群は、尾張氏の古墳群であると言われている。そして、庄内川を挟んで、北側にある高座山と南側にある東谷山が向かい合っているというのが、愛知県春日井市高蔵寺町から玉野町にかけての風景の特徴となっている。

 今から約300万年前に宇宙から地球に飛んできて、東海湖を造り、愛知県春日井市高蔵寺町から玉野町、愛知県瀬戸市にかけての地域を治めてきた水野氏は、時代が古墳時代(4世紀から6世紀)に入ると、尾張氏に対するあこがれがあったのではないかとこのホームページ管理人は推測する。尾張氏は、大和朝廷と組んで、東国や西国を平定しようと動いていた。大和朝廷の時代(古墳時代4世紀から6世紀)は、水野氏にとって、尾張氏は、越えられない存在だったのではないか。

 その後、時代が展開していき、水野氏が尾張氏と同程度の権力を握るのは、江戸時代(17世紀から19世紀)となる。そして、江戸時代(17世紀から19世紀)から明治時代(19世紀から20世紀)へと時代を支えてきた水野氏は、昭和時代(20世紀)に入ってからも権力を維持し続け、昭和12年(1937年)に日中戦争が始まり、昭和14年(1939年)に第2次世界大戦が始まると、戦争を推進していく立場にあった(ただし、昭和20年(1945年)8月15日の終戦以降にGHQによって行われた東京裁判で処刑されるほどの立場ではない。)のではないかとこのホームページ管理人は考える。つまり、高蔵寺工廠を建設したのは、水野氏であるとこのホームページ管理人は考える。

2025年3月6日14時15分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台2

 2025年3月6日14時15分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台2

 2025年3月6日14時16分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台2から見る庄内川

 高蔵寺工廠跡土台2を奥に入っていくと、庄内川が見える。この写真の庄内川は向こうから手前に流れている。この写真の中央に見える高い山は東谷山です。うぐい川は、この写真の中央の左側の木の陰から庄内川に合流する。この写真の中央より左側にせり出した土地がうぐい川と庄内川の中州です。2025年3月6日14時13分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台2から見る庄内川とうぐい川

 この写真の中央左側にうぐい川が庄内川に合流する地点が写っている。つまり、高蔵寺工廠専用線信号所は、うぐい川が庄内川に合流する地点から、うぐい川に沿って、昔は玉野古墳群だった墓地までの地点に建っていたとこのホームページ管理人は考える。2025年3月6日14時13分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台2が終わる地点にある飼野のバス停

 高蔵寺工廠跡土台2は、飼野のバス停付近で終わっている。飼野のバス停付近にJR中央線から分岐する高蔵寺工廠専用線の引き込み線があった。この写真のバス停の右側が県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)で、この写真に写る県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)の右側にJR中央線があるが、この写真には写っていない。高蔵寺工廠専用線の引き込み線は、この写真には写っていないが、県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)の右側にあるJR中央線から、この写真の右側に入っていく。2025年3月6日14時17 分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台2が終わる地点の向かい側にある飼野のバス停

 前の写真の場所から、県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)を渡り、再び、高蔵寺第5号墳の方向に戻った場所にある飼野のバス停です。この写真に写るバス停の右側にあるのが県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)です。この写真のバス停の左側には民家がある。その民家の左側(つまり、民家の奥)に、写真に写っていないが、JR中央線が走っている。高蔵寺工廠専用線の引き込み線は、この写真の場所の左側にあるJR中央線を左側に入っていくとこのホームページ管理人は考える。この写真のバス停の右側に写る県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)の右側に写っているのが、高蔵寺工廠土台2です。この写真の正面に遠く写る山は、定光寺がある愛知県瀬戸市の山々です。

2025年3月6日14時19分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

高蔵寺工廠跡土台2

 前の写真の場所から、更に、高蔵寺第5号墳の方向に戻った場所から眺める高蔵寺工廠土台2です。この写真の中央に写る道は、県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)で、県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)の右側に高蔵寺工廠土台2が写る。この写真の中央に見える山は東谷山です。2025年3月6日14時20分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

JR中央線に向かう道

 高蔵寺第5号墳の方向に戻る途中、前の写真を撮影した周辺で、左側に入る道を見つけた。この写真に写る道を入っていくと、民家があり、民家の奥にJR中央線が通る。高蔵寺工廠専用線の引き込み線は、このあたりから、JR中央線の向こう側に入っていくとホームページ管理人は考える。2025年3月6日14時20分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

民家の奥を通るJR中央線

 前の写真の場所から奥へ進んだ突き当りは、このようになっている。民家のすぐ後ろをJR中央線が走る。JR中央線名古屋駅多治見駅間は、列車の本数が多い。特に、朝夕は、5分間隔で電車が通る。この写真に写る電車は貨物車のようだ。高蔵寺工廠専用線の引き込み線は、このあたりから、JR中央線の向こう側に入っていくとホームページ管理人は考える。2025年3月6日14時21分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)と高蔵寺工廠跡土台2

 前の写真の場所から、県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)に戻り、道の向こう正面にある高蔵寺工廠跡土台2を見る。2025年3月6日14時21分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)と高蔵寺工廠跡土台2

 前の写真の場所から更に高蔵寺第5号墳の方面に戻った場所(前の写真の道を左側に進む。)から見る県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)と高蔵寺工廠跡土台2です。2025年3月6日14時22分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

(株)八洲とJR中央線と高座山すそ野

 高蔵寺工廠跡土台1と土台2を所有している(株)八洲の建物です。前の写真の場所から、県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)を更に高蔵寺第5号墳の方面に戻った場所(前の写真の道を左側に進む。)の左側にある。(株)八洲の建物も高蔵寺工廠跡の上に建てられているのだろうか。(株)八洲の建物の後ろをJR中央線が走り、JR中央線の後ろに高座山のすそ野が写る。高蔵寺工廠専用線の引き込み線は、この写真に写るJR中央線の向こう側をJR中央線に並行して走っていたとこのホームページ管理人は考える。2025年3月6日14時25分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)と高蔵寺工廠跡土台1

 (株)八洲の建物の前から、更に、県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)を高蔵寺第5号墳の方面に戻った場所から見る県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)と高蔵寺工廠跡土台1です。2025年3月6日14時26分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)とうぐい川橋

 前の写真の場所から更に県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)を高蔵寺第5号墳の方面に戻った場所から見る県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)とうぐい川橋です。この写真に写るうぐい川橋の手前の道を左に入るとJR中央線うぐい川橋梁があり、JR中央線うぐい川橋梁をくぐって、JR中央線の向こう側に行くことができる。これから、うぐい川橋梁をくぐって、JR中央線の向こう側に行きます。この写真の正面に遠く写る山は、定光寺がある愛知県瀬戸市の山々です。2025年3月6日14時26分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

うぐい川橋から見るJR中央線うぐい川橋梁

 うぐい川の上をJR中央線うぐい川橋梁が走っている。この写真の右側がJR多治見駅方面で、左側がJR名古屋駅方面だ。2025年3月6日14時27分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

JR中央線うぐい川橋梁

 高蔵寺第5号墳方面に向かって、うぐい川橋を渡ってすぐの場所に左側へ入る道がある。(前の前の写真参照。)左側へ入る道を行くと、JR中央線うぐい川橋梁をくぐって、JR中央線の向こう側へ行くことができる。2025年3月6日14時27分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

JR中央線うぐい川橋梁2

 JR中央線のうぐい川橋梁に近づく。高蔵寺工廠の専用線は、昭和20年(1945年)8月15日の終戦以降は、昭和32年(1957年)まで使用された。その後、愛知県春日井市玉野町の区画整理により、昭和42年(1967年)に専用線は撤去された。この写真に写るうぐい川橋梁の上の部分は、線路を引っこ抜いたような感じがする。JR中央線うぐい川橋梁のレンガの部分も素晴らしい。JR中央線に残る古い部分は、JR勝川駅にもJR中央線が昔使っていた旧レンガの展示があるが、レンガ部分が素晴らしいとこのホームページ管理人は考える。この写真のレンガ以外の部分が高蔵寺工廠専用線の名残であるとこのホームページ管理人は考える。2025年2月14日14時01分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

JR中央線うぐい川橋梁下から見るうぐい川橋

 JR中央線うぐい川橋梁をくぐっている途中で、振り返って、うぐい川橋を見る。この写真のうぐい川橋を右に進むと高蔵寺工廠跡土台1と土台2に行く。左へ進むと高蔵寺第5号墳や玉野町のJR中央線踏切方面だ。うぐい川は、水深が深く見える。この写真の中央に見える山は東谷山だ。2025年2月14日14時02分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

JR中央線うぐい川橋梁下にある壁

 JR中央線うぐい川橋梁下で、壁の部分を撮影する。レンガ部分がJR中央線の部分で、レンガ以外のコンクリート部分が高蔵寺工廠専用線部分であるとこのホームページ管理人は考える。高蔵寺工廠専用線の引き込み線は、この部分にもあったのではないかとこのホームページ管理人は考える。つまり、高蔵寺工廠専用線のJR中央線からの引き込み線は、複数個所あったとこのホームページ管理人は考える。2025年2月14日14時02分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

JR中央線うぐい川橋梁プレート

 JR中央線うぐい川橋梁をくぐった先のうぐい川橋梁にこのプレートがある。工期が1964年3月から1966年1月とある。このJR中央線うぐい川橋梁ができた1年後、愛知県春日井市玉野町の区画整理により、昭和42年(1967年)に高蔵寺工廠専用線は撤去された。2025年2月14日14時12分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

JR中央線うぐい川橋梁をくぐった先

 前の写真の場所からJR中央線うぐい川橋梁をくぐった先は、こうなっています。この写真の右側の金網の右側にJR中央線の線路がある。この写真の左側に見えるコンクリート部分は、土留なのか、高蔵寺工廠専用線跡なのか、このホームページ管理人にはわからない。これから、この写真の先に見える道を左に入っていく。2025年2月14日14時12分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

JR中央線うぐい川橋梁をくぐった先の田園風景と五社神社

 愛知県春日井市玉野町の区画整理により、昭和42年(1967年)に高蔵寺工廠専用線は撤去されたが、高蔵寺工廠があった時代は、この写真の周辺は、高蔵寺工廠専用線の中です。この写真の正面に見える山は、五社神社です。この写真の右側が東で、左側が西で、後ろ側が南で、正面が北です。ここに高蔵寺工廠があった時代、五社神社南東部に弾薬木箱の集積場があり、名古屋陸軍が使用する火薬や砲弾などの物資は、引き込み線を使って専用列車で運ばれた。ここに高蔵寺工廠があった時代、この写真の正面に見える五社神社の山の右手前側に弾薬木箱の集積場があった。これから、この写真の中央に見える農道(看板がある部分)を左に入っていく。2025年3月6日14時30分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ふもと橋と高座山

 前の写真の看板がある部分の農道を左に入っていく道は、少し手前から撮影すると、こうなっています。そして、この道は、高蔵寺工廠専用線の線路跡です。この道の上を高蔵寺工廠専用線が通り、D51の半分くらいの大きさの機関車C11が弾薬を積んで走っていた。2025年3月6日14時30分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ふもと橋

 「郷土誌かすがい第75号 春日井の橋名が発するもの」HP版(桜井芳昭(春日井市文化財保護審議会会長)著 平成28年(2016年)11月1日発行)の中の「ふもと橋」には、次のような記述がある。

 ふもと橋は、昭和16年(1941年)に建設された、名古屋陸軍兵器補給廠高蔵寺分廠へ通じる専用列車の引き込み線の鉄橋です。愛知県春日井市玉野町の区画整理により、昭和42年(1967年)に高蔵寺工廠専用線は撤去されたが、鉄橋はそのまま残されて、平成18年(2006年)に補修される。うぐい川下流の河鹿(かじか)橋で行われていた玉野の精霊流しをここで実施することになり、橋名を地元で募集したところ、高座山のふもとにあるということで、「ふもと橋」と名付けられた。

 この写真に写るふもと橋の後方に写る高座山頂上には、2025年現在、航空自衛隊高蔵寺分屯基地がある。

2025年3月6日14時31分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ふもと橋の北側の風景

 ふもと橋から北側を見ると、うぐい川の上にかかる玉川橋が見える。この写真に写る右側の山すそが五社神社で、左側の山すそが高座山です。うぐい川は、五社神社と高座山の間を流れている。この写真に写る玉川橋を左に進むとJR高蔵寺駅に着く。五社神社と高座山の間を流れるうぐい川については、facebook「ご近所文化部記者クラブC版」の中の「南北朝動乱 in 愛知県春日井市 2.愛知県春日井市玉野町にある五社神社」にて発表していますので、参考にしてください。

2025年3月6日14時32分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ふもと橋の南側の風景

 ふもと橋から南側を見ると、JR中央線が走っている。高蔵寺工廠専用線は、ふもと橋の場所周辺では、JR中央線と平行して走っていた。この写真の向こうに見える高い山は東谷山です。2025年3月6日14時32分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ふもと橋の西側の風景

 ふもと橋を西側へ渡ると、道が続いている。この道が高蔵寺工廠専用線の線路跡だ。この道を先に(西に向かって)進みます。この写真の右側に写る山が高座山です。2025年3月6日14時34分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ふもと橋の西側の道を進む。

 前の写真の場所から、更に、西へ進むと、右手に、大きなコンクリートの建造物が見えてくる。これは、高蔵寺工廠専用線のプラットホームだろうか?この写真に写る道の左側には、JR中央線が写る。2025年3月6日14時36分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ふもと橋の西側の道の行き止まり

 前の写真の場所から更に道を先に(西側に)進むと、道は行き止まりとなる。そして、行き止まりの柵の向こうで、道は、この写真の左側に向かってカーブする。この写真の左側にはJR中央線がある。従って、この写真の場所周辺で、高蔵寺工廠専用線は、JR中央線から分岐するとこのホームページ管理人は考える。2025年3月6日14時39分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ふもと橋の西側の道の行き止まり地点からJR中央線を見る。

 前の写真のふもと橋の西側の道の行き止まり地点から左側にあるJR中央線を見る。この写真に写るJR中央線の向こう側には、県道205下半田川春日井線(JR中央線の隣を走るバス通りのこと)が通っていて、飼野のバス停がある付近だ。そして、飼野のバス停付近に高蔵寺工廠跡土台2がある。従って、高蔵寺工廠跡土台1と土台2は、JR中央線から分岐する分岐点にあった高蔵寺工廠専用線信号所で、信号所では、常に、助役以下3~4人の駅員がいて、ポイントの切り替えを行っていた。それにしては、高蔵寺工廠跡土台1と土台2はかなり広い印象を受けた。それだけ、当時の国家予算が軍部にまわっていたということか。2025年現在なら、政治家が、「こんなに広い場所は、信号所には必要ない。」というかもわからない。この写真の正面に写る山は東谷山です。

2025年3月6日14時39分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ふもと橋の西側の道の行き止まり地点からふもと橋に戻る途中にあるもの

 前の写真の地点から、道をふもと橋に戻る途中、左手に見える大きな建造物です。高蔵寺工廠専用線のプラットホームだろうか。ネットの情報によると、この写真に写るプラットホームの向こう側は航空自衛隊所有の土地だそうです。2025年3月6日14時43分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

プラットホームの場所から見るJR中央線

 前の写真の場所で、音がしたので、プラットホームの反対側を見ると、JR中央線に電車が走っていた。2025年3月6日14時44分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ふもと橋手前の北側の風景

 高蔵寺工廠専用線跡の道をふもと橋まで戻ってきた。2025年現在、ふもと橋周辺は、田園地帯で、貸農園などがあり、農作業をしている人も見受けられる。上空を航空自衛隊の飛行機がひっきりなしに飛び交う。この写真の正面に写る橋は玉川橋で、玉川橋の後ろに見える山が五社神社です。玉川橋をこの写真の左側に進むとJR高蔵寺駅に着く。そして、ふもと橋の上で、このホームページ管理人は、上空を通る自衛隊機に手を振るのでした。2025年3月6日14時44分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

ふもと橋の北東側の風景

 高蔵寺工廠専用線は、ふもと橋を渡ると、北東方面に向かい、五社神社の南東部を通り、航空自衛隊高蔵寺分屯基地の中を通って、愛知県春日井市木附町にある自衛隊官舎のあたりにあった転車台で、機関車の向きを変えていた。しかし、昭和42年(1967年)に行われた愛知県春日井市玉野町の区画整理以降、ふもと橋の北東方面に走っていた高蔵寺工廠専用線は、撤去され、影も形もなくなっていると考えるのは、間違いだ。高蔵寺工廠専用線の痕跡は、愛知県春日井市木附町にもはっきり残っている。このホームページ管理人は、これから、愛知県春日井市木附町にある高蔵寺工廠専用線の痕跡を探しに行きます。

 この写真の左側から中央に向けてせり出している山は五社神社です。高蔵寺工廠専用線があった時代、この写真の中央に写る五社神社の山すそに弾薬木箱の集積場があった。そして、この写真に写る方向に向かって、高蔵寺工廠専用線の線路が延びていた。

2025年3月6日14時47分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

愛知県春日井市玉野町にあるJR中央線踏切

 この写真の左右を通る道が県道205下半田川春日井線である。県道205下半田川春日井線は、この写真の左に進むと、高蔵寺工廠跡土台1と土台2の前を通って、鹿乗橋に着く。県道205下半田川春日井線は、この写真の右に進むと、JR定光寺駅手前にある城嶺橋で右折して、庄内川を渡り、定光寺の前を通って、愛知県瀬戸市下半田川町に着く。県道205下半田川春日井線は、JR定光寺駅手前で、廃ホテルの前を通り、危険な印象があったが、2025年現在はどうだろうか。

 そして、この写真の踏切を渡る道が県道53号春日井瀬戸線である。県道53号春日井瀬戸線は、この先で、航空自衛隊高蔵寺分屯基地の前を通り、春日井市都市緑化植物園の前を通って、内津峠に抜ける下街道(県道508内津勝川線)に合流する。

 この写真に写る県道53号春日井瀬戸線は、高蔵寺工廠の建設に合わせて、約100m西にあったものをこの場所に付け替えられた。高蔵寺工廠には、南入口と北出口の2つの門があり、南入口は、この写真の踏切のことだと考えられる。高蔵寺工廠内は、南入口から入って北出口に出る一方通行で、愛知県春日井市高蔵寺方面から来た馬車(この写真の左方面から来た馬車)は、踏切を渡って、高蔵寺工廠内に入ると、北出口のある愛知県春日井市木附町から出て、定光寺を廻って、JR中央線沿いの細い道を通って、愛知県春日井市高蔵寺方面に帰らなければならなかった。

2025年3月7日15時51分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

愛知県春日井市玉野町にあるJR中央線踏切を北側から見る。

 前の写真の愛知県春日井市玉野町にあるJR中央線踏切を渡り、振り返って、踏切を撮影する。高蔵寺工廠があったころ、一般の人々がこの風景を見ることは不可能だった。この写真の県道53号春日井瀬戸線に沿って進み、踏切を渡って、まっすぐ行くと、田園地帯に入る。田園地帯に入ったら、2番目の道を右折して、まっすぐ進むと、高蔵寺第5号墳のある場所に着く。

 この写真の中央より上に掲げられている道路案内板を説明します。

 踏切を渡って左折すると、県道205下半田川春日井線に入り、そのまままっすぐ進むと、JR中央線定光寺駅の前で、城嶺橋を渡って庄内川を渡り、定光寺の前を通り過ぎて、愛知県瀬戸市下半田川町に着く。(JR中央線定光寺駅の手前に廃ホテルがまだあるかもしれない。そうだとすると、危険です。)

 また、この写真に写る踏切を渡って右折すると、県道205下半田川春日井線と県道53号春日井瀬戸線が重複する。県道205下半田川春日井線と県道53号春日井瀬戸線が重複するのは、鹿乗橋までで、県道53号春日井瀬戸線は、鹿乗橋で左折して、庄内川にかかる鹿乗橋を渡り、国道155号線に合流する。鹿乗橋を渡ったのち、国道155号線をまっすぐ行くと愛知県瀬戸市の瀬戸市役所周辺まで行くことができる。また、鹿乗橋を渡ったのち、国道155号線を右折し、まっすぐ行くと、愛知県名古屋市に入る。一方、県道205下半田川春日井線は、鹿乗橋を渡らず、まっすぐ進んで、愛知県春日井市高蔵寺町、大留町と進み、神領町の交差点が終点となる。(この県道205下半田川春日井線のことをこのホームページ管理人は、春日井の古墳ロードと呼ぶ。)

2025年3月7日15時54分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

愛知県春日井市玉野台交差点

 前の前の写真の踏切を渡って、県道53号春日井瀬戸線を北上すると、玉野台交差点に着く。この写真の玉野台交差点の右側に写る坂を上っていくと、玉川小学校に着く。この写真の左側に五社神社があるが、この写真には写っていない。この写真の県道53号春日井瀬戸線を先に進むと、左側に航空自衛隊高蔵寺分屯基地があり、基地の先に木附町交差点がある。航空自衛隊高蔵寺分屯基地の住所は、愛知県春日井市木附町無番地で、木附町交差点を過ぎると、県道53号春日井瀬戸線は、高蔵寺ニュータウン押沢台ニュータウンの中に入っていく。そして、ここに高蔵寺工廠があった時代、木附町交差点のあたりが高蔵寺工廠北出口であったとこのホームページ管理人は考える。

2025年2月14日14時49分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

愛知県春日井市木附町へ行くうぐい川沿いの道

 この写真のまっすぐ進む道が県道53号春日井瀬戸線です。この写真に写る県道53号春日井瀬戸線の左側に航空自衛隊高蔵寺分屯基地の入り口があり、この写真の正面に遠く写る建物が自衛隊官舎です。この写真の県道53号春日井瀬戸線から右側に入る道は、高蔵寺工廠の専用線の線路跡ではないかとこのホームページ管理人は考える。この写真の左側に写っていないが五社神社がある。(五社神社南東部には、高蔵寺工廠の弾薬木箱集積所があった。2025年現在の五社神社駐車場あたりか。)2025年現在、自衛隊官舎のある場所には、高蔵寺工廠の時代には、専用線の転車台があった。そして、この写真に写る県道53号春日井瀬戸線から右側に入る道に高蔵寺工廠専用線の遺跡が残されている。

2025年2月14日14時51分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

航空自衛隊高蔵寺分屯基地入り口

 高蔵寺工廠専用線は、2025年現在の航空自衛隊高蔵寺分屯基地を避けて走っていたのではないかとこのホームページ管理人は考える。2025年現在の航空自衛隊高蔵寺分屯基地のある場所には、高蔵寺工廠の本部などの建物や6棟の大型倉庫や砲弾に火薬を詰める作業所や弾薬保管施設があったのではないかとこのホームページ管理人は考える。それを確かめる方法をこのホームページ管理人は持っていないが、航空自衛隊高蔵寺分屯基地の中には、必ず、高蔵寺工廠の遺跡があるはずだとこのホームページ管理人は考える。

 航空自衛隊高蔵寺分屯基地のHPによると、航空自衛隊高蔵寺分屯基地は、岐阜県各務原市那加官有地無番地にある航空自衛隊岐阜基地の分屯で、外周は約5.8km、敷地面積は約170万㎡(東京ドーム約36個分)あるそうだ。

2025年3月6日15時12分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。この写真の基地の後ろに写る山は高座山です。

航空自衛隊高蔵寺分屯基地入り口と自衛隊官舎

 この写真の正面に写る道が県道53号春日井瀬戸線で、県道53号春日井瀬戸線の左側に航空自衛隊高蔵寺分屯基地入り口がある。この写真の正面の建物が自衛隊官舎です。2025年現在自衛隊官舎のある周辺に、高蔵寺工廠専用線の転車台があった。転車台とは、機関車の方向転換をする場所で、高蔵寺工廠があった当時は、数人がかりで、機関車の乗った転車台を押して回していた。(機関車は、D51の半分の大きさのC11)高蔵寺工廠の専用線は、この写真の右側にあった線路から転車台に入り、向きを変えて、この写真の右側にあった線路に戻っていったのではないかとこのホームページ管理人は考える。

2025年3月6日15時13分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

自衛隊官舎と高蔵寺工廠専用線線路跡

 この写真の中央より右側に写る建物が自衛隊官舎です。高蔵寺工廠があった時代、2025年現在の自衛隊官舎の周辺に機関車の転車台があった。この写真の左側にうぐい川が流れている。この写真の場所は、うぐい川堤防道路と自衛隊官舎に入る道の分岐点だが、この写真の自衛隊官舎に入る右側の道が高蔵寺工廠専用線線路跡ではないかというのがこのホームページ管理人の考えだ。

2025年3月6日15時09分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

木附橋と高座山

 前の写真から後ろ方向に下がっていき、木附橋あたりから航空自衛隊高蔵寺分屯基地方面を撮影する。この写真の左右に走る道が、県道53号春日井瀬戸線から右側に入る道で、この写真の右側が木附町から外之原町へ行く道で、この写真の左側が県道53号春日井瀬戸線に行く道です。この写真の分岐点の右側の道がこのホームページ管理人が考える高蔵寺工廠転車台線路跡です。この写真を撮影した場所のすぐ後ろに鉄橋7がある。この写真の中央に写る山は高座山で、高座山ふもとに航空自衛隊高蔵寺分屯基地が広がる。

2025年3月6日15時08分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

木附橋と鉄橋7

 この写真の右側に写る橋が木附橋で、左側に写る橋が鉄橋7です。鉄橋7は、高蔵寺工廠があった時代のうぐい川にかかる専用線の鉄橋であるとこのホームページ管理人は考える。高蔵寺工廠があった時代、うぐい川にかかる専用線の2つの鉄橋は、愛知県春日井市玉野町にあるふもと橋と木附町の鉄橋7で、高蔵寺工廠が使用する火薬や砲弾などの物資は専用線を使って、専用列車で運ばれた。高蔵寺工廠専用列車の専用線は、うぐい川にかかる2つの鉄橋を渡って、高蔵寺工廠のプラットホームに入るルートで、全長2.8kmあった。高蔵寺工廠専用列車が高蔵寺工廠のゲートに入ると、2つのプラットホームがあり、これを挟んで、5本の線路があった。

 ところで、この写真の鉄橋7に線路があったとすると、その線路は、この写真の正面に写る薄緑色の建物8につながっていくとこのホームページ管理人は考える。この写真の正面に写る山の上には、玉川小学校がある。

2025年3月7日16時29分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

木附橋から鉄橋7を見る。

 木附橋から鉄橋7を見ると、下を流れるうぐい川の流れ方がわかる。この写真を撮影する背後に高座山と航空自衛隊高蔵寺分屯基地がある。この写真の視線を遠くに伸ばすと、JR定光寺駅手前に着く。県道53号春日井瀬戸線から右側に入る道は、うぐい川の流れに沿って、この写真の左方向に進んでいく。2025年3月7日16時28分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鉄橋7から建物8を見る。

 鉄橋7から建物8を見ると、線路跡が鉄橋7から薄緑色の建物8に延びていると、このホームページ管理人は考えた。2025年3月7日16時51分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鉄橋7から木附橋を見る。

 鉄橋7の上から木附橋を撮影する。この写真の右側に切れて写る建物が自衛隊官舎で、高蔵寺工廠があった時代は、専用線の転車台があった場所だ。この写真の正面には、高座山と航空自衛隊高蔵寺分屯基地が写る。2025年3月6日15時08分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

建物8その1

 木附橋を渡り終えた場所から建物8を見る。この建物8は、プラットホームに準じる建物であるとこのホームページ管理人は考える。薄緑色の建物の色は、高蔵寺工廠があった時代の色を忠実に再現したものなのだろうか。もし、そうだとしたら、何て鮮やかな明るい色の建物なのだろう。2025年3月7日16時52分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

建物8その2

 建物8の正面に回ると、「立入禁止 春日井市」という看板があった。2025年3月7日16時54分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

県道53号春日井瀬戸線から右側に入る道

 建物8を過ぎたあたりから、県道53号春日井瀬戸線から右側に入る道を撮影する。この写真の道は、県道53号春日井瀬戸線に出る。この写真に写る左側の山の上に玉川小学校がある。2025年3月7日16時54分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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