2.かっぱの腕のひじの上:八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)

今回訪れる東海湖のほとり

(ペイントで書き込んだ東海三県の地図は、「スーパーマップル東海三県道路地図」(昭文社 2000年7月発行)の見開きのページにある「東海主要部索引図」を使用した。)

 八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)を紹介するときは、八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)の周囲にある高蔵寺・五社大明神社・高蔵神社・春日井市玉野町周辺も紹介しなければならない。このホームページ管理人が八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)を訪れることになるきっかけは、高蔵寺という寺だ。高蔵寺にある説明板には、次のように書かれていた。(このホームページ管理人の解釈は次のようなものだ。)

 「鹿乗り薬師の縁起」

 高蔵寺の御本尊は薬師如来で、鹿乗り薬師という。鹿乗り薬師は、高蔵寺の東方約545mの位置にある鹿乗ヶ淵の深淵から白鹿に乗って出現した。(このホームページ管理人が地図で調べたところ、その場所は、庄内川(玉野川)を鹿乗橋から少し下流方面に進んだ位置だ。)鹿乗ヶ淵の深淵から白鹿に乗って鹿乗り薬師が出現したとき、竜神が毎晩、燈明を掲げて、道を照らし、高蔵寺のある地にお祀りした。従って、高蔵寺の山号は、燈明山という。平安時代後期(12世紀頃)、仏師の名工春日が、霊木に、一刀刻むごとに恭しく三礼しながら、薬師如来像を彫り、高蔵寺に安置した。」

 2024年現在、高蔵寺と鹿乗橋の間には、JR中央本線が走っていて、高蔵寺から直線で鹿乗橋に行くことはできない。高蔵寺から鹿乗橋に行くためには、JR高蔵寺駅まで行き、高蔵寺駅南口から県道205号下半田川春日井線(このホームページ管理人が春日井の古墳ロードと呼ぶ県道)に出て、春日井市玉野町方面に戻るというのがいいと思う。このホームページ管理人は、高蔵寺を訪れた別の日に、鹿乗橋周辺を訪れ、鹿乗橋や鹿乗橋近くの八幡神社を訪問した。

 鹿乗橋近くにある八幡神社は、入尾城跡に建てられている。入尾城は、平安時代後期(12世紀頃)の源平の争乱の60年ほど前に建てられた城で、15世紀の入尾城主は、水野氏だ。水野氏は、愛知県知多郡美浜町にある野間海岸と河和口のかっぱ像(かっぱの陰部)の近くに住む長田氏(源義朝暗殺で有名)の末裔というのがネットの情報だ。しかし、かっぱの胸部にある宇宙山乾坤院(愛知県知多郡東浦町大字緒川字沙弥田4)を菩提寺とする水野氏(末裔には、徳川家康の実母である於大の方がいる。)とは無関係なのだろうか?

 また、高蔵寺墓地から高座山遊歩道を登ると、高座山頂上に高蔵神社がある。高蔵神社の磐座は、東海湖が隆起した後の東海湖の姿(今から100万年前か?)だと、このホームページ管理人は考える。高蔵神社は、名古屋市熱田区にある高座結御子神社の奥宮であるというのが、「東春日井郡誌」(大正12年(1923年)1月編纂)からの情報だ。名古屋市熱田区にある高座結御子神社の周囲には、断夫山古墳や白鳥古墳や熱田神宮がある。熱田神宮は、熱田台地の先端にあり、少なくとも江戸時代(17世紀から19世紀)には、熱田神宮に近い宮の渡しから南側は海だった。高蔵神社から熱田神宮周辺へ行く道程は、まさに、山を下り、海へ向かうという感覚そのものだとこのホームページ管理人は考える。そして、今から100万年前頃、何かが起こって、東海湖は、熱田神宮周辺から北側が隆起して、南にあった海が熱田神宮周辺まで迫ってきた、と、このホームページ管理人は考える。高蔵神社磐座の前にある祠は、熱田神宮周辺であるとこのホームページ管理人は考える。高蔵神社磐座にある祠から下の眺めは、小さい石が転々と下まで続き、石が左に並んで終わる。これは、熱田神宮に近い宮の渡しから南側を見たとき、このホームページ管理人が想像できた光景だ。宮の渡しから南側は海で、海に小さい島が並ぶのは、知多半島だ。そして、今から100万年前頃、猿人は原人に進化した。

このようなことを考えながら、このホームページ管理人は、このページを作っていきます。

1.八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)周辺

2.高蔵寺周辺

3.五社大明神社

4.春日井市玉野町周辺

5.高蔵神社

6.高座結御子神社周辺

7.断夫山古墳と白鳥古墳周辺

8.熱田神宮周辺

9.宮の渡し公園

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1.八幡神社(愛知県瀬戸市鹿乗町)周辺

八幡神社の周辺の地図

(ペイントで書き込んだ地図は、「スーパーマップル東海三県道路地図」(昭文社 2000年7月発行)の50~51ページにある「高蔵寺」を使用した。)

瀬戸市鹿乗町交差点の写真

 瀬戸市鹿乗町交差点です。この場所から後ろに振り返ると八幡神社があります。この写真の鹿乗町交差点を左折すると、県道15号名古屋多治見線で、しばらく進むと、庄内川沿いを走り、風光明媚な風景を見ながら、JR定光寺駅から多治見市まで行きます。この写真の鹿乗町交差点を過ぎると、道が二股に分かれ、左に行くと、瀬戸市まで続く国道155号線で、右に行くと、東谷山フルーツパーク方面に向かう国道155号線です。この写真の正面に見える山は、東谷山で、山の中に守山古墳群がある。この写真に写る東谷山の手前に写る灰色の建造物は、愛知環状鉄道です。2024年4月19日13時22分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社の石標柱の写真

 前の写真から後ろを振り返ると、八幡神社の石標柱がある。この石標柱は、建造年月日がわからないが、多分、後ろの生け垣に隠れているのだと思う。2024年4月19日13時12分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社の石標柱から神社の中に入る前の写真

 八幡神社の石標柱と神社の中に入る位置関係はこのようです。八幡神社の石標柱は、道路側を向いていて、鳥居の向きとは違う点に注目する。このホームページ管理人が訪れた中では、神社の石標柱と鳥居の向きが同じであるというのが一般的だったが、瀬戸市鹿乗町の八幡神社は、石標柱と鳥居の向きが違うようだ。八幡神社は、入尾城跡にあるということを伝えたかったのだろうか。入尾城跡の説明板と八幡神社の石標柱の向きが同じだ。2024年4月19日13時23分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社入り口にある手水鉢の写真

 八幡神社の鳥居をくぐるとすぐに、左側に手水鉢がある。このホームページ管理人は、手水鉢に彫られた文字を「清水」だと解釈した。もともとこの位置にあった手水鉢なのかは疑問だとこのホームページ管理人は考える。八幡神社の中に清水の湧く場所があるとか?あるいは、八幡神社の近くを流れる庄内川のこととか?あるいは、この写真の手水鉢の左側にある水道管をひねると、湧水が出てくるとか?2024年4月19日13時13分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社の様子の写真

 手水鉢の場所から正面を見ると、八幡神社の様子がわかる。石垣の上に拝殿と、拝殿の向こうに本殿が見えるという点で、この八幡神社が入尾城跡に建てられているということがわかる。この写真の拝殿の左奥に見える石碑が「河伯」石碑です。「河伯」石碑は、石垣の上、本殿横に置かれていることから考えて、入尾城跡に住んでいた人物と「河伯」は、密接な関係にあるとこのホームページ管理人は考える。入尾城跡の説明板とご神木は、この写真には写っていないが、この写真の右側にあります。2024年4月19日13時14分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社のご神木の写真

 八幡神社のご神木は、ブナ科のアベマキで、枝周りは東西17m、南北16mある。根元周りは4.3mで、幹回りは2.9m、高さは20mある。樹齢は約250年です。瀬戸市内では、八幡神社のアベマキの根元周りが最も大きく、幹回りが瀬戸市内で最も大きいアベマキは、定光寺町にある。八幡神社のアベマキは、樹勢が盛んで、これからも大きく育ちそうです。八幡神社のアベマキは、春は新芽が美しく、夏には、樹液にカブトムシやクワガタムシが集まり、秋には、たくさんのドングリを落とします。(八幡神社にあるアベマキの説明板より。)八幡神社のご神木も石垣の上にある。この写真のアベマキの右手前に写る説明板が、入尾城跡の説明板です。2024年4月19日13時14分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

入尾城跡の説明板の写真

 「Wikipedia入尾城」には、次のようにある。入尾城は、保元の乱(1156年)・平治の乱(1160年)頃、平景貞によって築城された。入尾城は、玉野川(庄内川)峡谷の断崖を利用して築城され、近くには入尾の渡しがあった。入尾城を築城した平景貞は、水野太平太と名乗り、水野氏(桓武平氏)の始祖となった。水野氏(桓武平氏)は、武家となり、承久の乱(1221年)のときは、一族をあげて朝廷方について、鎌倉幕府軍(北条氏方)と戦った。南北朝の動乱(14世紀)のときは、水野氏は、一族の中で、南朝方と北朝方に分かれ、共に、功績を上げたようだ。江戸時代(17世紀から19世紀)には、尾張藩士として、要職に就いたようだ。

 ここで、このホームページ管理人が注目するのは、平治の乱(1160年)のときの平景貞の動向だ。平治の乱(1160年)は、後白河天皇の側近の信西と摂関家の藤原信頼の戦いに端を発する。しかし、平治の乱は、人間関係が複雑に絡み合う戦いで、信西と藤原信頼の戦いは、後白河上皇と二条天皇の戦いにも発展した。後白河天皇方の武家は平清盛で、藤原信頼方の武家は源義朝(源頼朝の父)だ。つまり、京都の平安京では、信西と藤原信頼の戦い・後白河上皇と二条天皇の戦いは、平清盛と源義朝(源頼朝の父)の戦いとなる。

 結果、平治の乱(1160年)では、平清盛が勝ち、源義朝は、子供の頼朝を連れて、京都を脱出し、東に逃げる。東に逃げる途中、源義朝は、子供の頼朝と別れ、知多半島野間海岸(愛知県知多郡美浜町)にある大御堂寺(野間大坊)近くに住む長田氏の家に逃げ込む。しかし、長田氏は、主君である源義朝を裏切り、源義朝が風呂に入っているときに、源義朝を暗殺した。長田氏は、大御堂寺(野間大坊)に源義朝の墓を造り、平清盛に寝返って、桓武平氏となった。

 入尾城を築城した平景貞は、桓武平氏長田氏の支流だ。平景貞が源義朝暗殺に関わったかどうかは、わからない。しかし、このホームページ管理人は、平景貞が源義朝暗殺に関わったと考える。入尾城は、平景貞が、鎌倉幕府に隠れて、ひっそりと、しかし、防御は万全にして暮らす城というイメージがぴったり当てはまるとこのホームページ管理人は考えるからだ。その後、長田氏は、親子共々、源頼朝によって粛清され、長田氏の家系は途絶えた。一方、長田氏の支流である桓武平氏水野氏は、江戸時代(17世紀から19世紀)まで続く武家の家柄となった。

 そして、知多半島野間海岸(愛知県知多郡美浜町)が、東海湖のほとりであるかっぱの陰部にあることから、長田氏は、東海湖のほとりにあるかっぱ伝説を継承する一族ではないかとこのホームページ管理人は考える。

 2024年4月19日13時14分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社本殿横にある河伯石碑の写真

 八幡神社拝殿奥の本殿横に「河伯」と彫られた石碑がある。2024年4月19日13時18分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社本殿横にある河伯石碑のアップ写真

 「河伯」は、日本では、かっぱのことだ。一方、「河伯」は、中国神話では、黄河の神で、人の姿をしており、白い亀や白い竜の引く車に乗っている。若い女性をいけにえとして求め、いけにえが絶えると、黄河に氾濫を起こすという話もある。このホームページ管理人は、東海湖のほとりに住んでいたかっぱは、中国と関係があるように思えてならない。そして、日本で、かっぱは、余りいい印象でとらえられていない。しかし、現在地球に住む人間は、人間以外の生物からはあまりよく思われていないのではないかとこのホームページ管理人は考える。つまり、かっぱは、私たち人間のことではないかとこのホームページ管理人は考える。

 ところで、この写真の河伯石碑の「河伯」の文字の下に「中重地」と読める文字が入っている。「中重地」とは、本殿と中門の間にある空き地という意味だとこのホームページ管理人は考える。この写真にある河伯石碑の右側には本殿の祠があるので、この写真にある河伯石碑の左側にもう一つ門があったのだろうか?そして、その門(あるいは鳥居)の向きは、八幡神社の石標柱の向きと同じであった可能性がある。2024年4月19日13時19分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社本殿の一番左にある祠の写真

 八幡神社の本殿には、3つの祠がある。この写真の祠は、八幡神社本殿の左側にある祠の写真だ。この写真に写る祠の左側には、この写真には写っていないが、河伯石碑がある。2024年4月19日13時19分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社本殿の真ん中にある祠の写真

 八幡神社の本殿には、3つの祠があるが、真ん中にある祠が一番大きい。この写真に写る真ん中の祠の右側の扉にあるXの模様は、直違紋(すじかいもん)という家紋のことだとこのホームページ管理人は考える。直違紋(すじかいもん)は、丹羽氏の家紋であるというのがネットの情報だ。丹羽氏が八幡神社の再建に尽力したのだろうとこのホームページ管理人は考える。2024年4月19日13時19分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社本殿の一番右にある祠の写真

 八幡神社本殿の一番右にある祠の写真です。この写真の右側に写っていないが、ご神木のアベマキがある。2024年4月19日13時19分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鳥居近くにある石灯籠の写真

 八幡神社鳥居をくぐるとすぐの場所に建つ石灯籠の写真です。このホームページ管理人は、この石灯籠の足の部分に彫られてある「嶋中安全」の文字に注目する。(「嶋中安全」の裏側には、「秋葉山」と彫られてあった。)

 このホームページ管理人は、今から約100万年前頃、東海湖が隆起して、南にあった海が熱田神宮のすぐ南まで迫ってきて、知多半島は、海に浮かぶ島になったと考えている。そして、入尾城を築城した平景貞が水野太平太と名乗り、水野氏(桓武平氏)の始祖となった頃(12世紀中ごろ)、桓武平氏長田氏の住居は知多半島野間海岸(愛知県知多郡美浜町)の近くにあった。つまり、桓武平氏長田氏が住んでいた場所は島だったと、このホームページ管理人は考える。ということは、平治の乱(1160年)で平清盛に敗れて、東へ逃げた源義朝は、船に乗って、長田氏の住居に逃げ込んだということになる。

 今から約100万年前頃、海に浮かぶ島々だった知多半島は、いつ頃、現在のような姿になったのだろう。知多半島が現在のような陸続きの半島となったのは、江戸時代(17世紀から19世紀)以降のことではないかとこのホームページ管理人は考える。

 2024年4月19日13時16分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

入尾城説明板近くにある石灯籠の写真

 このホームページ管理人がもう1つ気になった石灯籠が入尾城説明板近くにある石灯籠だ。この写真の石灯籠の足には、「紀元二千六百年記念」と彫られている。紀元二千六百年記念とは、昭和15年(1940年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った国家行事のことである。昭和15年(1940年)の日本は、日中戦争真っただ中で、翌年には、太平洋戦争が始まる。そのような状態の中、紀元二千六百年記念という国家行事は、全国11万もの神社において、大祭が行われた。2024年現在から84年前の話です。2024年4月19日13時17分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

八幡神社鳥居の裏側の写真

 八幡神社鳥居の裏側には、何かが彫られているようだが、何が彫られているのかは判別できない。もしかしたら、紀元二千六百年記念という国家行事に伴って建てられた鳥居ではないかと、このホームページ管理人は推測するが、本当のところはわからない。このホームページ管理人は、八幡神社の鳥居には、建造年月日と奉納した人々の名前が刻まれているのではないかと推測する。2024年4月19日13時21分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋のたもとの写真

 八幡神社から道なりに北方向(春日井市にある高座山方向)に少し歩くと鹿乗橋がある。この写真は、鹿乗橋のたもとで撮影した。この写真の中央に写る正体不明の石の向こうに自動車進入禁止の看板が見える。鹿乗橋は、2024年現在、自動車は一方通行の橋で、この写真の向こうからこちらへ(春日井市から瀬戸市へ)の方向のみ自動車は通ることができる。2024年4月19日13時25分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋の写真

 鹿乗橋の歴史は次の通りです。

 鹿乗橋は、愛知県道53号春日井瀬戸線のアーチ橋として、明治43年(1910年)にメラン工法により建設された、全長73m・幅4.5mの鉄製アーチ橋です。昭和5年(1930年)には、岡崎から多治見間や瀬戸記念橋から高蔵寺間を走る鉄道省営バスが鹿乗橋を通った。昭和22年(1947年)には、鹿乗橋の木製の橋板が鉄製になった。昭和26年(1951年)3月には、鋼鉄製のアーチ部分が老朽化したため、コンクリートで固めて補強した。そして、昭和26年(1951年)の鹿乗橋の改築以来、2024年現在に至るまでの73年間、鹿乗橋はここにある。鹿乗橋は、明治時代(20世紀)に造られた11のスチールアーチ橋のうちの1つで、2024年現在まで現存する大変貴重な橋である。

 このホームページ管理人は、これからこの橋をこちらから向こうへ徒歩で渡りますが、自動車は、向こうからこちらへ(春日井市側から瀬戸市側へ)の一方通行です。鹿乗橋は、狭い橋で、自動車1台と人間一人がぎりぎり渡ることができるほどの幅しかない。歩道と車道の境もない。このような橋なのに、1トントラックがバンバン走るので、鹿乗橋を渡るときは、交通事故に注意してください。2024年4月19日13時25分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋から庄内川下流方向を眺めた写真

 鹿乗橋から庄内川下流方向(春日井市高蔵寺町方面)を眺めた写真です。この写真の正面に写る大きな橋は、愛知環状鉄道の橋です。(この写真の橋を右に行くと高蔵寺駅で、左へ行くと瀬戸市方面です。)愛知環状鉄道の橋の向こうに写る小さい橋は、多分、水道橋です。この写真に写る庄内川のあたりに入尾の渡しがあったとこのホームページ管理人は考える。「高蔵寺の御本尊は薬師如来で、鹿乗り薬師という。鹿乗り薬師は、高蔵寺の東方約545mの位置にある鹿乗ヶ淵の深淵から白鹿に乗って出現した。」に該当する場所は、この写真の場所だとこのホームページ管理人は考える。この写真の左側に写る山は東谷山で、山の中に守山古墳群がある。2024年4月19日13時35分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋から庄内川上流方向を眺めた写真

 鹿乗橋から庄内川上流方向(春日井市玉野町方面)を眺めた写真です。この写真の左側に見える集落は、春日井市玉野町です。春日井市玉野町には、南北朝の動乱(14世紀)で、後醍醐天皇が崩御した後、後醍醐天皇側近で南朝方のなか姫一行が、春日井市玉野町にある有力者の家に泊まっていたところ、通報を受けた北朝方の武士の闇討ちに会い、ほぼ全員討ち死にしたという伝説がある。この写真の左端に切れて写る山は、高座山です。この写真の正面に写る山は定光寺などがある瀬戸市の山々です。「入尾城は、玉野川(庄内川)峡谷の断崖を利用して築城され、近くには入尾の渡しがあった。」というイメージにぴったりの写真だとこのホームページ管理人は考える。2024年4月19日13時27分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋の橋げたの写真

 鹿乗橋の橋げたがいい雰囲気で、つい、スマホのレンズを向けた。2024年4月19日13時27分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

愛知県道53号春日井瀬戸線の写真

 鹿乗橋を瀬戸市側から春日井市側に向かって渡り切って、右側を見ると、愛知県道53号春日井瀬戸線である。この写真の道は、春日井市玉野町方面に向かう。地図によると、春日井市玉野町の踏切前より向こうへ続くJR定光寺駅までの道は、県道205号下半田川春日井線である。愛知県道53号春日井瀬戸線は、春日井市玉野町の踏切を渡って、北に向かい、春日井市都市緑化植物園の前を通り、県道508号内津勝川線の西尾町あたりで合流する。つまり、昭和5年(1930年)に走っていた鉄道省営バス岡崎から多治見間は、岡崎から鹿乗橋を渡ったのち、内津峠を越えて、多治見市に行ったとこのホームページ管理人は考える。2024年4月19日13時28分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋向かいにある祠の写真

 鹿乗橋を瀬戸市側から春日井市側に渡り切ると、正面に石仏の祠がある。この石仏の祠は、断崖をくりぬいて、埋め込まれている。この写真の石仏がある断崖の上をJR中央本線が通っている。この写真の右側に進むとJR多治見駅方面で、この写真の左側に進むと、JR高蔵寺駅方面である。鹿乗橋を境にして(この写真に写る祠を境にして)、この写真の右側に行く道が愛知県道53号春日井瀬戸線で、この写真の左側に行く道が県道205号下半田川春日井線(このホームページ管理人が個人的に「春日井の古墳ロード」と呼ぶ道)である。2024年4月19日13時31分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

祠の中の石仏の写真

 前の写真の祠の中の石仏は、馬頭観音であると、このホームページ管理人は考える。昭和5年(1930年)で考えると、この石仏を境にして、この写真の右へ行く道が多治見市方面で、この写真の左へ行く道が春日井市高蔵寺町方面であると、このホームページ管理人は考える。2024年4月19日13時30分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

県道205号下半田川春日井線の写真

 瀬戸市側から春日井市側に鹿乗橋を渡り切って、左側を見ると、県道205号下半田川春日井線(このホームページ管理人が個人的に「春日井の古墳ロード」と呼ぶ道で、この写真の道を進むと左側、県道205号下半田川春日井線と庄内川の間に古墳が点在する。)である。この写真の道を進むと、春日井市高蔵寺町である。この写真の中央、道の右側に写る白いガードレールのある場所を正面から撮影した写真が次の写真です。2024年4月19日13時30分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

JR中央本線の写真

 前の写真に写る白いガードレールを正面から撮影する。この写真の鉄橋の上をJR中央本線が通る。この写真の鉄橋の下を流れる川は高座山から流れる川で、庄内川に注いでいる。2024年4月19日13時28分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋バス停の写真

 前の写真の白いガードレールの場所から、県道205号下半田川春日井線を少し高蔵寺町方面に進むと、名鉄バス鹿乗橋バス停がある。この写真のバス停の左側に建つ石柱は、何を意味するのだろうか?ここが、入尾の渡しのある場所であるという意味か。それとも、「高蔵寺の御本尊は薬師如来で、鹿乗り薬師という。鹿乗り薬師は、高蔵寺の東方約545mの位置にある鹿乗ヶ淵の深淵から白鹿に乗って出現した。」に該当する場所であるという意味か。2024年4月19日13時33分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

鹿乗橋遠景の写真

 前の写真の鹿乗橋バス停のある場所から、鹿乗橋と庄内川を撮影する。鹿乗橋がアーチ橋であることがわかる。鹿乗橋バス停から庄内川に下りることはできない。2024年4月19日13時34分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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2.高蔵寺(愛知県春日井市高蔵寺町)周辺

高蔵寺の周辺の地図

(ペイントで書き込んだ地図は、「スーパーマップル東海三県道路地図」(昭文社 2000年7月発行)の50~51ページにある「高蔵寺」を使用した。)

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