篠岡104号窯

篠岡104号窯 須恵器出土状況の写真

篠岡104号窯 須恵器出土状況(下末ー中部技能開発センター敷地)

 篠岡104号窯を含む遺跡は、東名高速道路のすぐ北側、小牧ジャンクションからは、西の方角に1kmの場所に位置していた。昭和57年(1982年)2月、開発事業の計画策定にあたって、小牧市建設部用地課から小牧市教育委員会社会教育課へ、開発地域の埋蔵文化財の有無の問い合わせがあったことが発掘調査のきっかけとなった。社会教育課では、1972年に愛知県教育委員会から発行された「愛知県遺跡分布地図」により、開発事業区域内に数基の古窯跡を確認したため、現地調査を実施することとなった。その結果、開発地域内には、古窯跡が複数存在することが明らかとなったため、社会教育課は、用地課に対して、文化財保護法の規定に従って、文化庁に通知することを求めた。用地課は、昭和57年(1982年)3月付で小牧市長から文化庁長官あての通知を提出した。この結果、昭和57年(1982年)3月付で、愛知県教育委員会から小牧市長あてに、事前に発掘調査を実施するよう通知が来た。

 開発事業は、小牧市土地開発公社が事業主体者であった。昭和59年度(1984年度)から造成工事を開始したが、この段階では、社会教育課が確認した数基の古窯跡が所在する狩山戸地区については、未買収地区がかなり残されていた。従って、社会教育課では、用地買収の進行を待って、発掘調査を実施することとした。

 そして、昭和59年(1984年)7月、狩山戸地区とは別に、すでに用地買収が完了していた陶小学校建設用地において、造成工事中に古窯跡が新発見され、社会教育課に情報がもたらされた。社会教育課では、現地調査を実施して、工事を担当する小牧市土地開発公社に古窯跡の新発見を通知し、古窯跡周辺の工事の一時停止を求めた。また、同時に愛知県教育委員会文化財課へも古窯跡の新発見を通知し、県の指導に従って、小牧市の関係部局と協議・調整を行った。

 その結果、古窯跡の新発見は、すでに工事が開始された段階であり、工事の計画変更も不可能であることから、記録保存を図ることを目的として、緊急に発掘調査を実施することとなった。従って、陶小学校建設用地において、昭和59年(1984年)7月7日から7月17日まで、小牧市教育委員会による発掘調査が行われ、合計3基の古窯跡が発見、調査された。工事中の新発見だったため、遺構の残存状況は良好ではなかったが、出土遺物によって、灰釉陶器最末期(平安時代)の様相を知る貴重な資料を得た。

 一方で、昭和60年度(1985年度)に入り、狩山戸地区の用地買収がかなり進行したため、狩山戸地区の第1次発掘調査が昭和60年(1985年)7月から実施され、昭和60年(1985年)8月3日に終了した。狩山戸地区の第1次発掘調査では、当初、篠岡7号窯・篠岡17号窯の調査が行われる予定だった。

 まず最初に篠岡17号窯の発掘調査に着手したところ、当初1基と思われていた篠岡17号窯が3基の古窯跡と1基の製鉄遺構からなっていることが確認された。従って、第1次発掘調査で調査された古窯跡群を篠岡17号窯、篠岡102号窯、篠岡103号窯と命名して、狩山戸地区A群と呼称し、製鉄遺構を狩山戸遺跡と命名した。第1次発掘調査では、予想外の新発見遺跡があったことから、篠岡7号窯の調査は断念し、小牧市教育委員会社会教育課では、第2次調査を実施することにした。

 そして、昭和61年(1986年)1月、篠岡7号窯・篠岡15号窯・篠岡16号窯を含む用地の買収が完了したことを待って、第2次発掘調査が実施された。第2次発掘調査は、昭和61年(1986年)1月20日から2月17日の期間に行われた。

 第2次発掘調査では、まず、篠岡15号窯の調査に着手したところ、篠岡15号窯の下に更に2基の古窯跡が埋没していることが確認された。従って、篠岡15号窯の下に埋没していた2基の古窯跡を篠岡104号窯・篠岡105号窯と命名し、篠岡15号窯・篠岡104号窯・篠岡105号窯の3基を狩山戸地区B群と呼称した。

 狩山戸地区B群の調査終了後、篠岡16号窯の調査を行ったが、ごく少量の遺物の出土を確認したのみで、篠岡16号窯は、すでに滅失していたものと判断した。最後に篠岡7号窯の調査を行ったが、古窯跡の大半は、すでに工場下に埋没していることが明らかとなった。そして、第2次調査は、昭和61年(1986年)2月17日に終了し、開発事業地区内の発掘調査は全て終了した。

篠岡104号窯(左)・105号窯(右)・15号窯(右上)の写真

篠岡104号窯(左)・105号窯(右)・15号窯(右上) 東から(下末ー中部技能開発センター敷地)

 篠岡15号窯は、焼成室上部を斜めに切断されているものの、側壁・分炎柱の状況は、きわめて良好に残っていた。篠岡15号窯が存在する場所は、果樹園の段々畑となっていたため、部分的に削平されているが、15号窯の灰層は厚い部分で50cmの堆積が認められ、15号窯全体で、長さ9m、幅13mの範囲で、部分的に104号窯・105号窯を覆って、堆積していた。

 篠岡15号窯は、分炎柱を有するあな窯で、遺跡の中に残っていた15号窯の長さは4.1m、15号窯の床面の最大幅は1.45m、15号窯の側壁の高さは、1mを計測した。15号窯の焼成室は、全て完掘できたわけではないが、全長1.3m、幅1.25mを計測した。15号窯の焚口から分炎柱にむけては、24cmの高さで、ゆるく下降する。15号窯の分炎柱は、高さ45cm、直径25cmを計測し、15号窯の中軸からやや右寄りに設置されている。15号窯の分炎口の大きさは直径50cmほどで、15号窯の焼成室の側にやや傾斜する。

 篠岡15号窯の焼成室は、分炎柱から約80cmの距離で最大幅を計測し、徐々に狭まり、上部では、幅1.1mとなる。15号窯の床面は、分炎柱から50cmの距離で最も低くなり、ここから急傾斜でたちあがる。15号窯の床面傾斜角は約35度である。15号窯は、少なくとも1回、全体的に補修が行われたようである。

 篠岡15号窯の前庭部は若干傾斜がゆるく、篠岡15号窯の灰層は、焚口から1mの地点から斜面下方へ広がっている。15号窯の安定した灰層の範囲は、長さ9m、幅13mある。階段状に開墾された畑で切断された15号窯の灰層は、更に下方へ5mほどのびていて、105号窯を完全に覆っていた。灰層は、厚さ40〜50cmを計測し、多量の遺物を含んでいた。15号窯の出土遺物には、灰釉陶器や窯道具の焼台、分炎棒があった。

 篠岡104号窯は、煙道部付近を開墾によって一部削平されていたものの、ほぼ完全な状態で残っていた。104号窯は、船底ピットを有するあな窯で、長さ9.1m、床面最大幅1.6mを計測する大形の窯である。104号窯の焚口の幅は1.3mで、104号窯の焚口から焼成室までは、1.5mの平坦な部分を有し、焚口から1.5mの地点から上方へ傾斜が始まる。

 104号窯の船底ピットは、燃焼室から焼成室下部にかけて掘られており、全長3.5m、最大幅1.15m、深さ20〜30cmである。104号窯の船底ピットは、焚口付近で前庭部にある排水溝の排水口と接続している。104号窯の船底ピットの埋土は、3層に分かれており、上層から、窯壁を含む黄褐色土、炭・焼土ブロックを含む青灰色土、焼土を多量に含む黄褐色土となっていた。104号窯の船底ピット底部は火を受けた痕跡はなく、104号窯の焼成室床面は、ピットの部分のみ認められなかった。

 104号窯の焼成室は、全長6.5m、床面最大幅1.6mを計測し、側壁の高さは55cmであった。104号窯の焼成室中央は、やや右にゆがみ、104号窯の焼成室床面は、燃焼室から2mで最大幅に達し、その後徐々に狭まり、上端では1.25mを計測した。104号窯の床面は、4.4mの平坦な部分から高さ16cmの階段状となり、104号窯の床面傾斜角は、約24度である。104号窯の焼成室上部の階段状床面は、2回の改造が行われていた。

 104号窯の前庭部は、谷の底部近くにあたり、ゆるい傾斜となっていた。104号窯の船底ピットから続く排水溝は、前庭部斜面下方にのびていた。104号窯の排水溝は、長さ2.2m、幅30cm、深さ15cmを計測した。104号窯の灰原は、104号窯内燃焼室から始まり、長さ7m、幅10m以上にわたって広がっていた。

 104号窯の灰層は、谷底部にある表土下50cmで検出され、状態は良好であった。104号窯の灰層の厚さは約40cmあり、谷の底部で傾斜が変わる地点まで続いていた。

 104号窯の出土遺物には、灰釉陶器・須恵器・瓦・窯道具のトチン・ツクなどがあった。しかし、104号窯の出土遺物の特徴としては、灰釉陶器の量は少なく、主体を占めていたのは、須恵器であった。

 一方、篠岡15号窯の灰層下で検出された篠岡105号窯は、長さ3.6m、床面最大幅1.1mを計測するあな窯で、分炎柱も船底ピットも認められなかった。篠岡105号窯の燃焼室は、105号窯の焚口から1.2mほどの位置にあり、105号窯の焚口からわずかに下降するが、ほとんど平坦である。105号窯の焚口の幅は1.2mである。105号窯の焼成室は、長さ2.2m、最大床面幅1.1mを計測した後、徐々に狭まり、焼成室の上端は床面幅85cmを計測する。105号窯の側壁の高さは最大20cmほどで、床面傾斜角は28度ほどである。105号窯の煙道部は、焼成室上端から急傾斜で立ち上がって、20cmの段を形成しているが、その先は、削平されて不明である。

 105号窯は、全体的にあまり焼き締まっておらず、補修の跡も認められない。105号窯の灰層は、ほとんど検出されなかった。従って、105号窯は、きわめて短期間の操業で終わった可能性が高い。105号窯の出土遺物は、須恵器のみで、105号窯の前庭部で出土した灰釉陶器1点は、15号窯の遺物である灰釉椀に近い形をしている。

篠岡104号窯出土須恵器(円面硯)の写真

篠岡104号窯出土須恵器(円面硯)

 篠岡104号窯から出土した遺物の主体を占めるのは、様々な種類の須恵器であり、灰釉陶器は少量である。須恵器の編年から考察すると、篠岡104窯から出土した須恵器は、その形から、900年以前にさかのぼるものと考えられる。900年以前の時代といえば、平安時代の初期から中期にかけて、最澄が中国から帰国して天台宗を伝え、空海が中国から帰国して真言宗を伝え、日本人がカタカナやひらがなを使い始めた頃、藤原氏が政治の実権を握り始めた頃である。

 篠岡105号窯は、出土遺物は少ないが、105号窯内で出土した遺物は全て須恵器で、その種類も104号窯の遺物と同じ内容のものであった。従って、105号窯と104号窯は、同じ時期に操業していた窯であると考えられる。

 一方、篠岡15号窯で出土した灰釉陶器は、その編年から推測すると、900年から1000年のにかけてのものであると考えられる。900年から1000年の間は、平安時代中期から後期、藤原氏による摂関政治全盛の頃で、国風文化が栄え、紫式部の「源氏物語」や清少納言の「枕草子」が書かれた時代である。しかし、その一方で、地方政治が乱れ、武士団が発生したのもこの時代であった。このころから、貴族社会の時代は、武士社会の時代へと歩み始める。出土遺物から見て、篠岡15号窯と篠岡104号窯・105号窯とは、連続性がないと考えられる。

 篠岡104号窯は、従来からの須恵器窯と同様の船底ピットを有しているが、焼成室を2回改造するなど、従来からの須恵器窯に様々な改造を施していて、灰釉陶器導入に伴う試行錯誤が認められる。このことから、篠岡104号窯に見られる初期の段階の須恵器窯の改良を経て、篠岡47号窯が成立したと考えられる。104号窯から出土した須恵器においては、篠岡47号窯出土のものと比較して、古い様相が認められ、蓋につまみを有するタイプや杯に高台を有するタイプなど、器種も豊富である。また、篠岡104号窯から出土した灰釉陶器は、篠岡47号窯出土のものとほとんど差異が認められない。

篠岡104号窯現在地の写真

篠岡104号窯現在地。2005年1月このホームページ管理人撮影。

<参考文献>

「桃花台沿線開発事業地区内埋蔵文化財発掘調査報告書」

小牧市教育委員会 昭和62年(1987年)3月発行

「桃花台ニュータウン遺跡調査報告7」

愛知県建築部・小牧市教育委員会 平成4年(1992年)6月発行。

篠岡104号窯現在地から桃花台ニュータウンを望む写真

篠岡104号窯現在地から桃花台ニュータウンを望む。2005年1月このホームページ管理人撮影。