篠岡56号窯

篠岡古窯跡群出土の様々な須恵器

篠岡古窯跡群出土の様々な須恵器

 篠岡56号窯は、桃花台ニュータウンの開発のため、愛知県建築部より委託を受けた小牧市教育委員会が、昭和47年(1972年)に発掘調査を実施した古窯跡である。篠岡56号窯発掘調査報告書を読むと、次のように書かれてある。「篠岡56号窯発掘調査当初は、灰層の堆積が大きく、かつ広かったので、2基の古窯が並んで残っていると思われたのだが、調査が進むにしたがって、古窯は1基であることがわかり、その出土遺物の豊富さと共に驚かされた。」

 篠岡56号窯の窯は、7世紀後半に築かれ、7回ほどの定期的補修を行いつつ、9世紀中ごろまで使用された窯であると考えられる。7世紀後半といえば、大化の改新後、薄葬令や火葬の普及により古墳が衰え、壬申の乱がおこって、大海人皇子が天武天皇に即位し、白鳳文化が栄えて律令国家が成立した頃である。また、9世紀中ごろといえば、平安京に都が移って平安時代が始まり、最澄が中国から帰国して天台宗を伝え、空海が中国から帰国して真言宗を伝え、カタカナ・ひらがなが使われ始め、藤原氏が政治の実権を握り始めた頃である。

 56号窯が築かれた当初の窯の大きさは、焚口から煙道部、煙だしまで全長11m程度の窯で、最大幅は3m近くあった。焼成室中央部に約10cm、焼成室上部に約17cmのやや湾曲した段が2段設けられている。104号窯に見られるような船底ピットは築かれていない。窯が築かれてから、焚口から壁面にかけての7回ほどの定期的な補修により、窯体は縮小していった。床面からは、半筒形で袖を持たない丸軒瓦のような状態の土器が数多く出土した。「土器が出土したときは、雑然としており、並べ方など法則的なものを見出すことはできなかった。」と報告書には書かれてある。

 篠岡56号窯の灰原からの出土遺物は多彩を極めた。しかし、出土遺物の形式は、篠岡古窯跡群で最も古い奈良朝須恵器の第一類(古墳時代の須恵器の伝統を残すもの。7世紀後半)に相当するものから第二類(第一類に比べて、器種が多く、細部が種々雑多な様相を示すもの。7世紀末から8世紀前半)、第三類(第二類より大型になったり、形状が変化して多様化したり、施釉されたりする。8世紀前半から9世紀前半)を経て、平安朝し器(灰釉陶器)第一類(須恵質で施釉のものと無釉のものが混在している。9世紀前半)に達し、重ね焼きの量産体制にまで入っている。

 日本後記(平安時代初期に天皇の命により編纂された歴史書)によると、弘仁六年(815年)正月五日の条に次のような意味の記載がある。

「し器(灰釉陶器)を作る尾張国山田郡出身の乙麻呂等3人は、技術を大成し、官人となって、出身を聞かれた。」

 「尾張国山田郡」という地名がどこを指しているのか、今となってはわからない。しかし、もし、篠岡56号窯で働いていた陶磁職人が9世紀前半頃、し器(灰釉陶器)生産の技術を認められて平安京に行って、公務員となったのなら、篠岡56号窯が9世紀中ごろで操業を終えた理由がわかるような気がする。これは、あくまでもこのホームページ管理人の想像でしかないのだが。

篠岡56号窯現在地

篠岡56号窯現在地。2017年11月このホームページ管理人撮影。

<参考文献>

「桃花台ニュータウン遺跡調査報告」愛知県建築部 小牧市教育委員会 昭和51年(1976年)3月発行