篠岡66号窯

篠岡古窯跡群出土文字瓦

篠岡古窯跡群出土文字瓦

 篠岡66号窯は、昭和48年(1973年)、桃花台ニュータウンの開発にあたって、小牧市教育委員会が愛知県建築部より委託を受けて、発掘調査を実施した。篠岡66号窯は、篠岡丘陵の東斜面中腹にあって、道路下に埋没した半地下式のあな窯であった。調査の結果、窯は、第1次と第2次とにわたって築かれた。篠岡66号窯第1次窯は、須恵器を主体として焼成し、第2次窯は、第1次窯を縮小して築かれ、須恵器や窯道具の他に灰釉陶器を焼成していた。

 篠岡66号窯第1次窯は、全長が7m80cmあった。燃焼室の長さ1m40cmの地点で、中心線より右寄りに分炎柱があった。焼成室は、全長5m80cm、最大幅1m90cmで、上部へ行くほど狭くなって、1m20cmとなる大型の窯である。焼成室は、1mほど平坦な面が続き、39度の傾斜を持ってのぼり、煙道部で再び平坦となる。焼成室の床面が急なために、須恵器などの製品を詰める際、転落を防いだり、支えるために使用したとみられる粘土塊やこぶし大の焼けた石が28個出土した。分炎柱背後の平坦面には、大甕の破片や須恵器片が多く、褐色がかった色調のものが目立った。床面上には、一様に、厚さ5cmくらいの粗い粒の砂が敷かれ、焼成室上半には、須恵質の杯を伏せて埋もれさせたものが出土した。この杯は青黒く、粗雑な作りで焼きも悪かったので、焼台としての役目を果たしていたとみられる。

 篠岡66号窯第2次窯は、第1次窯から約80cmの高さで規模を縮小し、床面を貼っていた。第1次窯と第2次窯の間は、白色粘土と粗い砂状の土を入れて埋めていた。第2次窯の全長は6m90cm、最大幅1m60cmで、窯の壁の一部は、第1次窯の壁を利用して築いた痕跡が認められた。床面は30度の傾斜で登っている。しかし、焼成室の上部は流失して、煙道部の状況は不明である。分炎柱の有無も不明である。床面には、黒褐色や明褐色の粗い粒の砂が3〜4cm敷かれ、砂の中に無釉の杯の伏せた状態のものが出土した。灰原は、焚口付近から11〜16度の傾斜で緩やかに広がり、隣接した65号窯、67号窯の各灰層と区別できる状態で堆積していた。66号窯第1次窯と第2次窯の間には、乳白色と青みがかった粘土層が入り、層位の判別は容易にできた。

 66号窯第1次窯の出土遺物は、須恵器である。須恵器の種類には、杯、蓋、盤、皿、壺、甕、鉢、甑、高坏、陶臼、硯、瓦、窯道具等があり、奈良時代のものである。66号窯第2次窯の出土遺物は、灰釉陶器である。灰釉陶器の種類は、杯、碗、皿、三足盤、盤、壺、蓋、平瓶、浄瓶、片口鉢、さや等があり、平安時代のものである。

 篠岡66号窯で注目すべきなのは、第1次窯から出土した須恵器である。例えば、出土した窯道具の中には、トチという名の窯の中で陶磁器を乗せて焼く焼台がある。陶磁器を乗せる枕という意味での「陶枕(トウチン)」から「トチ」という名前がついた。66号窯第1次窯で出土した三又のトチには、女性の性器を中央に刻み、側面に陰毛、一方に肛門を書いて、残る側面に「江迫田秋」と刻んであるものや、三又トチの中央に文字らしい刻みがあるものがあった。66号窯を操業していた須恵器職人が奈良時代に何を考えて仕事をしているのか、垣間見ることができて、実に微笑ましい出土品だ。しかし、それ以上に注目すべき出土品は、上の写真にある文字瓦だ。篠岡66号窯から出土した上の写真の文字瓦こそ、刻まれたその文字をめぐって、様々な憶測が飛び交っている謎の多い文字瓦なのだ。

 篠岡66号窯第1次窯から出土した瓦は、薄手の布目瓦で、軒丸瓦、軒平瓦、平瓦など52点ある。このうち、文字が刻まれていたのは、平瓦である。平瓦に刻まれた文字には、様々なものがある。「多楽里尼・・・」「山田安・・・」「・・・里」「多楽里張戸連」「五十長」「鹿田里積憩・・・」「多楽里・・・」「尾張・・・」「・・・雀刀足・・・」「多楽・・・」などである。そして、これらの平瓦に刻まれた文字は、それぞれ、筆跡が異なっている。つまり、これらの文字瓦は、大勢の人々の手によって書かれたものである。

 66号窯から出土した遺物の種類を見ると、食器類や料理器具などの生活用品、窯道具の他に、硯や軒丸瓦・軒平瓦・平瓦がある。このうち、硯や瓦の製作を66号窯に頼んでくる先は、寺院または神社であろう。現在でも、寺院や神社の瓦の修繕費用は、寄付に頼ることが多い。寺院や神社では、修繕のために新しい瓦を発注するにあたり、一人数千円の費用で、瓦の裏側に自分の名前や願い事を書いて、奉納するという形式をとっている神社や寺院がある。

 ところで、66号窯が操業して、須恵器の平瓦を焼いていた奈良時代、66号窯近くで修繕や新築をしていた寺院といえば、大山廃寺である。この時期、大山廃寺では、三重塔または五重塔の創建をしている。塔だけではなく、7世紀末の白鳳文化の時代には、大規模な山岳寺院が建っていた可能性がある大山廃寺なので、奈良時代に瓦の修復を迎える堂があっても何ら不思議ではない。ただし、大山廃寺発掘調査報告書(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)発行)によると、大山廃寺発掘調査にて出土した記銘瓦の文字は、全て「山寺」であった。

 話は変わって、上の写真の瓦に刻まれた文字について見ていこう。「多楽里張戸連」を上から解読する。まず、「多楽」であるが、現在、愛知県春日井市に田楽町(たらがちょう)という名の町がある。HP「春日井市内 地名の由来」によると、春日井市田楽町(たらがちょう)は、「尾張国地名考」(津田正生著 愛知県海部郡教育会 大正5年(1916年)発行)という本に「田楽の田の字は当て字で、多い楽と書くのが本当だ。」と書いてあるそうだ。現在の春日井市田楽町という場所は、昔「陶村」と呼ばれ、篠岡古窯跡群の中でも古窯が密集しているあたり(篠岡104号窯のあたり)、現在の小牧市下末の南隣にある。「里」というのは、現在でいう村のようなもので、奈良時代の律令制度の頃は、50戸で1里が原則であった。「戸」は、家のことである。だから、「多楽里張戸連」を上から直訳すると、多楽村(現在の春日井市田楽町)の張家ということになる。しかし、ここで、最後の「連」という字が大きな意味を持ってくる。「連」とは、「むらじ」と読む。奈良時代の「連」とは、地方の豪族が持つ地位で、国家の中では、上から7番目の地位にあたる。そして、尾張国の中で「連」という位を名乗ることのできる豪族は、「尾張氏」しかいない。そして、「連」の多くは渡来系の有力氏族で、「張」という名前は、中国や朝鮮半島に多い名前である。この時点で、このホームページ管理人は、「尾張氏」は渡来系の有力氏族だったのかと思い、「奈良時代、尾張氏は春日井の田楽に住んでいたのか?」と勘繰ってしまった。そして、尾張氏が瓦を奉納するような神社および寺院は、よほど、中央政府と結びつきの強い神社や寺院に違いない。

Wikipedia「尾張氏」参照してください。

 つまり、上の写真にある文字瓦は、非常に意味の重い文字瓦である。今後の古代日本の研究のために、非常に大きな役割を果たす文字瓦かもしれない。

篠岡66号窯現在地

篠岡66号窯現在地。2017年11月このホームページ管理人撮影。

<参考文献>

「桃花台ニュータウン遺跡調査報告」愛知県建築部 小牧市教育委員会 昭和51年(1976年)3月発行