篠岡81号窯

篠岡81号窯発掘調査の写真

篠岡81号窯発掘調査の写真 南東から(昭和56年 1981年)城山5丁目

 篠岡81号窯の発掘調査をすることになったきっかけは、桃花台ニュータウン造成地内の崖面に古窯が露出しているという連絡が、地元在住の研究者である梶田元史氏から小牧市教育委員会に入ったことによる。小牧市教育委員会の係員が現地に赴いた結果、古窯は、桃花台ニュータウン造成区域内に所在し、表面採取資料から、8世紀代の須恵器窯と推定した。小牧市教育委員会では、愛知県教育委員会文化財課に古窯の発見を報告すると共に、工事を担当する愛知県桃花台建設事務所に古窯の新発見を通知し、協議に入った。その結果、篠岡81号窯の所在する地区には、造成計画があり、変更は不可能との回答があったため、小牧市教育委員会は、昭和56年(1981年)10月24日から11月8日までの15日間で、発掘調査を実施し、記録保存を計ることとなった。

篠岡古窯跡群全体から出土した様々な須恵器の写真

篠岡古窯跡群全体から出土した様々な須恵器の写真。この中で、最も右下にある平瓶(把手のあるもの)が、篠岡81号窯出土の須恵器とそっくりである。

 篠岡81号窯は、標高約90mの丘陵東斜面に焚口を東南東に向けて築かれた半地下式の窯である。灰原は、多量の埋土のため完掘はできなかったが、当初の推定通り、様々な須恵器を出土し、奈良時代(8世紀)の須恵器窯であったことがわかっている。

 ところで、篠岡81号窯に限らず、篠岡古窯跡群と愛知県内の他の古窯跡やその供給先である全国の古代遺跡の間には、何らかの結びつきがあるはずである。愛知県陶磁資料館に行くと、その一端を垣間見ることができる。

篠岡81号窯現在地

篠岡81号窯現在地の写真。2003年10月このホームページ管理人撮影。

緑釉陶器について

篠岡81号窯出土の緑釉陶器

篠岡81号窯出土の緑釉陶器

 篠岡81号窯では、須恵器の他に、上の写真に見られるような緑釉陶器が出土している。この緑釉陶器は、篠岡81号窯窯体焚口および前庭部の上層から、灰釉陶器・緑釉陶素地などと共にまとまって出土した。これらは、81号窯窯体が埋没した後のくぼみに堆積した層に限定して出土したことから、篠岡81号窯で焼成されたものではなく、上部から流れ込んできたものであると考えられる。篠岡古窯跡群では、篠岡4号・5号・48号窯に続いて、4基めの緑釉陶器出土となる。

 平安時代中期以降(900年代頃)、篠岡産の緑釉陶器は、猿投窯の鳴海地区の緑釉陶器と並んで、尾張窯業の特産品であった。鳴海地区の緑釉陶器が黄白色の胎土に厚い淡緑釉を施すのに対して、篠岡産の緑釉陶器は灰黒色の硬胎に濃緑釉を施すのを特徴としている。

 ここで、緑釉陶器の歴史について、簡単に触れておこう。それは、中国の古代王朝殷(紀元前1100年以前)の灰釉陶器から始まり、唐時代(600年代)の唐三彩の影響を受けて、日本では、奈良時代に入って生産されるようになった。日本の三彩・緑釉陶器を代表するものは、世界最古の伝世品である正倉院三彩・緑釉57点である。平安時代に入ると、緑釉陶器の生産の中心は、愛知県西部にあり、中央の主要な儀式においても、尾張の緑釉陶器を用いることが定められていた。

<参考文献>

「桃花台ニュータウン遺跡調査報告W 小牧市篠岡古窯跡群」愛知県建築部・小牧市教育委員会 昭和57年3月31日発行

「尾張陶磁」井上喜久男著 平成4年5月30日発行 ニューサイエンス社

「講談社カルチャーブックス37 日本のやきものE 三彩 緑釉 瀬戸・常滑」楢崎彰一・宮石宗弘・沢田由治著 1992年1月20日発行 (株)講談社