篠岡87・96号窯

篠岡87・96号窯発掘調査の写真

篠岡87・96号窯発掘調査の写真。右が87号窯、左が96号窯である。

 篠岡87・96号窯の発掘調査の契機は,昭和57年(1982年)8月、桃花台地内で土器の散布する地点があり、周辺を工事用車両の往来が見られるとする、春日井市在住の梶田氏からの連絡によるものであった。この地域は、造成工事が昭和58年度(1983年度)に実施される計画であったので、発掘調査は、昭和58年(1983年)7月20日から8月5日まで実施された。この発掘区全体は湧水が激しく,発掘区下半分が水没したため、常時排水する必要があった。そのような状況下で、発掘調査は大幅に期日を延長したが,貴重な成果を得て終了した。

篠岡87・96号窯現在地の写真

篠岡87・96号窯の現在地である城山5丁目の写真。2003年このホームページ管理人撮影。

 篠岡87・96号窯が見つかった篠岡丘陵中央部は、古窯跡の分布密度の最も高い地域である。篠岡87・96号窯は存続期間が長く、850年くらいから1100年くらいまで、つまり、篠岡古窯跡群で灰釉陶器が生産され始めた最初と最後を含んでいる。なお、篠岡87・96号窯と同時期の遺跡として,国指定史跡大山廃寺(奈良〜室町時代)がある。

 篠岡87・96号窯は、遺構の遺存状態が良好であったため、発掘調査で得た遺物は、100袋以上に及んだ。出土量は、灰釉陶器が最も多く,次いで,須恵器、灰釉系陶器(無釉の灰釉陶器)の順であった。篠岡87・96号窯では、篠岡古窯跡群における灰釉陶器生産の最初から最後までの長期間に渡って焼成された土器が出土したため、出土遺物の特徴の変化から、この時代の陶器製作の変遷を見ることができる。

篠岡96号窯発掘調査の写真

篠岡96号窯発掘調査の写真。

 発掘調査の結果,96号窯は、窯が築かれてから廃絶するまで、2回の大幅な改造が行われていたことが判明した。篠岡87・96号窯発掘調査報告書では,築窯順に下層から、第1次窯、第2次窯、第3次窯と呼んでいる。上の写真は,96号窯廃絶時の第3次窯のものと思われる。このような長期間(300年近く)にわたって、1つの同じ窯が操業された例はきわめて少ない。

 一般に、灰釉陶器焼成窯は、細長くしまりのない形で、床面傾斜角が25度程の構造から、徐々に、短く、幅広で、傾斜角が上昇していく傾向が認められる。このことは、灰釉陶器生産において、省力化による大量生産を指向していくことと軌を一にしている。灰釉陶器の生産方法は、時代を追うごとに,釉薬のハケ塗りから漬け掛けへ、三叉トチを使用する重ね焼きから直接重ね焼きへ、陶器の底部調整から糸切り無調整へと変化していく。96号窯の場合も,このような傾向にあったが、96号窯の場合は,同一窯の焼成室内を次々に埋めて床面を貼るといった改造を行っていった結果、第3次窯に至って、著しく焼成室の面積が減少した。従って,灰釉陶器の大量生産指向に相容れないものとなったため、96号窯を廃絶し、隣にある87号窯を築造することとなったと考えられる。

 なお、篠岡87・96号窯に限らず,篠岡古窯跡群の発掘調査は,行政のみならず、第1発見者や工事請負業者、学校、施設など非常に多くの人々の協力によって行われたということを私たちは忘れてはいけない。そのような多くの人々の協力があったのちに書かれた発掘調査報告書を読んで、このホームページ管理人は、このホームページを作成しているのである。

<参考文献>

「桃花台ニュータウン遺跡調査報告X」愛知県建築部・小牧市教育委員会発行 昭和59年(1984年)2月