3.Cブロックの文化財(大久佐八幡宮の心臓部)

Cブロックの略図

このホームページ管理人がペイントで作成したCブロックの略図である。

大久佐八幡宮の写真

 拝殿・祭文殿・本殿が渡り殿で一直線につながっている、神社建築の尾張造りの様子。2014年6月このホームページ管理人撮影。尾張地方特有の神社建築物である透かし塀の向こうに、拝殿・渡り殿・祭文殿・渡り殿・本殿が一直線に配置され、そのまわりに、石燈籠や狛犬や末社の祠が基本的に左右対称に配置され、土地の形状的に左右対称に配置しきれなかった分の末社の祠や石燈籠や石碑が、Cブロックのブロック内に配置されている。これを神社建築では、尾張造りと言う。Aブロックで、参拝者に大久佐八幡宮の歴史を語り、Bブロックで、大久佐八幡宮の由緒や祭事や末社や所有する宝物を語り、Cブロックで、大久佐八幡宮が地域に根差した神社であることを語る。近所にある大山を登れば、晴れた日には、尾張平野が伊勢湾まで一望できる。

 ここからは、Cブロック略図にある建築物や石造物の簡単な説明をする。上にあるCブロック略図をご覧になりながら、読んでください。

透かし塀

大久佐八幡宮の透かし塀

 透かし塀の写真である。2014年5月このホームページ管理人撮影。尾張地方の神社建築に特有のものである、大久佐八幡宮の透かし塀は、明治17年(1884年)10月に新しく造立されたものであると書かれた棟札が大久佐八幡宮に残されている。その後、昭和61年(1986年)の昭和の大修理で、102年ぶりに、屋根を葺き替え、柱や板が新材に取り替えられた。

拝殿

大久佐八幡宮の拝殿

拝殿の様子。2013年1月このホームページ管理人撮影。

拝殿に掲げられた神号額

拝殿に掲げられた神号額は、2018年12月13日このホームページ管理人が撮影したものである。

 拝殿に掲げられた「正一位大久佐八幡宮」と書かれた神号額は、けやきの木を材料として、長さ約90.9cm、幅約45.4cm、厚さ約2.4cmに作られたもので、正面には、字の周囲に模様がある。裏面には、中央に、神祇官領ト部良義朝臣とあり、隅に義勝造とある。この神号額は、慶応3年(1867年)8月1日、大久佐八幡宮が神社の最高位である「正一位大久佐八幡宮」となったときに、神祇官より請け賜わったもので、戦前までは、第二鳥居に掲げられていた。正面に見える狛犬1は、昭和3年(1928年)1月日付のものである。写真の右端と左端に切れて写っている石燈籠Gは、大正15年(1926年)1月日付の石燈籠である。

大久佐八幡宮の拝殿内部

三十六歌仙絵札の写真パネルが掲げられている現在の拝殿内部の様子。正面の渡り殿の向こうに祭文殿の入口が見える。2013年1月このホームページ管理人撮影。

 拝殿は、昭和61年(1986年)の昭和の大修理のとき、137年ぶりに再建されたが、昭和の大修理より137年前の嘉永2年(1849年江戸時代幕末)に再建された、吹きさらしの拝殿の壁の四周には、現在、小牧市指定有形民俗文化財となっている三十六歌仙絵札が掲げられていた。(現在は、保存上の理由から、三十六歌仙絵札の写真パネルが、拝殿に掲げられている。)写真に写っている左右の狛犬2は、大正14年(1925年)12月日付のものである。写真の右端と左端に切れて写っている石燈籠Hは、昭和5年(1930年)8月日付の石燈籠である。拝殿・祭文殿・本殿を一直線につないでいる渡り殿は、昭和61年(1986年)の昭和の大修理で、再建されたものである。

祭文殿

神明造りの屋根を持つ祭文殿の向かって右側に建ち並んだ末社の祠である。2014年6月このホームページ管理人撮影。

 祭文殿の屋根の形を神明造りと言う。祭文殿の屋根が神明造りに建て替えられたのは、明治35年(1902年)のことである。そして、84年後の昭和61年(1986年)の昭和の大修理のとき、新しく再建された。祭文殿の左右には、左右対称に末社の祠が建ち並んでいる。

祭文殿右側末社

祭文殿の向かって右側にずらりと並ぶ末社である。一番右に稲荷神社の赤い鳥居が写り、その左隣が蚕神社、その隣が名前のない祠3、その隣が山神社、その隣が津島社、その隣が熱田社、一番左に祭文殿の端が切れて写っている。(Cブロック略図参照。)2014年7月このホームページ管理人撮影。

蚕神社
 写真の一番右、稲荷神社の赤い鳥居の隣にある、他の末社と少し離れて立つ、少し大きめの祠が末社「蚕霊神社」である。3世紀後半に朝鮮半島から日本に渡ってきたと言われている渡来系氏族の秦氏は、養蚕の技術を日本に伝えたとされる。(「Wikipedia秦氏」参照)

名前のない祠3

 蚕神社の左隣(少し前)に写っている青い屋根の小さい祠には名前がない。Bブロックにある神社の由緒を記した石板の裏側に記された末社には名前が記されていないが、「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)の第11章第3節「村社」のページに「大久佐八幡社」(大久佐八幡宮のこと。)についての記述があり、境内神社として、「愛宕社」という神社が存在し、祭神は、炎明命であると記されている。従って、このホームページ管理人は、名前のない祠3は、「愛宕社」という末社であると考えている。「Wikipedia秦氏」には、秦氏は、「山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かった」と書かれている。「Wikipedia天火明命」参照。「Wikipedia愛宕信仰」参照。

名前のない祠3の2018年現在の様子

2018年12月13日このホームページ管理人撮影。

 名前のない祠3は、2018年現在、「山湊」と書かれた名札が付けられている。山湊とは、舟の運航の拠点であるという意味だとこのホームページ管理人は考える。すると、この末社は、金刀比羅社との関係が指摘される。6世紀初頭の古墳時代、大久佐八幡宮の近くを流れる八田川を利用して、八田川下流の春日井市下原にあった下原古窯跡群で作られた埴輪が、下原から更に8km下流にある味美二子山古墳(全長96mの前方後円墳)に運ばれたことが判っていることから、八田川を行く船の安全を願って、金刀比羅社が造られたと考えられることと関係がある。しかし、そうすると、「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)の第11章第3節「村社」のページに書かれている「大久佐八幡社」(大久佐八幡宮のこと。)の境内神社として存在した「愛宕社」という末社がなくなってしまう。2018年現在、このホームページ管理人が大久佐八幡宮の謎と考えるものの1つだ。

山神社

 写真の名前のない祠3の左隣にある赤い屋根の小さな祠が末社「山神社」である。「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)の第11章第3節「村社」のページに「大久佐八幡社」(大久佐八幡宮のこと。)についての記述があり、境内神社の山神社の祭神は、「大山祇命」と書かれてある。(Wikipedia「オオヤマツミ」参照。)

津島社

 写真の山神社の左隣にある少し大きい祠が末社「津島社」である。(HP「全国天王総本社 津島神社」参照。)

熱田社

 上の写真の津島社の左隣にある大きな祠が末社「熱田社」である。「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)の第11章第3節「村社」のページに「大久佐八幡社」(大久佐八幡宮のこと。)についての記述があり、境内神社の熱田社の祭神は、「日本武命」と書かれてある。(HP「熱田神宮」参照。)

祭文殿の向かって左側に建ち並ぶ末社の祠

祭文殿の向かって左側に建ち並ぶ末社の祠である。末社の祠の後ろに建っているのは、神饌所である。2014年6月このホームページ管理人撮影。

神明社

 一番右端に写っている大きな建物が祭文殿だが、その左隣に写っている少し大きい祠が末社「神明社」である。「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)の第11章第3節「村社」のページに「大久佐八幡社」(大久佐八幡宮のこと。)についての記述があり、境内神社の神明社の祭神は、「天照大神」と書かれてある。(「Wikipedia神明神社」参照)

名前のない祠1

 写真で、末社「神明社」の左隣に写っている小さな祠は名前がない。このホームページ管理人は、自分の勘で、この祠を末社「鍬神社」と名付けた。「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)の第11章第3節「村社」のページに「大久佐八幡社」(大久佐八幡宮のこと。)についての記述があり、境内神社の鍬神社の祭神は、「保食命」と書かれてある。秦氏が創建したと言われる伏見稲荷大社は、五穀豊穣の神様である。(「Wikipedia保食神」参照。)

名前のない祠1の2018年現在の様子

名前のない祠1には、2018年現在、「鍬神社」の名札が付けられています。2018年12月13日このホームページ管理人撮影。

御嶽社

御嶽山遥拝所

「御嶽山遥拝所」と刻まれた石造物の写真は、2018年12月13日このホームページ管理人が撮影した。

 名前のない祠1(鍬神社)に向かって左隣には、御嶽信仰のものと思われる石造物がある。「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)の第11章第3節「村社」のページに「大久佐八幡社」(大久佐八幡宮のこと。)についての記述があり、それによると、境内神社の御嶽社の祭神は、国常立命とあり、合祀した祭神として、大己貴命、少彦名命があるとのことだ。そして、大正元年9月12日、許可を得て、篠岡村大字大草(現在の小牧市大草)字洞之海道4208番の第1にあった元無格社御嶽神社の祭神である大己貴命、少彦名命を合祀した、と書かれてある。(HP「御嶽神社」参照)「御嶽山遥拝所」と刻まれた石造物がある方向に御嶽山があり、この石造物に向かってお祈りすると、御嶽山に向かってお祈りしたことになる。

神饌所

 末社「神明社」の後ろに写っている建物が、「神饌所」と呼ばれる建物である。神饌所とは、神様に捧げる食物を調理し、格納する場所のことである。(「Wikipedia神饌」参照。)

本殿

渡り殿と本殿の入り口

神饌所の横あたりから撮影した、祭文殿から伸びる渡り殿と本殿の入り口である。2014年6月このホームページ管理人撮影。

本殿の屋根

稲荷神社から撮影した本殿の屋根である。2014年6月このホームページ管理人撮影。

 文化11年(1814年)に再建したことを示す棟札が大久佐八幡宮に残されていることから、本殿は、昭和61年(1986年)の昭和の大修理のとき、172年ぶりに再建されたと考えられる。また、本殿の屋根は流れ造りと言う。本殿には、4つの手の付いた幣帛(祭りのときに神にささげられたものの総称)桧材が納められた、長さ約36.36cm、幅約12.12cmの箱がある。これは、慶応3年(1867年)に大久佐八幡宮が正一位という神社の最高位を得たときに、神祇官から請け賜わったものである。

大久佐八幡宮末社稲荷神社

大久佐八幡宮末社「稲荷神社」の赤い鳥居の様子である。2013年1月このホームページ管理人撮影。

大久佐八幡宮末社稲荷神社の鳥居の先にある白い狐の祠

大久佐八幡宮末社「稲荷神社」の鳥居の先にある白い狐の祠である。2013年1月このホームページ管理人撮影。

稲荷神社

 末社の稲荷神社は、「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)の第11章第3節「村社」の「大久佐八幡社」(大久佐八幡宮のこと。)のページには記述がない。稲荷神社の狐の祠には、大正15年2月の日付を彫った石造物が存在しているので、この頃に大久佐八幡宮の末社になったと考えられる。稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社は、3世紀後半に朝鮮半島から日本に渡ってきたと言われている渡来系氏族の秦氏が創建したと伝えられる。(「Wikipedia秦氏」参照

「Wikipedia稲荷神」参照。)

名前のない祠2

名前のない祠2

2014年7月このホームページ管理人撮影。

 末社「稲荷神社」の前には、名前のない祠2がある。この祠は、小さくて名前がない割には、屋根のないコンクリートの壁で仕切られた1つの空間を持っている。このホームページ管理人の勘で、この名前のない祠2は、「金刀比羅社」とする。6世紀初頭の古墳時代、大久佐八幡宮の近くを流れる八田川を利用して、八田川下流の春日井市下原にあった下原古窯跡群で作られた埴輪が、下原から更に8km下流にある味美二子山古墳(全長96mの前方後円墳)に運ばれたことが判っていることから、八田川を行く船の安全を願って、金刀比羅社という末社が造られた可能性はある。「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)の第11章第3節「村社」の「大久佐八幡社」(大久佐八幡宮のこと。)のページに、境内神社「金刀比羅社」の記述があり、「金刀比羅社」の祭神は、金山彦命である。(「Wikipedia金山彦神」参照。)(「Wikipedia「金刀比羅神社」参照。

名前のない祠2の2018年現在の様子

名前のない祠2には、2018年現在、「金刀比羅社」の名札が掲げられています。2018年12月13日このホームページ管理人撮影。

築山

拝殿側から撮った築山の全体写真である。築山の向こうに、第三鳥居と手水舎が見える。築山の中に写っているのは、石燈籠Aである。2014年5月このホームページ管理人撮影。

 第三鳥居を過ぎると、拝殿に向かって右側前方に、築山のような、こんもりした小さい森のような所があり、その中に、石碑1、石碑2、石燈籠A、石燈籠B、石燈籠Cが立っている。(上にあるCブロック略図を参照してください。)築山の木々に隠れて見落としがちだが、これらの石碑、石燈籠の説明は、以下の通りである。

石燈籠A

 石燈籠に刻まれていた文字は風化して、このホームページ管理人には読み取ることができなかった。しかし、「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)によると、正面の足の部分(竿と言う。「HP石燈籠類」参照。)には、「八幡宮 奉寄進石燈明」と刻まれ、側面の竿の部分には、「享保二十年九月吉日 願主春日井郡大草村 西尾甚左門」と刻まれている。(享保20年は江戸時代中期、享保の改革で有名な8代将軍徳川吉宗の時代である。西暦1735年。)

石燈籠B

石燈籠B

築山の中にある石燈籠Bである。2014年7月このホームページ管理人撮影。

 築山にある石燈籠の中では、一番小さく、見落としやすい。石燈籠に刻まれていた文字は風化して、このホームページ管理人には読み取ることができなかったが、「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)によると、竿の正面には、「奉寄進 八幡宮」と刻まれ、竿の側面部分には、「寛延元戌辰九月吉日 当村 西尾糸兵衛」と刻まれている。(寛延元年は、西暦1748年である。徳川吉宗は1745年に将軍職を辞し、1751年に亡くなった。)

石燈籠C

石燈籠C

築山の中にある石燈籠Cである。2014年5月このホームページ管理人撮影。

 石燈籠Cの宝珠(頭の部分)が欠けて、代わりに、いい大きさの小石がのっかっている。石燈籠に刻まれていた文字は風化して、このホームページ管理人には読み取ることができなかった。「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)によると、竿の正面の部分に、「奉寄進 八幡宮」と刻まれ、竿の側面の部分には、「宝暦六年四月 当村 亀貝新蔵」と刻まれている。(宝暦六年は西暦1756年で、江戸時代中期。宝暦10年に江戸で宝暦の大火が起こる。)

石碑1

 木々をかきわけて見ると、石碑の正面には、「御即位紀念樹」と刻まれ、石碑の右側面には、「大正四年十一月」と刻まれている。大正4年は、西暦1915年。1912年(明治45年)に明治天皇が61歳で崩御し、元号が大正元年となる。大正天皇は、大正4年(1915年)に京都御所で即位の礼を行った。(「Wikipedia大正天皇」参照。)

◇石碑2
 築山にある3つの江戸時代の石燈籠の中に分けて入るように、石碑2が立つ。石碑の正面には、「大久佐八幡宮 修復奉祝記念碑 衆議院議員 丹羽兵助書」と刻まれ、裏面には、大久佐八幡宮の昭和の大修復に参加した多くの人々の名前が刻まれ、昭和62年3月吉日(1987年)の日付が刻まれていた。(「Wikipedia丹羽兵助」参照)

拝殿横に立つ江戸時代の4つの石燈籠

拝殿横に立つ江戸時代の4つの石燈籠その1

拝殿横に立つ江戸時代の4つの石燈籠である。第三鳥居側から本殿側を見て撮影したもので、手前の石燈籠から、石燈籠F、石燈籠E、石燈籠D、石燈籠Jと並んでおり、その向こうに末社御嶽社の石造物が見える。2014年7月このホームページ管理人撮影。

拝殿横に立つ江戸時代の4つの石燈籠で、祭文殿横の末社側から第三鳥居側に向かって撮影したものである。手前の石燈籠から、石燈籠J、石燈籠D、石燈籠E、石燈籠Fと並んでおり、その向こうに、神社の宝物蔵が見える。2014年7月このホームページ管理人撮影。

 さて、拝殿横に立つ江戸時代の4つの石燈籠を様々な角度から撮影した写真を見比べてわかることは、石燈籠の火袋の向かって左側面には、月(月輪)が彫られ、向かって右側面には、太陽(日輪)が彫られているということだ。そして、拝殿横に立つこれらの4つの石燈籠は、祭文殿横の末社側に進むにつれて、新しくなっていくと思われるのだが、それぞれの石燈籠で月の形が違う。江戸時代、日本に普及していた暦は、現在のような太陽暦ではなく、月の満ち欠けを基準にした太陰暦だった。日本人が、現在のように太陽暦を使用するようになったのは、明治時代になってからだ。江戸時代の人々は、夜の空を見上げて、月の形を見ると、今日が何日なのかがわかった。そう考えて、この4つの江戸時代の石燈籠を眺めると、また、違った趣がある。江戸時代、大久佐八幡宮に夜参拝に訪れた人々が、石燈籠に火がともされているのを見て、石燈籠の火袋の側面にある太陽や月の形をどのような思いで眺めていたのだろう。江戸時代の人々は、せかせかした現代人よりも風流だったのではないかと、このホームページ管理人は思うのだった。(「月齢カレンダー」参照。)(「庭園探求講義録 4.石灯籠とつくばい」参照。)

石燈籠F

 拝殿横の江戸時代の4基の石燈籠のうち、最も第三鳥居側に近い石燈籠Fは、竿の正面部分も側面部分も、何か彫ってあるようだが、何が彫ってあるのか、このホームページ管理人にはわからなかった。つまり、石燈籠Fは、4基の石燈籠の中では、最も風化が進んでいる。「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)によると、石燈籠Fの竿の正面には、「奉寄進石燈明 八幡宮」と刻まれているのはわかったが、側面は、「春日井郡大草村」以外の文字は不明とのことである。

石燈籠E

 石燈籠Eは、築山にある石燈籠Aと一対のものである。即ち、竿の正面部分には、「八幡宮 奉寄進石燈明」と刻まれ、側面の竿の部分には、「享保二十年十二月吉日 願主春日井郡大草村 西尾甚左門」と刻まれている。(享保20年は、西暦1735年である。)このホームページ管理人は、「享保二十年」しか読み取ることができなかった。

石燈籠D

 石燈籠DとJは、FやEよりも時代が新しいらしく、このホームページ管理人にも読み取ることができた。石燈籠Dの竿の正面部分には、「奉燈明村中男女御祈祷 八幡宮 御神前」とあり、竿の側面部分には、「延享元年九月吉日 当村願主 白石庄右門」と彫られてある。延享元年は、西暦1744年である。「白石庄右門」は、宝永5年(1708年)に本殿を修復したときの大工の棟梁であることが、神社に残された棟札から確認することができる。延享元年(1744年)は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗が将軍職を辞する1年前である。

石燈籠J

 祭文殿横の末社御嶽社の石造物に最も近いこの石燈籠Jが、築山や拝殿横にある江戸時代の石燈籠の中では、最も新しい。竿の正面部分には、「永代常夜燈 八幡宮」とあり、側面部分には、「寛政九年丁巳八月吉日 願主 大草村長藤仲右衛門」とある。「長藤仲右衛門」は、安永5年(1776年)に拝殿を修理した時の庄屋(江戸時代の村の首長)であることが、神社の棟札から確認することができる。寛政9年は、西暦1797年で、江戸時代中期、喜多川歌麿や十返舎一九(「東海道中膝栗毛」)、伊能忠敬などが活躍した時代である。

小牧市指定無形民俗文化財「大草棒の手」

 「棒の手」は、農民による自衛の武術の形を踊りにしたもので、愛知県では、寺社への奉納として、各地で発達した。大久佐八幡宮では、毎年10月第2日曜日に行われる秋の例祭で、「大草 棒の手」という棒術が、拝殿前にて演技される。流派は、神影流で、江戸時代に、神影流の達人伊庭軍兵衛が、大草に伝わっていた棒術を祭礼の儀式として復活させ、受け継いできたことに由来すると言われている。明治の頃から、大草棒の手は、祭礼に奉納する神事として、定着していく。大草棒の手の奉納は、1958年に行われた例祭まで続いていたが、1959年(昭和34年)に、東海地方を直撃し、未曽有の災害をもたらした伊勢湾台風によって、しばらく中断した。そして、その20年後、福厳寺で奉納されていた棒の手を再現することをきっかけとして、大草棒の手は復活し、大草棒の手保存会が発足した。1983年(昭和58年)、大草棒の手は、小牧市指定無形民俗文化財となる。現在は、大草棒の手保存会の有志により、大草棒の手は、大久佐八幡宮の秋の祭礼に欠かせない年中行事の一つとして、盛大に行われている。

<参考文献>

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行
「東春日井郡誌」大正12年1月発行

「小牧(中学校編)」小牧市教育委員会 2007年(平成19年)3月発行