小牧ヶ丘の風景

 太良(だいら)まめなしの里公園周辺に人間が住み始めたのは、いつのことだろう。八田川上流周辺の春日井市東山町にある下原古窯跡群で作られた埴輪が、八田川を使って、八田川下流にある二子山古墳まで運ばれたのが5世紀頃のことだ。つまり、八田川源流周辺は、5世紀ころには、今から約300万年前にあった東海湖が隆起して、陸地となっていた。東海湖が隆起して、陸地となったのは、いつ頃のことだろう。人類の祖先である猿人がアフリカで出現したのが今から約440万年前だとすると、アフリカから渡ってきた人類の祖先が、まず、あたたかい湖(温泉)である東海湖のほとり(現在の愛知県瀬戸市周辺)に住み着いたとこのホームページ管理人は考える。その後、東海湖が隆起して陸地となったころ、人類は、隆起して陸地となった太良(だいら)まめなしの里公園周辺に移動して、住み始めたと考えるのが自然だろう。

 だから、人類の起源と同時に太良(だいら)まめなしの里公園周辺には人類が住み始め、人類の歴史と共に太良(だいら)まめなしの里公園周辺の歴史が展開されていくとこのホームページ管理人は考える。3世紀ころに尾張地方にあった狗奴国とも、4世紀頃に狗奴国を統一した大和朝廷とも、太良(だいら)まめなしの里公園周辺に住む人々は、深く関わっていったというのがこのホームページ管理人の考えです。そして、太古に太良(だいら)まめなしの里公園周辺に住んでいた人々は、野口・大山古墳群が近くにあるということから、多くの人が古墳に関係した仕事についていたのではないかとこのホームページ管理人は考える。

 八田川周辺では、8世紀から12世紀末にかけて、篠岡古窯跡群が存在した。篠岡古窯跡群には、中央政府と結びついた古窯や製鉄所ができていた。太良(だいら)まめなしの里公園周辺には、古窯や製鉄所に勤務する従業員が多く住んでいたのではないかとこのホームページ管理人は考える。(太良(だいら)まめなしの里公園周辺の土壌は、あまり農業には適していなかったとこのホームページ管理人は考える。)篠岡古窯跡群の中で、太良(だいら)まめなしの里公園周辺に最も近い古窯は、小牧市立光ヶ丘中学校が建つ場所にあった篠岡97号窯だ。篠岡97号窯は、900年から950年にかけて、灰釉の椀・皿を主体に特殊品も焼成する窯として操業を開始し、950年から1000年の間に、椀・皿の専業窯としての傾向を強めつつ、操業を終えていく。900年から1000年頃は、平安時代中期で、菅原道真が失脚し、藤原氏による摂関政治全盛の時代である。このホームページ管理人は、菅原道真が失脚してもなお、菅原氏と藤原氏の政権闘争は終わっていなかったと考える。篠岡97号窯は、出土した遺物から考えて、中央政府(京都にある平安京)と深いつながりがあるとこのホームページ管理人は考える。たとえ、菅原道真が大宰府で亡くなっても、菅原道真を推す勢力が、八田川周辺には存在していて、藤原氏にとっての脅威となっていたとこのホームページ管理人は考える。

 その後、中世(12世紀末から16世紀末)の日本は、武家政権が政治を展開する戦乱の世の中で、太良(だいら)まめなしの里公園と八田川周辺にあるような武器を作る製鉄所施設は大いに繁盛した。近世(17世紀から19世紀)は、徳川幕府の時代で、武士が時代を動かしていた。徳川幕府御三家の尾張藩の需要もあり、太良(だいら)まめなしの里公園と八田川周辺にあるような武器を作る製鉄所施設は大いに繁盛した、と、このホームページ管理人は考える。しかし、武士の没落と同時に、軍事産業に陰りが見え始めるのが江戸時代後期(18世紀)のことだ。

 江戸時代後期(18世紀)、波多野喜衛門という人が中心となって、太良(だいら)上池・下池周辺が造られた。その目的は、それまで、太良(だいら)まめなしの里公園と八田川周辺の主要な産業だった軍事産業を農業(主に米作)に転換することだったとこのホームページ管理人は考える。だから、このホームページ管理人は、太良(だいら)まめなしの里公園周辺の土地の下には、製鉄所などの軍事産業の工場が存在していたと推測する。

 そして、このホームページ管理人の考えでは、江戸時代後期(18世紀)に太良(だいら)上池・下池を造った波多野氏は、幕末から明治維新(19世紀)にかけて、現在の太良(だいら)まめなしの里公園周辺と八田川周辺を繫栄させた。まだ、現段階ではっきりしたことは言えないが、波多野氏と明治維新は、大いに関係があるのではないかとこのホームページ管理人は考える。

 ところで、太良(だいら)まめなしの里公園周辺や小牧市大草に名前が多い波多野氏は、渡来人である秦氏と関係があるのではないかとこのホームページ管理人は考える。秦氏は、中国古代王朝である秦(紀元前3世紀から紀元後3世紀頃、中国にある万里の長城を修築したことで有名である。)の始皇帝に仕えた人々であるという。

 現在、小牧ヶ丘には、神社が2つある。1つは、大良神社である。大良神社は、昭和37年(1962年)に名古屋市などから小牧市小牧ヶ丘に入植した人々が造った神社で、天照大神を祭神とする。もう1つは、七重池近くの小牧ヶ丘の山の頂上にある2つの赤い鳥居の神社である。愛知県西部や岐阜県東部では、赤い鳥居や赤い祠は、津島神社であることが多い。あるいは、稲荷神社の可能性もあるが、稲荷神社の赤い鳥居が縦に連なっていることに比べて、小牧ヶ丘の2つの赤い鳥居は、横に並んでいるので、このホームページ管理人は、小牧ヶ丘の2つの赤い鳥居は、津島神社(天王社)ではないかと考えている。津島神社の主祭神はスサノオで、相殿に大国主を祀る。そして、近世以前(17世紀以前)の津島神社の祭神は牛頭天王で、牛頭天王は、朝鮮半島と関りがあるのではないかという説がある。

 このホームページ管理人は、太良(だいら)まめなしの里公園周辺の土壌は、農業に適した土壌ではなく、入植した人々の多くは、太良(だいら)まめなしの里公園周辺を去っていったという話を聞いたことがある。平成(21世紀)に入ると、太良(だいら)まめなしの里公園周辺には、工業団地ができ始める。そして、2024年現在の太良(だいら)まめなしの里公園周辺ができあがる。

 ところで、このホームページ管理人は、今から約300万年前に太良(だいら)まめなしの里公園周辺が底となっていた東海湖は、古琵琶湖とつながりがあったと考えている。琵琶湖の底には、人類の生活の跡が残されているという説がある。このホームページ管理人は、琵琶湖と東海湖はシーソーのような関係で、琵琶湖が沈むと東海湖は隆起するのではないかと考えている。このホームページ管理人は、遠い将来、東海湖が再び湖になった時、琵琶湖は隆起して、琵琶湖の底にあった部分に人類が住み始めるという想像もしてしまう。

 以上のようなこのホームページ管理人の私説小牧ヶ丘の歴史を踏まえて、小牧市小牧ヶ丘で撮影した写真を公開します。

このページの写真を撮影した場所がわかる太良(だいら)まめなしの里公園周辺の地図

このホームページ管理人がペイントで作成した太良(だいら)まめなしの里公園周辺の地図に、写真を撮影した場所の数字を入れました。例えば、写真の番号が1のものは、地図に紫色の丸と1と撮影した方向の矢印が記されています。

1.小牧ヶ丘から西の方向を望む

2.太良上池北側にある風景

3.2つの赤い鳥居

4.赤い鳥居の近くから見る東側の風景

5.小牧ヶ丘の田園風景

6.前の写真の左側の石の壁

7.前の写真の道(5)を先に進んだ場所

8.エコハウス小牧プラザハウス周辺の小牧ヶ丘の住宅街

9.工事中の小牧オアシスIC周辺の空き地

10.東部工業団地の風景

11.大良揚水機場

12.大良揚水機場に掲げられたプレート

13.大良揚水機場の扉と反対側

14.家の入り口に石仏のある家

15.家の入り口にある石仏

1.小牧ヶ丘から西の方向を望む

1小牧ヶ丘から西の方向を望む写真

1.小牧ヶ丘から西の方向を望むと名古屋駅前ビル群が遠くに見えます。このホームページ管理人は、昭和34年(1959年)9月の伊勢湾台風で被災した名古屋市内に住む人々が、当時、愛知用水(1957年着工、1961年完成)の補給を受ける予定だった小牧ヶ丘に多く入植したという話を聞いたことがある。2024年4月11日14時5分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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2.太良上池北側にある風景

2太良上池北側にある風景の写真

2.太良上池北側にあるこの風景は、どこか、ヨーロッパ的だとこのホームページ管理人は考える。2024年4月11日14時10分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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3.2つの赤い鳥居

3小牧ヶ丘の山の上にある2つの赤い鳥居の写真

3小牧ヶ丘の山の上にある赤い鳥居のアップ写真

3.七重池の東側にある山の上に2つの赤い鳥居がある。このホームページ管理人は、津島神社の鳥居と考える。そして、このホームページ管理人は、石標柱などがなく、名前がわからない神社のようなものは、朝鮮半島などの日本国外の神社であるという考えを持っている。(あるいは、日本の神社制度の外にある神社という考え方もある。)2つの赤い鳥居の写真は、2024年4月11日14時32分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。赤い鳥居のアップ写真は、2024年4月11日14時31分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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4.赤い鳥居の近くから見る東側の風景

4赤い鳥居の近くから見る東側の風景の写真

4.赤い鳥居のある場所の横(東側)から東の方向を見る。赤い鳥居が山の上にあることがわかる。そして、この場所からは、小牧ヶ丘の丘陵を見ることはできるけれども、東部工業団地の建物や太良上池・下池を見ることはできない。2024年4月11日14時34分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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5.小牧ヶ丘の田園風景

5小牧ヶ丘の田園風景の写真

5.3の2つの赤い鳥居は、この写真の右側に写る山の頂上にあるが、この写真には写っていない。この写真の場所から、2つの赤い鳥居のある場所へ行くことはできない。3の2つの赤い鳥居のある場所は、特別な場所であることがわかる。この写真の左側に写る道をたどっていくと、桃花台ニュータウンに入っていくことができる。2024年4月11日14時45分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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6.前の写真の左側の石の壁

6前の写真の左側の石の壁の写真

6.前の写真(5)の左側を見上げると、この写真に見られるように、石を積み上げたような壁になっている。2024年4月11日14時45分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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7.前の写真の道(5)を先に進んだ場所

7前の写真の道(5)を先に進んだ場所の写真

7.前の写真(5)をさらに先に進むと桃花台ニュータウンへの入り口に差し掛かる。この写真の右側の丘の上に桃花台ニュータウンが写っています。この道は桃花台ニュータウンにある小牧市立光ヶ丘中学校に続いている。小牧市立光ヶ丘中学校は、篠岡古窯跡群の篠岡97号窯の上に建てられている。篠岡97号窯は、900年から950年にかけて、灰釉の椀・皿を主体に特殊品も焼成する窯として操業を開始し、950年から1000年の間に、椀・皿の専業窯としての傾向を強めつつ、操業を終えていく。この道は、900年から1000年頃(平安時代中期、菅原道真が失脚し、藤原氏による摂関政治全盛の時代)に篠岡97号窯に勤務する小牧ヶ丘に住む職人が通った道かもしれない。2024年4月11日14時49分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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8.エコハウス小牧プラザハウス周辺の小牧ヶ丘の住宅街

8エコハウス小牧プラザハウス周辺の小牧ヶ丘の風景の写真

8.エコハウス小牧プラザハウス周辺の小牧ヶ丘の住宅街です。写真3・4・5・6・7とはまるで違う。このホームページ管理人は、2つの赤い鳥居の領域と大良神社の領域は全く違うと考えている。2024年5月24日14時5分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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9.工事中の小牧オアシスIC周辺の空き地

9工事中の小牧オアシスIC周辺の空き地の風景の写真

9.2024年現在工事中の中央高速道路小牧オアシスインターチェンジの周辺には、まだ、このような空き地が存在する。このような湿地帯が東海湖由来の湿地帯だと、このホームページ管理人は考える。この写真の左側に写る森の中には養鶏場もある。小牧ヶ丘からこのような風景を消し去ることは無理なことだと、このホームページ管理人は考える。2024年5月24日14時18分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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10.東部工業団地の風景

10東部工業団地の風景の写真

10.東部工業団地では、仕事の車が、何台も、忙しそうに出入りする。900年から1000年頃(平安時代中期、菅原道真が失脚し、藤原氏による摂関政治全盛の時代)には、篠岡97号窯に勤務する職人が住み、2024年現在は、東部工業団地の仕事の車が行きかうのが小牧ヶ丘だとこのホームページ管理人は考える。2024年5月24日14時20分このホームページ管理人iphoneXrにて撮影。

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11.大良揚水機場

11大良揚水機場の2018年の写真

11.2018年10月12日14時4分このホームページ管理人がipadminiにて撮影した大良揚水機場の写真です。

11大良揚水機場の2024年の写真

11.2024年5月24日14時44分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影した大良揚水機場の写真です。この風景は6年間変わっていない。

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12.大良揚水機場に掲げられたプレート

12大良揚水機場に掲げられたプレートの写真

12.大良揚水機場入り口の扉には、「No.7-4 愛知用水 大良揚水機場 製作 久保田鉄工(株)」というプレートが掲げられている。愛知用水は、1957年に着工し、1961年に完成した用水である。愛知用水は、木曽川を水源として、岐阜県加茂郡八百津町から愛知県知多郡南知多町までの112kmを幹線水路としているが、幹線水路から分岐して、海底導水管を通って、日間賀島、佐久島、篠島へも水が送られる。愛知県小牧市にある太良上池、太良下池は、愛知用水の補給水を受けている。1960年代前後には、多くの人が小牧ヶ丘に入植し、昭和37年(1962年)10月に大良神社が創建された。この写真にある大良揚水機場は、2024年現在、60年以上この地に建っている。2024年5月24日14時44分このホームページ管理人がiphoneXrにて撮影する。

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13.大良揚水機場の扉と反対側

13大良揚水機場の扉と反対側の写真

13.大良揚水機場の扉と反対側に回ってみると、この写真のようだった。この写真の大良揚水機場は機能しているのだろうか。2024年5月24日14時45分にこのホームページ管理人がiphoneXrにて撮影する。

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14.家の入り口に石仏のある家

14家の入り口に石仏のある家の写真

14.「篠岡百話」(復刻版)(篠岡中学校 昭和57年(1982年)7月発行)「高根・大草の石仏」563ページ「馬頭観音(16)」のある場所を探して、このホームページ管理人は、小牧ヶ丘をさまよった。「篠岡百話」に掲載されている地図は、2024年現在の小牧ヶ丘の地図とは違うようだ。それに、2024年現在の年上坂という場所は、住宅と東部工業団地とエコハウス小牧が建ち、その上、中央高速のオアシス小牧インターチェンジが工事中である。そして、「篠岡百話」には、「その家の後側には中央道があります。」と書かれてあったが、2024年現在、私が見つけた石仏のある家の後ろ側には、他の家や東部工業団地の建物がいくつもあり、石仏のある家の後ろ側に中央道は見えない。しかし、このホームページ管理人が大良揚水機場にたどり着いたとき、大良揚水機場から近い場所の家の入り口に石仏がある家を偶然みつけた。「篠岡百話」(復刻版)(篠岡中学校 昭和57年(1982年)7月発行)「高根・大草の石仏」563ページ「馬頭観音(16)」の内容は、次の項目「15.家の入り口にある石仏」で紹介する。そして、このホームページ管理人は、入り口に石仏がある家の前の道を進んでいく(この写真の石仏の左側にある道を、写真の向こうに向かって道なりに進む)と、このページの写真5・6・7を通り、やがて、2024年現在は小牧市立光ヶ丘中学校が建っている篠岡97号窯に到着することに注目する。2024年5月24日14時50分このホームページ管理人がiphoneXrにて撮影する。

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15.家の入り口にある石仏

15家の入り口にある石仏の写真

15.「篠岡百話」(復刻版)(篠岡中学校 昭和57年(1982年)7月発行)「高根・大草の石仏」563ページ「馬頭観音(16)」は、次のように記述している。

「馬頭観音(16)

 私たちが調べた石仏は、馬頭観音さまといって、馬を守るために作られたものです。

 この石仏がある場所は、小牧市大字大草をもう少し奥へ入っていった、年上坂という所の、波多野□松さんの家の前にあるものです。その家の後側には、「中央道」があります。

 石仏は、高さ50cm、幅65cm、厚さが14.8cmの小柄のものです。この石仏の特徴といえば、顔が三面鏡になっていることです。そして、手は正面で組んでいて、座っています。

 この石仏が、いつ、だれによって建てられたかは、不明でわかりません。しかし、波多野さんの言われるのには、昔、坂下町(今の大草)にある道に沿って建てられていた石仏の一つだということです。

 この石仏は、今からおよそ19年前に、波多野さんがまだ小牧市大草に住んでいた頃、その近くにあったこの石仏を、現在住んでいる小牧ヶ丘という所へ引越しと一緒に持ってきたそうです。

 この石仏のいわれを調べたところ、昔、この辺を通る馬たちが、けがをしたり、病気になったりすることが多かったので、その馬たちを守ろうとして、建てたものだそうです。昔は、馬を使って商売をしたり、馬で旅をしていた多くの人たちに、信仰されていましたが、現在はほとんど信仰する人もなく、波多野さんが一人、管理してみえます。」

2024年5月24日14時50分このホームページ管理人がiphoneXrにて撮影する。

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