薬師堂

大山廃寺の地図

「大山廃寺発掘調査報告書」(小牧市教育委員会 昭和54年(1979年)3月発行)の中の「図版U 大山廃寺付近航空測量図」の上にこのホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。

近世村絵図大山村

近世村絵図の大山村をスキャナーで写したもの。

 2021年現在、薬師堂は、江岩寺の敷地内、大山古墓に登っていく坂の手前にある。

2021年現在の薬師堂

江岩寺の敷地内にある薬師堂の建物です。この写真の左側に一列に並ぶ墓は、大山村の住民で第二次世界大戦で亡くなられた方々の墓である。墓の向こうに見える坂が大山古墓に向かう坂である。つまり、この写真の左上に大山古墓がある。2021年6月16日撮影。

2021年現在の薬師堂の内部

2021年現在の薬師堂の内部は、このような感じです。2021年6月16日撮影。

薬師堂の中に保存されている割れた太鼓胴の一部

薬師堂の中に保存されている割れた太鼓胴の一部を別の角度から撮影する

寛文八年(1668年)三月に的叟が書いた「大山寺縁起」には、「仁平2年(1152年)3月15日、比叡山延暦寺の僧兵が攻めてきて、大山峰正福寺の大伽藍は一つ残らず焼失したが、弥勒菩薩と太鼓堂・鐘堂等は焼けずに残った。」とある。2021年現在、弥勒堂(2021年現在の大山廃寺駐車場にあったとされる堂で、焼け残った太鼓胴の一部を保存していたとされる。)にあった割れた太鼓胴の一部は、江岩寺境内の中にある薬師堂の中に保存されている。2021年6月16日このホームページ管理人撮影。

薬師堂の天井

薬師堂の天井です。私の考えでは、昔から薬師堂の天井はこうだった。豪華ですね。2021年6月16日このホームページ管理人撮影。

2021年現在の薬師堂の薬師如来の右側にある仏様

2021年現在の薬師堂の薬師如来の右側の仏様です。上品な感じですね。2021年6月16日撮影。

2021年現在の薬師堂の薬師如来の左側にある仏様

2021年現在の薬師堂の薬師如来の左側の仏様です。薬師如来の右側にある仏様より真面目な感じです。2021年6月16日撮影。

薬師堂の中の薬師如来

2021年現在の江岩寺薬師堂の薬師如来は、まるで、二人の社員を抱える社長のようだ。薬師如来の眉間には水晶がはめ込まれているのではないか?2021年6月16日撮影。

 ところで、薬師堂の薬師如来は、修復された結果、2021年現在、このような状態です。しかし、修復される前の薬師如来が「小牧の文化財第2集」(小牧市教育委員会 昭和46年(1971年)3月発行)に掲載されている。「小牧の文化財第2集」(小牧市教育委員会 昭和46年(1971年)3月発行)13ページに掲載されている写真が下です。

「小牧の文化財第2集」13ページをスキャナーで写す

「小牧の文化財第2集」(小牧市教育委員会 昭和46年(1971年)3月発行)13ページによると、昭和46年(1971年)当時の薬師如来は、寄木造(いくつかの木を組み合わせて造る。)で玉眼(水晶を使った目)、彩色が施してあり、髪際がかなり反りあがっているのが特徴である。薬師如来の大きさは高さ75cmである。眉間に水晶のようなものがはめ込まれているのは、2021年現在と同じだ。

 寄木造は平安時代に流行した仏像の作り方と言われている。木造なので、腐りやすいため、仏像ができてから2021年現在までの間に数限りなく修復されている。昭和46年(1971年)以前に薬師如来が半分壊れていたころ、薬師如来の胎内(おなかの中)に次の5つの記銘があったことが確認されている。

1「正治元年号」

正治元年は、1199年で、鎌倉時代。この時代にこの薬師如来ができたか、あるいは、以前からあった薬師如来を修復した年が正治元年(1199年)だった。平安時代末期の仁平2年(1152年)に比叡山延暦寺の僧兵たちによって焼き討ちされた大山寺が復興したのが鎌倉時代に入ってからだ。正治元年(1199年)は、源頼朝が落馬して急死、源頼家が2代目鎌倉幕府将軍になった年だ。

2「貞治開眼八月日」

貞治年間は、1362年から1368年。南北朝時代から室町時代への過渡期で、1368年足利義満が将軍となる。正治元年(1199年)から160年以上たつので、このころ、薬師如来を修復してから8カ月たったのかもしれない。相変わらず、不安定な世の中ではある。しかし、平安時代末期の仁平2年(1152年)に比叡山延暦寺の僧兵たちによって焼き討ちされた大山寺が復興を果たし、14世紀には、最盛期を迎えていたと考えられている。

3「初造立元亀二年辛未三月十五日」

天台宗であった大山寺の法灯を受け継ぎ、元亀2年(1571年)に江岩寺が秋岩恵江僧侶により創建される。元亀2年に行われた織田信長による天台宗延暦寺焼き討ちの累が及ぶのを恐れ、天台宗ではなく、臨済宗妙心寺派江岩寺となる。大山寺は仁平2年(1152年)3月15日に比叡山僧兵によって焼き討ちにあった。薬師如来の修復をその日に合わせたのだろうか?

4「大山寺本尊玄法上人正福寺」

玄法上人は、仁平2年(1152年)3月15日、比叡山延暦寺の僧兵による大山寺焼き討ちのときの大山寺の責任者だ。この時、大山峰正福寺の大伽藍は一つ残らず焼失し、玄法上人と二人の稚児が亡くなったが、弥勒菩薩と太鼓堂・鐘堂等は焼けずに残った、と寛文八年(1668年)三月に的叟が書いた「大山寺縁起」には書かれてある。ということは、この薬師如来は、大山寺焼き討ちの時に焼け残った弥勒菩薩だということなのだろうか?そして、大山寺焼き討ちの時に焼け残った弥勒菩薩が時代の変化とともに、修復を繰り返した結果、2021年現在にある薬師如来となった。では、薬師如来に修復される前の弥勒菩薩はどのような姿だったのだろう。このことを考えるときは、仏教という1つの宗教の形態のくくりで考えてはいけないと私は考える。一般市民の私たちにとって、仏教やキリスト教やイスラム教という宗教の違いは、ほとんど意味をなさないからだ。

5「寛文二年山峰明王院」

寛文二年は、1662年江戸時代前期だ。寛文2年(1662年)、尾張地方(愛知県)は、「濃尾崩れ」の真っただ中だった。濃尾崩れとは、尾張地方(愛知県)や美濃地方(岐阜県)における徳川幕府によるキリスト教徒弾圧のことである。尾張地方や美濃地方で、寛文元年(1661年)から寛文7年(1667年)までの間に徳川幕府が処刑するなどしたキリスト教徒は、1300人以上で、キリスト教徒の家族の者たちは、明治時代(19世紀)に至るまで、村八分など差別の対象となった。私は、「小牧の文化財第2集」(小牧市教育委員会 昭和46年(1971年)3月発行)に掲載されている修復される前の薬師如来像は、キリスト像に似ているような気がする。そして、「山峰明王院」とは、大山峰正福寺があったころの薬師堂のことではないかと思うのだ。(寛文八年(1668年)三月に的叟が書いた「大山寺縁起」には次のように書かれてある。「本堂は、12間四方(21.72m四方)あり、30間(54.3m)の廻廊があり、左右に18の御堂があり、前に五重塔があった。その中で、弥勒菩薩と太鼓堂・鐘堂等は焼けずに残った。」)

 ところで、このページの一番上に掲げた「近世村絵図」には、江岩寺から左側に少し離れた場所に「薬師」とあるのが見える。近世村絵図は、徳川幕府尾張藩が村々の庄屋に作成を指示したものだが、近世村絵図が描かれた江戸時代中期(17世紀)には、薬師堂は、江岩寺から少し離れたこの場所にあったのではないだろうか。では、次に、近世村絵図に描かれている薬師堂の跡を訪れてみよう。

近世村絵図に書き込んだ地図

上の地図は、近世村絵図に私がペイントで書き込んだ地図です。

 江岩寺から大山の集落へ行く道の途中に石仏のあるくぼみが二か所あるが、二か所の石仏の正面が旧薬師堂の範囲である。

江岩寺に近いほうの石仏

この石仏が見る先の土手を下り、稚児川の中から飛び出た石を渡り、旧薬師堂へ行く。旧薬師堂へ行くときは、夏は川の水が多いので、冬の晴れた日に行くのがベストです。2021年6月16日撮影。

江岩寺に近いほうの石仏からもう一つの石仏のある方面を見る

江岩寺に近いほうの石仏の前の道をもう一つの石仏のある方面に向かう。2021年6月16日撮影。

江岩寺に近いほうの石仏が見る土手

江岩寺に近いほうの石仏が見る土手を撮影する。稚児川の水が少ない冬の晴れた日は、ここから旧薬師堂跡へ行くことができる。2021年6月16日撮影。江岩寺から遠いほうの石仏

江岩寺から遠いほうの石仏です。この石仏が見る先までが旧薬師堂跡の範囲です。2021年6月16日撮影。

江岩寺から遠いほうの石仏の前の道

江岩寺から遠いほうの石仏の前の道は、大山の集落につながっています。2021年6月16日撮影。

江岩寺から遠いほうの石仏の前の道の左手にあるダム

江岩寺から遠いほうの石仏の前の道の左手にダムがあり、このダムの上から旧薬師堂跡を一望できる。2021年6月16日撮影。

6月のダムからの眺め

梅雨の6月のダムからの眺めです。ダムにたまった水の向こうに旧薬師堂跡が見える。旧薬師堂跡は、水に浮かぶお堂のようだ。この写真の左側に見える川が西の沢で、右側から流れてくる稚児川と一緒になって、水が溜まっています。2021年6月16日撮影。

 2019年1月30日、江岩寺に近いほうの石仏の前の土手を下り、稚児川を横切る石を渡り、旧薬師堂跡に行ってきました。

江岩寺から遠いほうの石仏の前の道の左手にあるダム2019年1月30日

2019年1月30日に江岩寺から遠いほうの石仏の前の道の左手にあるダムを訪れました。

2019年1月30日にダムから旧薬師堂跡を眺める

冬にダムから旧薬師堂跡を眺める。冬は、旧薬師堂跡の前には水がたまっていません。この写真の左に見える川が西の沢で、手前に稚児川が流れています。2019年1月30日撮影。

江岩寺に近いほうの石仏の前の土手を下った場所から眺める江岩寺

江岩寺に近いほうの石仏の前の土手を下り、江岩寺を眺める。2019年1月30日撮影。

江岩寺に近いほうの石仏の前の土手を下り稚児川を渡って旧薬師堂跡へ行く道

江岩寺に近いほうの石仏の前の土手を下り、稚児川を渡ると、稚児川から旧薬師堂跡へは道がある。冬の稚児川は水が少ない。2019年1月30日撮影。

旧薬師堂跡前のダムの下

旧薬師堂跡前のダムの下まで来ました。ダムの下には、細く稚児川が流れています。2019年1月30日撮影。

ダムの下にある石標

ダムの下には、「砂防指定地 愛知県」と彫られた石標があった。この石標は、おそらく、梅雨の時期や台風の時期は水の中に沈む。2019年1月30日撮影。

ダムの下の稚児川と西の沢合流地点

ダムの下の稚児川と西の沢合流地点です。この写真の右側から西の沢が、左側から稚児川が流れてきて、ダムの下で合流し、ダムの下から大山の集落へ流れていく。2019年1月30日撮影。

旧薬師堂跡

旧薬師堂跡へ登ってきました。石でできた何かの建物があったようだ。2019年1月30日撮影。

旧薬師堂跡石造物1

ダムの向こうの旧薬師堂跡から左奥に回り込むとこのような光景がある。写真には写っていないが、写真の左には西の沢が流れる。寛文2年(1662年)には旧薬師堂のことを「明王院」と呼んでいたとすると、これは、不動明王の石造物の足の部分ではないか。しかし、この石造物が座っているとすると、エジプト文明のアブ・シンベル大神殿にあるラムセス石像にも似ていると私は感じる。2019年1月30日撮影。

旧薬師堂跡石造物2

前の写真の石造物からさらに奥に進むとこのような石造物がある。私の想像では、不動明王などの仏像の光背部分の石造物。2019年1月30日撮影。

旧薬師堂跡石造物3

前の写真のさらに奥に進むとこのような風景がある。石の建物のように見える。しかし、ここから奥には進めないので、ダムのある平地に戻ることにした。2019年1月30日撮影。

旧薬師堂跡石造物4

前の写真から旧薬師堂跡の中をダムの方面に少し戻って見つけた穴です。石造物の基礎の部分(下水道など)なのか、それとも、未知の洞穴か?2019年1月30日撮影。

旧薬師堂跡の山の中

旧薬師堂跡の中をダムのある平地まで戻り、ダムの後ろの山を登った。途中まで登って、木の切り株のようなものが見えて、登るのをやめて下った。地図によると、この先は、2007年12月1日に自殺者の遺体を発見した古道や旧参道につながっている。つまり、この写真をそのまま登っていくと、「大山廃寺の痕跡」の「旧参道・ダイモン〜西の沢〜女坂」のページにつながっていく。

旧薬師堂跡の山の中腹にある石造物1

旧薬師堂跡の中のダムの後ろの山の中腹に休憩できるくらいの細長い平地があり、そこで見つけた石造物です。石に絵が描いてあるように見える。2019年1月30日撮影。

旧薬師堂跡の山の中腹にある石造物2

前の写真と同じ場所で見つけた石造物です。2019年1月30日撮影。

旧薬師堂跡の山の中腹にある石造物3

前の写真と同じ場所から少し下ったところで見つけた石造物です。石に動物の絵が描いてある?2019年1月30日撮影。

旧薬師堂跡の山の中腹にある石造物4

前の写真より少し下った場所から見た石造物です。この写真の左側の石が不動明王に見える?2019年1月30日撮影。

 そして、旧薬師堂のダムの後ろの山をダムのある平地まで下り、来た道を戻って稚児川を渡り、土手を登って江岩寺に近いほうの石仏のある道まで戻った私は、そのまま道沿いに大山集落まで行った。西の沢と稚児川は、旧薬師堂跡のダムから合流して大山集落の中を流れている。そして、大山集落の中を流れる川の名前は、「稚児川」となっていた。

旧薬師堂跡前のダムから大山集落に流れる川

旧薬師堂跡の前にあるダムで合流した稚児川と西の沢は、ダムの下から大山集落に流れる。滝のような水路の向こうに旧薬師堂跡の前にあるダムがある。2021年6月16日撮影。

大山集落の中を流れる稚児川

旧薬師堂跡の前にあるダムで合流した西の沢と稚児川は、稚児川として、大山集落の中を流れていき、大山川に合流する。この写真の前に見える山が大山廃寺跡の本堂が峰だ。本堂が峰の中に江岩寺や旧薬師堂跡や私が本堂跡だと考えている福塚や児神社や塔跡などがある。2021年6月16日撮影。

上へ戻る