十 石標設置の仕事

 1931年(昭和6年)10月の晴れが続いた日の午前8時頃、手ぬぐいを頭に巻いて、薄いグレーのニッカボッカに様々な色のシャツを着て、地下足袋を履いた、20代から30代くらいの若い6人の人夫が、江岩寺前の空き地に停められた軽トラックの運転席と荷台から、次々と降りた。そして、軽トラックに積まれていた大きい石標柱1個と小さい石標3個が、6人の人夫によって、慎重に降ろされた。

 大きい方の石標柱の大きさは、30cm余り四方の御影石の石材で、長さは、240cmある。横たわった石標柱の上の面には、旧字で「史跡大山廃寺塔跡」と彫られている。横たわった石標柱の右側の側面には、「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ昭和四年十二月十七日文部大臣指定」と彫られており、横たわった石標柱の左側の側面には、「昭和六年十月建設」と彫られている。大きな石標柱の重さは、605kgほどあった。

 また、小さい方の3個の石標は、全て同じ規格の物であり、15cm四方の御影石の石材で、長さは55cmある。横たわった石標の上の面には、「文部省」と彫られており、その裏の面には、「史蹟指定地境界」と彫られていた。小さい方の石標の重さは、1個32kgほどあり、3個で96kgあった。大きい石標柱と小さい石標の重さは、合わせると700kgほどになる。そして、江岩寺まで車によって運ばれたこの石標柱と石標3個は、麓の江岩寺から児神社までの200mほどの山道を、6人の人夫によって、引きずるように運ばれた。

 麓の江岩寺から児神社までの200mほどの山道のことを、地元の人々は、「女坂」と呼ぶ。「女坂」は、美しい石畳が児神社まで続く坂道である。そして、女坂の左右には、椎や柏、杉といった雑木がうっそうと茂っている。しかし、女坂を登る者は誰でも、山の中に目が慣れてくると、女坂の左右に生えている雑木の間に、人間が鋤いたと思われる平地がたくさん点在しているのが見えてくるのであった。

 「女坂」は、名前の割には、つま先上がりの急な坂道で、「女坂」を登る者が見る景色は、頭の上に続く石段のみといった光景が児神社まで続く山の中の坂道である。麓の江岩寺に車で石標柱と3個の石標を運んできた6人の人夫は、江岩寺にある空き地で、石標柱と3個の石標にロープをきつく括り付けた。そして、「女坂」に差し掛かると、坂の上と下に2名ずつに分かれて、「女坂」の石段を避け、石段の横にある土の坂道を登り始めた。上にいる2名の人夫が石標柱に括り付けられたロープを引っ張り上げながら女坂を登り、下にいる2名の人夫が石標柱を押しながら女坂を登って行った。そして、石標柱に続いて、ロープで括られた3個の石標が、上と下1名ずつに分かれた2名の人夫によって、女坂を登って行った。石標柱と3個の石標は、女坂の横にある土の坂道を引きずられて、次々と、児神社にたどり着いた。そして、児神社にたどり着いた6人の人夫と石標柱と3個の石標は、そこから、児神社境内の西側にある平地に移動した。女坂から児神社まで、ただ歩くだけならば、10分ほどしかかからないこの道程は、合わせると700kgほどの石造物を運ぶこの作業において、1時間以上という時間を要した。

 その日の午前10時頃、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事小栗鉄次郎は、児神社境内の西側にある平地(昔、人間によって鋤かれたと考えられる土地)に、山肌を背にして立っていた。小栗はこの年、50歳になっていた。50歳になる小栗の服装は、発掘調査を行う時と同じ、青いネクタイに白い長袖のワイシャツ、紺色のズボン姿で、上着として紺色のベストを着用し、黒い革靴を履いていた。平地には、6人の人夫と、ロープがくくりつけられた大きな石標柱と3個の小さな石標が横たわっていた。そして、山肌を背にして立っていた小栗鉄次郎と、石標柱と3個の石標を麓から運んできた6人の人夫の他に、新たに4人の人夫が、斧を持って、その平地にたたずんでいた。斧を持った4人の人夫は、年齢は20代から30代くらいの若い人々で、麦藁帽子をかぶり、白っぽいニッカボッカに薄い白っぽい色のシャツを着て、地下足袋を履いている。小栗鉄次郎は、石標柱と3個の石標を麓の江岩寺から運んできた6人の人夫と、斧を持って平地にたたずむ4人の人夫に向かって、こう話した。

 「私の後ろにある山を20mほど登った所には、今回、国の史跡に指定された17個の塔礎石群がある。これから、私の後ろにある山の木を切り倒して、道を造り、麓の江岩寺から運んできた石標柱と3個の石標を、国の史跡に指定された17個の塔礎石群のある場所まで運んでいただき、設置していただきたいと考えている。これから、私が後ろのこの山の中に入って、案内いたしますので、斧を持っている4人の方々は、私の後に続いて、木々を切り倒し、道を造っていただきます。」

 1929年(昭和4年)12月、大山廃寺跡は、舞木廃寺跡、北野廃寺跡とともに、文部省の史跡指定を受けた。もちろん、大山廃寺跡に関しては、小栗鉄次郎が発見した17個の塔礎石群の周囲に限ってのみの史跡指定だった。

 文部省の史跡に指定されると、史跡の指定地には、国の史跡であることを表示する石標を設置する、ということが、決まりごとであった。石標は、史跡の指定地と、史跡の範囲を示す史跡の境界に設置することが義務付けられていた。文部省の史跡指定地における石標の設置は、愛知県史跡名勝天然記念物調査会調査主事の小栗鉄次郎の仕事であった。

 大山廃寺跡における石標設置の仕事こそ、愛知県史跡名勝天然記念物調査会調査主事である小栗鉄次郎にとって、大山廃寺遺跡とはいかなる遺跡であるのか、大山廃寺遺跡をどのように後世に伝えていくのかを表現する場であった。周囲の見えない圧力によって、小栗の報告書の内容が書きかえられてしまった今となっては、石標設置という仕事も報告書通りの設置方法を要求される。しかし、小栗は、そのような状況下にあっても、未来への希望を失ってはいなかった。

 大山廃寺跡における小栗の石標設置の仕事の課題は、二つある。まず一つ目の課題は、石標の設置によって、国の史跡に指定された大山廃寺跡が、いかに、歴史上重要な遺跡で、後世永遠に残すべき遺跡であるかを、皆に知らせることである。そして、二つ目の課題は、国の史跡に指定されたのは、小栗が発見した17個の塔礎石群の周囲1320平方メートルであるけれども、実は、本来、国に指定されるべき史跡範囲は、大山廃寺跡の存在する山の中全体であることを、石標の設置の仕方によって、後世の人々に知らせることであった。つまり、小栗は、当時の権力の側には石標を報告書通りに設置したように見せかけておいて、大山廃寺塔跡を訪れる一般の人々の中で、心ある人々には、国の史跡に指定されるべき範囲は、もっと広い範囲であることをそれとなく知らせるという石標設置の仕方をしたのであった。

 さて、大山廃寺の言い伝えでは、大山寺は、「大山三千坊」とも呼ばれたほどの巨大な山岳寺院であった。従って、大山廃寺遺跡のある山の中に入ると、私たちは、山の中に目が慣れてきた途端に、人間が鋤いたと思われる平地を無数に目にすることができる。そして、その平地と平地をつなぐ道は、不思議なことに、全て児神社に通じている。児神社は、大山廃寺跡のある山の中の標高180メートルの場所にあり、正確に南を向いて建っている。

 ところで、児神社裏から西側に向かって山を登って行くと、標高200メートルの所に小栗鉄次郎が発見した17個の塔礎石群がある。この児神社裏から西側に向かって、塔跡へと続く山道を地元の人々は、「あぶらしぼり」と呼ぶ。そして、「あぶらしぼり」こそ、かつて、大山寺が「大山三千坊」と呼ばれるような巨大な山岳寺院としてこの山の中に存在していた頃に、人々が使っていた塔跡へと続く道であった。小栗鉄次郎が文部省の史跡名勝天然記念物調査会考査員である柴田常恵を塔跡に案内した時も、「あぶらしぼり」を通って、塔跡まで行った。児神社裏から「あぶらしぼり」を登ると、私たちは、塔跡の東側に到着することになる。柴田常恵も小栗鉄次郎も、「あぶらしぼり」を通るときには、靴の下にある土の中に何か違和感を感じ、「あぶらしぼり」の土の下には遺跡が透けて見えていた。

 しかし、小栗鉄次郎は、石標柱と3個の石標を塔跡に運ぶ際、あえて、「あぶらしぼり」は通らず、児神社境内の西隣の平地から山の木々を切り開きながら、山の中を20mほど登って道を造り、塔跡に到達した。つまり、小栗鉄次郎は、塔跡の南側の山の斜面を強引に切り開いて、道を造り、石標柱と3個の石標を塔跡に運んだのだった。そして、小栗鉄次郎が切り開いた道から塔跡を見れば、塔跡の背後にある北側の山が、いやがうえにも人々の目に飛び込んでくるのだった。

 小栗鉄次郎が石標柱と3個の石標を塔跡に運ぶために強引に開削した塔跡南側の登り道は、2015年現在の私たちが塔跡を訪れる正式な道となっている。そして、2015年現在、「あぶらしぼり」は雑木の生い茂る、昼間でも薄暗い山の中となり、「あぶらしぼり」を通って塔跡に向かう人は、皆無となっている。

 「これから、私が後ろのこの山の中に入って、案内いたしますので、斧を持っている4人の方々は、私の後に続いて、木々を切り倒し、道を造っていただきたい。」

 そして、小栗鉄次郎は、児神社境内の西隣にある平地から、山の斜面を登り、藪の中に消えていった。小栗は、ネクタイとワイシャツが汚れることなどお構いなしといった様子であった。小栗鉄次郎の後に続いて、斧を持った4人の男たちが山の斜面を登り、藪の中に消えていった。そして、次の瞬間、小栗に指示されるままに、斧を持った4人の男たちは、山の木々を切り倒していった。静かな山の中に、木々を切り倒す4つの斧の音が響き渡り、徐々に、児神社境内の西隣にある平地から塔跡までの見晴らしがきくようになっていった。

 小栗の指示によって人夫が木を切り倒すたびに、児神社境内の西隣にある平地の背後の山の中の様子が明らかになっていく。それは、小栗にとっては、意外な光景だった。

 「それにしても、さっきから、私が乗ることができるほど、やたらに大きな石が点在しているな。しかも、これらの石は、人が削ったような印象を受けるのだが。塔の礎石を造るために切りだした石かなあ?」

 そして、小栗の指示によって、木々を切り倒しながら、4人の斧を持った男たちは、小栗が発見した17個の塔礎石群がある場所までたどり着いた。ここで、4人の斧を持った男たちと小栗は、しばらく休憩に入った。

 「前にも申し上げた通り、山の中ですので、タバコは控えるようにしてください。」

 と、小栗は、斧を持った男たちに声をかけた。そして、鉄次郎は、その後、すぐに、切り開いた道を滑り降りて、石標柱と3個の石標を置いてある児神社西側の平地に下り、石標柱と3個の石標を麓の江岩寺から運んできた6人の人夫たちにも煙草は控えるように話をした。この時点で、小栗が着ている白いワイシャツやネクタイやベストは、木の枝やら、草やら、雑草の種やらがくっついて、相当汚れており、家に帰るとそれらを洗濯しなければならない小栗の奥様のいやな顔が思い描くことができるほどだった。

 小栗と男たちは、持ってきた水筒を飲んだり、お弁当を食べたりして、休憩時間を過ごした。午前11時頃の大山廃寺跡のある山の中は、周囲が最も美しく見える時間帯である。鳥のさえずりと木漏れ日の中で、男たちは、どんなレストランで過ごすよりも贅沢な時間を過ごす事が出来た。

 国の史跡に指定された、塔礎石群とその背後にある北側の山までの周囲1320平方メートルの土地は、人間が昔切り開いたと考えられる平地なのだが、小栗が発掘調査を行うために切り開いた塔礎石群以外の場所は、柏や松などの雑木が生い茂る山の中であった。今日の作業は、児神社西側の平地から、切り開かれた塔礎石群の場所までの山の中の木々を切り倒して、石標柱と3個の石標を運ぶ道を造り、児神社西側の平地に置いてある石標柱と3個の石標を塔礎石群のある場所まで運ぶという作業である。600kgある大きな石標柱を設置する作業は明日する作業で、3個の「文部省」「史跡境界」と刻まれた石標を設置する作業は、その次の日にする予定となっている。小栗は、石標設置のために、3日間の日程を組んでいるのであった。集めてきた10人の人夫も、全て小栗が手配した人夫たちであった。

 休憩が済んだお昼12時は、日が最も高い時間帯だが、大山廃寺のある山の中は、雑木が生い茂っているため、午後2時を過ぎると、あたりは、どんどん薄暗くなっていく。つまり、人夫たちが斧で木々を切り倒し、石標柱と3個の石標を塔礎石群のある場所まで持っていくという作業は、あと2時間以内のうちに終了しなければならない作業であった。小栗は、立派な木は残し、雑木のような木は切り倒すという方針で、人夫たちに、切り倒す木の指示を1本ずつ出していた。

 そして、4人の斧を持った人夫たちが、児神社境内の西隣にある平地の背後の山の中の木々を切り倒して、小栗が発見した17個の塔礎石群のある場所までの道を造ると、小栗は、石標柱と3個の石標を置いてある児神社西側の平地に下り、江岩寺から石標柱と3個の石標を運んできた6人の人夫たちに、石標柱と3個の石標を、小栗が発見した17個の塔礎石群のある場所まで運ぶように指示した。まず、2人の人夫が、児神社西側の平地から、背後の山の中に入って、石標柱に結わえつけられたロープを引き上げ、2人の人夫が、平地から石標柱を押し上げた。石標柱が、小栗が発見した17個の塔礎石群のある場所までの切り開かれた道に乗ると、平地にいた2人の人夫は、その切り開かれた道に入り、石標柱に結わえつけられたロープを引き上げている2人の人夫を手伝い、石標柱を押し上げていった。石標柱が、児神社西側の平地から、小栗の発見した17個の塔礎石群のある場所までの道を登り始めると、次に、もう一人の人夫が、児神社西側の平地から、背後の山の中に入って、3個の石標に結わえつけられたロープを引き上げ、もう一人の人夫が3個の石標を押し上げていった。石標柱に続いて、ロープで1つに括られた3個の石標が、小栗が発見した17個の塔礎石群のある場所までの切り開かれた道を登って行った。合わせると700kgほどになる石標柱と3個の石標が、小栗が発見した17個の塔礎石群のある場所までの20mほどの切り開かれた山道を引きずられるたびに、道は道らしく整えられていった。

 そして、石標柱と3個の石標が17個の塔礎石群のある場所まで到達すると、石標柱は「史跡大山廃寺塔跡」と彫られている面を上にして、ロープで結わえつけられた3個の石標は、「文部省」と彫られている面を上にして寝かされた。石標柱と3個の石標を運んできた6人の人夫たちが、頭を上げると、4人の斧を持った人夫たちが、塔礎石群とその背後にある北側の山までの周囲1320平方メートルの間に散らばって、木を切り倒しているのが見えた。静かな山の中に、木を切り倒す音だけが響いていた。そして、午後2時になり、小栗鉄次郎は、その場にいた10人の人夫たちに声をかけた。

 「今日の作業はこれで終了とします。明日は、ここにある石標柱を設置する作業に入ります。今日は、皆さまご苦労様でした。明日もがんばりましょう。」

 そして、小栗と10人の人夫たちがその場を離れると、17個の塔礎石群のある場所は、徐々に、静かに暗くなっていった。

 翌朝9時頃、小栗鉄次郎と10人の人夫たちは、石標柱と3個の石標が置かれた、17個の塔礎石群のある場所に集合した。今日の小栗は、白い長袖のワイシャツと紺色のネクタイと茶色いベストと茶色いスラックスといったいでたちで、黒い革靴を履いていた。今日の小栗の服や靴には、昨日ついたはずの木の枝やら、草やら、雑草の種やらがくっついていない。小栗は、昨日とは違う新しい服装で大山廃寺跡に出勤してきたようだった。10人の人夫のうちの6人は、昨日と同様、手ぬぐいを頭に巻いて、薄いグレーのニッカボッカに様々な色のシャツを着て、地下足袋を履いている。残りの4人の人夫は、麦藁帽子をかぶり、白っぽいニッカボッカに薄い白っぽい色のシャツを着て、地下足袋を履いている。10人の人夫の服装は、昨日と同じだが、洗濯された新しい服に着替えていた。そして、小栗は、10人の若い人夫たちを前にして、次のように言った。

 「今日は、こちらに寝かせてある石標柱と3個の石標を設置する作業に入ります。昨日この石標柱と3個の石標を運んだ6人の方は、今日は、石標柱を設置して、残りの3個の石標を所定の位置まで運ぶ仕事をしていただきます。残りの4人の方は、昨日と同様、あの北側の山までの周囲1320平方メートルの間の雑木を斧で切り倒していっていただきます。よろしくお願いいたします。」

 小栗がこう言うと、斧を持った4人の人夫は、北側の山までの塔礎石群の周囲1320平方メートルの間に散らばり、雑木を切り始めた。昨日と同様、再び、木を切るカーン、カーンという音が、塔礎石群のある山の中に響き始めた。そして、小栗は、塔礎石群の近くに置かれた石の台座を指差した。

 小栗鉄次郎が発見した17個の塔礎石群の南側手前に置かれたその石の台座は、直径120cmのいびつに丸い天然の石の上に、高さ20cm直径70cmのいびつに丸い天然の石が置かれていた。そして、高さ20cm直径70cmのいびつに丸い天然の石には、39cm四方の四角い穴が開けられていて、その穴には、39cm四方、高さ4cmに作られた正方形の石の台座がはめこまれていた。39cm四方、高さ4cmに作られた正方形の石の台座には、30.6cm四方で深さ4cmの正方形の穴が開けられていた。これから、小栗と6人の人夫たちは、石の台座に開けられた30.6cm四方の穴に、30.5cm四方、高さ240cmの「史蹟 大山廃寺塔跡」と彫られた605kgほどの重さの石標柱をはめこまなければならないのであった。

 もちろん、現在とは違い、この石標柱が設置された昭和6年頃はクレーンなどなく、全て、人力による手作業である。そして、この石の台座に30.5cm四方、高さ240cmの「史蹟 大山廃寺塔跡」と彫られた605kgほどの重さの石標柱をはめこめば、その石標柱は正確に南側を向いて建ち、石標柱の向こう北側には、17個の塔礎石群が見え、塔礎石群の向こうには、標高270mの北側の山がそびえたつのが見えるはずである。

 さて、30.5cm四方、高さ240cmの「史蹟 大山廃寺塔跡」と彫られた面を上面にした605kgほどの重さの石標柱は、石の台座の所まで引きずられてくると、2人の人夫がロープを引っ張って、石標柱を建たせた。そして、残りの4人の人夫が、石標柱の根元を持って、30.6cm四方で深さ4cmに開けられた石の台座の正方形の穴に石標柱をすっぽりとはめこんだ。文章で書けばこれだけのことだが、これを実際にやる人夫は、相当の力持ちである。麓の江岩寺から塔跡まで、220mの山道を700kgになる石造物を持って、2日がかりで登って行くことができる体力のある人々である。しかも、昭和初期当時は、クレーンもない。2015年現在、麓から児神社まで通じる、車1台しか通ることのできない、舗装された林道大山池野線は、昭和初期の頃は、もっと細い山道だっただろう。そのような細いダートな道を700kgの石造物を積んで車で走るよりは、江岩寺から児神社まで200mの石畳の女坂を通って、人の力で700kgの石造物を運んだ方が安全であると考えられる。

 そして、南側正面に「史蹟 大山廃寺塔跡」と彫られ、西側側面には「昭和六年十月建設」と彫られ、東側側面には「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ昭和四年十二月十七日文部大臣指定」と彫られた高さ240cmの四角い石標柱は、小栗鉄次郎が発見した17個の塔礎石群の南側手前に、2015年現在になってもなお、風化することなく建ち続けている。石標柱に掘られた文字は、84年を経た現在でもしっかりと読み取ることができる。石標柱は、永い期間、風雪の中にあっても、十分耐えられる材質のものであることがわかる。文部省の史跡名勝天然記念物調査会考査員である柴田常恵も、愛知県の史跡名勝天然記念物調査会調査主事である小栗鉄次郎も、この17個の塔礎石群と大山廃寺遺跡を末永く語り継いでいくつもりで、石標設置に取り組んだのだった。そして、愛知県の史跡名勝天然記念物調査会調査主事である小栗鉄次郎の指示通りに動いた10人の人夫たちをたたえるかのように、2015年現在、塔跡に立つ、「史蹟 大山廃寺塔跡」と彫られた石標柱の台座には、いつも、十円玉や百円玉がいくつか置かれている。

 石標柱の設置が終わって、6人の人夫が石標柱の北側にある17個の塔礎石群方面を見ると、大きな斧を持った4人の人夫が塔礎石群の北側にある平地を開墾していた。そして、塔跡の平地の開墾は、塔跡の北側にそびえたつ山のふもとまで進んでいた。北側の山までの塔礎石群の周囲1320平方メートルの平地は、ほぼ、雑木が切り倒され、以前よりは、ふりそそぐ太陽の光の量が増していた。

 「石標柱の設置が終わった皆さんは、3個の石標をここまで、運んで来てください。」

 小栗鉄次郎は、開墾された、塔跡の北側にそびえる山のふもとから、6人の人夫に向かって、このように叫んだ。開墾された塔跡の周囲1320平方メートルの平地では、北側にそびえる山肌に反射して、鉄次郎の声は、よく響いた。6人の人夫は、「文部省」「史蹟境界」と彫られた、3個で100kg近くある石標を、鉄次郎がいる塔跡の北側にそびえる山のふもとまでひきずるように運んで行った。そして、塔跡の北側にそびえる山のふもとのうち、鉄次郎の指示するところに、3個の石標をそれぞれ、「文部省」と彫られた面を上にして、寝かせて配置した。鉄次郎は、塔跡の北側の山のふもとにそって、大体30m間隔くらいで、2個の石標を配置していった。あと1つの石標は、国の史跡に指定される塔跡の周囲1320平方メートルの中の西側の端に生えていた大きな木の根元に置いた。そして、6人の人夫が3個の石標を配置し終わると、鉄次郎は、塔跡の周囲1320平方メートルの平地で作業をしていた10人の人夫を鉄次郎のもとに集めて、こう言った。

 「2時を過ぎましたので、そろそろ、今日の作業は終了にしたいと思います。みなさん、ご苦労様でした。明日は、3個の石標を設置し、児神社西側の平地から塔跡まで開削した道を整えて、塔跡の北側にそびえる山に道を作りたいと考えております。翌朝9時にこの場所に集合してください。」

 そして、塔跡の周囲1320平方メートルの平地には、翌日の朝まで、静寂の時間が戻ったのであった。

上へ戻る