十一 新しい地へ

 「玄法上人を代表とする尾張の大山寺の者たちだけが出席していません。」

 仁平2年4月に比叡山にて行われた天台宗の年中行事である「御衣加持御修法」の初日、「御衣加持御修法」に出席している僧侶たちの面倒をみる係をしていた雲玄は、天台座主行玄にこう報告していた。

 「おかしいですね。やむを得ず欠席するのであれば、使いの者をよこして、欠席する意向を伝えてくるはずなのに、それも今のところありません。」

 そこで、天台座主行玄は、雲玄に次のように指示した。

 「とりあえず、今は、大山寺の玄法上人の祈りの仕事を、雲玄が代わりに行ってほしい。雲玄が今持っている、僧侶たちの面倒をみる仕事は、別のものにやらせよう。

 「御衣加持御修法」の行事が終了するまでの間に、大山寺の玄法上人かその使いの者が比叡山に現れなければ、きっと、大山寺で何か起こったのだ。その時は、雲玄が尾張の大山寺に出向き、大山寺で何が起こったのか、探ってきてくれ。」

 年中行事の「御衣加持御修法」が無事終了し、比叡山に来ていた地方有名寺院の僧侶たちは次々と地元へ帰って行ったが、大山寺の玄法上人やその使いの者は、とうとう、最後まで、比叡山に姿を現さなかった。そこで、雲玄は、「御衣加持御修法」の行事の後片づけを終えた4月の中頃、比叡山を下りて、尾張にある大山寺に向かった。

 雲玄が尾張にある大山寺に到着した4月末頃は、例年通りであれば、大山寺は、新緑のまぶしい木々に囲まれ、春の花が咲き誇っている季節に入っているはずだった。雲玄が、まず、異変に気付いたのは、官道から大草に入った時だ。篠岡丘陵にある窯からたなびく煙の数が異様に少ない。そして、大草から大山寺に入るまでの道は、例年通りなら、大山寺に向かう人々や大山寺から出てきた人々がたくさん行きかっているはずなのに、今日は、誰にもすれ違わない。やがて、雲玄の目には、焼け落ちて真っ黒な炭の塊となった大山寺の総門が映った。そして、その先にあった、瑠璃庵や地蔵堂が、焼け落ちて炭の塊になっているのを見た雲玄は、山の木々が燃えて倒れ、真っ黒な炭の平地となった坂を上って、本堂に急いだ。

 「とにかく、玄法上人に会って、話が聞きたい。」という思いで、雲玄は、大山寺本堂に向かった。しかし、その途中の道は、一面、真っ黒な瓦礫の山で、人や生き物の気配はみじんも感じられなかった。

 雲玄が本堂と思われる所に到着すると、一人の若い男が、黙々と、燃えた黒いがれきをかきわけて、何かを探しているのが見えた。雲玄は、その男に近づいて行った。しかし、雲玄を見るなり、その男は、おびえて、その場を立ち去ろうとした。すると、その時、近くで、女性の声がした。

 「どうしたの?星海、何かあったの?」

 福寿女の声を聞いた雲玄は、その男が星海であることを知ると、立ち去ろうとした男を追いかけて、こう話しかけた。

 「君は、大山寺の修行僧の星海か?久しぶりだな。私は、去年の春ころに大山寺にお世話になった比叡山の雲玄だ。私のことを覚えてないのかい?あのころは、一緒によく篠岡の丘に行っていたじゃないか。」

 しかし、星海は、それでも、雲玄を警戒していたので、雲玄は、星海の警戒心を解こうと、必死で、星海に話しかけた。

 「今年の4月初めに比叡山で行われた年中行事の「御衣加持御修法」のとき、私たちには、何の連絡も無く、尾張の大山寺の玄法上人たちだけが、欠席だった。それで、大山寺で何か起こったのかもしれないということで、天台座主の行玄大僧正が、私に大山寺に向かうように指示したのだ。一体、何があったのだ?私は、天台座主に報告する義務があるのだ。だから、お願いだから、一体、大山寺で何があったのか、私に話してもらえないだろうか?」

 比叡山の雲玄と大山寺の修行僧だった星海と連れの福寿女の3人は、真っ黒な瓦礫の上に座った。そして、大山寺の修行僧だった星海は、比叡山の雲玄にこう語り始めた。

 「今年の3月14日の夜、私は、玄法上人から、今は廃墟となっている塔の裏山の頂上で見張りをするように言われたのです。私は、一人で見張りをするのは怖かったので、福寿女さんにお願いして、二人で、塔の裏山の頂上から少し下りた所で見張りをしていました。私は、あんな所に賊が侵入するわけはないと思っていたのですが、私たちの見張りのすぐ横を、火の玉がいくつも通り過ぎて行ったのです。

 私は、火の玉がいくつも本堂の方向に向かって飛んでいったのを見て、このことを玄法上人に報告しなければいけないと思い、福寿女さんと一緒に本堂に向かいました。私が本堂のふすまを開けると、本堂の中は、炎と煙が充満していて、玄法上人が意識を失って倒れ、二人の稚児僧(子供の僧)が火の中に飛び込んでいくのが見えました。

 その時でした。私にぶつかってくる者がいて、ふと見ると、そいつは、右手に松明を持った僧兵でした。私は、その僧兵と戦おうとしましたが、全く歯が立ちませんでした。そして、その僧兵は、私に向かって、こう言いました。

 「俺は、比叡山の僧兵の山庵という者だ。お前、見張りの仕事をさぼって、女といちゃついてやがったのか。とんでもない奴だな。比叡山でそんなことしたら、死刑だぞ。でも、今は見逃してやる。なぜなら、比叡山天台宗を救ったのはお前かもしれないからだ。これで、天台宗が、近衛天皇勅願の儀のことで2つに割れていると朝廷に思われて、朝廷に足元を見られずにすんだ訳だからな。さあ、お前なんか、女と二人でどこかへ行ってしまえ!」と。」

 「比叡山僧兵の山庵だって?」とつぶやく比叡山の雲玄を見て、大山寺の修行僧だった星海は更に続けた。

 「私は、福寿女さんと一緒に山を下り、篠岡丘陵で窯を開いていて、野口に住んでいる福寿女さんの家族に助けを求めに行きました。福寿女さんの家族は、自分たちの仕事仲間と一緒に大山寺に向かいましたが、山はすでに火に覆われていて、火の手は強く、山に近づくことすらできませんでした。

 野口に住む福寿女さんの家族は、自分たちの家に火の手が及ぶことを恐れて、みんなで、避難することに決めました。こうなる少し前くらいから、粘土の不足や洪水の影響などで、篠岡丘陵を離れて、多治見や瀬戸方面に窯を遷す者が増え始めていました。そして、野口に住む福寿女さんの家族は、大山寺の火災を見て、多治見へ移る決心を固めたのです。

 野口に住む福寿女さんの家族は、家財道具を持って、野口を脱出し、多治見に向かいました。大山寺が炎上して、なくなった以上、大山寺の修行僧だった私もいるところがないので、福寿女さんの家族と一緒に、多治見へ移動しました。今は、多治見に家を見つけて、福寿女さんの家族の仕事を手伝いながら、早く、立派な陶磁職人になれるように、がんばっています。」

 大山寺の修行僧だった星海は、ここで一呼吸してから、更に続けた。

 「大山寺が比叡山僧兵の手によって放火され、炎上してから、私は、恐ろしくて、大山寺の方面に足を向けることができませんでした。しかし、3月14日から1ヶ月以上たった今日、大山寺に置いてあった自分の持ち物が何か残っていないかと思い、こうして、多治見から福寿女さんについてきてもらって、かつて私が生活をしていたここで、自分の物を探していたのです。

 でも、何もありませんね。全て、真っ黒に焼け落ちてしまいました。玄法上人と二人の稚児僧(子供の僧)の遺体もきっとみつからないですよ。何もかも真っ黒になって、人間なのか炭の塊なのか区別がつきませんし、人間の遺体が発見されても、どこのだれなのか、全く見当もつかないですよ。

 篠岡丘陵に窯を構えている人たちの中で、少なくとも野口に家がある人は全員、3月14日の夜に、大山寺の火災の火の手が及ぶのを恐れて、多治見や瀬戸に避難していきましたよ。今、篠岡丘陵には、少し、煙がたなびいている窯もありますが、あの煙も、やがて全てなくなります。

 怖くて、こんなところに住んでいられるわけないでしょう。本当に、比叡山の僧兵は恐ろしいですよ。」

 こう言って、星海は立ち上がり、福寿女に向かって、「そろそろ帰ろうか。」と言いながら、比叡山の雲玄を見た。

 「ここには何も残っていないようですし、私たちは、多治見の家に帰ります。私が今、多治見で焼く陶器は、あまり立派なものではないかもしれませんが、そのうちに、立派な陶器が焼けるようになったら、京の都に売りに行きますよ。

 それでは、雲玄さんもお元気で。私たちは、もう、二度と会うことはないかもしれませんね。」

 星海はこう言うと、雲玄に背を向けて、福寿女と一緒に歩きはじめた。そして、星海は、もう、雲玄の方を振り返ることはなかった。

 星海は、一面焼け野原になっていた大山寺から多治見の家に帰ってきて、福寿女にこう言った。

 「私は、近いうちに、自分が焼いた陶器と福寿女のおやじさんが焼いた陶器を、京の都に売りに行くつもりだ。福寿女さんも私を手伝ってほしい。そして、なるべく位の高い貴族の人にその陶器を買ってもらって、私が今日、比叡山の雲玄に話したことと同じ話を聞いてもらうつもりだ。

 比叡山は、あてにしない方がいい。きっと、私が比叡山の雲玄に話したことも、比叡山の中だけで処理してしまうだろうからな。
 さあ、明日から、京の都に売りに行く立派な陶器をがんばって作るぞ!」

 一方、一面焼け野原になっていた大山寺から比叡山に帰ってきた雲玄は、天台座主行玄に会い、自分が見たことや大山寺の修行僧だった星海から聞いたことを天台座主に報告した。そして、雲玄は、話の最後に天台座主行玄にこう言った。

 「そういえば、山庵は、昨年の暮れくらいから、私にしつこく尾張の大山寺のことを聞いてくるようになりました。そして、大山寺の地図をよこせとしつこく迫ってきたのです。
 なんでも、山庵は尾張の大山寺の玄法上人のファンで、いつか、玄法上人に会いに行きたいから、大山寺の地図を譲ってくれと、私に会うたびに、そう、せがむのです。

 それで、私も、面倒臭くなって、山庵に大山寺の地図と情報を渡してしまったのです。もしかしたら、山庵は、そうやって、大山寺の下調べをきちんとやった上で、大山寺を襲ったのかもしれません。

 今となっては、私の軽率な行動を悔やんでも悔やみきれませんが。」

 天台座主行玄は、大山寺から帰ってきた雲玄の話を聞いてから、また、ひそかに、山庵に会いに行った。行玄は、山庵に会って、まず、こう尋ねた。

 「山庵、お前、今年の3月に入ってから、どこに行っていたのだ?今年の3月から4月にかけて、比叡山で、お前を見たという者がいないのだが。」

 すると、山庵は、その質問には答えず、行玄にこう言った。

 「行玄、最近、朝廷とはうまくやっているか?前に会った時には、そのことで、相当悩んでいたじゃないか。その顔を見ると、最近、その悩みも解決したのか?何か悩み事があったら、なんでも、俺に相談してくれよ。」

 すると、行玄は山庵にこう言った。

 「私は、今年いっぱいで、天台座主の仕事を辞める決心をした。だから、今日は、そのことをお前に伝えに来たのだ。なぜ、私が今年いっぱいで天台座主の仕事を辞める決心をしたのか、その理由が聞きたくないか?」

 すると、山庵は、こう答えた。

 「いや、俺には、もう、その理由は分かっている。俺のせいで天台座主をやめるのだろう?しかし、俺は後悔していない。天台宗を朝廷から守ったのは俺だと思っているからな。いろいろ理屈は抜きにして、これが俺のやり方だ。」

 山庵がこう答えるのを聞いて、行玄は、立ち上がると、帰り支度をしながら、山庵にこう言った。

 「今日は、これから、いろいろ予定が詰まっているので、ここらへんで失礼する。しかし、私が天台座主をやめるにあたって、最後にもうひとつだけ、山庵に伝えておきたいことがある。あとで、使いの者に、お前に会う場所を記した紙を持たせるから、その紙に書かれている通りに、私に会いに来てほしい。じゃあ、その時、また、その場所で会おう。」

 行玄は山庵にこう言うと、山の中の庵を後にした。

 そのことがあってから、1年以上の月日がたった頃だろうか。行玄が天台座主をやめたという話が比叡山に広まり、山庵が行玄とのこのやりとりを忘れかけた頃、山庵のもとに、知らない僧侶が1通の封書を届けに来た。その僧侶は、行玄からの使いであると言い、この封書に対する山庵からの返事を持って、行玄に渡す事が、今日の自分の仕事だと言った。そこで、山庵がその封書の封を開けると、そこには、天台座主をやめたという行玄の字で次のように書かれてあった。

 「山庵、元気でやっているか?私は、天台座主の仕事を辞めてから、門跡寺院であり、美福門院様の祈願寺でもある青蓮院で隠居生活を送っているよ。青蓮院は、今年もそろそろ紅葉がきれいな時期になってきた。青蓮院は、天皇家の方々しか入れないところだが、今回は、私の昔からのなじみということで、特別に、山庵を青蓮院に招待しよう。ぜひ、遊びに来てくれよ。行玄より。」

 山庵は、さっそく、行玄への返事の封書を書いて、僧侶に渡した。山庵の行玄への返事は、次のようなものだった。

 「行玄、私も元気でやっているよ。喜んで、行玄の招待を受けるよ。10月15日の夕方に青蓮院に着くように比叡山を出発するから、行玄もそのつもりでいてくれ。それでは、また、10月15日夕方に青蓮院で会おう。」

 一方、大山寺の修行僧から陶磁職人の見習いとなって、多治見で、福寿女と一緒に暮らし始めた星海は、陶磁作りに没頭する毎日を送っていた。そして、福寿女の父親の滋郎から、

 「よし、この皿なら、平安京の都へ売りに出しても大丈夫だろう。少々、ユニークな色と形だが、こういうものを喜ぶ貴族もいるだろう。」

 という返事をもらうと、すぐ、星海は福寿女と一緒に、京都の市場へ陶器を売りに行く準備を始めた。

 ところで、大山寺が炎上したため、野口から多治見や瀬戸などに移り住んだベテラン陶磁職人たちの多くは、星海が京都へ陶器を売りに行くよりもひと足早く、大山寺が比叡山僧兵の放火によって焼き払われた事実を都の貴族たちに伝えることを目的の1つとして、平安京の市場に陶器を売りに出かけていた。従って、「仁平2年3月15日、尾張にある大山寺という寺が、比叡山僧兵の放火によって焼き払われたという事件が起こったらしい。」という噂は、ずいぶん早くから、平安京の貴族の間に広まっていた。そして、「その時焼け死んだ僧侶たちのたたりが平安京を襲っているのではないか。」という都市伝説が、貴族の間でささやかれ始めていた。

 ところで、いつの時代でも、天変地異は、人々にとっての脅威であるが、それに加えて、失脚した人の怨念は、「物の怪」として、その関係者の脅威となる。これらの脅威から身を守るために、中央政府は、様々な対策を考えるのだが、天変地異や失脚した人の怨念に対処するために、平安時代の中央政府が頼りにしたもののひとつに、陰陽道というというものがあった。陰陽道とは、分かりやすく言えば、天文や暦などを用いて吉凶を判断する占いによって、災厄を回避するものである。(例えば、風水などもそのひとつである。)この陰陽道は、平安時代の天皇や公家の私的生活にかなりの影響を与えていた。(例えば、現在まで続く、陰陽道に基づく年中行事には、節分、ひな祭り、端午の節句、七夕、七五三などがある。)そして、そのような占いをする人々のことを陰陽師というが、10世紀を過ぎると、陰陽師は、安倍氏と賀茂氏が独占的に支配するようになった。

 話は、近衛天皇とその両親である鳥羽上皇・美福門院に移る。近衛天皇は、生来、体が弱かった。仁平3年、近衛天皇は、15歳になり、一時失明の危機に陥った。近衛天皇の病気は、医者に相談しても治らなかったため、天皇家は、近衛天皇の病気を治すためにはどうしたらよいのか、陰陽師の安倍氏に相談していた。そんな時、安倍氏の耳に入ってきたのが、「仁平2年3月15日、尾張にある大山寺という寺が、比叡山僧兵の放火によって焼き払われたという事件が起こったらしい。その時焼け死んだ僧侶たちのたたりが平安京を襲っているのではないか。」という噂だった。

 陰陽師の安倍氏は、「もし、このことが事実であるなら、そのようなことをする比叡山僧兵には、天罰が下されなければならない。即刻、比叡山僧兵のだれがそんなことをしたのか、調べなければ、平安京の治安はますます悪くなるだろう。近衛天皇の体調の回復にも支障が出ますよ。」と、天皇家に報告した。そして、近衛天皇の母親である美福門院は、自分の祈願所の青蓮院門跡寺院にて、天台座主をやめた行玄にこの噂について問いただした。

 行玄は、尾張の大山寺は、比叡山出家の時期が自分と同じである山庵という者がリーダーとなって集めた40名の比叡山僧兵たちによって、焼き払われた事実を美福門院に伝えた。そして、行玄も、事件を起こした首謀者である山庵には、天罰を下したいのだが、どのようにして、天罰を下したらよいのか、考えあぐねていたことを美福門院に告げた。

 さっそく、安倍氏と美福門院と天台座主をやめた行玄の間で、事件を起こした首謀者である山庵をどのようにすべきか、話し合いが持たれた。

 仁平3年10月15日の夕方、山庵は、青蓮院門跡寺院に到着した。行玄は山庵を出迎え、青蓮院門跡寺院の一室に案内した。行玄は、「わざわざ比叡山からお越しいただき、ありがとうございました。」と言って、山庵にお酒と料理をふるまった。行玄は、山庵に次々とお酒を酌み、山庵は、酔っぱらって、寝てしまった。

 そして、どのくらいの時間がたったのかは、わからない。山庵は、少し寒気がして、目が覚めた。あたりは、真っ暗闇だった。山庵は、行玄と一緒に酒を飲んでいたが、途中から記憶がない。しかし、今、どうやら、軒下のようなところで、寝ているらしいことに、山庵は気がついた。 寝ていた山庵の横には、松明が立ててあった。

 すると、下の方から、「おーい、おーい。」と行玄の声がする。山庵は起き上がって、行玄の声の方に向かって歩いて行くと、手摺のようなものにぶつかった。危うく、下に落ちそうな感覚を覚えて、山庵は、その手摺のような物にしがみついた。山庵がそこから目を凝らすと、あたりは真っ暗闇だが、下の方に、松明の明かりが見える。行玄の声は、その松明の明かりの方角から聞こえていた。

 「おーい、山庵。お前が先に寝てしまったので、私はおもしろくないから、お前をここに連れてきたのだ。今、山庵がいるそこは、平安京の御所にある陽明門という門の2階だ。

 私たちが比叡山に出家したばかりの若い頃、山庵と二人で、度胸比べをしたのを覚えているか?あの時、どちらが先に高い木の上から飛び降りることができるか、競争しただろう。あの時、私は、怖くて、木の上から動くことができなかったが、山庵は、先に木の上から飛び降りて、私に自慢しただろう。

 今日は、私が自慢する番だ。山庵が寝ている間に、私は、陽明門の2階から飛び降りることができたぞ。どんなもんだ。山庵は、飛び降りることができるかな?それとも、怖くて、できないかな?」

 昔から、頭の良さでは、行玄にかなわなかったが、運動神経で行玄に負けたことがなかった山庵は、行玄のこの言葉に触発された。山庵は、横に立ててあった松明を手に取り、下の方面にある松明の明かりに向かって叫んだ。

 「おーい、行玄。お前にできたことが、おれにできないわけがないだろう。見ていろ。今、その松明の明かりに向かって、飛び降りて見せるからな。よーし、いくぞ!行玄!」

 山庵は、横に立ててあった松明を片手に握りしめたまま、陽明門の手摺によじのぼり、行玄の声がする方面の松明の明かりに向かって、飛んだ。そして、山庵が松明を握りしめたまま空を飛んでいるその時、御所紫宸殿の方面から1本の矢が放たれ、山庵の左の胸に突き刺さった。山庵はそのまま仰向けになって、どすん!という音とともに地面に落ちた。矢は、山庵の心臓を貫いていた。

 「さすが、弓の名人、兵庫頭頼政殿の家臣、井の半弥太殿ですね。矢の先にはとりかぶとの毒が塗ってありますから、もう、この男は助からないでしょう。この男こそ、尾張の大山寺を焼き払い、焼け死んだ僧侶たちのたたりが平安京を襲うきっかけを作った、比叡山僧兵のリーダーである山庵と言う者です。」

 行玄は、仰向けに倒れ、意識を失っている山庵の横で、山庵の顔に松明をかざしながら、周りの者に話しかけた。

 そして、山庵の遺体は、兵庫頭頼政の家臣、井の半弥太の手によって、比叡山に運ばれ、無縁仏の場所に埋められたのであった。

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