十二 広報活動

 大山廃寺の塔跡に石標を設置する仕事を始めて3日目の朝、小栗鉄次郎は、雑木を切り倒して、大分明るい雰囲気になった17個の塔礎石群の周囲1320平方メートルの平地に立っていた。その日の鉄次郎の服装は、白いシャツに黄色いネクタイをしめ、こげ茶色のベストをはおって、こげ茶色のズボンをはき、黒い革靴をはいて、白いカンカン帽をかぶっていた。今日鉄次郎が締めている黄色いネクタイが、今日の鉄次郎に、昨日の鉄次郎よりは目立った印象を与えていた。塔礎石群の周囲1320平方メートルの平地の北側にある山肌を背にして立っていた鉄次郎の前には、20代から30代の若い10人の人夫が座っていた。

 10人の人夫のうちの6人は、昨日と同様、手ぬぐいを頭に巻いて、薄いグレーのニッカボッカに様々な色のシャツを着て、地下足袋を履いている。そして、6人の人夫の手には、大きなスコップが握りしめられていた。残りの4人の人夫は、麦藁帽子をかぶり、白っぽいニッカボッカに薄い白っぽい色のシャツを着て、地下足袋を履いている。4人の人夫は、手に斧を握りしめていた。10人の人夫の服装は、昨日と同じだが、洗濯された新しい服に着替えていた。

 明るくなった塔礎石群の周囲1320平方メートルの平地には、切り倒されなかった大木の間から、何本かの太陽光線が斜めに差し込んでいる。そこに、山肌を背にして立つ鉄次郎の声が響き渡った。

 「今日は、ここにある3つの「史蹟境界」と彫られた石標を設置してから、後ろの山にある道を足で踏み固めて頂上まで登っていただきます。」

 鉄次郎は、斧を持った4人の人夫には、塔礎石群の周囲1320平方メートルにある雑木を、平地の北側にある山肌ぎりぎりまで、更に伐採するように指示を出した。もちろん、その平地の中にある塔以外の何かの建物の礎石と考えられる、ごろごろと平地全体に散らばっている石は、そのまま、手を触れないでおいた。2日間かけて塔礎石群の周囲1320平方メートルの山の中の平地を開墾してきたが、まだ、「国の指定史跡」がある場所としては、暗い感じがすると鉄次郎は考えていた。

 そして、鉄次郎は、大きなスコップを持った6人の人夫に、1つの面に「文部省」と彫られ、もう一つ反対側の面に「史蹟境界」と彫られた3個の石標を、置かれたその場所に打ち込むように指示した。そして、石標を打ち込む時は、必ず、「文部省」と彫られた面が17個の塔礎石群の方向を向くように指示した。このように石標を打ち込むと、塔跡を訪れる人がこの石標を見たときに、「史蹟境界」と彫られた面は、裏側になる。そして、塔跡を訪れる人がこの石標を見ると、この石標の向こう側には、更に史跡が広がっていることが見てわかる。それでは、打ち込まれた3個の石標がどのような所に打ち込まれたのか、ここで、詳しく説明してみよう。

 1つめの石標は、国の史跡に指定された塔跡の周囲1320平方メートルの西側ぎりぎりの端に生えている大木の根元に打ち込まれた。この大木は、あぶらしぼりから塔跡に登り、そのまままっすぐに進み、17個の塔礎石群を20mほど過ぎたあたりに生えている大木である。この石標の「文部省」と彫られた面は、ここを訪れる者に顔を向けているが、大木にもたれかかるように大木の根元に打ち込まれているため、石標の反対側の面に彫られた「史蹟境界」の面は、大木に隠れて、訪れる者の目には触れないのであった。そして、その石標から東北方面を見ると、先には、道のように見える道があって、その道は、10mほど先にある大きな多角形の石に向かっていた。

 2つめの石標は、大きな多角形の石のふもとに打ち込まれた。この大きな多角形の石は、50cmくらいの高さがあり、50cmくらいの石の上面の中央には、1辺が5cmくらいの正方形の穴があいている。そして、多角形の石も石の上に開けられた正方形の穴も人間が作ったと考えられるものであった。昔この場所には、何かしらの建造物があったことをうかがわせる。そして、この多角形の石から西側には、木立の中に道のように見える道があり、その道の先には、木立の中に石がいくつかごろごろと転がっている場所が広がっているのであった。この光景は、雑木が生い茂る中で、ここから先にも何かの建物が建っていた平地が西の方面に延々と広がっていることをうかがわせている。そして、大きな多角形の石のふもとに、石にもたれかかるように打ち込まれた石標は、「文部省」と彫られた面が訪問者の方を向いているが、その裏面にある「史蹟境界」と彫られた面は、石の陰に隠れて、訪問者の目には触れないようになっているのであった。

 3つめの石標は、大きな多角形の石から北側の山の麓沿いに東へ30mほど進んだ、塔跡北側の山の斜面に打ちつけられた。3個の石標のうち、小栗鉄次郎にとって、最も思い入れのある石標が、この3つめの石標だった。この石標こそ、児神社西側の平地から、鉄次郎たちが開削した道を登って塔跡を訪れる人々に、塔跡の背後にそびえる山を登って、山の向こう側におりると、平安時代には大山寺の本堂があったとされる場所があることを示す目的で打ちつけられる石標であった。

 鉄次郎は、3つめの石標を、塔跡北側の山の斜面から90度くらいの角度で打ち込むように人夫たちに指示を出した。まず、一人の人夫が、3つめの石標を打ちつけるために、塔跡北側の山の斜面1mほどの高さの所に穴を掘った。そして、その穴にもう一人の人夫が、30kgほどある石標を打ち込もうとして、石標を持ち上げた時、鉄次郎は、突然、人夫たちに「私にも手伝わせてくれ。」と言った。

 今まで、人夫たちがしてきた石標を設置したり、木を切ったりといった肉体労働には、一切参加することのなかった鉄次郎が、初めて肉体労働をしようとしているのを見て、人夫たちは、「いえ、これは、我々の仕事ですから。」と断った。しかし、鉄次郎は、戸惑う人夫たちに向かって、なお、「いや、私にも手伝わせてくれ。」と強く言い放ったのであった。人夫たちは、とうとう、鉄次郎に折れて、3つめの石標は、鉄次郎と一人の人夫の2人で、山の斜面に打ちつけることになった。

 30kgほどある石標を、打ちつけたときに「文部省」と彫られた面が17個の塔礎石群の方向を向くように2人で持ち上げながら、一人の人夫が、鉄次郎にこう話しかけた。

 「いいですか、深くしっかりと打ちつけないと、この石標は、すぐに山の斜面から転げ落ちてしまいます。全身全霊を込めて、思いっきり、石標を山の斜面に90度の角度で打ち込んでください。」

 「わかった。」と鉄次郎が言うと、一人の人夫が、石標を打ちつけるために音頭を取った。

 「それでは、いきますよ。せーのー!」

 ドスン!という音が塔礎石群の廻りの平地に響き渡った。そして、そのあとで、石標の頭を何度も石の槌で打ったのは、鉄次郎だった。鉄次郎は、無心で石の槌を何度も石標の頭に打ちつけていた。もちろん、最後の仕上げに石標の頭を石の槌で打ち付けたのは、人夫だった。50歳になる鉄次郎は、斜面に石標を打ちつけ終わると、肩で息をして、しばらく、その場に立ち尽くしていた。そして、設置された3つの石標のうち、塔跡を訪れた人々が「文部省」と彫られた面の裏側にある「史蹟境界」と彫られた面に気がつくことができるのは、3つめに設置された石標のみであった。

 「文部省」「史蹟境界」と彫られた3つの石標を設置した後は、塔跡のある平地の北側にそびえる山を人夫皆で頂上まで登って、山の道を踏み固める作業があった。児神社のある山の中において、17個の塔礎石群のある場所の標高は200mである。そして、塔跡のある平地の北側の山は、塔礎石群のある場所から70mほど登った所に頂上がある。3つめに設置された石標は、北側の山に登る入口を示す目的で、山の斜面に打ちつけられた。

 児神社や塔跡が存在している一帯の山のことを、地元の人々は、「本堂が峰」と呼ぶ。小栗鉄次郎が発見した17個の塔礎石群のある平地の北側にそびえる山も「本堂が峰」の一部である。そして、地元の人々が「本堂が峰」と呼ぶからには、この「本堂が峰」のどこかに、「西の比叡山、東の大山寺」「天台宗第一の巨刹」「大山三千坊」「仁平二年(1152年、平安時代末期)に比叡山の僧兵の焼き討ちにあって、一山まるごと焼き払われた」と言い伝えられている大山寺の本堂があったはずである。児神社境内に本堂があったと主張する人もいたが、小栗鉄次郎は、大山寺の本堂は、国の史跡に指定された17個の塔礎石群の周囲1320平方メートルの平地の北側にそびえる山の裏手にあることを確信していた。鉄次郎のその確信の根拠は、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事としての勘である。

 しかし、文部省によって国の史跡に指定されたのは、17個の塔礎石群の周囲1320平方メートルの平地のみであった。鉄次郎にとって、この事実は、敗北を意味した。しかし、この敗北は、未来には、塔礎石跡や児神社を含めた一山まるごと全部を国の史跡として保護するという目標をかなえるための敗北であった。従って、鉄次郎の愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事としての次の仕事は、鉄次郎の後に続く者たちに、大山寺の本堂があったと考えられる場所を示す事である。

 国の史跡に指定された17個の塔礎石群の周囲1320平方メートルの平地の北側にそびえる山の中腹あたりには、塚のようなものがあった。その塚のようなものに近づいて見ると、人が一人寝ることができるくらいの大きさの長方形の穴が開いている。その穴の中をのぞいてみると、その穴は、空っぽの石棺のようなものの一方の側面が壊されてできた穴のような印象がある。その穴の上には土がかぶさっていて、その土の上に木が生えている。まるで、壊された古墳の上に木が生えているかのような光景である。江岩寺の住職の話によると、江岩寺にある鋳鉄製の千手観音像は、昔、その塚のような穴の中から発見されたものである、とのことである。その鋳鉄製の千手観音像は、高さ10cm弱で、舟形光背を持つ半肉彫立像であった。

 鉄次郎は、背負っているリュックの中から真っ赤なロープの束を取り出してズボンのポケットにねじこむと、塔跡に設置した3つめの石標から北側の山を登って5分ほどの山の中腹にある塚の上に生えた木に登り、木のてっぺんに、赤いロープをくくりつけて、その赤いロープを塚に垂らした。そして、もう一度、塔跡に設置した3つめの石標の所に戻ってきて、10人の人夫たちに声をかけた。国の史跡に指定された17個の塔礎石群の周囲1320平方メートルの平地に散らばっていた10人の人夫たちは、北側の山肌に反射して塔跡の平地に響いている鉄次郎の声に反応して、塔跡に設置した3つめの石標の所に集まって来た。

 「これから、後ろにある山のてっぺんまで登る道を作りたいと思います。まずは、あそこに見える赤いロープをくくりつけた木の所まで、私の後について登ってください。斧を持っている人は、登り道にある邪魔な木を切りつつ、登ってください。ところで、あそこの赤いロープの垂れさがった所にある塚の穴の中からは、昔、村人によって、鉄製の小さな千手観音像が発見されたそうですよ。今、その鉄製の千手観音像は、江岩寺の中にあります。」

 鉄次郎は、3つめの石標から5分位登った所にある、赤いロープを垂らした木が生えている塚の所まで登って来ると、10人の人夫たちが、登るのに邪魔な木を取り除きながら、一列になって、鉄次郎の後ろを登ってくることを確認した。登り道の左右には、斧を持った人夫たちが切った木を捨てることによってできた木の枝の塊の山が、所々にできていた。

 鉄次郎は、今度は、その塚に背を向けて、山の頂上に向かって、歩き始めた。5分ほど登ると、山の頂上が見えてきた。頂上が見えてきたといっても、頂上には、木々が生い茂っていて、言われなければ、そこが頂上なのか何なのかわからないようなところである。鉄次郎は、頂上の少し手前で立ち止り、リュックの中から、赤と白の2つの缶とペンキを塗る2つの刷毛を取り出した。そして、鉄次郎の近くに生えている一つの木の幹をみつけると、白いペンキのついた刷毛を木の幹に一周させた。次に、鉄次郎は、白いキャンバスに赤い矢印を描くように、もう1つの刷毛を使って、頂上を示す赤い矢印を書きこんだ。そして、後ろについてくる人夫たちに向かって、「この木は、頂上を示す目印ですので、切らないでください。」と声をかけた。

 赤い矢印を書き込んだ木から2分ほど登ると、鉄次郎は頂上に着いた。頂上には、花崗岩の大きな岩肌が露出した所があり、その岩の付近に、人が10人ほど立つことができる平坦な場所が存在する。しかし、その場所の周囲には、高い木々が生い茂って、頂上からの眺望は、全く望めないのであった。鉄次郎が頂上について30分ほどの間に、鉄次郎の後をついて、邪魔な木を取り除きながら登って来た10人の人夫たちは、次々と頂上についた。そして、鉄次郎は、邪魔な木が取り除かれた登り道の下の方に、頂上に登ってくる10人の人夫の最後尾に、2人の30代くらいの男性が、中腹にある塚にあいた長方形の穴の中を覗き込んでいるのを確認した。

 丸い眼鏡をかけ、黒いズボンに黒い革靴を履き、白いシャツに黒いベストを着て茶色い細いネクタイを締め、グレーの山高帽子をかぶった愛知県警察特別高等課の渡辺周五郎と、茶色いズボンに黒い革靴を履き、白いシャツに茶色いベストを来て、えんじ色のネクタイを締め、白いカンカン帽子をかぶった愛知県警察特別高等課の中村佐吉は、帽子を片手で押えながら、塚にあいた長方形の穴の中を覗き込んでいた。

 「この中から昔、仏像が発見されたらしいぞ。それにしても、この穴は何なんだろう?自然にあいた穴ではないように思えるのだが。」

 中村がこう言うと、眼鏡をもう片方の手で押し上げながら、渡辺が言った。

 「さあ。なんか、棺桶の横側にあいた穴のようにも見えますね。」

 そして、渡辺は、腰を伸ばして振り返り、10人の人夫たちが次々と頂上に登っていくのを見て、

 「さあ、みんなから遅れないようにしないと、小栗鉄次郎の姿を見失ってしまいますよ。」

 と、中村をせかした。

 「あ、ああ、そうだな。早く登ろう。」

 中村は、名残惜しそうに振り返ると、渡辺のあとについて、頂上を目指した。

 頂上は、13人の男たちが立つことができるくらいの広さがあったが、伸び放題の草むらであった。鉄次郎は、頂上の草むしりをしながら、皆が頂上に登ってくるのを待っていた。そして、渡辺と中村が頂上に着いたことを確認して、小栗鉄次郎は、10人の人夫たちと2人の愛知県警特別高等課の私服警察官に向かって、こう言った。

 「今から5分ほど休憩してから、5分ほど、ここの草むしりを皆でやりましょう。むしった草は、頂上の端っこの所に固めておいてください。あと、斧を持った人は、左側にある木を2〜3本切ってください。」

 頂上で皆に話をしている鉄次郎の右側の山の下が国の史跡に指定された17個の塔礎石群の周囲1320平方メートルの平地である。左側の山の下は、恐らく、ここにいる12人の男たちにとって、未知の領域であった。

 頂上で皆が休憩している間、愛知県警特別高等課の渡辺と中村は、頂上の草むしりをしている小栗鉄次郎の前にしゃがみこんで、黒い手帳を鉄次郎に見せながら、小さい声でこう聞いた。

 「俺たちは、愛知県警特別高等課のものだが、これから、俺たちをどこに連れていくつもりだ?左側の山の下は、藪の中なんじゃないのか?まむしとか出るんじゃないだろうな。」

 中村が鉄次郎にこう聞くと、鉄次郎は、驚くこともなく、草むしりをする手を休めることなく、こう答えた。

 「俺についてこればわかる。ここからあそこに下りるのは、最初は怖い気がするが、下りて見ると、意外に下りやすく、下りた所には道もあって、児神社や大山不動につながっているんだ。まむしなんて、出ないよ。」

 そして、2人の私服警察官の手も借りて、5分間の頂上の草むしりが終了し、斧を持った人夫が、塔跡とは反対側の面に生えていた木を2〜3本切って、塔跡とは反対側の山の方に倒すと、草をむしっていた小栗鉄次郎は腰を伸ばして立ちあがり、塚の方向を向いて、皆に話しかけた。

 「みなさん、これで、国の指定史跡に石標を設置する作業は完了しました。みなさん御苦労さまでした。この頂上から右側に下りた所が、今回、国の史跡に指定された17個の塔礎石群の周囲1320平方メートルの平地です。そして、この頂上から左側に下りた所は、今回の私たちの仕事には関係のない所です。しかし、みなさん、この頂上から左側には下りたことがないでしょう。

 みなさんは、この山の向こうには何があるのだろう、と思ったことはありませんか?今日は、みなさんをこの山の向こうにお連れしようと思います。塔跡の周囲1320平方メートルの平地に石標を設置することができた皆様なら、この山の向こうの様子には興味がおありでしょう?何日も大山廃寺跡へ来ると、目が慣れて、山の登り道の左右に、平地が無数に存在していることを確認済みですよね?」

 鉄次郎がこう言うと、10人の人夫たちは、みな、うなずいた。鉄次郎は、続けてこう言った。

 「それでは、これから、山の左側を下りて行こうと思います。みなさん、私の後についてきてください。山の左側は右側とは違って、傾斜がゆるやかですので、みなさん、スキーで坂を滑る要領で、腰を落として、坂を滑り降りてください。刃物を持っている方は、刃物で他人や自分を傷つけないように、刃の部分を上か下に向けて、滑り降りてください。慎重に坂を滑り降りていきますので、10分位で、下に到達します。下に到達したら、しばらくまっすぐ進むと、右側にくねくねした道が見えます。その道を歩いていきますと、20分位で、大山不動に到達します。それでは、みなさん、下で待っています。」

 そう言うと、鉄次郎は、人夫が切った木と木の間にすっと入って行った。腰を落として山道を滑り降りる鉄次郎の後ろ姿を頂上の木々の間から眺めていた人夫たちは、全員、戸惑っていたが、やがて、一人、又一人と、勇気を振り絞って、山道を滑り降りていった。人夫が山道を滑り降りるたびに、ざーっという落ち葉がこすれる音がする。腰を落として、慎重に滑り降りていけば、降り積もった落ち葉が人夫たちをけがから守ってくれるという感じがした。

 そして、最後に、愛知県警特別高等課の私服警察官である中村と渡辺が、帽子を押さえながら滑り降りると、小栗鉄次郎と10人の人夫たちは、下で中村と渡辺を待っていた。そして、鉄次郎がそこから少し先に進んで、

 「みなさん、ここに一段段差がありますから、気を付けて段差を下りてください。」

 と言いながら、もう少し先に進んだ所で、皆を待っていた。10人の人夫たちと愛知県警特別高等課の中村と渡辺は、木々で見通しがきかない空間の中を、足で段差を探りながら進んだ。そして、一段段差を下りて5歩くらい歩いた所で待っていた鉄次郎のもとに集まった。

 そこは、すり鉢の底のような空間だった。前と後ろと左側は山に囲まれていた。山の中に目が慣れてきたので、振り返って、今下りてきたところを確認すると、見通しのきかない木々の間に、頂上から下に降りる滑り台のようなものが見えた。この滑り台のようなものは、10人の人夫と2人の警察官が滑ったからできたものではないような気がする、というのが、皆が受けた印象だった。そして、もう一度進行方向に向きを変えると、右側に、くねくねと曲がりくねった道のようなものが見える。すり鉢の底のようなこの空間から脱出したければ、今下りてきた滑り台のようなものを頂上まで登っていくか、右側に見える曲がりくねった道をたどるかの選択を迫られる。10人の人夫と2人の警察官が、全員下に下りたことを確認した鉄次郎は、右側にある曲がりくねった道に沿って進んで行った。皆も、鉄次郎について、一列になって、右側にある曲がりくねった道を行くことにした。鉄次郎は、曲がりくねった道を歩きながら、後ろに続いている皆に向かって、こう話しかけた。

 「みなさん、この道の左右を見てください。土の色の変わった四角い土地が所々に点在しているのが見えるでしょう?」

 曲がりくねった道の左右には、パッチワークのように、四角い、色の違った平地のような土地が、道に沿って続いていた。鉄次郎は続けてこう言った。

 「児神社や塔跡の北側にある山一帯のことを、地元の人々は、「本堂が峰」と呼んでいます。大山寺は、平安時代末期頃、「大山三千坊」と呼ばれるほどの、天台宗第一の巨大な山岳寺院だったのですが、比叡山とけんかとなり、仁平二年(1152年)三月十五日、比叡山の僧兵がこの山に押し寄せて、火を放ち、大山寺は一山まるごと焼き払われてしまった、と、地元の人々は語り継いでいます。

 それでは、天台宗第一の巨大な山岳寺院であった大山寺の本堂はどこにあったのでしょう。きっと、「本堂が峰」のどこかにあったに違いありません。地元に伝わる「大山寺縁起」という書には、「大山寺の本堂は、21.72m四方の大きさがあり、54.3mの廻廊があり、左右には18の堂があった。本堂の前には五重塔があった。」と書かれています。私は、今、私たちが歩いているここが、大山寺の本堂だったのではないかと考えています。」

 鉄次郎の声は、周りの山肌に反射して、鉄次郎がマイクを握ってしゃべっているかのように、皆の耳によく聞こえた。

 「じゃあ、なんで、ここも国の指定史跡にしないんだ?」

 列の一番後ろを歩いていた、愛知県警特別高等課の渡辺は、眼鏡を指で押し上げつつ、鉄次郎に聞き返した。鉄次郎は、その質問には答えず、黙って、歩いて行った。すり鉢の底のような空間から、右側に見える曲がりくねった道沿いに10分位歩いた頃、鉄次郎は、後ろを一列になって歩いてくる皆にこう声をかけた。

 「今までは平坦な道だったのですが、ここからは、下り坂です。この下り坂を下りると、5分位で、左手に児川が見えてきます。児川が見えてきたら、あと5分位で、大山不動に到着します。」

 児川は、童謡「春の小川」に出てくるような小さい川で、さらさらと音を立てて山の中を流れている。そして、児川は、山の中からふもとの大山不動や江岩寺に流れていく途中に時折存在する段差によって、「大山三滝」と呼ばれる3つの滝を形成していた。その3つの滝は、山の上にあるものから順番に、「王子の滝」「金剛の滝」「胎蔵の滝」という名前が付けられている。児川を左手に眺めながら、山道を3分位下った頃、児川に段差があって、そこに滝ができているのが見えた。

 「左手に見える滝を地元の人々は、「王子の滝」と呼んでいます。あと、3分ほどで、大山不動に着きますよ。」

 そして、前方に屋根が見え、何かの建物の後ろ姿が見えた。小栗鉄次郎と10人の人夫と2人の愛知県警特別高等課の警察官は、大山不動の裏から不動堂に入ったのだった。

 「大山不動は、大山寺の本堂の入口にあるお堂なのか。」

 鉄次郎の後ろに続いて歩いている男たちは、全員、そう思った。

 塔跡から塔跡の北側にある山を登って頂上に着き、そこから大山寺の本堂跡ではないかと思われる場所に下り、本堂が峰を歩き、大山不動までおりてくるのに、大体1時間くらいかかった。しかし、それは、途中で、邪魔な木を切ったり、草むしりをしたりしていたのでかかった時間だった。ただ、歩いてくるだけなら、塔跡から本堂が峰を歩き、大山不動までは、頂上での5分間の休憩を入れても、50分ほどの道程である。

 しかし、3日目の石標設置の作業は、「史蹟境界」「文部省」と彫られた3つの石標を設置したり、国の史跡に指定された塔跡の周囲1320平方メートルの平地を整えたりすることで午前中いっぱいかかった。昼に昼食の時間を1時間とって、午後1時頃から、鉄次郎が皆を案内して、塔跡から北側にある山を登り、山の頂上から塔跡とは反対側に下って、本堂が峰を通り、大山不動までの道のりを歩いていたため、鉄次郎たち一行が大山不動に着いた頃は、午後2時を過ぎていた。午後2時を過ぎると、大山廃寺のある山の中は、徐々に暗くなり始める。従って、3日目の石標設置の作業は、大山不動にて、解散ということになった。小栗鉄次郎と10人の人夫たちは、それぞれ、思い思いに現場を離れていった。

 そして、鉄次郎は、大山不動で、愛知県警特別高等課の渡辺や中村と別れる時、まじめな顔をして、こう言った。

 「おい、今日、俺がやっていたことを、1つももらさず、詳しく、きちんと、上に報告するんだぞ。」

 「当り前だろうが。」

 と言いつつ、渡辺と中村は、小栗に背を向けた。そして、もう一度、鉄次郎の方を振り返り、渡辺はこう言った。

 「ところで、東京の方では、特高がマークしている喜田貞吉博士と小栗さんは仲がいいということで、小栗さんをマークし始めていたみたいだが、俺たちが見る限り、小栗さんは部落運動や左派運動には関与していない。今回のことを聞いて、東京の方では、小栗さんのマークを外すかもしれない。

 しかし、愛知県庁の方では、そうはいかないかもしれない。愛知県庁の中は、少し雰囲気が違うようだ。愛知県庁の中では、小栗さんのことをあまりよく思っていない奴もいるみたいだ。」

 そして、渡辺と中村は、帽子をとって、鉄次郎に挨拶をし、鉄次郎に背を向けて、女坂の方面に歩いて行った。

 鉄次郎は、10人の人夫が全て帰路に着いたことを確認すると、大山不動を出てすぐ左側にある不動坂を下りて行った。不動坂は、大山不動と江岩寺を結んでいる坂で、児川に沿って江岩寺まで続く山道である。一般の人々は、ほとんど、石畳が続く女坂を利用して、児神社や塔跡に向かう。しかし、不動坂には、金剛の滝、胎蔵の滝が流れていて、大きなもみじの木もある。秋は、女坂より不動坂の方が景観がいいと鉄次郎は考えていた。

 不動坂を下りながら、金剛の滝、胎蔵の滝を見、江岩寺に近づくと、大きなもみじの木のそれぞれの枝先の葉が端から半分くらい、赤く色づいているのが見えた。児川越しに、パレットで、緑色と赤色の珠をそれぞれ気ままに描いたようなもみじの木の様子を見て、鉄次郎は、深くためいきをついた。

 鉄次郎が愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事に就任した昭和2年(1927年)、日本では、金融恐慌の発生により、銀行や会社の倒産が相次いだ。日本の不景気はとどまるところを知らず、銀行や会社の倒産の多発により、国に入ってくる税金は激減した。そして、昭和6年(1931年)春に、官吏(公務員)の減棒令(給料を減らす法律)が制定され、それに伴って、夏には、愛知県職員の減給が実施された。50歳になる鉄次郎の給料も減らされたが、子供たちが全員、働くことができる年頃になっていることで、何とか、生活は維持できていた。 一方で、昭和6年(1931年)9月、陸軍の一部である関東軍が、中国において、軍事行動を拡大して、中国北東部の奉天・長春・吉林を占領した、という記事が新聞の一面に出た。とうとう、中国で、日本と中国は戦争を起こすことになったのだ。関東軍によるこの軍事行動を満州事変と言う。

 満州事変は、昭和6年(1931年)9月18日、関東軍が、奉天の北にある柳条溝で、満州鉄道の路線を爆破し、それを中国軍のせいにすることによって、中国軍に攻撃を拡大し、奉天・長春・吉林を占領した、という事件である。当時の日本の若槻礼次郎内閣は、満州事変不拡大の方針を取り、関東軍の行動を阻止しようとする。しかし、関東軍は、日本の内閣の方針を無視して、計画通り、満州を占領し続けた。若槻内閣は崩壊し、後を継いだ犬養毅内閣は軍の行動を抑えようとするが、日本軍の満州における軍事行動を止めることはできなかった。昭和7年(1931年)2月までの短期間に、日本軍は、全満州を占領した。そして、日本軍の軍事行動に強い衝撃を受けた中国人民は、排日・抗日の運動をおこすのである。

 「自分たちの給料は減らされて、中国の軍事行動に使われている。」

 鉄次郎は、率直にそう思った。自分が文化財保護の仕事に情熱を傾ければ傾けるほど、人々の関心は、他国を侵略していく戦争に向いていくようであった。鉄次郎は、虚しさすら感じていた。自分が、軍事行動に酔いしれて、軍人さんに憧れるような環境におかれていたなら、もっと楽な気持ちでいることができただろう。しかし、今の鉄次郎の仕事は、文化財を調査し、保護し、皆に、文化財の素晴らしさを知らせることである。

 「軍人さんたちにも文化財保護の重要性や文化財の素晴らしさを知ってもらわなければならない。そのために、俺は、塔跡に石標を設置したのではないか。」

 鉄次郎は、そう思い直して、不動坂のもみじの木を後にして、家路についた。

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