十二 「その国の南に狗奴国あり」

 景初2年(238年)6月、邪馬台国の女王卑弥呼は、大夫(邪馬台国の貴族)である難升米(なしめ)一行を朝鮮半島中西部にある帯方郡に送った。帯方郡は、中国にある魏が、昨年、直轄地にしたばかりの土地である。難升米(なしめ)は、帯方郡の長官である劉夏に向かって、こう言って、指示を仰いだ。

 「現在、邪馬台国は、南にある狗奴国と戦っています。この戦いにおいて、我らの国邪馬台国が狗奴国に勝利できるよう、中国の魏の支援を仰ぎたい。」

 帯方郡の長官である劉夏は、この話を聞いて、大夫(邪馬台国の貴族)である難升米(なしめ)一行に、帯方郡の官吏を付けて、後漢の都洛陽に送った。

 その頃の中国は、後漢王朝が滅亡して、新たに、魏・呉・蜀の三国が起こっていた。後漢の都洛陽で大夫(邪馬台国の貴族)である難升米(なしめ)一行に接見した魏の第3代皇帝曹芳は、南にある狗奴国と交戦中である邪馬台国に対して、皇帝の詔書を遣わして、邪馬台国の女王卑弥呼を「親魏倭王」と呼称する旨を伝え、金印紫綬を与えた。しかし、中国の魏は、邪馬台国を支援して、狗奴国と戦争をするために軍備を提供することまでは、約束しなかった。そして、魏の第3代皇帝曹芳は、「魏志倭人伝」という国書に、この事実を記録させた。

 「倭国(日本)にて20数カ国を支配していた邪馬台国は、女王卑弥呼によって統治されている女王国であるが、その国の南に狗奴国という男王卑弥弓呼(ひみみこ)が治める国があり、狗奴国は、女王国と不和で、戦争状態にあった。」

 3世紀初めの日本は、大陸と比べて余りにも小さい日本列島の中に、100余りの国が乱立して、争っていた。この頃、邪馬台国と敵対していた狗奴国は、現在の愛知県尾張平野をしきっていた国で、狗奴国の首都は、旧入鹿村にあった。

 狗奴国の国王である卑弥弓呼(ひみみこ)は、狗奴国の首都機能を持った軍事拠点を旧入鹿村の地下に築き、邪馬台国以外の敵対する国にも、絶対に首都を知られないように心がけていた。そして、邪馬台国は、狗奴国の首都の位置を把握していなかった。そして、狗奴国の国王である卑弥弓呼(ひみみこ)は、邪馬台国の女王卑弥呼が、中国の魏という国に軍事支援を仰ぎ、中国の魏の皇帝は、邪馬台国の女王卑弥呼に対して、「親魏倭王」と呼称する詔書を渡し、金印紫綬を授けたという情報を手に入れると、しばらく、邪馬台国を攻撃することを止め、密かに、地下に潜った。邪馬台国と狗奴国の間には、しばらく、平穏な日々が続いた。

 その7年後の正始元年(245年)、邪馬台国と狗奴国との間に再び戦争が起こった。地下に潜りながら、戦闘を続ける狗奴国に苦戦し、相変わらず、狗奴国の軍事拠点の位置を把握できない邪馬台国の女王卑弥呼は、再び、中国の魏に軍事援助を求める使者を派遣した。それから2年後の正始3年(247年)、中国の魏は、魏の直轄地である朝鮮半島の帯方郡の役人である張政を倭国にある邪馬台国に向かわせた。

 張政は、倭国において、邪馬台国の支援をした。邪馬台国と敵対していた狗奴国の国王である卑弥弓呼(ひみみこ)は、中国の魏から邪馬台国に軍事支援のための人間が派遣されたことを知ると、再び、地下の軍事拠点に潜って、戦闘を停止した。そして、邪馬台国に平和が訪れると、張政は、朝鮮半島の帯方郡に帰って行った。

 しかし、この戦闘の最中に邪馬台国の女王卑弥呼が亡くなっていたことを知った狗奴国の国王である卑弥弓呼(ひみみこ)は、再び、邪馬台国と戦闘を開始した。そして、多くの人々がこの内乱のために死んでいった。

 265年、中国魏の重臣であった司馬炎が、中国で晋という朝廷を興した。その頃、日本の邪馬台国では、卑弥呼の死後、しばらくは、男王が支配したが、うまくいかず、亡くなった卑弥呼の親族で、13歳の少女壱与(いよ)が邪馬台国の女王になった。

 邪馬台国の女王壱与(いよ)は、今度は、中国の晋に使いを送り、晋は、邪馬台国と軍事同盟を結ぶことを約束する。そして、狗奴国は、再び、地下に潜って、戦闘を停止し、邪馬台国には、再び、つかの間の平和が訪れた。

 そして、邪馬台国の女王壱与が亡くなり、4世紀から5世紀の日本において、内乱を治めて全国を統一していったのが、大和朝廷だった。大和朝廷の礎は、女王卑弥呼によって治められていた邪馬台国である。しかし、大和朝廷と邪馬台国の徹底的な違いは、その軍事行動にあった。邪馬台国の軍事が、ある程度、卑弥呼のシャーマニズム(呪術)に頼っていたのに対して、大和朝廷の軍事は、情報戦であった。大和朝廷は、情報を収集し、科学的に戦争を進めることによって、全国に乱立していた100余りの国を次々と支配下に治めていった。

 4世紀、尾張平野を治めていた狗奴国の中は、大和朝廷に追われて逃げてきた豪族と、もともと尾張平野にいた豪族とが混在し、ひしめき合っていた。そして、尾張平野の在地勢力と、大和朝廷に追われて尾張平野に逃げてきた外来勢力は、お互い協力し合って、大和朝廷の東進に備えていた。狗奴国の首都であった旧入鹿村の地下施設は、複雑に規模を広げていく。

 そして、大和朝廷に追われて、旧入鹿村の南に位置する大山の山の中まで逃げてきた外来勢力は、大山の山の中に居を構え、生活に必要な道路を作り、人が亡くなれば、山の中に墓を作って、埋葬した。外来勢力が作った墓は、全て、大山の中腹にあり、尾張平野に大和朝廷が攻めてきたことが確認できるよう、見晴らしのいい場所に作られた。

 また、大和朝廷に追われて逃げてきた外来勢力は、大山の山の中から、狗奴国の首都である旧入鹿村の地下施設に通じる道をいくつも建設した。そして、その道は、決して大和朝廷にばれることのないように、全て、山の中にある住居の裏側に造られたトンネルであった。大山の山の中を伸びたトンネルは、尾張平野の在地勢力のいる狗奴国の首都であった旧入鹿村の地下施設と、旧入鹿村の南側にそびえ、大和朝廷に追われて尾張平野に逃げてきた外来勢力の本拠地であった大山とを結んでいた。

 しかし、大和朝廷は、4世紀半ば頃には、日本において、全国統一を果たした。そして、大和朝廷は、軍事力によって狗奴国を治めたのではない。狗奴国の子孫たちは、長引く戦争に嫌気がさして、平和な生活を渇望していたのであった。地下に隠れているよりは、外で太陽の光を浴びながら生活したかったのだ。

 狗奴国の中には、いつの間にか、大和朝廷側の人間が入り込んでいた。狗奴国の在地勢力が旧入鹿村の地下に造り上げた複雑な地下施設も、狗奴国の外来勢力が大山の山の中と旧入鹿村の地下施設を結んだトンネルも、大和朝廷には、筒抜けだった。大和朝廷の情報収集能力は、それほどすごかったのだ。そして、狗奴国は、大和朝廷に白旗を掲げたのであった。

 4世紀になると、中国の晋は、中国大陸の中での激しい興亡に巻き込まれ、朝鮮半島に対する支配権は著しく衰退する。そして、5世紀に入ると、晋は宋に滅ぼされてしまう。また、朝鮮半島の帯方郡は、4世紀後半には、百済によって征服された。

 日本においては、4世紀から5世紀の大和朝廷は、破竹の勢いだった。大和朝廷は、氏姓制度という国家組織を作り上げ、地方の有力豪族には、地方政治を任せた。狗奴国において、首都である旧入鹿村に地下施設を造り、旧入鹿村の南に位置する大山から旧入鹿村の地下施設に通じるトンネルを築き上げてきた有力豪族たちは、そのまま、大和朝廷の国造(現在の知事のようなもの)に任命され、地方行政を掌握した。

 日本において権力を確立した大和朝廷は、4世紀から5世紀の間に、資源の確保や技術者の獲得のために、朝鮮半島に軍事進出し、朝鮮半島の南西部にあった百済という国と国交を結ぶ。しかし、日本においては政権を確立していた大和朝廷も、朝鮮半島においては、なかなか、思い通りには行かなかった、というのが実情だった。5世紀に入ると、朝鮮半島に進出していた大和朝廷の軍は、朝鮮半島北部にある高句麗という国の軍に敗れた。そして、大和朝廷は、中国において晋を滅ぼした宋に使いを送り、自分たちの権威を高めて、朝鮮半島の支配権の確立を計った。

 しかし、5世紀末ごろから、大和朝廷は、朝鮮半島の中の興亡に巻き込まれ、朝鮮半島撤退を余儀なくされる。そして、6世紀に入ると、大和朝廷による朝鮮半島経営の失敗が、日本国内の地方豪族による大和朝廷への反乱に結びついた。6世紀は、日本国内の有力豪族の間で内紛が相次ぎ、大和朝廷の日本国内での支配権が揺らいでいく時期であった。

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