十二 残された者たち

 山庵が、弓の名人である兵庫頭頼政の家臣、井の半弥太の矢に倒れてから、1年が経っても、平安京の治安はよくならず、比叡山僧兵は相変わらず、恐れられていた。そして、近衛天皇の体調にも回復の兆しは見られなかった。

 一方、山庵が死んでから、天台座主をやめた行玄は、ますます弱り、青蓮院門跡寺院に引きこもったまま、人前に姿を見せなくなった。近衛天皇の母親である美福門院は、祈願所である青蓮院門跡寺院に行き、行玄の姿を見るたびに、一時期はとても傾倒した天台宗と言う宗教に対して、最近は、段々冷めていくのを感じていた。

 そんなある日、近衛天皇の母である美福門院のもとを、陰陽師の安倍清業という者が訪れた。陰陽師の安倍清業は、美福門院の周囲の人々が「今、都で人気の陰陽師で、近衛天皇の病気を治す力があるかもしれない。」と、推薦してきた者であった。御所にいる美福門院のもとを訪れた陰陽師の安倍清業は、多治見で作られたという灰釉陶器を見せながら、美福門院にこう報告した。

 「どうです?これらのお皿や椀は、多治見に住む、ある若い陶磁職人が焼いたものです。縁がちょっと曲げてあったり、こんなところに花の文様があったり、色も青みがかったグラデーションがなんとも変わっているでしょう?私は、こういう、ちょっと他では見られないユニークな陶器が好みなのですよ。これらの陶器を作った多治見の若い陶磁職人は、2年前までは、尾張の大山寺という所で修行僧をしていたそうです。」

 「尾張の大山寺といえば、都で噂になっている、仁平2年3月15日に比叡山僧兵の手によって焼き払われたという寺のことですね。そのとき焼け死んだ僧侶たちのたたりが都を襲っているということで、私どもは、皆で話し合い、大山寺を焼き払った比叡山僧兵のリーダーである「山庵」という男を弓でしとめ、遺体を比叡山に葬ったのですが。」

 と、美福門院が安倍清業に返すと、安倍清業は、更に話を続けた。

 「多治見でこれらの陶器を作った若い陶磁職人は、尾張の大山寺で修行僧をしていたときに使っていた「星海」という名前を今でも使って、陶器を焼いています。

 仁平2年3月14日の夜、「星海」は、大山寺の中のある人気のない場所で見張りをするように命じられ、今は奥さんとなっている福寿女という名前の女性と一緒に見張りの仕事をしていたそうです。彼らは、山の頂上から少し下りたところの草むらの中から、いくつもの火の玉が、大山寺本堂の方面に飛んでいくのを見たとき、これは、本堂にいる大山寺のトップである玄法上人に知らせなければいけないと思い、本堂に向かいました。星海たちが本堂のふすまを開けると、本堂の中はすでに炎と煙が充満していて、意識を失って倒れた玄法上人が見えたそうです。そして、星海たちがその向こうを見ると、玄法上人と一緒にいた二人の稚児僧(子供の僧)の牛田と佐々木が、気が動転したのか、火の中に飛び込んで行ったのが見えたそうです。

 ちょうどその時、大山寺の修行僧の星海にぶつかってくる者がいて、ふと見ると、それは、松明を持った僧兵でした。星海は、その僧兵と戦おうとしましたが、全く歯が立ちませんでした。そして、その僧兵は、星海にこう言いました。

 「俺は、比叡山の僧兵の山庵という者だ。お前、見張りの仕事をさぼって、女といちゃついてやがったのか。とんでもない奴だな。比叡山でそんなことしたら、死刑だぞ。

 でも、今は見逃してやる。なぜなら、比叡山天台宗を救ったのはお前かもしれないからだ。これで、天台宗が、近衛天皇勅願の儀のことで2つに割れていると朝廷に思われて、朝廷に足元を見られずにすんだ訳だからな。

 さあ、お前なんか、女と二人でどこかへ行ってしまえ!」と。」

 「2年前に行われた近衛天皇勅願の儀のことというのは、確か、再び諸国に洪水が起こらないように祈った儀式のことですね。あの時は、私も儀式に出ていたので覚えています。「天台宗が近衛天皇勅願の儀のことで2つに割れている」とは、どういうことでしょう?」

 と、美福門院は、陰陽師の安倍清業に切り返した。すると、安倍清業は、こう続けた。

 「大山寺の修行僧だった星海も、比叡山僧兵の山庵が言った、このことの意味がよくわからないそうです。それで、私も2年前に行われた近衛天皇勅願の儀について、いろいろ調べてみました。そして、2年前に行われた近衛天皇勅願の儀は、再び諸国に洪水が起こらないように祈った儀式のことであるということをつきとめ、星海に意見を求めたのです。すると、星海は、逆に私にこう聞くのです。

 「自分は修行僧という立場だったので、よくわからないが、そういえば、その儀式より1〜2年くらい前の年に大山寺の地元の大山川という川が、大雨で氾濫し、多くの人が犠牲になったことがあった。そのとき、地元では、大山川を改修してほしいという意見が大勢を占めていた。そのことと、何か関係があるのでしょうか?」と。

 これらのことを踏まえて、私なりにいろいろ考えてみたのですけれど、比叡山は、尾張にある大山川の改修をめぐって、大山寺と対立していたのではないでしょうか?

 今となっては、仁平2年3月15日に尾張の大山寺を焼き討ちにしたときの比叡山僧兵のリーダー山庵に何も問いかけをすることなく、弓矢でしとめてしまったことが悔やまれてなりませんね。山庵をもう少し生かしておいて、事実が段々明るみに出てきたときに、山庵を問いただし、弓でしとめても遅くなかった気がしますが。

 結局、大山寺の僧侶たちのたたりが都を襲っているからといって、早々に山庵を弓でしとめても、平安京の治安はよくなっていませんしね。むしろ、比叡山僧兵による尾張の大山寺焼き討ちの事件の詳しい真相を闇に葬っただけでしたね。」

 陰陽師の安倍清業は、ここまで話すと、ちらっと美福門院の方を見た。美福門院は、何も語らなかったが、心の中ではこうつぶやいていた。

 「あの時、あなたではない陰陽師の安倍氏が、そうしなければ、近衛天皇の体調の回復に支障が出ると言うものですから。」

 そして、陰陽師の安倍清業は、次のように続けた。

 「しかし、そんな話は、今さら後悔しても遅い。それよりも、もっと悲しむべきなのは、多くの大山寺の僧侶たちが、比叡山僧兵による焼き討ちによって命を落としたことです。大山寺の修行僧だった星海もこう言っていました。

 「私が今でも悲しく残念なのは、玄法上人と一緒にいた二人の稚児僧(子供の僧)の牛田と佐々木が犠牲になったことです。私と違って、優秀な子供たちでした。私は、このことを、一生忘れないで、周りの者たちに語り継いでいくつもりです。」と。

 それで、美福門院様に私からひとつの提案があります。

 星海によれば、比叡山僧兵に焼き払われた大山寺の跡地は、今でも、誰も、何も、手をつけていません。焼けただれた大山寺のがれきが、そのままの状態で放置されたままです。

 ここに、犠牲となった二人の稚児僧(子供の僧)の霊を慰めるために、神社を建てませんか?近衛天皇の母親である美福門院様なら、そんな私たちの気持ちを理解できるでしょう?」

 なかなか子供の病気が治らない美福門院には、そのことの意味がまるで自分のことのように感じられた。今や、病気でいつ崩御するかわからない近衛天皇に代わって、天皇の仕事をしているのは、実質的には、美福門院だった。

 そして、「比叡山僧兵に焼き払われた尾張の大山寺の跡地に神社を建設する。」という事案は、近衛天皇の父親でもある鳥羽上皇の院もさっと通過し、神社建立の責任者として、鷹司宰相友行を任命することまで、話はとんとん拍子に進んだ。そして、この時、美福門院は、心の中でひとつの決心をしていた。

「私が死んでも、私は、天台宗比叡山延暦寺のお墓には、絶対に入らない。」

 仁平4年10月28日、近衛天皇の病気のこともあり、縁起が悪いということで、「仁平」という元号が改元され、「久寿」という元号に変わった。仁平4年10月28日は、久寿元年10月28日となった。しかし、元号が代わってから間もなく、久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇の崩御は突然やってきた。近衛天皇は、まだ、17歳だった。若いものが死ぬということが、残されたものたちにとって、どれほどつらいことか、このときの美福門院は痛感していた。

 一方、焼き払われた尾張大山寺跡地神社建設の責任者に任命された鷹司宰相友行は、こんなときに、自分の仕事を進めてもいいものなのかどうか迷っていた。しかし、美福門院は、使者を介して、鷹司宰相友行にこう告げたのであった。

 「近衛天皇は、生きている間、病気に悩まされ、生きていることもつらそうだったことが何度かありました。しかし、近衛天皇は、その病気の苦しみからやっと解放されました。今、近衛天皇は、本当に幸せそうに眠っていらっしゃいます。ですから、鷹司宰相友行様には、ぜひ、仕事を進めていただきますよう、心からお願い申し上げます。」

 久寿2年(1155年)11月5日、天台座主を辞して、青蓮院門跡寺院にこもっていた行玄が亡くなった。天台座主行玄は、雲玄から焼き払われた大山寺の報告を受けていながら、そのことを記録にとどめようとはしなかった。比叡山僧兵による大山寺焼き討ちの伝説に多くの謎が残った原因の1つには、天台座主行玄が、大山寺に関する多くのことを墓場まで持っていったことがあげられると、筆者は考えている。それは、天台座主行玄が、天台宗を朝廷から守り、末永く存在させることを目的とした行為であると言える。

 「西の比叡山、東の大山寺」といわれていた当時の天台座主行玄が亡くなってから、850年以上経過した現在、比叡山延暦寺は世界遺産となり、大山寺は、廃寺として、そして、国の史跡として、愛知県に残っている。このことを亡くなった行玄が知ったら、行玄はどう思うだろう。

 そして、行玄が亡くなった年(久寿2年、1155年)の11月16日、鷹司宰相友行は、比叡山僧兵に焼き払われた尾張の大山寺の跡地に神社を建設することを目的として、尾張の大山に赴任した。比叡山僧兵によって焼き払われた大山寺の復興の第1歩を担ったのは、朝廷だった。

 陰陽師の安倍清業から、この事実を聞いた、多治見の陶磁職人の星海は、このことを他の陶磁職人たちに知らせるとともに、陰陽師の安倍清業を通じて、鷹司宰相友行との面会を申し出た。尾張の大山に赴任してきた鷹司宰相友行に会った星海は、自分が修行僧をしていたときの大山寺の様子を鷹司宰相友行に伝えた。星海が鷹司宰相友行に知らせた大山寺の大伽藍の様子は、次のようなものだった。

 「本堂は、四方が21.72mあり、54.3mの廻廊があった。廻廊の左右には、堂の数が18あり、前に五重塔があった。」

 そして、鷹司宰相友行は、星海と一緒に、大山寺があった山の中を歩いて、どこに、どのような建物が建っていたのか、説明を受けた。星海は、2015年現在、児神社が建っている場所に立って、鷹司宰相友行に、このような話もした。

 「大山寺のトップである玄法上人は、大山寺の中で、製鉄所を拡大して、武器を作り、地元の治安を守ることもしていた。その製鉄所の跡がここです。」

 「ところで、君は、もし、大山寺が再興したら、また、修行僧に戻るつもりなのかね?」

 鷹司宰相友行が、星海にこう聞くと、星海は答えた。

 「私は、もう、修行僧に戻るつもりはございません。多治見で陶磁職人として生きていくつもりです。しかし、大山寺が再興したら、ぜひ、大山寺に、自分が作った陶器を買ってもらおうと思っています。そう思っているのは私だけではありません。仁平2年3月15日に、火災を逃れて、多治見や瀬戸などに引っ越した陶磁職人は皆そう思っています。」

 星海のこの言葉を聞いて、鷹司宰相友行は、こう言った。

 「私たち朝廷が、比叡山僧兵に焼き払われた尾張の大山寺の跡地に神社を建設する目的は、あくまでも、犠牲となった二人の稚児僧(子供の僧)の霊を慰めるためです。そして、この世に生きる全ての男の子や女の子が長生きできるようにするために、この神社は、子供たちを守る神社とします。神社の名前は、「児(ちご=稚児)神社」としましょう。

 ところで、いつの世も、子供が犠牲になるのは、戦いによることが多い。戦いはなぜ起きるのでしょう。それは、お互いに武器を持つから戦うのです。比叡山の僧兵たちを見てもわかるように、僧侶に武器は必要ないと私は思っています。比叡山の僧兵たちは、なぜ、大山寺を攻めてきたのでしょう。比叡山のトップの僧侶たちは、なぜ、大山寺の焼き討ちを止められなかったのでしょう。その理由のひとつが、大山寺が武器を生産していたということにあるのではないかと私は考えているのです。そして、子供たちを守るために、再び、何者かがこの製鉄所を使って武器を生産しないように見張るためにも、児神社は、製鉄所跡が見渡せるこの地に建てることがいいのではないかと、私は、考えています。

 この神社が無事にこの地に建設されたら、私は、平安京の都に帰りますが、この神社には宮司をつけ、宮司の下に、若い娘をつけて、神社を運営してもらいます。神社がどんどん大きくなって、1年に6回のお祭りをし、そのうちの2回は、地元の人が商売できるような祭りができるようになればいいのですが。

 それから、比叡山僧兵に焼き払われた本堂跡は、そのままの状態で残しておきましょう。その方が、噂を聞きつけてこの地を訪れる観光客などにもいい教訓になるでしょう。奇跡的に焼け残った弥勒菩薩像や太鼓堂、鐘堂などもそのままの状態で保存しましょう。星海さんがもう修行僧に戻りたくないと思っているのと同じように、私たちも、この地に寺院を再興する気はありません。ここは、平和を考える遺産として残した方がいいのではないでしょうか?」

 鷹司宰相友行は、星海にこのように話して、神社の建設に取り掛かった。

 さて、多治見から来た星海は、大山寺跡で鷹司宰相友行と会って、このような話をした後に、大草にある大久佐八幡宮に寄り、大山寺で修行僧をやっていたころからの顔なじみである大久佐八幡宮の宮司の井山一郎に会った。二人が顔を合わせるのは、大山寺が焼失して以来初めてだった。

 大久佐八幡宮の宮司の井山一郎は、星海に、仁平2年3月14日の昼頃、40人ほどの比叡山の僧兵たちが大久佐八幡宮に来て、夕方まで休憩していったことを話し、自分は僧兵たちが怖くて、言われるままに休憩させてしまったことを謝った。星海は、すんだことはもういいですからと井山一郎をなぐさめ、先ほど、比叡山僧兵に焼き払われた大山寺の跡地に神社を建設する目的で尾張の大山に赴任してきた鷹司宰相友行と話したことを、井山一郎に話した。すると、井山一郎は、こう言うのであった。

 「焼き払われた大山寺跡地に神社を建設するのはいいことだと思う。しかし、私は、やはり、もう一度、大山寺のような大きな寺院を地元に造ってほしい。大山寺が比叡山僧兵に焼き払われて以来、この地からはどんどん人がいなくなり、今では、すっかり寂れてしまった。窯業関係者の人たちも皆、多治見や瀬戸に行ってしまって、この地に残された者たちは、日々、農業をしながら細々と暮らしている。

 私は、毎日、この神社の前をたくさんの人が行きかっていたあのころに戻りたい。神社の前を通る人がいなくなってから、この神社自体もすっかり寂れてしまった。これでは、この神社そのものがなくなってしまうことになりかねない。

 朝廷が焼き払われた大山寺跡地に神社を建設するのは、ありがたい話だが、神社を建設しただけで、あの頃の活気が取り戻せるのだろうか?やはり、かつての大山寺のような大きな寺が造られて、たくさんの僧侶や寺院の仕事に携わる人々が行き来する日々が戻ってくることが、この地に残された者たちの願いなのではないだろうか?」

 確かに、そのことは、地元に残された者たちのみならず、多治見や瀬戸に逃げて行った陶磁職人たちの願いでもある。しかし、この地にもう一度そのような大きな寺を造ることは、どこにお願いしたらいいのだろう。星海は、大山寺の再興について話し合うために、井山一郎と時々会うことを約束した。そして、別れ際に、星海は、井山一郎にこう言った。

 「実は、私は、今、多治見で結婚して、子供もいる。私の奥さんは、昔、篠岡丘陵で窯を開いていて、大山寺の火災の時に私と一緒に多治見へ逃げた人の娘だ。今度、家族でここに遊びに来てもいいかな?」

 ある日、尾張地方にある神社の土地を管理している熱田大宮司家から、大草にある大久佐八幡宮の宮司の井山一郎に依頼があった。それは、朝廷から大山に赴任している鷹司宰相友行を助けて、焼失した大山寺の跡地に児神社を建設する手伝いをしてほしいというものだった。井山一郎は、さっそく、大山に赴任している鷹司宰相友行に会いに行った。そして、井山一郎は、鷹司宰相友行に自分の意見をぶつけてみた。

 「犠牲となった二人の稚児僧(子供の僧)の霊を慰めるために児神社を建設することには、大賛成である。私たちは助け合って、立派な神社を建てましょう。しかし、私たち地元の人間の本当の願いは、もう一度、かつての大山寺のような大きな寺を造り、人々をこの地に呼び戻し、かつての活気ある日々を取り戻すことにある。そうするために、私たちにできることは何でもやります。」

 すると、鷹司宰相友行は、井山一郎にこう言った。

 「あなたの思いはよくわかりました。まず、寺院を建設するためには、できるだけ多くの寄付を集めることですが、それだけでは足りません。やはり、権力者の後押しがないといけません。

 しかし、今の平安京の権力は非常に不安定なことが現状です。近衛天皇が崩御されてから、誰を次の天皇にするかでもめたことは周知の事実ですが、朝廷内の対立はまだ続いているのが、現在の朝廷の状況です。私は、この地に児神社を無事建設できたら、平安京に帰っていきますが、都へ帰ったところで、私の地位がどうなるものか、わかったものじゃありません。私は、家族を都に残してきているので、都へ帰るだけのことです。

 私は、朝廷が崩れる前に児神社の建設を完了したい。ですから、今回の児神社建設は、スピードを速くしたいと思っています。

 中央政府の状況がこんなに不安定ですので、かつての大山寺のような大きな寺をこの地に建設することは、もう少し待った方がいいと思います。今は、かつての大山寺のような大きな寺を造るために足腰を鍛える時期です。そして、中央政府が安定してきたとき、大山寺の再興を進めるのがいいでしょう。中央政府が安定するのは、いつのことになるかわかりませんが。もしかしたら、大山寺の再興は、私たちの子供の世代の話になるかもしれませんね。」

 鷹司宰相友行が井山一郎に言ったこのことは、熱田大宮司家が井山一郎に言ったことと同じ内容だった。井山一郎が鷹司宰相友行に会う前に、熱田大宮司家から井山一郎に会いに来た使者は、「中央政府の動きが不安定で、もしかしたら、日本は内戦状態になるかもしれない。そうなる前に、速く、児神社を建ててしまいたいので、大山に赴任している鷹司宰相友行を助けて、児神社建設のスピードを速くしてほしい。」と言っていた。

 近衛天皇が崩御してから、次の天皇を誰にするかで、鳥羽上皇と崇徳上皇が対立し、後白河天皇が即位した。鷹司宰相友行は、後白河天皇が即位した保元元年(1156年)4月くらいから、児神社の建設中ではあるが、児神社の運営を任せる宮司の派遣を熱田大宮司家にお願いしていた。そして、鷹司宰相友行は、派遣されてくる児神社の宮司には、毎年、3月15日にお祭りを行ってもらうようにするつもりだった。

 3月15日は、仁平2年に大山寺が比叡山僧兵による焼き討ちによって焼失したときに犠牲となった、二人の稚児僧(子供の僧)の牛田と佐々木の命日である。このお祭りは、夫婦和合・児授・妊婦健康安全を願う祭礼として、2015年現在になっても続いていて、毎年4月の第1日曜日(旧暦の3月15日)には、児神社が参拝者でにぎわいを見せる。

 ところで、鷹司宰相友行は、児神社を建設している間中ずっと、鳥羽上皇と崇徳上皇の間に戦いが勃発しないか気をもんでいた。そして、鷹司宰相友行が井山一郎の協力のもとに児神社の建設を無事完了し、落成式もすませ、熱田大宮司家から宮司も派遣されてきて、鷹司宰相友行が安心して都に帰った直後、鳥羽上皇が崩御した。保元元年(1156年)7月のことだった。

 鳥羽上皇の崩御直後に、後白河天皇と崇徳上皇の間で、保元の乱という内戦が勃発した。熱田大宮司家と井山一郎の協力がなければ、児神社の建設は途中で中断されているか、悪ければ、二度と児神社の建設は、されていなかったかもしれなかった。

 保元元年(1156年)7月、鳥羽上皇が崩御し、後白河天皇が平安京にいる武士の動きを停止する勅命を発しても、崇徳上皇のもとには、兵士が続々と集まってくるのだった。崩御した鳥羽上皇とずいぶん前に亡くなった待賢門院に仕えていた藤原頼長も崇徳上皇のもとに集まった。一方、かつて藤原頼長の良きライバルであった藤原信西は、後白河天皇の側近として、後白河天皇の背後で糸を引いていた。そして、日本の中央政府である朝廷は、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれて、平安京を戦場として、争ったのであった。

 この戦闘で、藤原頼長は命を落とし、崇徳上皇は、仁和寺に投降した。保元の乱は後白河天皇方の勝利に終わり、崇徳上皇は、讃岐の国(現在の香川県)に流された。崇徳上皇方についた貴族は、流罪であったが、武士に対する処罰は厳しかった。平安時代に入ってから、約346年間執行されなかった公的な死刑は、保元の乱で崇徳上皇方についた武士たちに適用された。崇徳上皇方についた武士の源為義、平家弘、平忠正は、一族もろとも斬首となった。

 武士に対する死刑の執行を決定したのは、後白河天皇方で糸を引いていた藤原信西である。この死刑の復活は、当時の人々に衝撃を与えた。しかし、日本の中央政府である朝廷が、崇徳上皇方と後白河天皇方に分かれて、平安京を戦場として争った保元の乱は、朝廷内の対立であったにもかかわらず、武士の力によって勝ち負けが分かれ、負けた者は死刑になるという時代が到来したことを当時の人々に告げた。時代は、古代から中世に転換していたのであった。

 「中央政府の状況がこんなに不安定ですので、かつての大山寺のような大きな寺をこの地に建設することは、もう少し待った方がいいと思います。今は、かつての大山寺のような大きな寺を造るために足腰を鍛える時期です。そして、中央政府が安定してきたとき、大山寺の再興を進めるのがいいでしょう。中央政府が安定するのは、いつのことになるかわかりませんが。もしかしたら、大山寺の再興は、私たちの子供の世代の話になるかもしれませんね。」

 比叡山僧兵による大山寺焼き討ちの事件によって、地元を離れて多治見や瀬戸に移った、星海をはじめとする陶磁職人たちや、地元に残っている大久佐八幡宮の宮司の井山一郎たちは、平安京の都で、保元の乱という戦闘が勃発したことを知り、鷹司宰相友行が言ったこの言葉を忠実に実行することにした。それは、

 「比叡山僧兵によって大山寺という寺が焼き討ちに会い、玄法上人と二人の稚児僧(子供の僧)をはじめとする多くの僧侶たちが亡くなった。そして、亡くなった二人の稚児僧(子供の僧)の霊を慰めるために児神社を建てた。しかし、私たちの本当の目的は、もう一度、地元に大山寺を再興することである。そして、大山寺が再興したら、私たちは、自分たちが作った陶磁器を大山寺に納め、地元にまた人が戻ってくることを願っている。」

 ということを子供たちに伝えていくことだった。星海も井山一郎も、自分たちが生きている間に、世の中が以前のように平和になっているという自信は持っていなかった。そして、保元の乱から4年後の平治元年(1159年)12月、平安京にて平治の乱が勃発する。

 平治の乱は、そのきっかけは、藤原信西が権力を拡大していくことに反感を覚えた反信西派によるクーデターである。しかし、平治の乱の内容は、それほど単純なものではなかった。

 保元の乱の勝利によって、後白河天皇は、「保元新制」と呼ばれる新しい制度を発令した。「保元新制」とは、各地で紛争の火種となっていた荘園・公領を全て天皇の統治下に置くことによって、全国の荘園をめぐる混乱の収拾を図るというものである。そして、後白河天皇のもとで、「保元新制」という国政改革を立案・推進した人物こそ、後白河天皇の側近である藤原信西であった。そして、藤原信西が「保元新制」を推進するために頼りにしたのが、平清盛と平氏一門である。つまり、後白河天皇・藤原信西・平清盛という3人が当時の権力者の代表であった。

 ところで、平治の乱を語る上で、もうひとつ重要になってくるグループがある。それは、美福門院を中心として、後白河天皇の代わりに二条天皇を擁立しようとするグループである。「保元新制」を推進していく立場の藤原信西にとって、崩御した鳥羽上皇からの荘園の大半を相続して、当時の日本最大の荘園領主となっていた美福門院は、その意向を無視できない存在だった。二条天皇は、後白河天皇の一人目の子供であるが、その母親が二条天皇を産んだ直後に亡くなったため、美福門院が二条天皇を引き取って育てたという経緯があった。

 保元3年(1158年)8月、美福門院が藤原信西に強く要求した結果、後白河天皇は二条天皇に譲位した。そして、「保元新制」などどうでもいいと思っている美福門院を中心とした二条天皇親政派は、後白河上皇の政治活動を抑圧するようになる。このことがあってから、後白河上皇の藤原信西に対する信頼は揺らぎ始めた。そして、後白河上皇は、藤原信西の代わりに、新しく、藤原信頼という側近を抜擢する。 新しく後白河上皇の側近に抜擢された藤原信頼は、源頼朝の父である源義朝ら源氏一族と提携して、反藤原信西のグループを形成した。ここで、権力者の代表として、後白河上皇・藤原信西・平清盛と平氏一族の他に、美福門院を中心とする二条天皇親政派と、藤原信頼と源義朝ら源氏一族による反藤原信西のグループが登場する。

 平治元年(1159年)12月、反藤原信西の旗を掲げた藤原信頼と源義朝ら源氏一族は、御所を襲撃し、二条天皇・後白河上皇を幽閉して、逃げた藤原信西を追いかけた。逃げた藤原信西は、逃げ切れないとわかった後、自害した。源氏一族は、自害した藤原信西の首を切って平安京に戻り、首を平安京に住む一般民衆に晒した。

 平安京のこの混乱を収拾したのが、平清盛と平氏一族であった。幽閉されていた二条天皇・後白河上皇が御所から脱出すると、平清盛率いる平氏軍は、反藤原信西の旗を掲げた藤原信頼と源義朝ら源氏一族と、平安京にて市街戦を展開した。そして、平清盛率いる平氏軍の圧倒的な軍事力によって、藤原信頼は戦線を離脱し、源義朝ら源氏一族は、東国に逃亡した。

 かつて、比叡山僧兵たちが大山寺を焼き討ちにするために、比叡山から大山寺に来た同じルートをたどって、源義朝をはじめとする源氏の武士たちは、平安京(現在の京都)から東名高速道路の小牧インターと春日井インターの間付近まで逃げてきた。しかし、このまま、古代の官道の上を馬で走っていたのでは、いつか、平氏の武士たちに追いつかれて、捕まってしまう。源義朝をはじめとする源氏の武士たちは、平氏の武士たちをまいて、どこか見つからない所に隠れる必要があった。

 「このままでは、ここにいる者たちは、みんなまとめて平氏軍に見つかってしまい、源氏一族は滅亡してしまう。ここで、私たちは、ばらばらになって、平氏軍に見つからないように、隠れることにしよう。」

 そう、提案したのは、源義朝であった。源義朝は、まわりにいた源氏軍のそれぞれの武士たちに向かって、どこに逃げるか指示をした。そして、源義朝は、最後に、部下の波多野氏にこう命じた。

 「今まで、私についてきてくれてありがとう。あなた方は、私が最も信頼を寄せた部下の一人だ。私は、ここから南に向かい、行ける所まで行くつもりだ。波多野氏は、私の息子である頼朝と一緒にここから北へ逃げてくれ。

 これは、頼朝の母親の実家である熱田大宮司家から聞いた話だが、ここから少し北へ向かうと、大草という地名があり、そこに「大久佐八幡宮」という小さな神社がある。

 ところで、波多野氏たちも聞いたことがある話だと思うが、仁平2年(1152年)に比叡山僧兵の焼き討ちによって、大山寺という寺が廃寺となった。そして、そこには、焼き討ちで亡くなった二人の稚児(子供の僧)の霊を慰めるために、児神社という神社が建っている。熱田大宮司家の依頼で、その神社を建てるのを手伝ったのが、大久佐八幡宮の宮司たちだ。そして、熱田大宮司家の話によれば、大久佐八幡宮の宮司たちは、将来的には、もう一度、焼き討ち前の大山寺のような大きな寺を再興し、地元にまた人が戻ってくることを願っているのだそうだ。

 私たちが天下を取ったあかつきには、大山寺再興に協力するという話をすれば、大久佐八幡宮の宮司たちも波多野氏や頼朝たちをかくまってくれるだろう。それでは、私は、南へ向かう。お互い命があったら、また、会おう。」

 そして、源義朝は、波多野氏と頼朝たちに背を向けて、南へ向かって馬を走らせていった。波多野氏と頼朝たちは、「大久佐八幡宮」を探して、北に向かって馬を走らせていった。その後、波多野氏と源頼朝が、源義朝と再会することはなかった。

 波多野氏と頼朝たちは、官道から北へ入って、以外に早く、その神社をみつけた。「大久佐八幡宮」は、官道から近い場所にあるにもかかわらず、確かに、あまり人気のない、さびしい場所に建っている神社だった。かつて、この神社が、比叡山僧兵に焼き討ちにされた大山寺へ向かう参道の途中にあり、常に、官道を下りて大山寺へ向かう人や、大山寺から出て、再び官道へ戻って、都や東国などへ向かう人々が行きかっていた場所であったとは、想像できなかった。波多野氏と頼朝たちは、とにかく、一度休ませてもらうためにも、大久佐八幡宮の宮司である井山一郎に会うために、「大久佐八幡宮」に入っていった。

 「そうですか。熱田大宮司家には、いつもお世話になっております。それにしても、7年前にここに来た比叡山僧兵たちとは違って、源氏の武士の方々は、とても礼儀正しい。こうして話していても安心します。

 しかし、私たちの大山寺再興の願いを応援してくれる方々が増えていくのは、うれしいことです。ところで、これからは、平氏の世の中が来るのでしょうか?平氏の方にお願いすれば、大山寺は再興してもらえるのでしょうか?」

 大久佐八幡宮の宮司の井山一郎は、波多野氏と頼朝たちにこう質問した。そのとき、その場所にいた若い源頼朝は、井山一郎の質問にこう答えた。

 「現在の日本の中央政府は、まず、天皇家が後白河上皇方と二条天皇方と二つに割れています。そして、天皇家を支える摂関家もそれに伴って割れています。そして、天皇家や摂関家を守るべき武士たちも、我々源氏と平氏が争っている状況です。

 足元がこんなに不安定な状況では、たとえ、平氏が天下を取っても、平氏は自分たちのやりたいことができないに決まっています。平氏のリーダーである平清盛は、頭もいいし、リーダーシップもある人だと父から聞いてはいますが、平清盛以外の平氏の人たちはどうなのでしょう?」

 頼朝はこう答えると、突然、黙りこくってしまった。そして、しばらくしてから、口を開き、こう言った。

 「平氏の人たちに大山寺再興をお願いするために、私を平氏に差し出してみるのはどうでしょう?」

 波多野氏は、頼朝の話を聞いて、猛反対した。
 「だめです。そんなことをしたら、頼朝様は、まず、死刑に処されるに決まっています。頼朝様が死刑になったら、私たちが義朝様に対して会わせる顔がありません。この大久佐八幡宮で、平氏に見つからないようにひっそりと暮らしていくことこそ、私たちのとるべき道です。」

 しかし、波多野氏の猛反対にあっても、頼朝の決意は固かった。頼朝はこう言った。

 「平氏は私を本当に死刑にできるでしょうか?平清盛は私を死刑に処すことができても、その他の平氏の人間に私を死刑に処すことはできませんよ。私の母の実家は、熱田大宮司家なのですよ。大体、熱田大宮司家の運営する熱田神宮は、天皇の三種の神器である勾玉・鏡・剣のうち、天皇の神剣を守っている神社なのです。

 それに、本気で我々が大山寺再興を願っているのなら、平氏の力も借りたいところでしょう。大山寺を再興できるのは、平氏であるのか、源氏であるのか、井山様も見ていたくはありませんか?

 見ていてください。我々源氏は、必ず、大山寺を再興してみせます。ですから、大山寺再興の第一歩として、私を平氏に引き渡してください。」

 すると、少しの沈黙の後、井山一郎は頼朝にこう答えた。

 「わかりました。頼朝様には、これから、多治見で陶磁職人をやっている星海という者の家に行ってもらいます。星海は、昔、焼き討ちを受けた大山寺で修行僧をしており、大山寺が焼き討ちを受けたのを機に多治見へ避難し、現在は、多治見で陶磁職人をしているものです。 大山寺が焼き討ちされたとき、篠岡丘陵で働いていた陶磁職人たちは、全員、多治見や瀬戸や常滑など、各地に散らばって行きました。そして、各地に散らばった陶磁職人たちの願いはただひとつ、もう一度大山寺を再興し、自分たちの作った陶磁器を、再興した大山寺に納めることです。きっと彼ら陶磁職人は全員、頼朝様の味方になってくれるはずです。

 今、平治の乱で平氏が勝利したことで、尾張地方に新しく、尾張の守として、平頼盛様が赴任してきています。私は、源頼朝が多治見の陶磁職人星海の家に保護されていることを平頼盛様に告げます。そうしたら、平頼盛様は頼朝様を捕まえて、平安京の平清盛に引き渡すでしょう。これでよろしいですかな?」

 井山一郎がこう言うと、源頼朝はにっこり笑って、井山一郎に答えた。井山一郎は、安心して、こう言った。

 「それでは、今日は、ゆっくり休んでもらって、明日の朝、頼朝様と私は、多治見にある陶磁職人星海の家へ行きましょう。」

 翌朝、源頼朝と大久佐八幡宮の宮司の井山一郎は、多治見にある陶磁職人星海の家に出発するため、旅支度を整えて、大久佐八幡宮の入口に立っていた。そして、源頼朝は、そこにいた波多野氏とその一族に向かって、こう言って、多治見へ出発した。

 「私は、これから、平清盛のもとに行きます。そして、必ず、源氏が天下を取る所を皆さんにお見せします。
 波多野氏は、私が天下を取るまで、絶対に死んではなりません。平氏には絶対に見つからないように、大久佐八幡宮の中で息をひそめて生きるのです。そして、源氏が天下を取った日に、表へ出てきて、大山寺再興と地元の活性化のために、私のもとで汗をかくのです。

 それでは、行って参ります。」

 大久佐八幡宮の宮司の井山一郎は、多治見にある陶磁職人星海の家に源頼朝を送り届け、星海に事情を話した。星海は、快く承諾して、こう言った。

 「武士の人たちは、武士以外の人間を殺す事はないらしいですよ。だから、頼朝様を保護したからといって、私たちがお咎めを受けることはありません。また、一歩、私たちは、大山寺再興に近づきましたね。」

 大久佐八幡宮の宮司の井山一郎は、多治見にある陶磁職人星海の家に源頼朝を送り届けると、すぐに、その足で、尾張地方に新しく赴任した尾張の守の平頼盛のもとへ向かった。

 平頼盛は、平清盛とは、母親の違う弟である。平頼盛の母親は、この頃は、池禅尼という名前で、六波羅(現在の京都市東山区にあり、平清盛は六波羅を平氏政権の中心地とした。)に住んでいた。井山一郎は、尾張の守の平頼盛に会うと、このように言った。

 「平治の乱で逃げた源義朝の息子である源頼朝の居場所を知っていますよ。知りたいですか?知りたければ、私の言う条件を飲んでください。」

 尾張の守の平頼盛は、とにかく、その条件を言ってみろと井山一郎に迫った。井山一郎は、平頼盛に言った。

 「源義朝の息子である源頼朝様は、私たちに、大山寺の再興を約束してくださった方です。ですから、源頼朝様を死刑に処すことはしないでください。もし、どうしても源頼朝様を死刑に処したいというのなら、平氏政権は、私たちに、大山寺の再興を約束することを誓ってください。」

 「私たち平氏政権は、今、厳島神社の建設に邁進している。大山寺の再興にまで手をまわすことは無理だ。しかし、源頼朝を捕えることは、現在の私の仕事だ。わかった。兄の平清盛に源頼朝の助命を嘆願してみよう。とにかく、頼朝に会わせてくれ。」

 尾張の守の平頼盛はこう言うと、自分の家臣を井山一郎につけて、多治見まで、源頼朝を捕えに行った。尾張の守の平頼盛の家臣である平宗清が、多治見の陶磁職人星海の家から源頼朝を連れ出す時、星海の家族は、皆、源頼朝の背中に向かって、口ぐちにこう叫んだ。

 「頼朝さん、大山寺の再興をお願いします。」

 尾張の守の平頼盛の家臣である平宗清が多治見で源頼朝を捕え、平頼盛のもとへ連れてくると、平頼盛は、すぐに、源頼朝とともに京都の六波羅(平氏政権の中心地)に向かった。尾張から京都の六波羅(平氏政権の中心地)に向かう途中、平頼盛は源頼朝といろいろ話をしたが、平頼盛の家臣である平宗清が言うように、源頼朝は神童だった。平頼盛は、こう思った。

 「源頼朝はまだ若干13歳だと聞いているのに、父親の源義朝が教師として優れていたのか、とにかく、政治のことに関しては、すごい知識の持ち主だ。こういう人間は、平氏の中では、恐らく、平清盛以外にいないであろう。それにまだ若い。この子は、死刑に処するよりも、生かしておいて、平氏の味方にした方が、我々にとっては、得策なのではないだろうか。」

 尾張の守の平頼盛は、源頼朝を京都の六波羅(平氏政権の中心地)に連れていくと、母親の池禅尼に源頼朝を託した。そして、

 「母上、源頼朝を死刑に処してはなりません。頼朝は生かしておいた方が我々の得になります。清盛が、頼朝を死刑に処すると言ったら、母上は反対してください。

 それに、頼朝は、尾張の宮司や美濃の陶磁職人たちから、とても支持されています。もし、頼朝を死刑にしたら、尾張の守としての私の仕事にも支障が出ます。」

 と、池禅尼に言い残し、平頼盛は赴任地の尾張に戻っていった。

 「源頼朝は死刑に処す。そうしなければ、我々平氏政権は、将来に禍根を残すことになる。」

 それが、平清盛の意見だった。しかし、そう言っていたのは、平氏一門の中では、平清盛だけだった。一人の人間として、若い者を死に追いやるというのは、それほど簡単なことではない。若い者を見ると生かしておきたいと思うのが、普通の人間の感情だ。そういう意味で、平清盛は、政治家として、未来を見通す力に優れていたのかもしれない。

 しかし、まわりの人間の猛反対にあって、平清盛は自分の意見を曲げずにはいられなかった。比叡山僧兵による大山寺焼き討ちの事件(仁平2年、1152年3月15日)から8年後の永暦元年(1160年)、源頼朝は、伊豆に配流となった。

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