十三 源平の戦い

 「私が死んでも、私は、天台宗比叡山延暦寺のお墓には、絶対に入らない。」

 源頼朝が伊豆に配流になった年の永暦元年(1160年)11月23日、近衛天皇の母親である美福門院が死去した。美福門院の娘のワ子内親王、即ち、八条院(ワ子内親王は、1161年(応保元年)12月に八条院という院号を名乗るようになる。従って、この小説では、以後、美福門院の娘のワ子内親王のことを八条院と呼ぶことにする。)は、母の遺言通り、母の遺骨を高野山に納めることにした。高野山は、八条院からのこの突然の申し出に、とても戸惑って、大騒ぎしていた。しかし、八条院は、なぜ、母美福門院が、自分が死んだ後の遺骨を高野山に納めようとするのか、その理由を母親の美福門院の口から直接聞いていた。

 弟の近衛天皇が久寿2年(1155年)に17歳で崩御し、父である鳥羽上皇は保元元年(1156年)に崩御し、今、母親である美福門院もこの世からいなくなってしまった。妹は、二条天皇のもとに嫁ぎ、今、八条院は、父親と母親の莫大な荘園のほとんどを相続している。しかし、八条院はこの世にひとりぼっちだった。

 八条院は、父親と母親の莫大な荘園のほとんどを相続していたが、出家して仏の道に入っていたため、20代から40代にかけての彼女の人生は、父母を弔うための仏事や社寺参詣に明け暮れていた。何度か恋をしたこともあったが、やはり、彼女の背景にある莫大な荘園が、男性を遠ざけていくのであった。それに、八条院は、家事がきらいで、服などのオシャレに関する執着も持ち合わせていなかった。まだ、父母が生きていた頃、父である鳥羽上皇は、崩御した近衛天皇の後継者として、八条院を天皇にしたいと考えていたが、それもかなわず、この世を去っていった。結局、八条院は天皇になることはなく、後白河天皇が近衛天皇の後継者となってからは、後白河の世の中が続いている。

 母美福門院が亡くなってから、二条天皇と後白河上皇の関係はますます悪化した。そんな中、二条天皇の妻となった妹は、心労が重なって、病に伏せってしまった。結局、二条天皇と別居した妹は、後白河上皇の反対を振り切って、出家した。妹は、出家して仏の道に入ったことで、病気は奇跡的に回復し、妹は今、仏の道にひたる閑静な生活を送っている。そんな妹の姿を見ていると、八条院は、結婚というものに対して、憧れを抱くことはできないのであった。結婚して、後白河上皇のいいなりにならなければいけないのなら、結婚なんてしたくない。八条院はそんな自立した女性だった。

 しかし、そんな八条院には、仏事や社寺参詣の他に重大な関心事があった。この関心事が、八条院から男性を遠ざけていたもう一つの要因ともいえるのであった。

 「尾張の国に大山寺という大きな山寺があったが、仁平2年(1152年)に比叡山の僧兵に攻められて、一山まるごと焼き払われた。その後、八条院の父母の手によって、焼き払われた跡地に児神社が建設された。しかし、地元の人々は、もう一度、大山寺を再興したいと考えて、日々の生活を送っている。」

 八条院は、この話を母親の美福門院から聞いて、大山寺の再興に非常に興味を持っていた。そして、自分がこの大山寺の再興に寄与できる方法はないものかと、日々、考えていた。八条院の趣味である社寺参詣には、当然、大山廃寺と児神社も含まれていて、八条院は、時間が許せば、何度か、尾張の国に足を運んでいた。大山廃寺の近くにある、春日井の篠木庄は、美福門院の死後は、後白河上皇に相続されたが、同じく春日井の柏井庄は、八条院の荘園だった。

 生後7か月の自分の息子を六条天皇とした後、永万元年7月(1165年9月)、二条上皇が崩御した。幼い六条天皇が即位すると、平清盛という人物が出てきて、太政大臣となり、894年に絶って以来の中国との国交を復活させた。これが、日宋貿易である。平清盛が復活させた日宋貿易のおかげで、宋銭は日本に大量に流入した。

 今日は、久しぶりに大山廃寺と児神社に来た。比叡山の僧兵に一山まるごと焼き払われてから15年以上経てば、山は木々の緑も復活して、鳥などの生き物も山の中で生活し、昔焼き討ちに会った出来事など、全く感じさせないほど静かな山の中に児神社は建っていた。八条院は、大山廃寺と児神社に来て、日頃、御所の中で感じているストレスが解消されていくのを感じていた。

 御所の中の噂によれば、近々、後白河上皇は、平清盛と手を組んで、幼い六条天皇を上皇にし、代わりに、後白河上皇と平家一族である平滋子との間に生まれた高倉天皇の世の中にするつもりらしい。天皇の器になる人物は、皇室の中には他にもいると思うのだけれど、よりによって、平家一族と手を組むなど、八条院には、思いもつかないことだった。大体、平清盛が復活させた日宋貿易のおかげで、宋銭は日本に大量に流入し、国内の物価が高騰しているというのが、今の日本の現状だった。八条院は、手に持っていた2枚の宋銭を、児神社境内から下の山の中に向かって、思いっきり、投げた。

 そして、高倉天皇が即位して7年後、仏の道にひたる閑静な生活を送っていた妹が、病気を併発して、36歳で亡くなった。とうとう、八条院はひとりぼっちになってしまった。しかし、以前にもまして、荘園は、八条院領として、八条院の手元に集まり続けるのだった。

 八条院の妹が亡くなってから2年後、高倉天皇と平清盛の娘である平徳子との間に、後の安徳天皇となる子供が生まれた。治承2年11月(1178年12月)のことであった。これで、平家一族の人間が、次の天皇になるという事態となり、「平家にあらずは、人にあらず」といわれるほど、平氏は隆盛を極めていた。

 このような事態に、後白河上皇らの院政勢力は、不快感をあらわにし、平清盛と後白河上皇らの院政勢力は、対立を深めていった。後白河上皇は、平氏一族の者が亡くなると、平清盛の意向を無視して、勝手にその者の荘園を没収するなどして、平氏一族に対抗した。

 しかし、治承3年(1179年)11月、平清盛は、軍勢を率いて、京都に上洛し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して、後白河院政を停止した。これが、治承三年の政変といわれる平清盛によるクーデターである。そして、治承4年(1180年)2月、高倉天皇は、1歳4カ月になる自分の息子を安徳天皇として即位させ、高倉天皇は、19歳で上皇となった。そして、幽閉され、院政を停止させられていた後白河法皇の代わりに、高倉院政を敷いた。しかし、1歳4カ月の天皇と19歳の上皇の裏で糸を引いていたのは、誰が見ても平清盛であった。

 八条院は、後白河法皇の第3皇子である以仁王を自分の猶子(親子関係を結ぶこと。ただし、養子と違い、契約関係によって成立し、子供の姓は変わらない。現代でいう、後見人と被後見人のような関係であると考えられる)としていた。もし、平氏一族がこの世に存在していなければ、六条天皇の次は、間違いなく、以仁王が天皇になっていただろう。しかし、「平家にあらずは、人にあらず」といわれるほど平氏の勢力の強いこの時代では、以仁王の皇位継承の可能性は零に等しかった。八条院は、御所の中にいて、平清盛と平氏一族を見るたび、本当にむかついていた。

 「後白河法皇の院政さえ停止すれば、自分たちの思い通りになると思っているみたいだけど、この八条院は、全国に200か所以上の荘園を持っているのよ。平清盛は、こんな私が怖くないのかしら?」

 八条院は、治承三年の政変といわれる平清盛によるクーデター以来、平家打倒の思いをひそかに募らせていた。それは、八条院の心の中に、大山寺再興に対する思いと同時に存在するものだった。八条院は、この思いを、ひそかに、源頼政に打ち明けていた。

 源頼政とは、八条院の母である美福門院の依頼で、大山寺を焼き討ちにした比叡山僧兵のリーダーである山庵を弓で仕留めた、井の半弥太の主人の兵庫頭頼政のことである。八条院は43歳、兵庫頭頼政は、この頃、77歳になっていた。

 「八条院殿の思いはわかりました。伊豆にいる源頼朝は、大久佐八幡宮の宮司たちに代表される大山廃寺の地元の人々に、自分が天下を取った暁には、大山寺の再興を約束したそうです。平氏打倒と大山寺の再興の両方の夢を実現するためには、源頼朝に天下を取ってもらう以外に方法はありませんね。」

 源頼政がこう言うと、八条院は、こう答えた。

 「源頼朝が大久佐八幡宮の宮司たち地元の人々に、自分が天下を取った暁には、大山寺の再興を約束したという話は、熱田大宮司家から聞いて知っています。それで、私は考えたのですが、以仁王の名前で、「平氏打倒と大山寺再興」と書いた文書を、伊豆にいる源頼朝をはじめとする全国の源氏や、比叡山や園城寺、東大寺といった大寺社に送り届けるというのはどうでしょう。

 もちろん、全国のできるだけ多くの人々に以仁王の手紙を送付する費用は、この八条院が全て持ちます。以仁王の名前で、「平氏打倒と大山寺再興」と書いた文書をできるだけ多くの全国の人々に配ることができたなら、平氏一族は、かなり動揺すると思いませんか?」
 すると、源頼政は、八条院にこう言った。

 「源頼朝が平清盛と違う点は、源氏一族は、関東を勢力の基盤としているということです。平氏一族が、皇室の中に入り込んで、天皇家を自分の勢力の一部にしようとしているのと違い、源氏は、天皇家は天皇家、源氏は源氏とはっきり権力を区別している。ですから、源氏が天下を取った暁には、平家のように、天皇家に干渉してくるようなことはないと私は考えているのです。

 今、八条院殿は43歳、この頼政は77歳です。私は、もう、いつ死んでもおかしくない年です。ですから、今回の「以仁王の名前で、「平氏打倒と大山寺再興」と書いた文書を、伊豆にいる源頼朝をはじめとする全国の源氏や、比叡山や園城寺、東大寺といった大寺社に送り届ける」という作戦は、八条院殿の案ではなく、この頼政と以仁王の案として、実行したい。

 平氏の勢力はまだまだ強い。私と以仁王がこの文書を全国に配ったことで、平氏に命を狙われ、命を落としてしまうことがあっても、八条院殿は、必ず生き残り、夢を実現してください。」

 そして、治承4年(1180年)4月、八条院のバックアップのもと、源頼政は、以仁王の名前で、「平氏打倒と大山寺再興」と書いた文書を、伊豆にいる源頼朝をはじめとする全国の源氏や、比叡山や園城寺、東大寺といった大寺社に送り届けた。この「以仁王の令旨」の事件こそ、その後5年間の源平の争乱が日本国内で勃発するきっかけとなった。

 以仁王の名前で、「平氏打倒と大山寺再興」と書いた文書は、源氏の武士や大寺社に届くと同時に、平清盛の手元にも届いた。 源頼政からの使者によって、平清盛が以仁王を逮捕するために軍勢を御所に派遣したことを知った以仁王は、御所を脱出し、賀茂川を渡り、険しい山道を一晩中歩き続けた。そして、三井寺(園城寺)で源頼政と合流した。

 しかし、平氏の追手が迫り、三井寺にもいられなくなった以仁王と源頼政は、奈良の興福寺へ逃げる途中、京都宇治の平等院で、平氏の追手に捕まった。以仁王は矢の雨を浴びて戦死し、源頼政は自害した。

 しかし、源頼政が、以仁王の名前で、「平氏打倒と大山寺再興」と書いた文書を、伊豆にいる源頼朝をはじめとする全国の源氏や、比叡山や園城寺、東大寺といった大寺社に送り届けたことにより、平氏のことを面白く思っていない全国の源氏や大寺社の中で、平氏打倒の狼煙がくすぶり始めることになる。そして、源頼朝は、北条時政を派遣して、伊豆にて、代官の平兼隆を討った。頼朝は伊豆で挙兵したのである。

 平清盛は、頼朝挙兵の一報を聞き、昔、尾張の守だった平頼盛やその母池の禅尼の懇願を聞いて、命を助けてやったのに、恩をあだで返すとはと激怒した。頼朝は、その後、石橋山の戦いで平氏軍に敗北して、安房(千葉県)に撤退したものの、静岡県と山梨県の間を流れる富士川の戦いでは、源氏軍に恐れをなした平氏軍が、源氏軍と戦うことなく戦場を逃げ出してしまい、源氏軍の不戦勝となった。源頼朝は、富士川の戦いの後、鎌倉に入った。そして、平清盛は、以仁王の反乱に加担した罪で、三井寺を攻撃して一山まるごと焼き払い、奈良(南都)を攻撃して、東大寺や興福寺や奈良の街を、ことごとく焼きつくしてしまった。

 治承5年(1181年)正月の宮中の諸行事は、「以仁王の令旨」の事件が引き起こした関東における源氏の争乱と、三井寺や奈良の戦火によって、全て中止となった。御所の中でのこのような陰鬱な雰囲気の中、高倉上皇は、ストレスから、病に伏せってしまった。
 さて、この頃、八条院は、御所に来た陰陽師の安倍氏から、次のような話を聞いていた。

 「大山寺が比叡山僧兵によって焼き討ちを受けた事件以来、安倍家の出入りとなっている多治見の陶磁職人の星海という者の息子の話によると、久寿2年(1155年)頃、大山廃寺跡地に建った児神社は、建立から26年ほど経過した今では、傷みが激しい。また、大山寺が焼き討ちにあった当時の出来事も段々風化してきて、二人の稚児僧が亡くなった命日である、毎年3月15日のお祭りも、何とか挙げていると言った状況であるらしい。児神社創建当時、都から派遣された鷹司宰相友行は、相当あせって、神社を創建したようだ。

 八条院様のお力によって、何とか、児神社を再建し、毎年3月15日に行われるお祭りをもっと盛り上げてほしいというのが、大山廃寺の地元の人々の要望だそうです。」

 八条院は、この話を聞いて、どうしたら、地元の人々の要望通り、児神社再建が実行されるか考えた。そして、1週間後、再び陰陽師の安倍氏に会い、安倍氏にこう頼んだ。

 「今から、病気で床に伏せっている高倉上皇の中宮(妻)である平徳子(平清盛の娘)に会い、

 「高倉院の病気は、昔、比叡山僧兵の焼き討ちによって死んだ、大山寺の玄法上人と二人の稚児僧によるたたりによって、引き起こされているのです。従って、高倉院の病気を回復させるために、児神社の再建と児神社にて毎年3月15日に行われるお祭りの活性化を実行してください。」

 と、お願いしてください。平徳子(平清盛の娘)には、私の方から、これから会うあなたのことを「都で今一番話題の陰陽師で、高倉上皇の病を治す力を持っているかもしれない。」と紹介しておきましたから。」

 こうして、八条院は、昔、弟の近衛天皇の病気を治すために父母が児神社を建てたのと同じやり方で、平家一族に、児神社の再建とお祭りの活性化を約束させた。そして、児神社の再建とお祭りの活性化のために、熱田大宮司家を通じて、都から使いの者が大山に派遣された。都からの使者と児神社の地元の人々の手によって、児神社の再建とお祭りの活性化は実行されたのだった。

 しかし、平徳子(平清盛の娘)が、陰陽師である安倍氏の忠告通り、児神社の再建とお祭りの活性化を熱田大宮司家に指示した直後、高倉上皇は、若干20歳の若さで崩御した。そして、高倉上皇が崩御した直後、平清盛も突然、熱病のような病に倒れた。

 平家物語によると、熱病のような病を発症した平清盛は、治療の効果も無く、七転八倒したあげく、悶絶死したとされている。平清盛は、死の直前の遺言として、「私の法事・供養はするな。堂や塔も建てるな。ただちに討ち手を派遣して、頼朝の首をはね、私の墓前に供えよ。それが、私への最高の供養であるぞ。」と言ったと、平家物語は伝えている。しかし、平氏一族には、もはや、平清盛の遺言を実行できるものなどいなかった。

 高倉上皇が崩御し、平清盛が死去したことにより、平清盛の後継者である平宗盛は、後白河院政を復活せざるをえなかった。そして、「平氏打倒と大山寺再興」と書いた「以仁王の令旨」に応じて挙兵した源義仲が、倶利伽羅峠(富山県と石川県の県境)にて、平家軍に大勝すると、源義仲は、比叡山を味方につけ、京都への進撃を開始した。

 源義仲との倶利伽羅峠の戦いで大敗したことにより、平氏一族の代表である平宗盛は、幼い安徳天皇とともに西国に逃げることを決意する。しかし、後白河法皇は、平氏一族に同行せず、比叡山に脱出した。また、尾張の守に任命されていた当時、源頼朝の助命を平清盛に嘆願した平頼盛は、その後も源頼朝とは親しくしていたため、京都に一人で残ることを決意した。

 結局、寿永2年(1183年)、西国に逃げることを決意した平宗盛、安徳天皇とその母親の建礼門院(平清盛の娘である平徳子)以下、七千余騎の平家一門は、六波羅にある平家の御所に火を放つと、陸路にて西国に逃げ、かつて清盛が遷都した福原に一泊した。そして、翌朝、福原の御所に火をかけた平家一門は、海路にて、西へと逃げた。以後、逃げた平家一門が再び、京の都に還ることはなかった。しかし、この時、まだ5歳にもなっていない安徳天皇は、鏡・勾玉・宝剣という天皇家の三種の神器を持ったまま西へと逃げていた。

 安徳天皇以下、七千余騎の平家一門は、鏡・勾玉・宝剣という天皇家の三種の神器を持ったまま、京都を離れて2年近く、瀬戸内海を西へ西へと逃げて行った。もはや、三種の神器を持ったまま京都から逃げた安徳天皇以下七千余騎の平家一門に、天皇の仕事をこなす余裕はない。儀式をすることに欠かすことのできない三種の神器は、逃げる平家一門にとっては、ただの物に過ぎず、瀬戸内海の磯辺にある平家一門の御所で、逃げる平家一門は、ただ、昔の栄華をしのんでは、長い一日を過ごすだけであった。

 一方、京都に残された後白河法皇は、三種の神器を京都に返還するようにという院宣(法皇の命令書)を使者に持たせて、逃げる平家一門に渡した。しかし、逃げる平家一門は、法皇の使者の頬に「受領」の焼印を押して、院宣を拒否し、後白河法皇に対して、断固たる戦意を表明した。後白河法皇は、三種の神器の代わりに、院宣によって、後鳥羽天皇の即位式を挙げ、天皇家の勢力の基盤を固めていった。このようなごたごたの中で、京都の町中では、物資が滞り、民衆の生活には困惑の表情が見えていた。

 そして、源頼朝は、京都にいた源義仲を討ち、関東における源氏の勢力基盤を次第に強力なものにしていった。源頼朝は、逃げる平家一門を横目で見つつも、大久佐八幡宮の宮司井山一郎や多治見の陶磁職人の星海が引き合わせた当時、尾張の守であった平頼盛とその部下の平宗清を、命の恩人として、いつも歓待していた。平宗清は、「西の海に逃げている、かつての主君である平家一門の苦境を思うと、胸が痛む。」と、同行しなかったが、源頼朝のたび重なる招待を受けていた平頼盛は、鎌倉入りし、源頼朝や諸大名の大歓待を受け、高級布や馬など莫大な量の引き出物を持って、京都の自宅に帰って行った。

 平頼盛の京都の自宅の隣には八条院が住んでいた。平家一門は、六波羅にある平家の御所に火を放ち、西へと逃げて行ったが、六波羅の平家の御所に住んでいた平頼盛は、この時、後白河法皇に保護を求め、後白河法皇は、平頼盛に、八条院に助けてもらうように指示したのだった。八条院は、隣に住む、鎌倉から帰ってきた平頼盛の姿を見て、平清盛の次の権力者は、源頼朝であることを確信した。「平家打倒」の次の八条院の目標は、「大山寺再興」であった。

 1185年(元暦2年・寿永4年)、源頼朝の義理の弟である源義経は、後白河法皇と面会し、後白河法皇から、逃げた平家一族との最終決戦を行う許可を得た。源義経は、現在の香川県高松市にある屋島における戦いで、平家軍を奇襲攻撃し、平氏一族を更に西へ敗走させた。逃げる平家一族は、現在の山口県下関市と福岡県北九州市を隔てる関門海峡にある壇ノ浦まで追いつめられた。本州側の海には、源義経が、そして、背後にある九州側には、源頼朝の弟の源範頼が布陣していた。

 壇ノ浦の合戦が始まった当初は、潮の流れに押されて、義経率いる源氏軍は不利な状況であったが、潮の流れが変わると、義経率いる源氏軍は、平氏軍を押しまくり、平氏軍は、味方の裏切りもあって、壊滅状態となった。このとき、敗北を悟り、興奮した平氏一門の人々は、次々と海上へ身を投げていった。

 戦争が起こり、自分たちの敗北を悟った者たちは、それが平安時代であろうと、戦国時代であろうと、明治時代であろうと、現代であろうと、必ずと言っていいほど、集団自殺や無理心中を図るということを、私たちは歴史から学ぶことができる。平氏軍の敗北を悟った平知盛は、安徳天皇・安徳天皇の母親・祖母の乗った船に乗り移ると、見苦しい荷物は船から海に投げ捨て、船をきれいに掃除するように指示した。この指示を聞いた、安徳天皇の祖母(平清盛の妻)である二位の尼は、死を決意した。

 そして、二位の尼は、三種の神器である勾玉と鏡の入った箱を片手に持ち、腰に宝剣を挿し、安徳天皇を抱き寄せた。そして、「どこへ行くのか?」とたずねる安徳天皇に、泣きながらこうささやいた。

 「君は、この世では帝としてお生まれになりましたが、この世では、悪縁のために運も尽きました。この国は辛くいまわしい所です。あの波の下には極楽浄土がございます。」

 二位の尼は、こう言うと、安徳天皇を抱いたまま、壇ノ浦の急流に身を投じた。これを見た安徳天皇の母親も海に身を投げ、それを見た平氏に仕える者たちや平氏の武将たちも、次々に海に身を投じていくのであった。このとき、安徳天皇は、若干6歳の子供であった。

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