十三 入鹿屯倉

 狗奴国においては、首都である旧入鹿村に地下施設を造り上げた在地勢力であり、大和朝廷においては、国造(現在の知事のようなもの)に任命された有力豪族の尾張氏は、535年に入鹿屯倉が設置されると、大和朝廷から入鹿屯倉の管理を任された。6世紀当時、大和朝廷に異を唱える地方豪族は多かったのだが、尾張氏は、大和朝廷の方針には、従順に従っていた。そして、そのような尾張氏の態度こそが、旧入鹿村を含む尾張地方の平和につながっていた。

 「屯倉」とは、大和朝廷が全国に設置した直轄地のことである。つまり、大和朝廷は、地下に大きな地下施設を持つ旧入鹿村に「入鹿屯倉」を設置して、朝廷直轄の農地とし、旧入鹿村の地下施設の上で耕作された稲を大和朝廷の中心地である奈良地方まで運んでいたのであった。そして、「入鹿屯倉」の設置を決めた大和朝廷の有力豪族が蘇我氏であった。

 蘇我氏は、大和朝廷の中で、物部氏や中臣氏と権力闘争を繰り広げていた有力豪族である。蘇我氏は、全国各地に「屯倉」を置くことに熱心で、中国や朝鮮半島の進んだ制度や文化を日本に受容することにも積極的な豪族だった。蘇我氏は、金属器を作る技術者や漢字を伝える技術者、建築や土木作業の技術者や農業の技術者など、中国や朝鮮半島から100人の渡来人を集め、尾張氏と面会した。

 蘇我氏は、旧入鹿村の地下施設についても知っていたし、旧入鹿村の南にある大山の山の中から旧入鹿村の地下施設に通じるトンネルがあることも知っていた。だからこそ、蘇我氏は、「入鹿屯倉」を設置することを大和朝廷の中で主張していたのである。当時、仏教を日本に導入するか否かで物部氏や中臣氏と権力闘争を繰り広げていた蘇我氏は、「入鹿屯倉」を蘇我氏の政策拠点にしようと目論んでいたのであった。

 538年、尾張氏は蘇我氏が連れてきた100人の渡来人を受け入れることにした。そうすることが、地元の利益にもつながっていくと判断したからだ。尾張氏は、つきあいのある地方豪族からの噂で、大和朝廷の中央組織が、内紛状態にあることはわかっていた。しかし、尾張氏は、たとえ、大和朝廷がつぶれても、100人の渡来人たちがこの地方にもたらす技術はつぶれることがないことを確信していた。そして、尾張氏は、蘇我氏にこう言った。

 「あなたが、この地方をどのようにしたいと思っているのかはわかりませんが、中央の内紛をこの地方にもたらすことがないように、気遣っていただけたら幸いです。」

 そして、蘇我氏が入鹿屯倉に連れてきた100人の渡来人は、入鹿屯倉に来ると、密かに、地下施設に散らばって行った。蘇我氏も、自分の権力基盤を確立するためには、できるだけ、敵対する勢力に、自分の行動を悟られたくなかったのだった。

 そして、狗奴国があったときには、軍事拠点であった旧入鹿村の地下施設に仏像が置かれた。旧入鹿村の地下施設と山の中のトンネルでつながっていた大山の山の中には、いつの間にか、仏教の修行僧が住み着くようになった。

 それから50年後、仏教を国の宗教として礼拝すべきであると主張する蘇我氏は、日本には古来から存在する百八十神が祀られているので、仏教は受け入れられないと主張する物部氏を滅ぼした。蘇我氏がこの時点で留まっていれば、日本の歴史は変わっていたのかもしれない。しかし、蘇我氏は勢いづいた。蘇我氏は、天皇を殺害し、大和朝廷を自分の独裁国家としてしまったのだった。

 天皇家は、蘇我氏の勢いを止めるべく、女帝である推古天皇を即位させ、聖徳太子を摂政につけた。聖徳太子は、蘇我氏と手を結んで、仏教を国教とし、大和朝廷が制定した世襲制度である氏姓制度を廃止して、だれでも政治が行うことができるように、冠位十二階の制度を導入した。

 聖徳太子は、天皇中心の中央集権国家の形成を意図していたが、蘇我氏は、聖徳太子が亡くなると聖徳太子一族を滅ぼした。蘇我氏の独裁体制はとどまるところを知らず、天皇家は、蘇我氏打倒を目論み、645年、大化の改新が起こった。中大兄皇子と中臣鎌足らは、645年6月、朝鮮半島の三国である高句麗・新羅・百済の使者が大極殿に来た機会をとらえて、蘇我入鹿を大極殿にて誅殺した。この頃になると、蘇我氏の独裁体制に嫌気がさしていた豪族も多く、蘇我蝦夷は、自宅に火を放って自殺した。

 こうして、蘇我氏は滅亡し、4世紀頃から続いていた大和朝廷による政治体制は終わりを告げた。中大兄皇子らが推し進める新体制派は、改新の詔を発布し、日本の政治は、中国の隋や唐の律令国家制度にならって、氏姓制度が推し進めた世襲制から、誰でも政治が行える官僚制へと転換し、天皇の権威を強化した中央集権体制が樹立された。天皇は、歴史上、日本で初めて、元号を制定し、645年は「大化元年」と呼ばれるようになった。薄葬令が発布され、大きな古墳は造られなくなった。そして、全国に配置された屯倉は廃止され、入鹿屯倉は、110年の歴史を閉じた。

 しかし、大化の改新を行った中大兄皇子らは知らなかった。蘇我氏が、入鹿屯倉を設置したその理由も、尾張氏が100人の渡来人を旧入鹿村に受け入れたという事実も知らなかった。そして、尾張氏が考えた通り、大和朝廷がつぶれても、100人の渡来人たちが持ち込んだ技術や思想は、決して、つぶれることはなかった。むしろ、100人の渡来人たちが尾張地方に持ち込んだ技術や思想は発展していった。

 旧入鹿村の地下施設には、武器などを作る製鉄所ができ、曼荼羅を思わせる多くの仏像が置かれ、旧入鹿村の地下施設とトンネルでつながっている大山の山の中には、古代瓦を屋根に載せた古代寺院が出現した。大山の山の中に建てられた古代寺院の様子は、どれも東洋的なもので、寺院の屋根を彩る瓦は、グレー色の地に様々な色を塗った、まるで、シルクロードの向こうから日本にやってきたように彩色された瓦であった。

 そして、山の中に建てられた古代寺院は、その規模をどんどん大きくしていき、古代寺院が大きくなるにつれて、大山の南西部にある丘陵地帯には、窯業の一大生産地が展開されていった。

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