十三 声なき声との対話

 小栗鉄次郎が大山寺跡の報告書を昭和3年(1928年)3月付けの「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」第6巻に載せて以降、鉄次郎は、まるで、何かに取りつかれたかのように、遺跡調査に邁進した。昭和4年(1929年)には、8個の遺跡の調査報告書を「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」第7巻に載せ、昭和5年(1930年)には、8個の遺跡調査報告書を「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」第8巻に載せ、昭和6年(1931年)には、大山寺跡における国の指定史跡の石標設置の仕事をする傍ら、5個の遺跡調査報告書を「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」第9巻に載せた。

 昭和7年(1932年)になって、小栗鉄次郎は、愛知県内の遺跡の調査をする傍ら、愛知県内の神社・仏閣の古い建築物を調査するため、京都帝国大学の天沼俊一博士の指導を仰いだ。天沼俊一博士は、鉄次郎より5歳年上で、55歳になる京都帝国大学工学部の教授である。天沼博士は、古建築の調査に従事している建築史家であった。

 「今回のことを聞いて、東京の方では、小栗さんのマークを外すかもしれない。」

 と言っていた愛知県警特別高等課の警察官の渡辺と中村の考え方は甘い、と、鉄次郎は考えていた。自分たちの給料が減らされて、中国で戦争が起こるという世の中の流れを考えれば、明らかに、自分たちの仕事は、誰かの手によって、潰されようとしている。その「誰か」というのは、愛知県庁の中だけの話ではあるまい。だからこそ、自分たちの仕事を守るために、東京の史跡名勝天然記念物調査会考査員の柴田先生は、大山寺跡の国の史跡指定を塔跡の周囲1320平方メートルに限定したのではないか。

 鉄次郎は、仕事をするときに、自分ひとりだけで行動することは当分控えようと考えていた。そして、自分の仕事をこなしていく過程で、必ず、国家レベルの権威のある学者を背後につけて行動していくことにした。そうしなければ、鉄次郎が行った遺跡調査自体が握りつぶされてしまう恐れがあることは、大山寺跡の件で立証済みだった。

 昭和7年(1932年)5月15日、海軍の青年将校らが犬養毅首相を暗殺するという事件が起きた。5・15事件である。5・15事件の勃発により、大正デモクラシーに支えられた政党政治は終わりを告げ、以後、昭和20年までの13年間、軍人や官僚による政治が続いて行く。

 プロレタリア作家の小林多喜二が特高の過酷な尋問によって死亡した昭和8年(1933年)、日本は、満州における軍事行動について、国際社会の非難を浴びていた。国際連盟は、調査の結果、満州事変が関東軍による謀略であることを認め、満州は中国領土であるとして、日本軍に満州から撤退することを勧告する案を42対1で採決した。昭和8年(1933年)、日本政府は、国際連盟のこの採決を不服とし、国際連盟を脱退した。日本は、国際的に孤立していった。

 日本が国際連盟から脱退したことに合わせるように、昭和8年(1933年)4月に「重要美術品等の保存に関する法律」が公布された。この法律は、日本が国際連盟を脱退したことにより、日本の円の為替相場が国際的な信用を失い、円が弱くなることに伴いできた法律であった。国内の優れた美術品が、為替相場が日本より強い海外に流出し始め、円が弱いことにより、国内の優れた美術品は、日本に帰ってくることが難しくなるという危惧から生まれた法律である。即ち、「重要美術品等の保存に関する法律」とは、国宝に準じる美術品の輸出を禁止する、という法律である。

 では、どのような美術品を「国宝に準じる美術品」と呼ぶのか。この法律では、「国宝に準じる美術品」として、絵画、彫刻、建造物、文書、典籍、書跡、刀剣、工芸品、考古学資料をあげている。そして、「国宝に準じる美術品」を認定する仕事が、愛知県史跡名勝天然記念物調査会の仕事の1つとなる。当然、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事である小栗鉄次郎のもとに、「重要美術品等の保存に関する法律」の公布に伴う「国宝に準じる美術品」を指定する仕事が舞い込んでくるのであった。この時、鉄次郎は52歳になっていた。

 「愛知県内にある遺跡の現状を把握し、遺跡の範囲を確認し、残された遺構や遺物を調査する。」

 これが、愛知県内でたった一人採用された、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事としての鉄次郎の本来の仕事だったはずだ。そして、この仕事は、鉄次郎一人だけでは、とてもこなしきれないほどの仕事量であった。つまり、それだけ、文化財保護を訴える人々がいたということだ。日本が満州事変を起こし、国際連盟から脱退しなければ、鉄次郎は、本来の仕事に邁進できるはずであった。愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事として、一人ではとてもこなしきれないほどの仕事量を持ってきて、鉄次郎の背中を押す世間の声と、満州事変を起こし、国際連盟から脱退して国際的な信用をなくしておきながら、その国際的信用を回復させることもできず、鉄次郎の本来の仕事の邪魔をする世間の声とが、鉄次郎のまわりを取り囲んでいた。この相反する2つの声の間を鉄次郎はどのように立ちまわっていくべきなのだろう。

 「重要美術品等の保存に関する法律」の公布に伴う「国宝に準じる美術品」を指定する仕事について、鉄次郎は、「社寺の所有しているものよりも、主として、個人所有の美術品を「国宝に準じる美術品」として、認定する。」という政府の方針通りに仕事をした。愛知県内では、「重要美術品等の保存に関する法律」が公布された昭和8年(1933年)4月以降、昭和17年(1942年)までの9年間の間に、244件の重要美術品の指定が行われた。

 「国際的な信用を失った」国家は、自分自身に甘くなり、壊れていく。国内において、自分たちの意見に反対する者には、牙をむき、国際社会において、自分たちを批判する者に対して、牙をむく。凶暴化した国家は、もはや、理性を持たず、国民は、民族が滅亡寸前にまで追い込まれるまで、国家を治療することはできなかった。「信用を失う」ということは、こんなに怖いことだったのだ。

 昭和10年(1935年)、文部省は思想統制を強化した。日本政府は、「天皇は、神聖不可侵の存在であり、国民は、義務や服従から天皇に仕えるのではなく、自然の心の現れとして、天皇を慕い従わなければならない。西洋の近代思想の根底をなす世界観・人生観は、個人の自由や平等を主張しているため、日本の国体とは相容れないものである。従って、共産主義、無政府主義、民主主義、自由主義は、個人主義に基づくので、国体に反する思想である。」という考え方のもとに、この考え方に反対する者に対しては、著書を発売禁止にしたり、職場をやめさせたりした。

 一方、小栗鉄次郎は、54歳となった昭和10年(1935年)以降も、精力的に仕事をし、「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」の中に、1年間で10個前後の調査報告書を載せている。また、当時は現在のテレビのような影響力のあったラジオに出演し、愛知県内で鉄次郎が関わった遺跡について、自分でシナリオをまとめた上で、話している。つまり、小栗鉄次郎は、愛知県庁に勤める公務員でありながら、愛知県内の遺跡に興味を示している者たちにとっては、ちょっとした有名人だった。

 当然、鉄次郎は、調査報告書を書いたり、雑誌に自分の著作物を載せたり、ラジオに出演したりするときにはいつも、文部省による思想統制のことは、意識していた。この頃の鉄次郎は、16歳のときから毎日書き続けた日誌ですらも、誰かに読まれることを前提として、書いていた。鉄次郎が書いた、自分が出演するラジオ番組のシナリオや雑誌に載せる自分の著作物や日誌には、そこに起こっていた事実のみが書かれているという特徴がある。この時代における鉄次郎の広報活動は、当局の監視の目を潜り抜けるために、かなり、範囲が狭められたものだった。

 鉄次郎は、ラジオに出演している時や職場で執筆をしている時に、時々自分の視界に現れる愛知県警察特別高等課の渡辺や中村の姿を確認して、何度も、自分の意見を言おうとしていたその勢いを自制していた。だからこそ、鉄次郎の著書は発売禁止にされなかったし、ラジオ出演も咎められることはなかった。そして、鉄次郎は、わずかな光の中から、少しでも、軍人さんたちにも文化財保護の重要性や文化財の素晴らしさを知ってもらうことを願っていた。鉄次郎は、とにかく、どのような状態であっても、自分が、今の立場の中で生き残ることこそ、少しでも多くの人々に文化財の素晴らしさや文化財保護の重要性を知らせる近道であると考えていた。

 昭和11年(1936年)2月26日、陸軍の青年将校ら1400名余りが首相官邸・警視庁・新聞社・放送局などを襲撃して、国会や陸軍省を占拠し、大臣ら4名を暗殺するというテロ事件が起こった。二二六事件である。この事件は、天皇の奉勅命令によって、反乱軍が帰順したことにより、鎮定した。そして、陸軍は軍法会議を開いて、反乱軍の将校十名余りと北一輝ら右翼思想家を処刑した。この事件により、陸軍の中の「統制派」という派閥が陸軍の実権を握り、陸軍は政治に対して介入を強くしていった。つまり、この事件により、政治の世界において、軍部による独裁体制ができあがってしまったのだった。

 一方、昭和11年(1936年)5月、名古屋にて、考古学専門の民間サークルとして、「名古屋考古会」が誕生した。「名古屋考古会」は、考古学の研究者が集まって、各々が交代で講演会をしたり、座談会をしたり、見学会をしたり、収集資料のお披露目などを行う会である。第1回会合は、含笑寺という名古屋市東区にある寺にて開催された。55歳になる小栗鉄次郎も「名古屋考古会」の第1回会合に参加した。含笑寺に集まってくる研究者には若者が多く、若い研究者の話は、55歳になる小栗鉄次郎にとって、良い刺激となった。日本を戦争への道に巻き込もうとしている若者もいれば、含笑寺に集まってくるような若い考古学者もいる。第1回名古屋考古会が行われた含笑寺には、14名ほどの若者が集まってきていた。

 出席者の若い考古学者は、着物で出席する者、洋服で出席する者、学生服で出席する者など皆思い思いの服装であったが、55歳になる鉄次郎は、紺色のスーツに白いシャツ、青いネクタイといった職場にいく恰好で名古屋考古会第1回会合に出席した。この第1回会合で、鉄次郎は、愛知県内で出土した銅の鏃についての講演をした。鉄次郎は、鉄次郎が作成した愛知県内で出土した銅の鏃を測った実測図や、愛知県内で銅の鏃が出土した土地の地名表を出席者に配り、説明をした。また、鉄次郎は、自身が収集した石錘(魚を採るときに網や釣り糸につける石で作ったおもり)や小型平瓶(須恵器など)を第1回会合に持参して、出席者にお披露目した。その後、出席者全員で、弥生式土器などについて語り合った。

 考古学を研究している者は、なぜか、政治に対して批判の目を向けているものだ。しかし、名古屋考古会第1回会合の出席者全員の頭の上には、文部省が強化した思想統制や特別高等警察や軍事政権の存在が重くのしかかってきていた。もしも、小栗鉄次郎や若い考古学者たちを押しつぶしている、文部省が強化した思想統制や特別高等警察や軍事政権の存在がなくなる日が来たときは、小栗鉄次郎や若い考古学者たちのエネルギーは、その瞬間、爆発しそうであった。そして、名古屋考古会の出席者全員は、そのような気持ちを共有している連帯感があった。その連帯感は、「今は、その時を待つ。」という連帯感であった。今は、自分たちの活動を守ることが最優先である。彼らは、政権が常に変わっていくことを、歴史から学んでいたのだった。

 同じ年の8月に誕生した中部考古会は、小栗鉄次郎が発起人の一人となって、創立大会が飛騨高山で行われた。名古屋考古会も中部考古会も毎年開催され、昭和14年(1939年)には、東京考古学会名古屋研究会が誕生した。名古屋考古会のような会合は、どんどん全国に広がって行った。そして、小栗鉄次郎は、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事の仕事をする傍ら、秋田・青森など他府県に飛んで、他府県の調査も行っていった。

 昭和12年(1937年)、中国の北京郊外で日本軍と中国軍が衝突し、日中戦争が始まった。近衛内閣は、日中戦争の長期化に備えて、国民精神総動員運動に着手し、挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を提唱した。それを受けて、愛知県知事は、県庁にて、国民の愛国心と戦意を高揚させる論告を行った。昭和13年(1938年)、国家総動員法が国会を通過した。この法律によって、日本政府は、戦争を行うために、人的・物的資源を統制運用することができ、必要があれば、国民を徴用することができ、物資の生産・配給・移動を命令することができ、出版物の掲載の制限や禁止、出版物発売の禁止を命令することができるようになった。

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