十四 後に続く者

 昭和14年(1939年)5月、名古屋市が瑞穂陸上競技場を建設しようとして、工事に着手したところ、多くの土器・石器の破片や貝殻、胸のあたりに犬の骨があり、歯に抜歯の跡がある(縄文時代晩期の人々の風習)完全な人の骨を発見した。これが昭和16年(1941年)1月に国の史跡に指定された大曲輪貝塚である。58歳になった愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事小栗鉄次郎は、昭和14年(1939年)5月に大曲輪貝塚が発見されてから2年間、貝塚の現地調査に始まって、愛知県庁河川課への大曲輪貝塚発掘調査の許可の申請、発掘調査、人骨を含む出土した遺物の整理、瑞穂陸上競技場工事の設計変更についての名古屋市との話し合い、国の史跡に指定するため東京にある史跡名勝天然記念物調査会への対応、調査報告書の執筆等の仕事を精力的にこなしていった。

 そして、鉄次郎が大曲輪貝塚の仕事に着手し始めた昭和14年(1939年)7月、鉄次郎のもとにある知らせが入った。

 「7月3日、仙台にて喜田貞吉博士が亡くなられました。」

 喜田貞吉博士は、明治4年(1871年)生まれで、鉄次郎より10歳ほど年上であった。鉄次郎が36歳であった大正6年(1917年)に、猿投神社古文書の研究を通じて喜田博士と交流があってから、20年以上の時間がいつのまにか経過していた。喜田博士が69歳で生涯を閉じたとき、鉄次郎は、58歳になっていた。喜田博士は、歴史学者・民俗学者として、東京帝国大学、京都帝国大学を渡り歩き、最後は、できあがったばかりの東北帝国大学の国史学研究室講師となって、研究室の基礎を築きあげていた矢先の死去であった。

 鉄次郎は、喜田博士死去の知らせを聞いて、がっくりきてしまった。時代の流れから考えて、自分の仕事が一寸先は闇のような状態の中、自分の恩師でもある喜田博士を失ったということは、闇の中の羅針盤を失ったに等しかった。鉄次郎の研究を支えていた研究者のうちの一人がいなくなり、鉄次郎の研究の負担はまた一つ重くなった。それでも、鉄次郎は、大曲輪貝塚の仕事を続けていかなくてはいけなかった。

 そして、喜田貞吉博士が亡くなった翌月の昭和14年(1939年)8月のある晴れた日の朝10時頃、小栗鉄次郎の妻千鶴は、灰色の地に紺色の縦縞の入った着物を着て、わらじをはき、手ぬぐいを頭に巻いて、名古屋市内にある自宅の玄関を掃除していた。千鶴が手元の箒を見ていた視線を上にあげたとき、道路に立っていた一人の男と目が合った。その男は、黒いズボンに白いシャツ、青い細いネクタイに黒いベストを着て、丸いメガネをかけ、グレーの山高帽子をかぶっていた。そして、その男の隣には、茶色いズボンに白いシャツ、からし色の細いネクタイを締め、茶色いベストを着て、白いカンカン帽子をかぶった男が立っていた。2人の男たちは、8年前の昭和6年(1931年)10月に大山廃寺跡の中で会った、愛知県警特別高等課の者たちであることを千鶴はすぐに思いだした。丸いメガネをかけた方が渡辺周五郎という者で、その隣にいるのは、中村佐吉という者だ。そして、まず、声をかけてきたのは、渡辺周五郎の方だった。

 「あなた、なぜ、ここで、玄関掃除をしているんですか?あの時、小栗鉄次郎の知り合いではない、と言ったあなたの言葉は、嘘だったのですね。なぜ、あの時嘘をついたんです?何か、後ろめたいことでもあるのですか?」

 そして、渡辺の隣に立っていた中村佐吉が続けてこう言った。

 「先月、喜田貞吉博士が亡くなられたのは、ご存じのはずです。しかし、東京の方では、喜田博士の持っていた独特の歴史観は、周囲の者たちに受け継がれているのではないかと考えています。そして、そのような誤った歴史観を受け継ぎ、世の中に広めていく役割を担っている者の一人として、喜田博士が生前親しく交流していた小栗鉄次郎氏の名前が浮上しているのです。あなた、小栗鉄次郎氏の奥さんですよね。どうして、8年前に大山廃寺跡で会った時、私たちにうそを言ったんですか?」

 千鶴は、2人の男たちに背を向けると、こう言って、家の中に入って行った。

 「これから、あなた方に見せたいものがあります。どうぞ、中にお入りください。」

 そして、愛知県警特別高等課の渡辺と中村は、千鶴の後について、家の中に入り、玄関で靴を脱いで揃え、千鶴の後についていった。千鶴が玄関のすぐ横にある鉄次郎の書斎に入っていくと、愛知県警特別高等課の渡辺と中村も千鶴の後について、鉄次郎の書斎に入って来た。

 鉄次郎の書斎の中は、まるで、郷土資料館のようであった。鉄次郎は、研究のために採集した、あるいは、調査報告書を書くために、自分が発掘調査を手掛けた場所で出土した廃棄される運命にあった縄文土器や弥生土器、須恵器、古代瓦、石の鏃などの考古資料を自宅に持ち帰り、自分の書斎に保管していた。そして、それらの考古資料は、出土場所がわかるように、きれいに分類され、書斎の中に並べられていたが、鉄次郎の研究机のまわりは、考古資料があふれかえっていた。そして、鉄次郎の書斎と郷土資料館の違いは、鉄次郎の書斎の中にある考古資料は、郷土資料館のようにガラスケースの中に入っていない点にあった。石の鏃は、きれいに木箱の中に並べられていたが、ケースで覆われていることもなく、必要な時には、いつでも木箱から指で取り出して見ることができるようになっていた。それは、鉄次郎が実際に考古資料を手にとって研究していたからだ。

 鉄次郎の書斎の中に入って行った愛知県警特別高等課の渡辺と中村は、興味深そうに、それらの考古資料を手に取って眺めていた。土器や瓦などの考古資料を手にとって見ることができるという経験は、2人ともしたことがなかったので、しばらくは、2人とも時を忘れて、土器や瓦などを眺めていた。そして、そのような様子の渡辺と中村を眺めながら、鉄次郎の妻の千鶴は、2人にこう話しかけた。

 「主人は、いつも、こう言っていました。「私は、事実を皆に知らせるのだ。」と。私があなた方に会ったときに、あなた方に主人のことを聞かれて、知らないと嘘をついたのは、あなた方が怖かったからです。あなた方が、私たちのこの生活を壊すようなことをするのではないかと思ったからです。

 でも、今のあなた方の様子を見ていると、あなた方はそのようなことをする人たちには見えない。私は、安心しました。」

 そして、千鶴は、部屋の片隅においてあった、軒丸瓦と軒平瓦を指差した。軒丸瓦は、直径約16cmの丸い瓦で、白っぽい薄い茶色をしており、重厚感を感じさせるものであった。丸い瓦には、中心に丸い花托が浮かび上がり、その周りに8枚の花弁が浮かび上がっている、蓮の花が彫り込んであった。そして、軒平瓦もまた、白っぽい薄い茶色をしていたが、高さ約6cm、横が約30cmで、弓状に弧を描いており、厚さは6cmほどある重厚な瓦であった。そして、軒平瓦には、まわりに小さな珠が19個ほど浮かび上がっている中に唐草文様が浮かび上がっていた。

 「これらの瓦は、私とあなた方が初めて会った大山廃寺塔跡から発掘されたものです。私は、主人の書斎で掃除をしていた時、これらの瓦を初めて見て、まるで、自分がシルクロードを旅しているかのような錯覚に襲われました。そして、これらの瓦が発掘されたという大山廃寺跡とは、どのような所なのだろうと興味がわいてきて、あの時、初めて、主人に内緒で、大山廃寺跡を見に行っていたのです。

 主人は、ただ、これらの考古資料の大きさを測ったり、実測図を書いたりしているだけです。主人のやっていることの何が国体護持に反することになるのですか?」

 千鶴がこう言うと、愛知県警特別高等課の渡辺が、丸いメガネを指で上げながら、瓦から千鶴に視線を移して、こう言った。

 「御主人をよく思っていないのは、東京の特高だけではありません。実は、東京の特高より御主人のことをよく思っていないのが、愛知県庁内の一部の人間たちです。その人たちは、御主人の仕事が挙国一致体制の妨げになっているのではないかと考えています。

 私があなたと初めて会った日の翌日、私たちは、大山廃寺跡で、御主人に案内されて、石標設置の仕事をしていた人夫たちと一緒に、御主人が本堂跡と称する所に行きました。私たちも、本堂跡と称するところを見て、正直、「どうして、ここも国の史跡に指定されないんだ?」と思いました。

 そして、後日、大山廃寺跡での小栗鉄次郎の様子を詳しく上の者に報告した所、その報告が愛知県庁の一部の人間の耳に入ったみたいで。愛知県庁内のその一部の人間たちが、私たちを本堂跡と称する所に連れて行った小栗鉄次郎の行為は、明らかに越権行為であり、大山廃寺跡の国の指定史跡範囲を広げることは、戦争を勧めていく上での挙国一致体制の妨げになりうるものだ、と、言うのです。

 御主人が国体護持に反しているというよりは、愛知県庁内の一部の人々にとって、小栗鉄次郎は、挙国一致体制を妨げるものであり、特高の取り締まりの対象者であるというのが、彼らの意見なのです。私たちは、職場の人間関係に首を突っ込むことはごめんだが、全く無視をすることもできないので、ここに来ているのです。」

 愛知県警特別高等課の渡辺は、千鶴に向かってこう言い終わると、今度は、中村の方に向き直り、

 「そろそろ、帰るか。」

 と言った。そして、愛知県警特別高等課の渡辺と中村は、書斎を出て、玄関に行き、靴を履いて、後についてきた千鶴の方に向き直った。そして、愛知県警特別高等課の中村が、千鶴に向かって、こうあいさつした。

 「今日は、小栗鉄次郎氏の書斎を見せていただき、ありがとうございました。今日あったことも、上の者に詳しく報告させて頂きますので。」

 そして、愛知県警特別高等課の2人を見送った後、千鶴の心の中には、一抹の不安な気持ちが、ふつふつとわいてくるのであった。

 小栗鉄次郎が戦争に全く興味を示していなかったわけではない。30歳を過ぎた鉄次郎の息子も軍人となった。昭和14年(1939年)から、日本政府は、戦争を遂行するために、国民に対して、金属製品を供出するように法令を出した。国土と資源の乏しい日本は、国民の間から都市鉱山を引き出すことによってしか、武器を大量に作り出すことはできなかった。そして、当然、戦争をするための大量の武器を生産するためには、都市鉱山のみに頼っていることはできず、南方資源の獲得を目指すようになる。当時の戦争を推進していた軍部は、戦力の限界を2年と計算していた。

 そして、日本国内において、寺院の梵鐘などが金属回収の対象になった。小栗鉄次郎は、この法令に対して、反対の意を唱えることはなく、ただ、江戸時代以降に作られた梵鐘のみを回収の対象にし、慶長以前(17世紀以前)のものは残すというやり方で協力した。鉄次郎は、愛知県警特別高等課の警察官の渡辺と中村が、大山廃寺跡の中で8年前に言った「愛知県庁の中で、自分のことをよく思っていない人々がいる」という言葉を忘れることができなかった。鉄次郎が愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事になってから13年たって、ようやく人々の目が自分たちの方向に向きだしてきたことを鉄次郎は敏感に感じ取っていた。

 「今、私は、この地位をやめさせられるわけにはいかない。」

 昭和14年(1939年)9月、ヨーロッパにおいて、ドイツ軍がポーランドへ侵入して、第2次世界大戦が始まった。昭和11年(1936年)に起こった二二六事件以降、軍部による独裁体制ができあがっていた日本は、昭和15年(1940年)、同じく軍部による独裁体制ができあがっていたドイツ・イタリアと三国同盟を結んだ。日本・ドイツ・イタリアの三国同盟を民主化と民族解放の敵とみなしたアメリカ・イギリス・フランスは、ソ連を味方に巻き込んで、連合軍を形成する。国際情勢は、ドイツ・イタリア・日本とアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の間で緊迫していった。

 このような世界の政治情勢を見ていた東京の帝室博物館(現在の東京国立博物館)は、昭和16年(1941年)1月、美術品の保護対策に乗り出した。

 「もう、戦争は止められない。」

 そう判断した東京帝室博物館は、昭和16年(1941年)8月、博物館にある国宝級の美術品を奈良に移送させることを決定した。

 小栗鉄次郎が59歳になった昭和15年(1940年)以後、それまでは年間10件前後書いていた調査報告書が年間5件ほどになった。そして、昭和16年(1941年)に入ると、鉄次郎が書いた調査報告書は、大曲輪貝塚とその周辺の貝塚に関する報告書1件のみとなった。小栗鉄次郎が愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事になったばかりの13年前、「大山寺跡」の報告書を書いた頃のペースに戻ってしまったのだ。

 一方、大曲輪貝塚の仕事は、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事小栗鉄次郎が国の史跡に指定することに関わった最後の遺跡となった。しかし、周囲に他の貝塚の存在があったにもかかわらず、国の史跡に指定されたのは、大曲輪貝塚の貝層部分353平方メートルのみであった。国の史跡に指定されていない貝塚の上には、瑞穂陸上競技場が建つことになった。

 「一部分でも、国の史跡に指定されれば、指定されないよりは良い。」

 もはや、鉄次郎はそんな心境だった。これは、13年前、大山廃寺遺跡を国の指定史跡とした時と同じ状況だった。昭和2年(1927年)、小栗鉄次郎が46歳で愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事になってから、鉄次郎が60歳になる昭和16年(1941年)に大曲輪貝塚が国の史跡に指定されるまでの14年間、鉄次郎の仕事は、全く同じことの繰り返しであったと言える。鉄次郎の仕事はすぐに結果が出るような仕事ではなかった。しかし、鉄次郎は、自分たちの後に続く、自分と会うことはないであろう後輩たちのために、一生懸命仕事をしているという自負があった。

 一方、昭和16年(1941年)に刊行された「尾張の遺跡と遺物」という雑誌の29号・30号にて、一般の人々による大山廃寺に関する研究発表の記事が6件確認できる。小栗鉄次郎が大山廃寺についての調査をし、報告書を発表し、広報活動を行った成果が現れ始めたのである。

 心ある人は、日本が戦争に突入する事態となっても、電車とバスを乗り継ぎ、つま先上がりの山道を登って、大山廃寺跡の塔跡を見に来る。そして、塔跡を掘った小栗鉄次郎氏の尽力について、感銘を受けたという記事を載せ、大山廃寺についての自分の研究結果を発表する。戦争に突入していった昭和の時代の人々と、その74年後、2015年現在に生きる私たちとは、何も違わない。

 その後、昭和17年(1942年)、「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」20巻をもって、「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」そのものがなくなってしまう。61歳になる小栗鉄次郎が、昭和17年(1942年)に発刊された最後の「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」20巻に書いた報告書の数は、4件だった。昭和16年(1941年)12月に太平洋戦争が始まってから、史跡名勝天然記念物調査会の仕事は、不要不急の事務として、行政の見直し対象になっていた。とうとう、軍需拡大の声は文化財保護の声を押しつぶしてしまった。

 昭和16年(1941年)12月に太平洋戦争が始まってから、日本海軍は短期決戦を主張した。しかし、陸軍が主張する長期戦態勢に押され、昭和17年3月、日本政府は、長期戦態勢を決定する。昭和17年(1942年)6月、日本軍は、ハワイ諸島の中にあるミッドウェー島の海戦に敗北し、昭和17年(1943年)8月、オーストラリア方面にある南方の島ガダルカナル島で敗北した。昭和18年(1943年)4月、山本五十六という有名な海軍の大将が南方戦線で戦死した。

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