十四 天皇の宝剣

 「次郎、それにしても、不思議な形の刀だなあ。」

 壇ノ浦の合戦において、源義経率いる源氏軍に兄弟で参加した山田太郎は、合戦が終わり、自宅へ帰る途中に休憩した木の下で、弟の次郎とその刀を眺めながら、つぶやいていた。山田太郎・次郎兄弟は、武士であることを仕事としているので、刀などの武器に関する知識は、それなりに持っていた。

 「普通、僕たちが使う刀は、ほら、こんな風に刃が反っているじゃないか。でも、この刀を見ろよ。刃がまっすぐだよ。

 昔、知り合いの刀鍛冶に聞いたことがあるのだが、刀は、その作る過程において、土を置いた刀身を火の床に深く入れて800度程度まで加熱し、その後、熱くなった刀身を一気に水槽に沈めて急冷するという作業がある。その時に、刀身には、どうしても反りが入ってしまうものらしい。

 こんな不思議な形をした刀を持っているなんて、今から思えば、あのおばあさんと子供も、何とも不思議な感じだったよ、なあ、次郎。」

 兄の太郎の問いかけに、弟の次郎も、うん、うんとうなずくだけだった。そして、山田太郎・次郎兄弟は、このまっすぐな、不思議な形をした刀を木の下でながめながら、この刀をもらったときのことを思い出していた。

 山田太郎・次郎兄弟は、美濃源氏といわれる土岐氏一族のもとで武士として働いている家人だ。土岐氏一族とは、平安時代末期から鎌倉時代初め頃、現在の岐阜県多治見市・土岐市・瑞浪市あたりに住んでいた源氏の流れをくむ一族のことである。

 土岐氏一族をはじめとする美濃源氏は、尾張源氏とともに、反平氏の旗を掲げて挙兵した。治承4年(1180年)11月のことであった。しかし、この時、両軍ともに多数の戦死者をだしつつも、美濃源氏・尾張源氏軍は、平氏軍に敗北した。美濃を攻略した平氏軍は、その後、尾張を制圧することを目論むが、尾張攻略の前夜、平清盛の死去があり、平氏軍による尾張攻略は計画だけに終わってしまった。美濃源氏の挙兵に参加した山田太郎・次郎兄弟は、命からがら、戦場から逃げ、平氏軍から身を隠す事ができた。

 あれから4年の歳月が過ぎた。この4年間、美濃源氏の挙兵に参加して敗北を味わった山田太郎・次郎兄弟は、体を鍛え、武器を使う訓練を毎日行ってきた。平清盛が死去し、平家一族が京都から西国に逃げ出したことを主人の土岐氏から聞いていた山田太郎・次郎兄弟は、源義経や梶原景時といった源氏のトップの武将が平氏軍との最終決戦を行うことを聞いた時、自ら主人に申し出て、瀬戸内海における平氏軍との最終決戦に参加した。

 山田太郎・次郎兄弟は、京都に行って、源義経率いる源氏軍に合流し、源氏軍として戦いながら、壇ノ浦まで来た。平氏軍は、1000艘余の船で瀬戸内海を西へと逃げていて、源氏軍の船3000艘余が平氏軍を追いかけて、瀬戸内海を進んでいた。源氏軍の船の先頭には、源義経や梶原景時など源氏のトップの武将たちが乗っていたが、山田太郎・次郎兄弟の乗る船は、源氏軍3000艘余の後ろの方であった。しかし、山田太郎・次郎兄弟にとっては、平氏軍との最終決戦に参加できるだけでもありがたいことだった。

 関門海峡にある壇ノ浦は潮の流れが激しく、平氏軍との壇ノ浦合戦が始まった昼頃は、山田太郎・次郎兄弟の船は、漕いでも、漕いでも、前に進まず、前の船について行くのがやっとの状態であった。しかし、午後3時を過ぎた頃、船を漕ぐ舵が一瞬、ふっと軽くなった。今まで、山田太郎・次郎兄弟に向かって流れていた潮が、反対の方向に向かって流れだしたのであった。それと同時に、山田太郎・次郎兄弟の前にいた3000艘余の船は、急にスピード・アップして進み始めた。山田太郎・次郎兄弟も前の船についていこうと、必死になって船を漕いだ。

 そして、太陽が平氏軍のいる方向に近づいた午後4時頃、前の船から、伝令が口移しに送られてきた。

 「平氏軍は壊滅し、我々は、この合戦に勝利した。源氏軍は、みな、岸に上がり、休息せよ。そして、家路につきたいものは帰宅してもよいぞ。」

 山田太郎・次郎兄弟は、船を本州側の岸に着けて、沈みゆく太陽を眺めつつ、休息を取った。山田太郎・次郎兄弟にとっては、合戦に参加したというよりは、船を漕ぎにきたという印象が強い壇ノ浦合戦であった。しかし、4年前に美濃源氏の挙兵に参加して敗北を味わい、命からがら逃げ出したことを思い出せば、とても幸せな気分だった。周りの者は、次々と家路をめざして、いなくなっていった。しかし、山田太郎・次郎兄弟は、家が現在の岐阜県多治見市・土岐市・瑞浪市あたりにあるので、帰宅の途につくのは、明日の朝にすることにした。今晩は、この浜辺でゆっくり休んで、勝利の味をかみしめるつもりだった。

 太陽が沈み、あたりが薄暗くなったときのことだ。山田太郎・次郎兄弟が休んでいたほの暗い浜辺に、物体が2つうちあげられていることに、兄弟は気がついた。山田太郎・次郎兄弟は、松明を持って、うちあげられた2つの物体に近づいて行った。山田太郎・次郎兄弟は、うちあげられた2つの物体を松明で照らした。そして、その2つの物体は人間であることに気がついた。

 「これは、人間のおばあさんと子供ではないか。死んでいるのか?それとも生きているのか?」

 兄の山田太郎は、鼻に手を当て、胸に耳を当てて、心臓の音を聞いた。

 「いや、生きているぞ。二人とも、どうやら、疲れて、眠っているようだ。」

 兄の山田太郎は、うちあげられたおばあさんと子供を助けようと、弟の次郎と一緒に、浜から少し高い所に設置した自分たちの寝どこに連れていき、冷え切った体を焚火の日で暖めてあげながら、食事を作り始めた。

 山田太郎・次郎兄弟は、年寄りや子供といった弱いものを守るために武士になったという自負を持っていた。だから、まさか、自分たちの戦った合戦の場所に、しかも、敵である平家軍の中に、子供や年寄りがいるとは、考えたこともなかった。

 「兄さん、暖かい魚と野菜の汁ができたよ。この二人に食べさせてあげようよ。」

 弟の山田次郎がこう言うと、兄の山田太郎は、弟と一緒に、一人ずつ抱き起こし、口の中に、作った汁を流し込んであげた。うちあげられていたおばあさんと子供は、二人とも、魚と野菜の汁を何口か飲みこむと、安心して、再び寝てしまった。

 翌朝、東の空がやや明るくなり始めているが、まだ太陽が昇っていない時間に、山田太郎・次郎兄弟は起きた。今日は、山田太郎・次郎兄弟の自宅のある美濃の国に向かって、壇ノ浦の浜辺を出発する日だ。山田太郎・次郎兄弟が起きて、海の方向を見ると、浜辺に、昨日助けたおばあさんと子供が座っていた。

 「おーい、大丈夫ですか?もっと休憩していた方がいいですよ。」

 山田太郎・次郎兄弟は、まだうす暗い浜辺に座っているおばあさんと子供に声をかけながら、浜辺に下りて行った。そのおばあさんと子供は、山田太郎・次郎兄弟の問いかけには答えず、深々と頭を下げてこう言った。

 「私たちを助けていただき、本当にありがとうございました。お礼の品物はこれしかございませんが、どうぞ、受け取ってください。これは、大変高価なものですが、もう、私たちには必要のないものです。海に入るときに、他にも宝物が入った箱を抱えていたのですが、どこかへいってしまいました。」

 おばあさんはこう言うと、腰に差していた刀をはずして、山田太郎・次郎兄弟に渡した。そして、もう一度、深々と頭を下げると、子供の手を引いて、九州の方面に向かって、浜辺に沿って歩きはじめた。山田太郎・次郎兄弟には、もはや、そのおばあさんと子供を引きとめることはできなかった。その後、そのおばあさんと子供が、どうなったのか、山田太郎・次郎兄弟には、知る術がなかった。

 しかし、現在の日本地図を見てみよう。瀬戸内海に面する壇ノ浦から、本州側の海岸沿いに九州方面に向かって歩いて行くと、海岸線は下関あたりから北上していて、やがて日本海に到達する。そして、更に海岸線沿いに歩いて行く(日本海側を東に向かうことになる。)と、山口県の日本海側に、日置という場所があり、二位の浜海水浴場という白浜の海水浴場に到達する。この浜は、ハマユウの日本海岸における北限地で、夏になると白い花が浜辺に咲き乱れる。この浜が、「二位の浜」と呼ばれているのは、壇ノ浦の合戦で、安徳天皇を抱いて海中に身を投じた二位の尼の亡骸が、黒潮に乗って、この浜に流れ着いたという伝説が伝えられているからである。

 更に、山口県の日本海側にある二位の浜から海岸線を先に進んでいく(つまり、日本海の海岸を更に東に向かっていく。)と、鳥取県鳥取市にある鳥取砂丘に到達するが、鳥取県鳥取市から山側に入った所に、国府町岡益という所があり、ここに「岡益の石堂」という石塔が存在する。「岡益の石堂」は、宮内庁によって、安徳天皇の陵墓参考地(古記録・地域伝承などにより、宮内庁が皇族の墳墓であるとするも、被葬者を特定する資料に欠ける陵墓)に指定されている。宮内庁が、「岡益の石堂」を陵墓参考地とするのは、この地に伝わる平家伝説による。この地に伝わる平家伝説とは、次のようなものである。

 壇ノ浦の戦いで二位の尼に抱かれて海中に身を投じたとされる安徳天皇は、実は、二位の尼ら平氏の武士たちに守られて戦場を離脱していた。そして、戦場を離脱した安徳天皇ら平家一門は、海路にて、鳥取県鳥取市あたりの浜にたどり着いた。そこで、鳥取市国府町岡益にある長通寺の住職に助けられた平氏一門は、源氏の追及を逃れるため、岡益より更に山奥にある、明辺の地に遷宮し、潜伏生活を送っていた。しかし、壇ノ浦合戦から2年後、安徳天皇は、急病によって崩御した。この時建立された安徳天皇の墓所が「岡益の石堂」である。また、この近辺には、二位の尼の墓所と伝えられている古墳や平家一門の墓と伝えられる五輪塔がある。

 なお、安徳天皇が壇ノ浦合戦を生き延びて、平氏の残党に守られて地方に落ち延びたとする伝説は、全国各所にいくつも存在する。この小説「法灯を継ぐ者1」では、安徳天皇と二位の尼は、美濃源氏の山田太郎・次郎兄弟に命を助けられた後、それを遠くから眺めていた平氏の残党に助けられて、源氏の追及を逃れるために船に乗せられ、鳥取県鳥取市の浜に漂着したとする。

 話は戻って、兄の山田太郎は、休憩している木の下で、視線を、おばあさんからもらった刀から弟の山田次郎に移して、こう言った。

 「なあ、僕たちは、お礼の品物が欲しくて、あのおばあさんと子供を助けたわけではないよな?」

 弟の山田次郎は、兄の問いかけにこう答えた。

 「その通りだ。それに不思議な形をしたこの刀は、僕たちが持つようなものではない気がする。」

 兄の山田太郎は、少し考えてから、こう切り出した。

 「なあ、美濃の国に帰る前に、尾張の国にある波多野一族の隠れ家に寄らないか?壇ノ浦の合戦で源氏軍が勝利して、平家軍は壊滅したという事実も知らせたいし。壇ノ浦合戦に勝利したことを祝して、波多野一族が隠れているあの神社にこの刀を奉納しないか?」

 山田太郎・次郎兄弟は、4年前の美濃源氏・尾張源氏による反平氏挙兵の際、平氏軍の矢に倒れそうになったところを、尾張源氏軍の応援で挙兵に参加していた波多野一族のひとりに助けられた。そして、波多野一族の手招きによって、平氏軍から逃れて、一山超え、波多野一族の隠れ家である神社に身を寄せた。その神社が、尾張の国の大草にある大久佐八幡宮である。

 波多野氏は、「ここにいれば、絶対に平氏に見つからないから、しばらく、ここにいろ。」といって、山田太郎・次郎兄弟を神社に匿った。そして、平氏の勢力が衰えた頃を見計らって、山田太郎・次郎兄弟は、美濃の国に帰った。しかし、その後も、山田太郎・次郎兄弟は、波多野一族と連絡を取り合い、何度も、尾張の国の大草にある大久佐八幡宮に遊びに行っていた。

 壇ノ浦から1カ月以上かけて、山田太郎・次郎兄弟は、尾張国の大草にある大久佐八幡宮にたどり着いた。山田太郎・次郎兄弟は、大久佐八幡宮に着くと、宮司の井山一郎に会い、波多野一族の人間に面会を申し出た。山田太郎・次郎兄弟は、大久佐八幡宮の中にある社務所で、4年前に自分たちを助けてくれた波多野秀助に会って、自分たちが、源義経率いる源氏軍に参加して、平氏との最終決戦にのぞみ、壇ノ浦の戦いで平氏に勝利したこと、そして、平氏軍は壊滅状態になったことを報告した。波多野秀助から、なぜ、波多野一族が尾張の国の大草にある大久佐八幡宮に身をひそめているのか、その理由を聞いて知っていた山田太郎・次郎兄弟は、波多野秀助にこう告げた。

 「もう心配いりませんよ。これで、平氏を恐れることなく、堂々と活動ができます。この神社もさらに発展して大きくなるといいですね。」

 そして、山田太郎・次郎兄弟は、今度は、大久佐八幡宮宮司の井山一郎に向かい、こう言った。

 「ところで、この刀は、壇ノ浦合戦が終わった翌日の朝早く、子供を連れた不思議なおばあさんからいただいたものです。その不思議なおばあさんは、この刀を私たちにくださると、子供と一緒に九州の方面に向かって行ってしまわれました。

 しかし、どうも、この刀は、私たちには不釣り合いな刀に思えてならないのです。私たちは、壇ノ浦合戦の勝利を祝して、この刀を大久佐八幡宮に奉納しようと思って、持って参りました。どうか、この刀を受け取ってください。」

 山田太郎・次郎兄弟から刀を受け取った宮司の井山一郎は、刀を拝見し、大きくうなずくと、山田兄弟にこう言った。

 「わかりました。この刀は、神社の宝物として、あずかっておきます。末代まで末永く、この刀を保管させてもらいますよ。そして、神社の宝物を見たいと申し出た者には、快くみせることを承知してください。この刀は、しばらくは、奥にある神棚に奉納しておきます。」

 大山寺が比叡山僧兵によって焼き払われてから、壇ノ浦合戦が終わるまで、30年以上の月日が経過しており、この時、大久佐八幡宮宮司の井山一郎は、50歳代になっていた。

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