十四 一条院屋

 645年に大化の改新が起こり、入鹿屯倉が廃止されてからは、旧入鹿村の地下に造られた地下施設よりも、旧入鹿村の地下施設からトンネルが伸びていた大山の山の中の方が、発展が著しかった。人々は、地下に生活することよりも山の中に生活することを選んだ。

 大山の山の中に生活する人々の大多数を占めていたのは、仏教の修行僧たちだった。なぜ、多くの修行僧たちが大山の山の中に住みつくことができたのだろうか。それは、大山の山の中とトンネルで結ばれていた、旧入鹿村の地下施設に、まるで、曼荼羅のようにたくさんの仏像が存在していたからだ。

 大和朝廷がまだ権力を握っていた6世紀の頃に蘇我氏が連れてきた100人の渡来人たちは、旧入鹿村の地下施設の中で、仏像を作ったり、仏具を作ったりしていた。そして、7世紀に入って、蘇我氏が滅んで、入鹿屯倉が廃止されると、蘇我氏が連れてきた100人の渡来人たちの子孫のうちの一部は、祖先が作ったたくさんの仏像を守るために、いつしか、旧入鹿村の地下施設に住みつくようになった。そして、蘇我氏が連れてきた100人の渡来人たちの子孫の一部の人間は、先祖が作ったたくさんの仏像で商売を始めることにした。彼らは、「一条院」を名乗り、その商売を代々子孫に継いでいくことにした。

 大化5年(649年)、50歳になった一条院玄蔵は、旧入鹿村の地下施設に「一条院屋」という店を開いた。「一条院屋」は、修行僧向けの便利屋で、仏像や仏具のレンタルショップから、空き寺院のあっせんなどの不動産業まで、修行僧の求めに応じて、どんな仕事も受けた。当時、大山の山の中に修行僧がひっきりなしに訪れていたことを知っていた玄蔵は、多くの修行僧が、大山に住みつかず、様々な場所を転々としながら、修業を重ねていることに目をつけた。修行僧は、大山の山の中に、簡単な寺院を建て、しばらくすると、どこかに行ってしまう。中には、とても立派な寺院を建てる修行僧もいたが、大体は、5年もいたら、どこかに行ってしまい、住んでいた僧侶がいなくなると、どんなに立派な寺院でも、朽ち果てていくのだった。

 玄蔵が「一条院屋」を立ち上げると、修行僧は、ひっきりなしに、一条院屋を訪れ、店は、瞬く間に繁盛していった。そして、「一条院屋」が店の規模を大きくするにつれて、大山の山の中には、次々と瓦を載せた古代寺院が建ち、瓦や食器を作っている窯元は、大山の南西部にある丘陵地帯で次々と窯を開いて行った。

 「一条院屋」が繁盛した理由の一つには、玄蔵が、先祖たちが作ったおびただしい数の仏像を、曼荼羅図に従って、種類ごとに理路整然と並べ、仏像の管理を徹底したことがある。そして、旧入鹿村の地下施設には、おびただしい数の仏像の曼荼羅図ができあがっていた。また、大山の山の中と旧入鹿村地下施設を結ぶトンネルは、一条院屋が把握しているだけで、3つはあった。一条院屋は、3つのトンネルと大山の山の中を表す地図を持っており、地図は、毎年、更新されていた。そして、旧入鹿村の地下施設に置かれていた多くの仏像は、トンネルを使って、大山の山の中に次々と造られる寺の坊に運ばれ、修行僧がいなくなると、仏像は、一条院屋に返され、山の中には、毎年、多くの修行僧が新たに住み着き、多くの修行僧が山を去っていった。

 そして、大化の改新から140年ほどたった延暦4年(785年)春頃、一人の修行僧が大山に住みついた。その修行僧は、後に、京の都と琵琶湖の間にある比叡山に延暦寺を建てて、天台宗を世に広めることになる人物だった。この頃、尾張地方北東部にある大山の山の中は、修行僧にとって、修業のしやすい場所であるという噂が、全国の修行僧の間に駆け巡っており、最澄も噂を聞きつけて、修業に来た者の一人だった。

 まだ19歳の若者であった最澄は、大山の里に住む地元の人に聞いて、大山のふもとを流れる児川を見つけると、児川をさかのぼって、山を登り始めた。児川のほとりには、多くの先輩修行僧たちが踏み固めることで出来上がった山道があった。最澄が児川のほとりにできた山道を登って行くと、10分ほどで、滝が見え始めた。滝を横目で見ながら、最澄は、更に児川のほとりを登って行くと、5分ほどで、2つ目の滝が見え始め、更に5分ほど登ると、3つ目の滝が見え始めた。そして、3つ目の滝を過ぎて、5分ほど登ると、児川の源流にたどり着いた。児川の源流には、ショウジョウバカマの紫色の花の群落があった。そして、ショウジョウバカマの群落のあたりに、「一条院屋⇒」と書かれた木の看板が建っていた。

 「大山へ来たら、まず、一条院屋に行け。」

 という、先輩修行僧の教え通り、最澄は、児川の源流で、「一条院屋⇒」の看板を見て、矢印の方向に山を登って行った。5分ほど登ると、山の斜面に、5m四方くらいの大きなトンネルが見えた。トンネルの入り口の横には、「一条院屋」の看板が建ててあった。看板の横には、行燈がいくつか置かれてある。最澄は、1つの行燈を手に取り、持ってきた火打石で行燈に火を点けて、なんのためらいもなく、トンネルに入って行った。

 トンネルの中は、3m間隔くらいに、行燈に明かりが灯っている。そして、トンネルの右側面の人の高さ位の所に掲げられた行燈の下には、必ず、石でできた仏像が置かれているのであった。

 「この仏像を見ていると、トンネルを歩いているという恐怖感がやわらぐな。」

 最澄は、こうつぶやきながら、ゆるやかなカーブを描いて下っているトンネルを先に進んで行った。30分弱くらいトンネルを進むと、一旦、最澄は、地上に出た。そこは、旧入鹿村を見下ろす事が出来る高台で、眼前の盆地のような場所には、旧入鹿村の家々の屋根や田んぼが広がっていた。そして、最澄は、目の前にある坂を下って行った。5分ほど坂を下ると、坂は、再び、地面に5m四方の穴をあけて、地下に向かって下っていた。そして、最澄は、再び、トンネルの中を歩いて行った。今度のトンネルは、少し急な下り坂だ。そして、トンネルの壁面には、3m間隔くらいで、人の高さ位の場所に行燈がはめ込まれてあって、行燈の下にある、人の目の高さ位の壁面には、仏画が描かれていた。最澄が少し急な下り坂のトンネルを30分弱くらい進むと、トンネルは、平坦な道になり、10m四方ほどの広い場所に出た。そして、広い場所には、石でできた細長いカウンターがあって、カウンターの後ろには、おびただしい数の仏像が、こちらを向いて、整然と置かれてあった。

 「ここが、一条院屋さんですか?」

 最澄は、カウンターに佇む、20歳位の髪の毛を後ろに束ねた着物姿の一人の若い男に話しかけた。

 「いらっしゃいませ。大山で修業をする修行僧の方ですね。お待ちしておりました。仏像のレンタルから、庵を建てる土地のあっせんなど、なんでもやりますので、気軽に、お申し付けください。」

 一条院屋の若い男が、こう言うと、最澄は、男に向かって、こう言った。

 「私は、今日から大山で修業をしようと考えているのですけれど、托鉢で集めることができたものが、この米と野菜と、これだけのお金だけなんです。これで、大山の中に小さな庵を建てて、修業したいんですけど、できますか?」

 一条院屋の若い男は、最澄がカウンターに出した米と野菜とお金をちらっと見て、こう言った。

 「そうですねえ、これだけですと、仏像3体と土地だけのあっせんになってしまいますけど。もう少し、物があったら、建物付きの土地をあっせんできるんですけどねえ。庵は、山の木を切って、自分で建てますか?」

 「仕方ありませんね。それでは、それで、お願いします。」

 最澄が残念そうにこう答えると、一条院屋の若い男は、続けてこう言った。

 「それでは、あなたには、正しい観察の知恵を持つ阿弥陀如来1体と阿弥陀如来の脇を固める観音菩薩1体・勢至菩薩1体の合計3体の仏像をお貸しするのと、この地図の西側にあるこの土地をあっせんしましょう。この土地から東側に歩いて10分位の場所に、今はだれも使ってない五重塔がありますが、これが、素敵な五重塔なんですよ。誰か、建て直す力のある人がいるといいんですけど、未だに、そんな人に会ったことはありません。もう、瓦が今にも崩れそうな五重塔ですので、余り、近付かないのが賢明ですが。それでは、これから、この阿弥陀如来以下仏像3体を持って、この土地にあなたをご案内いたしましょう。」

 そして、最澄は、背負い子の袋の中に、一条院屋から借りた3体の小さな仏像を詰め込み、一条院屋の若い男の後について、店を出た。一条院屋の若い男は、最澄がこの店にやってきた地下道とは、違う地下道を歩いて行った。

 一条院屋には、地下道へ出る出口が3つある。1つの出口は、最澄が一条院屋に来るときに使った出口で、もう一つの出口は、明治時代の江岩寺の石川住職と青木と石川が使った、カウンターの後ろにある曼荼羅のように並べられたおびただしい数の仏像の、そのまた後ろにある出口だ。そして、今、最澄と一条院屋の若い男が通っている出口は、最澄が一条院屋に入ってきた側から見て、左側の壁に開けられた出口だった。

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