十五 宮司の願い

 その日、大久佐八幡宮宮司の井山一郎は、朝から上機嫌だった。1週間前に熱田大宮司家より、大久佐八幡宮に次のような連絡があった。

 「天皇家の一員であり、春日井近辺に大きな荘園をお持ちの八条院様は、亡くなった母親である美福門院様から、昔、比叡山の僧兵によって一山まるごと焼き払われた大山寺の話を聞いて、大山寺再興の話にとても興味を持っておいでである。ついては、地元において、大山寺再興に情熱を傾けているという大久佐八幡宮の宮司の話を聞きがてら、大久佐八幡宮という神社を訪れたいとおっしゃっているので、大久佐八幡宮の方でも、八条院様のご訪問をお受けする準備をしていただきたい。」

 そして、大久佐八幡宮宮司の井山一郎は、八条院様に神社の宝物を紹介し、説明する係を引き受けたのだった。

 井山一郎は、神社の社務所に、神社の宝物を見栄えのいいように展示していった。神社の宝物には、鏡、祭事を行う際に用いる古代釜、布、朝廷から神社の位を定められた書類などいろいろある。しかし、中でも、大久佐八幡宮宮司井山一郎にとって、一番の自慢の宝物は、半年ほど前に、美濃の山田太郎・次郎兄弟が神社に奉納してきた刀であった。井山一郎は、この刀を見栄えのいいように、他の宝物の中央に置き、しかも、他の宝物とは少し距離をおいて、配置した。

 そして、予定通り、八条院様は大久佐八幡宮を訪れ、神社の社務所に入ってきた。井山一郎は、八条院様に一礼し、展示してある神社の宝物をひとつずつ、八条院様に説明した。

 そして、八条院様は、展示された宝物の中央に置いてある、美濃の山田太郎・次郎兄弟が神社に奉納した刀の前に来た。井山一郎は、八条院様に、この刀の由来を説明した。

 「この刀は、半年ほど前、美濃の国に住んでいる美濃源氏一族の家の者が、この神社に奉納したものです。その者は、3月にあった壇ノ浦合戦に参加した際に、この刀をある方から頂き、壇ノ浦合戦の源氏の勝利を祝して、この神社に奉納したのです。なかなか立派な刀で、私は、個人的に、この刀がこの神社の中で一番の宝物だと自負いたしております。では、次にまいりましょう。」

 しかし、八条院は、その刀の前から、なかなか動こうとはしなかった。いや、八条院はその刀の前から動くことができなかったのだ。八条院は、金縛りにあったかのように、その刀から目を離す事ができなかった。そのとき、八条院は、展示されていた刀の表面に、自分が生まれてから現在までの出来事が走馬灯のように映るのを見た。

 「これは、どこから見ても、昔、弟の近衛天皇が持っていた天皇の三種の神器の一つ、「天叢雲剣」ではないか。私は、毎日、必ず1回は、家族の者と、この剣と八尺瓊勾玉・八咫鏡を眺めていたから、わかる。なぜ、この剣だけがここにあるのだ?」

 「八条院様、八条院様、大丈夫ですか?次に進んでもよろしいですか?」

 神社の宝物の説明をしていた宮司の井山一郎にこう話しかけられ、八条院は、はっと我に返った。そして、宮司の井山一郎を問い詰めた。

 「どうして?どうして、この剣だけがここにあるのですか?私にこの剣の由来を詳しく説明してください。」

 すると、井山一郎はこう言った。

 「私が今ご説明申し上げたことが聞こえていなかったのですね。それでは、私が存じ上げているこの剣の由来を詳しくご説明いたしましょう。

 この剣は、今から半年ほど前、美濃の国に住む美濃源氏である土岐氏一族のもとで、武士として働いている山田太郎・次郎兄弟が、この神社に奉納してきたものです。

 私が本人たちから聞いた話では、山田太郎・次郎兄弟は、源義経率いる源氏軍の一員として、今年の3月に行われた壇ノ浦決戦に参加しました。決戦が終わり、本人たちが翌日地元へ帰るために、浜の高台に一泊していると、あたりがうす暗くなった頃、浜辺におばあさんと子供が打ち上げられているのが見えたそうです。それで、山田太郎・次郎兄弟は、そのおばあさんと子供を助けようと、焚火で体を暖めたり、食事を作って与えたりして、介抱したそうです。

 翌朝、まだ暗いうちに起きると、そのおばあさんと子供は、すでに起きていて、自分たちを助けてくれたお礼として、この刀を山田太郎・次郎兄弟に渡したそうです。そして、そのおばあさんと子供は、九州方面に向かって歩いて行ったそうです。何とも不思議な話でしょう?」

 文治元年(1185年)3月に壇ノ浦決戦が終わり、4月の終わりごろ、源氏軍の捕虜となった平家一門が、源氏軍に護送されて京都に入った。捕虜となった平家一門は、全員、白衣を着せられ、京都の大路を引きずりまわされた。そして、京都の町中は、捕虜となった平家一門を見物する大群衆であふれていた。

 捕虜となった平家一門を見物する大群衆の中には、後白河法皇を乗せた車や八条院ら天皇家を乗せた車、尾張の守をしていた当時から源頼朝と親しくしていた平頼盛を乗せた車もあった。かつての栄華を極めた平家一門と関わった非常に多くの人々も、平家とは関わりのなかった非常に多くの人々も、白衣を着せられ、京都の大路を引きずりまわされる、捕虜としての平家一門を複雑な思いで見つめていた。その大群衆の中で、車に乗っていた八条院は、傍にいた女房たちから、次のような噂話を聞いた。

 「昨日、天皇の三種の神器である勾玉と神鏡が御所に還ってきたそうです。しかし、神剣は、紛失したまま見つからなかったそうですよ。それでも、後白河法皇はとても喜んでいたそうです。天皇家の仕事である儀式を行うためには、できるだけ早く、神剣を作らなければいけないということで、早急に、天皇家の宝剣を作る技術を持っている刀鍛冶に仕事の依頼をしなければいけないと言っていたそうです。

 あ、あそこにいる白衣を着た女性は、安徳天皇の母親である建礼門院(平徳子)ですね。そういえば、安徳天皇と天皇の祖母の二位の尼(平時子、平清盛の妻)は、二人一緒に海に飛び込んで、海の底に沈んだそうですよ。安徳天皇の母親である、あの建礼門院(平徳子)も、安徳天皇と二位の尼(平時子、平清盛の妻)の後を追って、海に飛び込んだのですが、源氏の武士に救出されたそうです。もっとも、今の天皇は、1年前に後白河法皇の院宣によって即位した後鳥羽天皇ですがね。

 しかし、源義経率いる源氏軍は、天皇の神剣と安徳天皇と天皇の祖母の二位の尼(平時子、平清盛の妻)を探したらしいのですが、とうとう見つからず、都へ戻ってきたそうです。本当に残念なことです。」

 その後、京都で大地震が起きて、御所が損壊し、首都機能はマヒし、人々は、「この大地震は平家のたたりによるものだ。」と恐れた。しかし、そのような状態のときでさえ、天皇・法皇は仮屋で仕事をし、平家一族の処分は、粛々と進められていった。平家一族によって焼き払われた奈良の街や大寺院の再建、そして、今回の地震による京都の街の再建等、天皇家の仕事は山積みで、源氏の武士たちの助けを借りなければ、日本の再建はできない状態である。

 そんな状況の中、八条院は、天皇の神剣は紛失し、安徳天皇とその祖母の二位の尼は、壇ノ浦決戦の時に亡くなったのだと、自然にそう思い込んでいたのだった。八条院だけでなく、天皇家や院の者も皆、そう思って、日常生活を送り、仕事をしているはずだ。しかし、今、八条院の目の前にある、この大久佐八幡宮にある、この刀は何なのだろう?そして、宮司の井山一郎の話はどう解釈したらいいのだろう?

 宮司の井山一郎の説明が終わり、八条院の大久佐八幡宮における日程が全て終了しても、八条院の頭の中は混乱していた。大久佐八幡宮を出る時が来て、八条院は、そこにいる宮司たちにこう話した。

 「今日は、いろいろ思ってもみなかったことが起こり、私の頭の中が混乱してしまって、皆さまにはご迷惑をおかけしました。

 さて、私がこの神社を訪れる目的の一つであった大山寺再興についての皆さまとの話し合いですが、少し、時間をいただきたい。もしかしたら、大山寺再興の話は劇的に進むことになるかもしれません。

 今日の私の態度をご覧になって、皆さまも薄々お気づきのことと思いますが、大久佐八幡宮にある宝物の1つであるこの刀は、非常に貴重なものであることに間違いはございません。では、なぜ、この刀が貴重なものなのかと問われれば、今は、そのことについては、発言を控えさせていただきます。あと、半年ほど待っていただけますか?半年後に皆さまにお会いしたときに、この刀の話と大山寺再興の話を同時にしたいと思っております。

 あと、半年ほどの間、この刀は絶対に紛失することのないよう、宮司が寝るときは、この刀を抱いて寝るほどの覚悟で、この刀を守ってください。それでは、皆さま、半年後にまた、お会いいたしましょう。」

 尾張の国から京都に戻ってきた八条院は、さっそく、後白河法皇に会う約束を取り付けた。八条院は、後白河法皇との接見が許されると、紛失したはずの天皇の宝剣を尾張の大久佐八幡宮で見たこと、大久佐八幡宮の宮司の話によると、その宝剣は、美濃源氏の家の者が、壇ノ浦決戦に参加したときに助けたおばあさんと子供からもらったものであることを後白河法皇に話した。そして、八条院は、後白河法皇に、この宝剣の話を利用して、大山寺再興の話がまとめることができたら、それは私の本望だと言った。その話に対して、後白河法皇が八条院にした返事は次のようなものだった。

 「まず、第一に、天皇の三種の神器のひとつである宝剣は、源義経率いる源氏軍からの報告によると、壇ノ浦で紛失したらしいので、天皇の宝剣を作る技術を持った職人に頼んで、新しい宝剣を作ってもらった。現在は、後鳥羽天皇が持っている。

 第二に、安徳天皇と祖母の二位の尼であるが、源義経率いる源氏軍からの報告によると、壇ノ浦で、二人一緒に海に飛び込んだのを多くの者が目撃している。遺体はあがっていないが、恐らく、海の底に沈んで亡くなったであろうというのが、源義経率いる源氏軍からの報告である。従って、壇ノ浦で亡くなった安徳天皇や二位の尼ら平家一族を弔うための神社を、下関に造ろうという案が出ている。

 天皇も天皇の三種の神器のひとつである宝剣も、日本には一つしか存在しないはずだ。それらのものが2つあるときは、日本が二つに割れている時だ。今、源平の戦いが終わって、世の中はようやく平和になりかけている。日本は、やっと、平和な一つの国になったのだ。

 それに、大久佐八幡宮の宮司の話によれば、安徳天皇と二位の尼は、大事な天皇の宝剣を、自分たちを助けてくれた源氏軍の者に、もう自分たちには必要のないものだからとさし上げてしまったのだろう?恐らく、安徳天皇も二位の尼も、もう二度と日本の天皇とその家族にはならないという意志の表れだろう。

 もし、大久佐八幡宮の宮司の話が本当だとすると、このことは、紛失した宝剣と、安徳天皇と二位の尼の遺体の捜索をしていない源義経率いる源氏軍に責任がある。だから、この話は、八条院から私にするよりも、八条院から源氏軍の代表である源頼朝の耳に入れておくべき話なのではないか?とりあえず、源頼朝と親しい間柄にある平頼盛に、八条院からこの話をしてみたらどうだ?

 それにしても、源義経は、いい加減な奴だな。まるで、源頼朝に命を奪われてしまうはめになった源義仲を見ているようだ。源義仲も感情的な上に、礼儀知らずで、あまり知識もなさそうな奴だった。私が、「源義仲は、自分のことを天皇と呼び、私たちにも横柄な態度を取るので、何とかしてもらえないか。」と源頼朝に相談したら、源頼朝は、源義仲の首を取ってしまった。もし、今回のことが源頼朝の耳に入ったら、源義経も源義仲と同様、首を取られるのではないだろうか?」

 八条院は、隣に住んでいる平頼盛に会い、後白河法皇に対して話したことと同じ内容のことを話した。そして、話の最後に、平頼盛にこう言った。

 「私がこの話を頼盛様に話した理由はただ一つ、大山寺の再興を、源頼朝様にお願いしてほしい、そのことだけです。大久佐八幡宮の宮司も、ただ、大山寺の再興を夢見て、今、一生懸命、あの宝剣を神社で守っています。」

 すると、平頼盛は、八条院にこのように返事をした。

 「私は、昔、尾張の守の仕事をしていたときに、大久佐八幡宮の宮司にも会ったことがありますし、大久佐八幡宮の宮司が大山寺再興を願って、日々の生活を送っていることも知っています。そして、源頼朝と大久佐八幡宮の宮司は知り合いです。平氏政権は、大山寺再興を地元の人々に約束できなくて、源頼朝の命を助けたようなものなのです。

 ところで、私は、今、53歳になりました。源頼朝に直接に会って、この話をするために鎌倉まで行くのは、少し、しんどくなってきました。それで、使いの者に、鎌倉の源頼朝の所まで、私の書いた文を持たせることにします。そして、大山寺再興の件は、八条院様と源頼朝との間で、話し合ってください。」

 そして、今回八条院から聞いた話を源頼朝あての文にしたためると、平頼盛は、使いの者にその文を持たせ、使いの者が鎌倉に出発する所を八条院とともに見送った。この時点で、平頼盛が初めて源頼朝に会ってから、25年が経過していた。平頼盛が初めて会った時13歳だった源頼朝は、この時、すでに、38歳になっていた。

 源頼朝は、平頼盛からのこの文を読んで、源義経に激怒し、源義経を見つけるために、京都市中を捜索させた。しかし、源頼朝が源義経を捜索している最中の1186年(文治2年、壇ノ浦決戦の1年後)、平頼盛は、ひっそりと亡くなった。この時、隣の家に住む八条院は、平頼盛の死去を源頼朝に知らせるとともに、平頼盛のお葬式を済ませた。そして、鎌倉にいる源頼朝とは、連絡を密に取るようになった。八条院が鎌倉にいる源頼朝と密に取るようになった連絡の内容は、もちろん、大山寺再興のことであった。いつも、先立つ人々を見送り、さみしい思いを抱く八条院の心の支えは、仏教であった。

 一方、平治の乱で平氏一族に負けて、平氏の追跡から逃れるために、大久佐八幡宮に身をひそめていた波多野氏とその一族は、美濃源氏の家の者である山田太郎・次郎兄弟から、壇ノ浦合戦で平氏が滅亡したという一報を聞いて、25年間の潜伏期間からようやく解放されたのであった。そして、波多野氏とその一族は、鎌倉の源頼朝の所に頻繁に出向くようになった。波多野氏とその一族は、25年間自分たちを匿ってくれていた大久佐八幡宮に感謝して、まず、大久佐八幡宮そのものを大きくすることを源頼朝にお願いした。しかし、波多野氏と面会するときの源頼朝の左手には、必ず、亡くなった平頼盛と八条院からの文が握りしめられていた。

 源頼朝の今の政治的目標は、日本を平和な一つの国にすることだ。源平の戦いのような、国を二分する内乱を起こす事は、もう、許されないことであるのだ。そのために、大山寺再興をどのようにするのか、大久佐八幡宮をどのように対処したらいいのか、源頼朝の決断が迫られていた。

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