十五 キノコのトンネル

 それぞれ行燈を手に持ち、一条院屋の若い男と最澄が歩いているトンネルは、全体としては、5m四方くらいの大きさのトンネルである。しかし、このトンネルは、最澄が一条院屋に来た時に使ったトンネルとは、雰囲気が大きく異なっていた。トンネルの両側には、それぞれ1mくらいの幅の土の部分があり、小さな小川のような地下水がさらさらと流れている。一条院屋の若い男と最澄が歩いている道の部分には、3m間隔ごとに、照明の役割を果たす行燈が置かれていた。

 トンネルの両側にある土の中からは木が生えていて、5mくらいの高さの大きな木の幹が、トンネルの間中、整然と並んでいる。大きな木のてっぺんは、トンネルをつきぬけて、太陽がふりそそぐ外の世界で、葉を茂らせているらしかった。そして、最澄が目を凝らしてよく見ると、木の根元の部分には、おびただしい数のキノコが、それぞれの種類ごとに円を描いて、それぞれの木の幹のまわりに、びっしりと生えていた。松茸やシメジやシイタケなど、おいしそうなキノコもある。

 「このキノコたちがいなくなったら、木はみんな枯れてしまうんですよ。」

 一条院屋の若い男は、トンネルの中を歩きながら、後ろを歩いている最澄に説明を始めた。

 「ここには、今から600年くらい前、狗奴国という国が邪馬台国という国と敵対関係にあったときに造られた地下軍事施設があったのですが、今から300年くらい前に、一条院屋の祖先である、朝鮮半島から来た帰化人たちが、誰も使わなくなった地下軍事施設を整備していったのです。

 ところで、一条院屋の南にある大山連峰を越えた南西部の丘陵地帯のことを地元の人々は、篠岡丘陵と呼んでいます。今から100年位前、篠岡丘陵で焼かれた須恵器が固くて焼き締まりがいいということで、全国的に評判となり、篠岡丘陵には、100基以上のあな窯が造られ、あな窯からは、毎日、須恵器を焼く煙がたなびいていました。

 あな窯とは、山の斜面に溝を掘って作った窯のことです。溝の中にろくろで作った須恵器を並べて、溝の上を粘土でトンネル状に覆い、斜面の下の方から火を焚いて、薪をくべながら燃やし続けると、窯の中は、1000度以上の高温になって、固く焼きしまった須恵器ができあがるという、割と単純な造りの窯なんで、たくさんのあな窯が、篠岡丘陵で操業していました。」

 最澄は、一条院屋の若い男の話を静かに聞いていた。一条院屋の若い男は、話を続けた。

 「篠岡丘陵が日本で有数の大窯業地帯になってから、篠岡丘陵の北東部にある大山連峰では、ある深刻な変化が現れていました。山に生えている松や杉やならの木などが枯れ始めてきたのです。大山に修業に来ている修行僧たちは、困り果てて、山の木が枯れ始めた原因を突き止めようとします。

 「篠岡丘陵に100基以上あるあな窯から出る煙がよくないんじゃないか。そういえば、篠岡丘陵やその周辺の平均気温が昔よりも上がっているような気がする。気候も何だか以前と違うような気がする。」

 そのような噂が修行僧の間で流行り出した頃、ある修行僧が、枯れ始めた木と元気な木を観察していて、気が付きました。

 「元気な木の根元には、キノコが密生しているが、枯れ始めた木の根元には、何も存在しない。」

 そして、修行僧たちが元気な木を探し求めて、たどりついたのが、このトンネルでした。このトンネルの上に生えている木々は、他の木々に比べて、元気そうに見えたのでしょう。

 実は、このトンネルに生えている木は、今から300年くらい前に、一条院屋の祖先である、朝鮮半島から来た帰化人たちが、実験的に植えた木です。光の当たらない地下に木を植えたら、その木が成長していくかどうか実験したのです。そして、木は、トンネルを突き破って成長していきました。

 地下に植えた木の成長を助けたのが、木の根元に生えているキノコたちです。キノコたちは、光合成をする木のように自分で栄養を取ることができません。一緒に植えられた木から糖分やビタミン類などの栄養を取って生きています。しかし、キノコたちは、栄養をもらった木に、別の栄養を与えることができます。それが、水やミネラルなどの栄養分です。キノコたちに栄養を与える代わりにキノコたちからもらった水分やミネラルによって、木は、ひょろひょろと成長していきます。そして、トンネルを突き破って、太陽のもとに出てきた木は、緑の葉を茂らせて、光合成をして、ますます大きくなり、木が大きくなれば、キノコは、ますます、繁殖します。こうして、キノコと木は、お互い助け合いながら成長していくのです。」

 「では、なぜ、キノコが山に生えなくなったのでしょう?」

 最澄が一条院屋の若い男に尋ねると、一条院屋の若い男はこう言った。

 「10mや20mほどの大木に育った植物は、少しくらいの気候変動や大気汚染くらいではびくともしません。しかし、大木の根元に生えている小さなキノコたちは、篠岡丘陵にある大量のあな窯から出される煙や人間活動によって汚染された大気や酸性雨の影響をもろに受けるのではないでしょうか。そして、大気汚染や水質汚染によって、小さなキノコたちがいなくなると、キノコたちが木に送り込んでいた水やミネラルが木に送り込まれなくなり、木は、水分やミネラル分の不足によって、だんだんと枯れていくのではないでしょうか。」

 すると、最澄は、一条院屋の若い男にこう言った。

 「つまり、キノコたちを大気汚染や水質汚染から守ってやれば、木もまた再生していくという訳か?」

 すると、一条院屋の若い男は、こう言った。

 「このトンネルの中にも外の空気は流れている。しかし、このトンネルの中を流れる地下水は、雨が土に濾過されることによって、外の影響を受けていないのではないかと思うんだ。光合成をしないキノコたちは、太陽の光がなくても、立派に生きていくことができる。しかし、このトンネルのような施設を造るのは、なかなか大変だし、この施設自体、300年という長い年月を経て存在している。外にいるキノコたちを大気汚染や酸性雨からどのようにして守るかが、私たちのこれからの課題かな。」

 一条院屋の若い男と最澄がゆるやかな上りのトンネルを30分ほど歩いて行くと、トンネルは、そこで行き止まりとなった。そして、トンネルの行き止まりの壁をはうように、ジグザグに石の階段が造られていて、階段は、80mほど上にあるトンネルの出口に続いていた。
 「3体の仏像を持って、この階段は少々きついでしょうが、最後の難関です。がんばってください。」

 一条院屋の若い男は、後ろにいる最澄にこう言うと、最澄は、歯を食いしばって、石の階段を登って行った。

 石の階段を登って、トンネルの出口に出ると、そこは、木がうっそうと茂る山の中だった。しかし、長い間地下にいた一条院屋の若い男や最澄にとっては、薄暗い山の中も、まぶしい光がさんさんと降り注ぐ場所であった。2人は、しばらく目が慣れるまで、山の中にうずくまっていた。そして、やがて目が慣れて、周囲を見ることができるようになった時、一条院屋の若い男は、最澄を手招きして、前に進んで行った。そして、5分ほど西の方面に向かって歩くと、木の生えていない5m四方くらいの平地にたどりついた。

 「ここが、わたしたちがあなたにあっせんできる平地です。何もありませんが、周囲にある木を使うなどして、庵を建ててください。ここから東に向かって歩いて10分位の場所に、今はだれも使ってない五重塔があります。落ち着いたら、崩れかけた五重塔を見てみるのもいいでしょう。

 私は、これから東の方へ歩いていき、あなたが最初に一条院屋にたどりついたのと同じトンネルを使って、店に帰ることにします。どう考えても、あちらのトンネルの方が楽ですしね。

 それでは、何かあったら、一条院屋まで来てください。私たちも、時々ここに顔を出して、あなたの無事を確認しに来ますよ。」

 こう言って、一条院屋の若い男はその場を離れていった。残された最澄は、まず、借りた3体の仏像のために小さな祠を建てた。

 そして、最澄は、大山連峰の中で、忙しい修業に入った。まず、自分が住む庵も建てなければならないし、周囲の地図も頭に入れておかなければならない。庵を建ててここに住んで行くためには、仲間も獲得しなければならなかった。

 そして、最澄は、大山に来た最初のうちは、最澄が建てた庵から東に向かって歩いて10分位の所に建っている崩れかけた五重塔を見て、何とか再建を試みていたが、篠岡丘陵で操業している100基ほどの窯は、どの窯も、五重塔に載っている東洋的な瓦を生産することは、今はやっていないと言った。そして、最澄はこう思ったのだった。

 「きっと、この五重塔は、じきに柱が腐って崩れてしまうだろう。しかし、その方がいいのかもしれない。腐って倒壊した五重塔の木材や瓦は、地面にいるキノコたちを汚染された大気や雨から守ってくれるだろう。そしたら、平地になっているこの五重塔のまわりには、また、木が生えて成長していくだろう。

 それにしても、この五重塔の瓦やキノコのトンネルを造った帰化人たちを生んだ朝鮮半島や中国大陸とは、どのような場所なんだろう。一度行って見てみなければ、私の修業は終わらない気がする。」

 最澄は、借りた3体の仏像を一条院屋に返すと、キノコのトンネルにあったキノコたちを100個ほど、一条院屋に頼んで譲ってもらった。そして、最澄は、一条院屋からもらい受けたキノコたちを五重塔の周りや自分の建てた庵の周りにしきつめて、大山を去って行った。そして、最澄は、二度と大山に帰ってくることはなかった。

 最澄は、自分の生まれ故郷である近江の国(現在の滋賀県)に帰り、比叡山の山の中で修業に入った。そして、最澄は比叡山の中に「一乗止観院」という名の小さな寺を建てる。最澄が中国に留学できたのは、最澄が一乗止観院を建てた16年後のことである。

 そして、大山の中に建っていた五重塔と最澄の建てた庵は、やがて地面に崩れ、木材や瓦は、キノコたちの上に覆いかぶさった。

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