十五 事務の停止

 毎日、梅雨のじめじめした天気が続く昭和18年(1943年)6月30日、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事小栗鉄次郎は、いつものように、白いワイシャツに紺色のスーツを着て水色のネクタイを締め、黒い革靴を履いて、愛知県庁に出勤していた。ところで、昭和15年(1940年)、日本政府の管理下にあった被服協会によって、戦時の物資統制下における国民の衣生活の合理化・簡素化を目的として、「国民服令」という法令が制定された。被服協会は、日本政府が定める日本国民男子の標準服として、「国民服」というものを考案した。「国民服」とは、青みがかった茶褐色の男子学生服のようなものである。そして、国民服と学生服の違いは、学生服の襟の部分が詰襟であることに対して、国民服の襟の部分は、普通の襟もしくは、開襟の襟となっていた。国民服を着るときは、ネクタイは不要で、つばのついた青みがかった茶褐色の帽子がセットとなっていた。しかし、「国民服」は、国民に着用が強制されていた訳ではなかったため、昭和18年(1943年)の頃には、愛知県庁内で国民服を着用していた職員は、数えるほどしかいなかった。小栗も国民服は着用せず、いつもの自分のスタイルをキープし続けていた。

 そんな小栗のもとに、愛知県庁庶務課の村上いう者から、一本の電話があった。

 「愛知県知事の応接室にある陳列戸棚を処分してください。」

 知事の応接室にある陳列戸棚の中には、鉄次郎たちが愛知県内で収集した、縄文式土器や骨角器(動物や魚・貝の骨などを材料にして、人間が作った道具や装身具のこと)、弥生式土器、瓦などの考古資料が収納されていた。そして、愛知県庁の中で、鉄次郎たちが愛知県内で収集したものが収納されているのは、愛知県知事の応接室の陳列戸棚だけではない。例えば、内政部長応接室の陳列戸棚の中など、愛知県庁の中にある全ての応接室の陳列戸棚の中には、鉄次郎たちが収集した考古資料が収納されていた。

 梅雨時の不快な気分も手伝って、鉄次郎は、怒りを押し殺した声で、庶務課の村上という者に電話先で答えた。

 「そんなこと、簡単には、応じられません。」

 すると、庶務課の村上という者は、冷静にこう答えた。

 「このことは、内政部の山田部長より依頼され、決定されたことなので、愛知県知事応接室の陳列戸棚は処分してもらわないと、困ります。処分の仕方は、山田内政部長と直接話し合ってください。」

 庶務課の村上という者は一方的にこう言って、電話は切られた。

 愛知県庁の山田内政部長とは、15年前の昭和3年(1928年)の夏、愛知県庁地方課長の田中軍次と一緒に東京の史跡名勝天然記念物調査会考査員柴田常恵のもとに行き、愛知県史跡名勝天然記念物調査会調査主事の小栗鉄次郎が書いた「大山寺跡」の報告書の内容に反対して、「国の史跡に指定するのは、大山廃寺の中の塔跡の周囲1320平方メートルのみにしてほしい。」と主張した人物だ。

 「愛知県警特別高等課の渡辺と中村が、大山廃寺跡の中で8年前に私に話した、愛知県庁の中で自分のことをよく思っていない人々か。」

 と、鉄次郎は、受話器を置きながら、こうつぶやいた。そして、庶務課の村上という者の口調から判断して、どうやら、知事応接室の陳列戸棚の処分は、拒否できない雰囲気があるらしい。

 「愛知県庁の中に保管するべき戦時体制の資料がこれからどんどん増えていくときに、県庁の中に私たちが収集した考古資料をおいておくスペースはない、ということか。」

 鉄次郎は、こう考えた。

 「このまま、彼らに逆らっても、彼らは、本当に、私たちが収集した考古資料をどこかに捨ててしまうかもしれない。彼らに捨てられる前に、どこか別の所で、私たちが収集した考古資料を保管してくれるところを探さないと。」

 2日後、鉄次郎は、偶然、愛知県庁の正面玄関で、灰色のスーツに青いネクタイを締め、黒い革靴を履いて、部下たちを3〜4人ほど後ろに従えた山田内政部長に出くわした。

 「やあ、君か。」

 一言、つぶやいた山田内政部長に、鉄次郎は、こう、話しかけた。

 「戦争が始まったということで、東京帝室博物館も館内の国宝級の美術品を奈良へ移送することを決定したそうですね。部長も愛知県庁の中にある文化財を戦争から守るという観点で、知事応接室にある陳列戸棚を処分するようにと言っておられるのでしょう。愛知県庁の外に、陳列戸棚の中にある考古資料の保存ができる施設を探さなければなりませんね。どこがいいでしょうか。ただいま、その施設を探している所です。」

 鉄次郎がこう言うと、山田内政部長は、鉄次郎を一瞥して、何も言わず、その場を去っていった。

 しかし、鉄次郎は、愛知県知事応接室の陳列戸棚の中にある縄文土器などの考古資料を処分する気には、なれなかった。愛知県庁内の他の応接室にある陳列戸棚に収納された考古資料の整理をしながら、鉄次郎は、迷っていた。

 「愛知県知事応接室の陳列棚の中に収納されている考古資料は、他とは少し違うのだ。」

 こうつぶやいた後、鉄次郎は、東京帝室博物館に自分の知り合いがいることを思い出した。そして、鉄次郎は、東京に行って、その知り合いに相談することを決意した。

 内藤政光子爵は、小栗鉄次郎の郷里にある三河国挙母藩(江戸時代、現在の愛知県豊田市中心部を治めた2万石譜代大名の藩)の旧藩主の長男である。年齢は、鉄次郎より1つ上だった。小栗鉄次郎が猿投第二尋常高等小学校(現在の豊田市立青木小学校)の校長の職に就いた翌年、大正12年(1923年)から、鉄次郎と内藤政光子爵は、地元の考古学を通じて、家族ぐるみの付き合いを始めた。鉄次郎の家族と内藤子爵の家族は、収集した土器を見せ合ったり、地元の遺跡や古墳を見学したり、地元の考古学の研究を共にしたりして、交流を深めていった。そして、3年後の大正15年(1926年)、鉄次郎の家族は、内藤子爵別邸に転居して住み始めた。その頃、学校に勤務していた内藤子爵は、20年後の昭和18年(1943年)には、東京帝室博物館勤務となっていた。

 昭和18年(1943年)7月、鉄次郎は、東京への出張願いを出し、夜行列車に乗って、名古屋駅から8時間かけて、東京を目指した。62歳になる鉄次郎にとって、夜行列車に乗って東京に行くことは、少々しんどいことだったが、鉄次郎の思いが鉄次郎の体力を支えていた。「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」の仕事がなくなった昭和17年(1942年)以降、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事である小栗鉄次郎の仕事は、戦時下の文化財の保護対策であった。

 愛知県庁が、増え続ける戦時体制資料の置き場所に困って、鉄次郎たちが収集した考古資料を愛知県庁の中から追い出そうとしている。鉄次郎たちが収集した考古資料を保護することは、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事小栗鉄次郎の仕事であった。そして、戦争が日本列島本土にまで及ぶことがあれば、鉄次郎たちが収集し、愛知県庁内に収納されている考古資料ですら、安全ではなかった。ましてや、名古屋城障壁画を始めとする名古屋市内にある国宝資料は、もっと危ない。それら多くの文化財を守るためには、戦火の及ばない安全な場所に移動させるのが一番だ。そして、どの文化財をどこに移動させるのか、鉄次郎は、寝る間も惜しんで考えなければならなかった。

 朝8時、鉄次郎は、紺色のスーツの上着を脱ぎ、白色のワイシャツを上までまくって、右手で青色のネクタイを緩めながら、左手に握った白いハンカチで汗を拭きつつ、上野駅に下りた。東京の上野には、東京帝室博物館があった。鉄次郎は、東京帝室博物館の事務所に入り、考古室に知り合いがいることを聞いて、考古室に入って行った。考古室に入ると、そこには、鉄次郎の知り合いの学者が何人かいた。みな、白いワイシャツにズボンと言った姿で、暑いせいか、ネクタイは締めていなかった。鉄次郎は、東京へ来たいきさつについて彼らに説明し、対策についてのアイデアを伺った。そして、内藤子爵がその日博物館の中にいることを知った鉄次郎は、考古室からの館内電話で、内藤子爵に電話して、午後から会う約束を取り付けた。

 博物館の外で昼食のうどんを食べた鉄次郎は、午後1時に、再び東京帝室博物館に入って行った。東京帝室博物館の玄関で、白いワイシャツにえんじ色のネクタイを締め、紺色のズボンをはいた内藤子爵が鉄次郎の前に現れた。内藤子爵は、すぐに、鉄次郎を博物館内の会議室に通した。

 博物館の会議室に入ると、すぐ、鉄次郎は、愛知県知事応接室の陳列戸棚にある縄文土器などの考古資料を処分する件について話し始めた。真剣な面持ちで鉄次郎の話を聞いていた内藤子爵は、鉄次郎にこう言った。

 「愛知県庁の内政部長らが知事応接室にある考古資料を処分しろと言っているのならば、考古資料をどこかに移動させなければいけないでしょう。彼らも本気で戦時体制に取り組んでいるのだから。彼らに逆らって、考古資料をそのまま県庁内におき続けても、いつか、心ない者によって、考古資料は処分されてしまうでしょう。それよりは、小栗さんの手で、愛知県庁の中にある全ての考古資料をどこか別の場所に移動して、保管してもらった方が文化財は保護されたことになるでしょう。

 それと、今、日本の戦況はあまりよろしくない状況にあるということが、私たちの共通した認識である。昨年(昭和17年、西暦1942年)4月、アメリカの爆撃機が初めて東京や名古屋など各地に飛んできて、爆弾を落としていったことは、小栗さんもご存じのはずです。東京帝室博物館の中にある国宝級の美術品は、既に、東京の上野から奥多摩の方へ移送し始めている。アメリカの爆撃機は、東京・大阪・名古屋などの日本の主要都市や日本の軍事拠点がある広島や長崎などの都市を狙っている。また、東京帝室博物館の中にある国宝級の美術品は、奥多摩だけでは、収容しきれないため、奈良や福島など、全国各地で、アメリカの爆撃機が狙わないような場所への移送の準備を急ピッチで進めているところだ。

 愛知県庁の内政部長らの意図とは関係なく、愛知県庁のある名古屋市内中心部は、今度、いつ、アメリカの爆撃機が飛んでくるかもわからない状況にあることは、東京都心と同じことです。ですから、小栗さん、名古屋市内にある重要な文化財は、空襲で焼けてしまう前にどこか安全な所に避難させるべきです。しかも、できるだけ早いうちに。紛失する恐れがある文化財は、愛知県知事応接室の陳列棚にある考古資料だけではないのです。」

 すると、鉄次郎は、内藤子爵にこう聞きなおした。

 「今、愛知県庁の中にある考古資料を移動させる先を探しているところです。しかし、愛知県庁の中にある文化財も量が多く、1か所の施設だけでは、収容しきれない。どうしても収容しきれない愛知県庁の中の考古資料の一部分を東京帝室博物館の方で面倒を見てもらうわけにはいきませんか?」

 内藤子爵は、鉄次郎にこう答えた。

 「私たちは、自分たちの持っている文化財の処分ですら、手を持て余しているのですよ。それに、東京帝室博物館がその文化財をどこに持っていくのか、それとも、東京にとどめたままにしておくのか、それすらもはっきりしない。小栗さんがそのような私たちの状況を理解したうえで、愛知県庁の文化財を預かってほしいというのなら、渋々、私たちも受け入れましょう、という答えしか今は出せません。」

 鉄次郎は、愛知県庁内の応接室の陳列棚にある全ての考古資料を処分する決心をした。そして、それらの考古資料の移送先について、鉄次郎の頭の中には、3か所の施設が浮かんでいた。

 昭和18年(1943年)8月、東京帝室博物館に勤務する内藤政光子爵の部下の者から、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事小栗鉄次郎のもとに一本の電話があった。

 「愛知県庁内政部長の応接室にある陳列戸棚の考古資料を処分してください、とのことです。」

 「このやり方は、15年前の昭和3年(1928年)の夏、愛知県庁内政部長の山田光太郎が愛知県庁地方課長の田中軍次と一緒に東京の史跡名勝天然記念物調査会考査員柴田常恵のもとに行き、愛知県史跡名勝天然記念物調査会調査主事の小栗鉄次郎が書いた「大山寺跡」の報告書の内容に反対して、「国の史跡に指定するのは、大山廃寺の中の塔跡の周囲1320平方メートルのみにしてほしい。」と主張した、あのやり方と同じだ。」

 鉄次郎は、ピンときた。愛知県庁内政部長の山田光太郎と愛知県庁地方課長の田中軍次は、鉄次郎が東京からの指示には、絶対に服従するということをわかっているのだ。なぜなら、自分たちもそうだからだ。

 鉄次郎は、東京帝室博物館に勤務する内藤政光子爵の部下の者にこう答えた。

 「ただいま、愛知県庁内の応接室の中にある全ての陳列棚に収納されている考古資料を移動する先を考えている所です。私の頭の中には、3か所の候補地が挙がっています。まだ、先方の了解は取っていませんが、1か所目は、徳川美術館、2か所目は、東京帝室博物館、3か所目は、石野村(現在の愛知県豊田市千鳥町)にある小栗の実家です。」

 すると、東京帝室博物館に勤務する内藤政光子爵の部下の者は、鉄次郎にこう言って電話を切った。

 「わかりました。くれぐれも、問題なきよう、慎重に事を進めてください。」

 昭和18年(1943年)9月、愛知県庁内にある愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事小栗鉄次郎のもとに、愛知県地方課の職員から一本の電話が入った。

 「内政部長応接室の陳列棚にある考古資料を早く処分してください。」

 鉄次郎は、この時、今までのじくじくした気持ちをふっ切らせて、愛知県庁内の応接室においてある全ての陳列棚の考古資料を処分するために腰を上げることに決めた。

 「わかりました。それでは、今から、内政部長にお会いして、応接室の陳列棚にある考古資料の処分の方法を説明いたしたく思います。」

 そして、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事小栗鉄次郎と愛知県庁内政部長の山田光太郎と愛知県庁地方課長の田中軍次は、内政部長の応接室の中に入って行った。3人とも、スーツ姿にネクタイを締め、革靴を履くと言った服装で、応接室に入っていく。

 内政部長の応接室に入ると、3人は、さっそく、陳列棚の方に向かった。鉄次郎が陳列棚を開けて、中に陳列されている考古資料を直に見せると、陳列棚にある骨角器や弥生式土器や瓦などの考古資料を見ながら、愛知県庁地方課長の田中軍次は、こう言った。

 「これらの考古資料をここに置くことは、片寄った仕事だと思われる。」

 「お前らの仕事こそ、軍需産業に片寄った仕事だろうが。」

 鉄次郎は、地方課長の田中の言葉に驚いて、心の中で、このように叫んだが、その怒りを外に出さないように必死で抑えていた。すると、内政部長の山田がこう言った。

 「どれどれ、よく見せてくれ。なるほど。このような考古資料は、こんなところにおいておくよりも、小栗さんの言うようにした方がいいだろう。費用がいくらかかろうが関係ない。」

 鉄次郎は、さっそく、徳川美術館に電話した。鉄次郎は、愛知県庁内の考古資料は、ほとんどすべて、徳川美術館に寄贈するつもりだった。

 徳川美術館とは、昭和6年(1931年)に創立した公益財団法人徳川黎明会の運営によって、昭和10年(1935年)11月に、名古屋市東区に新しく開館した美術館である。徳川美術館は、徳川家康の遺品など、尾張徳川家に歴代伝わっている数多くの国宝や重要文化財、重要美術品を所有し、保管している施設である。愛知県庁内の考古資料を保管できる施設として、鉄次郎の頭の中には、徳川美術館以外の施設は、浮かんでこなかった。

 それからの鉄次郎の仕事は、多忙を極めた。徳川美術館の近藤主事は、愛知県庁内の応接室の陳列棚の中におかれてある全ての考古資料の受け入れを快諾してくれた。鉄次郎は、徳川美術館に寄贈する全ての考古資料の目録を作り、修理が必要なものは修理しなければならなかった。愛知県庁の中にある全ての考古資料を分類して、大きさを測り、実測図を作り、壊れている弥生式土器の注ぎ口部分をつなぎ合わせ、分類した考古資料に目録と同じ数字を記入した名札を貼付する。そして、考古資料の目録は、内政部長の決裁を必要とした。

 鉄次郎は、内政部長に決裁をもらいに行くときに、愛知県庁内の応接室の陳列棚に保管されている考古資料の中から、骨角器だけは小栗鉄次郎が買い上げて、石野村にある鉄次郎の実家に保管することと、愛知県春日井市高蔵寺町にある古墳から出土した双龍文環頭柄頭(大刀の刃先とは反対側にある柄の先につける装身具で、環の中に2匹の龍が向かい合い、1つの玉を挟んでいる、朝鮮伝来を色濃く残す逸品)1点のみは東京帝室博物館に寄贈することを内政部長に説明した。内政部長は、「それは、感心なことだ。」と言って、許可した。そして、鉄次郎は、史跡名勝天然記念物保存協会愛知支部に骨角器代25円を支払い、領収書をもらい、双龍文環頭柄頭の目録を作り、鉄次郎自身が、東京帝室博物館に持参した。

 1ヶ月後の昭和18年(1943年)10月13日朝9時頃、灰色のスーツに白いワイシャツを着て、青いネクタイを締め、革靴を履いた徳川美術館の近藤主事は、スーツ姿のその他の美術館職員と国民服姿の人夫3人と共に愛知県庁を訪れていた。今日は、いよいよ、愛知県庁内応接室の陳列棚にある全ての考古資料を徳川美術館へ移送する日である。紺色のスーツに白いワイシャツを着て、淡い黄色のネクタイを締め、革靴を履いた小栗鉄次郎は、同じくスーツ姿の同僚と共に、愛知県庁内にある考古資料を番号に合わせて長持ちに入れ、戸棚とともにエレベーターで1階まで運んだ。そして、県庁入り口で待機していた徳川美術館の人夫3人に長持ちを背負わせ、戸棚をリヤカーに乗せて、県庁の東の方面にある徳川美術館まで運んだ。

 愛知県庁から徳川美術館までは、徒歩で30分位の道のりである。重い荷物を運ぶとなると、徒歩で40分位はかかるだろうか。そして、鉄次郎は、荷物を運び終えると、徳川美術館から愛知県庁まで歩いて戻った。その後、鉄次郎は、昼食のおにぎりを食べながら、最後まで残った鏡の拓本を取り、陶器の実測図を書き終えて、徳川美術館に寄贈する愛知県庁内の考古資料の目録を完成させた。

 午後1時になると、愛知県庁の入口に、国民服姿の人夫4人が徳川家から追加で派遣されてきた。7人の人夫と徳川美術館の職員と鉄次郎とで、愛知県庁内にある瓦や陶器などの残りの考古資料を全て長持ちや長持ち形箱に入れて、人夫に背負わせ、戸棚をリヤカーに積んだ。そして、午後3時半頃までには、愛知県庁内の全ての考古資料を徳川美術館に運び終えた。

 その2週間後、徳川美術館の近藤主事が、愛知県庁内の考古資料受領の礼状を携えて、愛知県庁にいる小栗鉄次郎のもとを訪れた。鉄次郎は、徳川美術館の近藤主事が携えてきた礼状を愛知県職員皆に見てもらうため、回覧に廻した。

 昭和18年(1943年)12月、東条英機内閣は、文部省所管の事務の仕事のうち、史跡名勝天然記念物調査会の重要美術品等の認定と史跡名勝天然記念物の指定事務を停止する閣議決定を行った。そして、同時に、「国宝、重要美術品の防空施設整備要綱」の閣議決定を行った。文部省は、国内にある国宝、重要美術品を空襲から守るため、疎開できる文化財は疎開させ、疎開することができない建造物などの文化財は、施設の設備を空襲に耐えうるように強化し、万が一のために、文化財の実測図を作成し、写真撮影をしておくように、全国に通達を出した。

 記録が残る日本の歴史の中で、日本人が海外の人々と日本国内で最初にした戦争は、鎌倉時代の「元寇」である。しかし、鎌倉時代に中国の元が攻めてきたときの戦争は、専守防衛の戦争であり、しかも、「神風」が吹くと言う強い運で中国軍の日本上陸を阻んだ戦争であった。明治時代以降、日本は、日清・日露戦争を経験したが、この時、日本は、他国の領域において戦って勝ち、日本の本土が外国の人々との戦争の戦場になることはなかった。日本人が太平洋戦争を経験するまで、自分の住む土地が他国の人々によって戦場と化すことがなかったのは、日本が四方を海に囲まれた島国であり、日本の歴史の中で、多くの時代において、日本は鎖国状態にあったことが一因である。しかし、人類の科学技術の進歩は、今まで戦場になったことがない島国日本を、戦場にしてしまった。太平洋戦争において、日本本土の人間は、初めて、自分たちの住む所が戦場になるということがどういうことなのかを知ることになるのである。

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