十六 本土空襲

 昭和19年(1944年)1月2日、63歳になる小栗鉄次郎は、まだ、正月休みの真っただ中にいた。鉄次郎が自宅で、お酒を飲んだり、おせちを食べたり、自分の研究の続きをしたりして、ゆったりくつろいでいた時、鉄次郎の自宅に、郵便局員が速達の封書を届けに来た。その速達は、文部省国宝監査官の丸尾彰三郎氏よりのものだった。文部省国宝監査官とは、昭和18年(1943年)12月に閣議決定された「国宝、重要美術品の防空施設整備要綱」に従って、国内の国宝級の文化財を戦火から守るという仕事をしている文部省のトップである。鉄次郎は、さっそく、封書を開けた。

 「明日午後3時50分、東京発大阪行きの列車が名古屋駅に停車します。名古屋駅停車時間の間、小栗さんと面談がしたいので、明日の午後3時50分、名古屋駅に来てください。」

 翌日1月3日、昼ごはんを食べ終わってしばらくくつろいでから、鉄次郎は、自宅でくつろぐときに着る着物から紺色のスーツに着替え、緑色のネクタイを締めて、黒いコートを羽織った。そして、午後2時半頃自宅を出てバスに乗り、午後3時半頃に名古屋駅に着いた。

 名古屋駅で、入場券を買った鉄次郎は、そのまま、大阪行きのホームに向かい、大阪行きの列車を待っていると、定刻通りの午後3時50分、大阪行き列車が名古屋駅に到着した。この列車の二等車に文部省国宝監査官の丸尾氏は乗っているはずである。この列車の名古屋駅での停車時間は、6分間であった。鉄次郎は、大阪行き列車の2等車に乗りこむと、文部省国宝監査官の丸尾氏の姿を見つけた。そして、丸尾氏の元に向かった鉄次郎は、丸尾氏と話を始めた。

 丸尾氏は、濃い灰色の外套を羽織り、黒い革靴を履いて、列車の二等車の中に座っていた。鉄次郎が丸尾氏と6分間話した内容は、次のようなものであった。

 「空襲に対する国宝物件の取り扱いについて、今後、東京にて、いくつか打ち合わせ会が開会される。それらの会合の詳しい日時、場所、会合の要点について、この紙に記しておいたので、見ておくように。」

 そして、鉄次郎は、文部省の丸尾氏から紙片をもらい、列車を下りた。

 昭和2年(1927年)46歳で愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事となった小栗鉄次郎は、昭和19年(1944年)63歳当時は、愛知県内政部教学課所属の史跡名勝保存主事となっていた。昭和18年(1943年)12月に史跡名勝天然記念物調査会の重要美術品等の認定と史跡名勝天然記念物の指定事務が停止される閣議決定があってから、いや、昭和18年(1943年)10月に愛知県庁の応接室の陳列棚の中にある全ての考古資料を徳川美術館に寄贈してから、鉄次郎の仕事は、文化財を空襲から守るための文化財の疎開や、万が一の時のための文化財の実測図の作成や写真撮影となっていた。そして、文化財の疎開という仕事は、決してマスコミに漏らしてはならない機密事項であった。そのような機密業務を実行していくにあたり、その仕事を遂行していく国のトップであった文部省国宝監査官の丸尾氏にとって、小栗鉄次郎は、信頼を寄せられる数少ない人物のひとりであった。

 昭和19年(1944年)1月4日、正月休みが終わり、灰色のスーツ姿に白いワイシャツを着て青いネクタイを締め、黒い革靴を履いて、黒い外套をスーツの上に羽織って、愛知県庁に出勤した鉄次郎は、同じくスーツ姿の愛知県内政部部長や国民服姿の教学課課長に、文部省国宝監査官の丸尾氏からの話を伝えた。それからの鉄次郎は、名古屋市内にある国宝の疎開に向けて、忙しい日々を送ることになる。昭和19年(1944年)12月19日に米軍による2回目の名古屋市内空襲が行われるまで11ヶ月しかないことを鉄次郎は知っていたかのように、名古屋市内の国宝の疎開に関する仕事を急ピッチで進めていった。

 名古屋市内にある国宝の疎開という仕事を実行していくにあたって、鉄次郎がするべき最初の仕事は、東京で開かれた文部省の空襲に対する国宝物件の取り扱いを決める会議に出席することだった。そして、文部省の方針によれば、空襲を受ける可能性がある人口上位6大都市(東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸)の担当者は、6大都市にある国宝・重要美術品を空襲から守るために、空襲が行われないと考えられる安全な場所に収蔵庫を探し、国宝・重要美術品をその収蔵庫に保管しなければならない、ということだった。

 小栗鉄次郎の実家のある愛知県西加茂郡石野村(現在の愛知県豊田市千鳥町)の近くにある越戸村(現在の愛知県豊田市越戸町)に灰宝神社という神社がある。灰宝神社には、越戸村生まれの実業家前田栄次郎という者が昭和4年(1929年)に新築し、寄進した宝庫があった。鉄次郎は、時々、実家に帰った折、家族の者たちから、灰宝神社の宝庫の話を聞いていた。灰宝神社にある宝庫は、当時としては珍しく、鉄筋コンクリート造りの宝庫である、という噂だった。空襲が行われないと考えられる安全な場所にある収蔵庫といえば、鉄次郎の実家の近くにある灰宝神社の宝庫以外の場所を鉄次郎は知らなかった。

 そして、鉄次郎は、猿投村の村長に相談に行く。鉄次郎が30代から40代の頃に小学校の教師をしながら郷土の考古学に興味を抱いて研究していた思い出がある場所が猿投村だった。昭和14年(1939年)に亡くなった喜田貞吉博士と出会い、史跡名勝天然記念物調査会考査員の柴田常恵と出会うきっかけとなったのも猿投村での考古学の研究だった。鉄次郎が46歳で愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事になった時に、最初に愛知県史跡名勝天然記念物調査報告を書いた「舞木廃寺跡」を国の指定史跡にするために協力を求めたのは、猿投村長だった。鉄次郎が63歳になった昭和19年(1944年)になって、愛知県内政部教学課所属の史跡名勝保存主事として名古屋市内にある国宝や重要美術品の疎開の仕事をこなしていくにあたって、国の機密事項である仕事を相談できる人物は、鉄次郎の周囲にそれほど多くはいなかった。

 スーツ姿の鉄次郎に対して、猿投村長は、国民服姿で鉄次郎に会った。猿投村長の意見もやはり、「灰宝神社の鉄筋コンクリート造りの宝庫が最適である。」ということであった。そして、鉄次郎は、灰宝神社の了解を取り付け、神社の氏子総代の内諾を得て、灰宝神社の宝庫を名古屋市内の国宝・重要美術品の疎開先収蔵庫として、文部省に報告するために、東京に向かった。

 それからの鉄次郎の仕事は、灰宝神社の収蔵庫の整備と収蔵庫に疎開させる国宝や重要美術品の調査であった。灰宝神社の収蔵庫を整備するために必要な工事費や旅費、雑費などの予算を要求し、疎開させる予定の国宝や重要美術品の所有者に了解を得る。そして、灰宝神社の収蔵庫の整備と収蔵庫に疎開させる国宝や重要美術品について、東京の文部省に報告に行き、担当の丸尾彰三郎国宝監査官の視察に対応する。そして、3ヶ月後の昭和19年(1944年)4月頃になって、灰宝神社の国宝収蔵庫の工事が完成した。熱田神宮が所持していた舞楽面など、名古屋市域の社寺等に保管されていた47件4788点余りの国宝が、新しく整備された灰宝神社の収蔵庫に運搬されることとなった。そして、このことは、極秘のうちに実行されなければならなかった。

 昭和19年(1944年)4月16日に灰宝神社の国宝収蔵庫の完成式が極秘のうちに行われ、翌日、鉄次郎は、文部省の丸尾監査官に「19日に国宝を収蔵庫に運搬する。」という電報を打つ。そして、4月19日、文部省からネクタイを締めたスーツ姿の職員が名古屋に来て、まず、熱田神宮の国宝など41件が、自動車にて、灰宝神社の国宝収蔵庫に極秘裏に運搬された。ネクタイを締めたスーツ姿の鉄次郎と文部省から来た職員が国宝とともに灰宝神社の収蔵庫に到着すると、灰宝神社では、白い着物に灰色の袴をはき、足袋と草履をはいた氏子総代など有志の方々が待っていて、国宝を収蔵庫に収納する仕事を手伝った。そして、国宝の収納が終わった午後4時、氏子総代より白米の食事がふるまわれた。鉄次郎たちは、久しぶりに食べる白米の味に舌鼓を打った。

 そして、鉄次郎たちが疎開させた国宝などの現状を見るために、鉄次郎が文部省の職員と共に灰宝神社の収蔵庫を極秘裏に訪れるたびに、灰宝神社の氏子総代から、抹茶・卵・飴・スイカなど、食べ物がふるまわれた。

 昭和14年(1939年)に白米が制限されてから、昭和15年(1940年)に食堂・料理店での米食が禁止され、人々の食卓に白米が登場することはなくなっていた。戦争中、畑を耕す男性は次々と戦争に駆り出され、畑で採れる食物は優先的に軍隊に廻されていた。人々は、サツマイモなどを主食とし、かぼちゃの種や蚕やいなごなどを食べ、空腹をしのいでいた。鉄次郎たちが食べた白米の味ももちろん極秘事項だったに違いない。一方、昭和19年(1939年)10月に入って、フィリピンのレイテ島沖で米軍と戦っていた日本海軍は、戦艦武蔵を始め多くの戦艦を失い、日本の海軍兵力は事実上壊滅した。

 その後、昭和19年(1944年)11月に至るまで、何回かに分けて名古屋市域の国宝が極秘裏に灰宝神社に疎開していった。小栗鉄次郎一家も昭和19年(1944年)7月に入って、名古屋市内にあった自宅から、鉄次郎の実家である愛知県西加茂郡石野村(現在の愛知県豊田市千鳥町)に疎開していった。そして、鉄次郎の家族と共に、鉄次郎の書斎においてあった考古資料も全て鉄次郎の実家に疎開していった。鉄次郎は、疎開先の実家から、徒歩で20分以上かけて、最寄りの西中金駅に行き、西中金駅から、名鉄三河線に乗って、知立駅に行き、知立駅で名鉄本線に乗り換えて、金山駅まで行き、金山駅から市電に乗り換えて、県庁の近くまで行くというルートで、1時間半以上かけて、疎開先の実家から職場まで通わなければならなくなった。

 ところで、名古屋市域の国宝が極秘裏に灰宝神社に疎開し終わった昭和19年(1944年)11月末になって、文部省の方から、愛知県の史跡名勝保存主事である小栗鉄次郎のもとに、「名古屋城の襖絵の保存については、どうなっているのか。」という問い合わせの通知が届いた。名古屋市役所の中にある名古屋城管理委員会会議は、昭和18年(1943年)12月に「国宝、重要美術品の防空施設整備要綱」の閣議決定が行われる3か月前から、名古屋城の防空保存対策として、防弾壁工事を実施していた。そして、名古屋城管理委員会は、それより前から、名古屋城の建物や障壁画の撮影・実測・記録・図面作成等を実施していた。しかし、日本政府が「国宝、重要美術品の防空施設整備要綱」の閣議決定をすることによって、文化財を安全地帯に分散疎開し、収蔵庫等に厳重に保管するよう定めていたにもかかわらず、名古屋城管理委員会は、いまだ、名古屋城の宝物類の疎開先を決定していなかった。

 名古屋城には、17世紀(江戸時代初期)に活躍した狩野探幽ら狩野派の絵師によって描かれた障壁画や天井画が1000面以上あり、うち、345面が昭和17年(1942年)に国宝に指定された。昭和19年(1944年)12月に入った頃、小栗鉄次郎は、名古屋市役所へ行き、花井助役に会い、名古屋城障壁画および天井画の疎開について、話合った。鉄次郎は、名古屋市役所に対して、次のように進言した。

 「名古屋城障壁画や天井画は、本丸御殿から取り外し、名古屋城北西部にある乃木倉庫や西北隅櫓に移動させるのがいいのではないか。」

 昭和19年(1944年)12月7日、午後1時40分頃、愛知県・三重県地方にM7.9の強い地震が起こった。東南海地震である。この地震による被害は、死者・行方不明者1,223人、家屋全壊17,611棟、家屋半壊36,565棟、流出3,129棟、津波は三重県熊野灘沿岸で5〜8m、静岡県遠州灘沿岸で1〜2mに達した。

 小栗鉄次郎は、疎開先である愛知県西加茂郡石野村(現在の愛知県豊田市千鳥町)から電車で灰宝神社の氏子宅に向かい、そこから、氏子と共に車に乗せてもらって、灰宝神社の倉庫に向かい、疎開させていた国宝の無事を確認した。灰宝神社の国宝収蔵庫は、当時としては珍しい鉄筋で造られていただけのことはあって、国宝に被害はなかった。しかし、地震が起きてから4日後に鉄次郎が名古屋市内にある国宝を見に行くと、熱田神宮近くにある寺の国宝楼門は壁土の表面がはがれおち、本堂の屋根は大破していた。

 昭和19年(1944年)12月13日13時50分、名古屋市内の千種区、東区、北区、中村区、中区にある軍需工場に米軍爆撃機B29による2回目の空襲が行われた。この空襲による死者は330人、負傷者356人、264棟の家屋が焼失した。昭和19年(1944年)12月18日13時、名古屋市内の西区、瑞穂区、港区、南区、鳴海町、天白村にある軍需工場に米軍爆撃機B29による3回目の空襲が行われた。この空襲による死者は334人、負傷者は207人、323棟の家屋が焼失した。昭和19年(1944年)12月22日13時50分、名古屋市内の南区、東区、熱田区、瑞穂区、天白村、守山町、鳴海町にある軍需工場に米軍爆撃機B29による4回目の空襲が行われた。この空襲による死者はいなかったが、負傷者は3人、3棟の家屋が焼失した。

 そして、昭和20年(1945年)1月3日14時46分、名古屋市内の西区、中村区、栄、昭和区、熱田区、中川区に米軍爆撃機B29による6回目の空襲が行われた。この空襲によって、学校や病院、郵便局、中央電信局、ホテルが全焼し、死者は70人、負傷者は346人、3588棟の家屋が焼失した。それまで、名古屋市内にある軍需工場に狙いを定めていた米軍爆撃機B29は、6回目の空襲からは、名古屋市街地を狙うようになっていた。そして、この時点になって、名古屋城の障壁画や天井画は、まだ、取り外されていなかった。愛知県の史跡名勝保存主事である小栗鉄次郎は、愛知県内政部教学課を訪れた名古屋市役所公園課長に向かって、再度、名古屋城本丸御殿にある障壁画や天井画を取り外して、移動させるように進言した。鉄次郎は、名古屋市役所公園課長にこう言った。

 「今まで軍需工場を標的としていた米軍爆撃機B29は、ここにきて、明らかに、市街地を狙ってきています。早く障壁画や天井画を安全な場所に移動させないと、国宝が失われてしまいます。」

 昭和20年(1945年)1月13日午前3時38分、愛知県の三河湾で、M6.8の直下型地震が発生した。三河地震である。この地震による死者2306人、行方不明者1126人、負傷者3866人を数えたと言われているが、記録がわずかしか残っていないため、現在でも、この地震についての詳しいことはわかっていない。しかし、鉄次郎には、この地震が、1時間くらい震動していたように感じられた。

 この地震では、震源から離れた名古屋市や一宮市でも、家屋の倒壊が確認された。そして、日本政府は、国民の戦意を低下させないため、あるいは、米軍に軍需工場の被害状況を伏せるため、この地震についての報道を国民に知らせなかった。従って、巨大地震が起こっても、周辺地域からの救援活動はなく、地震直後の国家政府からの救援活動もなかった。この地震の復旧活動を行った行政は、地震発生から2ヶ月後の愛知県であった。

 三河地震発生から2日後、鉄次郎が三河方面に国宝の被害状況を調査しに行くと、文化財レベルの建物や墓石が倒壊している場面が確認できた。そして、鉄次郎は、震災被害の大きかった三河地方を視察に行って、驚いた。全ての家屋は柱が潰れてがれきの塊となり、人々は助けがこないまま、家の中には入れず、外で野宿をしていた。そして、家族の中に必ず一人は死者が出たという村もあった。

 昭和20年(1945年)1月14日、14時50分、名古屋市内の熱田区、南区、中川区、港区の軍需工場に米軍爆撃機B29による10回目の空襲が行われた。この空襲による死者は94人、負傷者は98人、194棟の家屋が焼失した。昭和20年(1945年)1月23日14時50分、名古屋市内の千種区、東区、北区、中村区、栄、昭和区、瑞穂区、守山町、天白村に米軍爆撃機B29による14回目の空襲が行われた。この空襲では、軍需工場の他に名古屋地方裁判所や調停会館が全焼した。鉄次郎のもとに入って来た情報によれば、この空襲で、市立第三高校の女生徒42人が防空壕の中で埋没し、死亡した、とのことだった。

 鉄次郎は、東京や名古屋で、文部省国宝監査官の丸尾彰三郎氏や嘱託職員の大口氏と、名古屋市内の国宝・重要美術品の疎開の仕事について、何度実際に会ったり、文書を交わしたりしたことだろう。そして、鉄次郎の所管している名古屋市内の国宝や重要美術品については、とっくに、灰宝神社の国宝収蔵庫への移動をすませてあるのに、名古屋市役所が所管している名古屋城の障壁画などの国宝・重要美術品は、昭和20年(1945年)3月の時点になっても、まだ、取り外されず、名古屋城本丸御殿の中にあった。鉄次郎は、昭和20年(1945年)3月に入り、もう一度、名古屋城の国宝・重要美術品の疎開の件で、名古屋市役所を訪れた。そして、以前から名古屋城の国宝・重要美術品の疎開の件で話し合いを重ねていた名古屋市役所公園課長のもとに行った。しかし、いつも会っていた公園課長の姿が見えない。そして、国民服を着た名古屋市役所の櫻井という技師が、スーツ姿の鉄次郎のもとに来てこう言った。

 「本日より、公園課長は、名古屋城管理主事に転勤されました。」

 昭和20年(1945年)3月5日午後23時35分、名古屋市内の港区、瑞穂区に米軍爆撃機B29による25回目の空襲が行われた。夜中であろうと朝であろうとお構いなしに、何度でも、米軍爆撃機B29は、名古屋市内に爆弾を落としていくのだった。

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