十六 頼朝の決断

 紛失したはずの天皇の宝剣を大久佐八幡宮で見てから半年後、八条院は、再び、大久佐八幡宮を訪れた。前回大久佐八幡宮を訪れた時と違い、今回大久佐八幡宮を訪れた時の八条院は、30代位の僧侶と、琵琶を持ったもう一人の僧侶を連れていた。八条院は、今回の大久佐八幡宮への訪問に際して、熱田大宮司家を通じて、「朝の11時頃、皆さまにお見せしたいものがあるので、大久佐八幡宮の宮司のみならず、近所の人々をできるだけ多く、大久佐八幡宮の境内に集めてほしい。」ということを大久佐八幡宮側に伝えていた。

 八条院たち一行が大久佐八幡宮の境内に着くと、境内は、黒山の人だかりだった。そして、八条院が連れてきた、30代くらいの僧侶と、 琵琶を持った僧侶が、人だかりの前に立って、聴衆に向かって、こう話しかけた。

 「皆さま、はじめまして。私は、天台宗比叡山延暦寺の僧侶である慈円と申します。今日は、私たちが進めている国家的なイベントについて、皆さまの意見を伺いたく、ここに参りました。

 現在、国を二分した源氏と平氏の戦いが終わり、皆さまも平和な日々を噛みしめていることと思います。私たちは、源氏と平氏の戦いを後世まで語り継ごうというプロジェクトを現在進行中です。今、仮に、このプロジェクトの名前を「平家物語」とします。私たちは、平氏一族が、田舎の武士から朝廷の殿上人(御所への出入りを許された人々)という特権階級に昇進してから、「平家にあらずは、人にあらず」といわれるほど、平氏が栄華を極めた時期を経て、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡するまでの間に起こった出来事を物語にして、琵琶の音楽に乗せて、わかりやすく語っていくつもりです。琵琶楽曲「平家物語」の根底を流れるコンセプトは、人の世の栄枯盛衰のはかなさと、国の平和のありがたさです。

 今日は、琵琶楽曲「平家物語」のクライマックスの部分である「壇ノ浦の戦い」が出来上がりましたので、その部分だけを皆さまに聞いていただきます。そして、私たちは、今回、ここで、「平家物語」の中の「壇ノ浦の戦い」の部分を聞いていただいた皆様の反応を観察させて頂き、皆様の意見を聴かせて頂いて、今後の「平家物語」プロジェクトをどのように進めていくかの参考にしたいと考えております。この琵琶楽曲「平家物語」が皆様の気に入らなければ、ブーイングしていただいて構いませんし、悪い点を指摘していただけたら幸いに思います。 それでは、琵琶楽曲「平家物語」の中の「壇ノ浦合戦」の巻を始めます。」

 大久佐八幡宮の境内に琵琶の音色が響き渡り、あたりは、静まり返った。琵琶の音に合わせて、琵琶法師は、壇ノ浦合戦の物語を語っていった。

 1185年(元暦2年)正月、源義経は後白河法皇に面会し、平氏と最終決戦を行う許可を得たこと。

 義経が屋島に上陸して、平氏軍は再び、海上に逃げたこと。

 四国の武士たちが四方八方から源氏軍に集まってきたこと。

 源義経率いる源氏軍三千余艘の船が、平氏軍千余艘の船と、狭い関門海峡の間で対峙したこと。

 源氏軍は、実は、その内部において、トップの武将である源義経と梶原景時との間に、手柄を競い合う激しい対立があったこと。

 合戦の当初は、潮の流れに乗って、平氏軍が有利であったが、源氏と平氏の激闘の最中に、平氏軍の中から次々と裏切り者が出て、平氏軍が一気に崩れていったこと。

 源氏軍が平氏の船に次々と乗り移ってくる中、二位の尼(安徳天皇の祖母、平清盛の妻)は、勾玉と神鏡の入った箱を脇に抱え、宝剣を腰に差して、6歳になる安徳天皇を抱き寄せると、ともに海の中に飛び込んだ話。

 それを追って、平氏の要人が次々と海に飛び込んでいき、合戦は、源氏軍の勝利に終わったこと。

 合戦が終わり、安徳天皇の母親である建礼門院をはじめとする平氏軍の捕虜たちは、全員白衣を着せられて、京都の大路を引き回された話。

 天皇の三種の神器のうち、勾玉と神鏡は京都に還ってきたけれども、神剣は、安徳天皇や二位の尼とともに海の藻屑となった話。

 占いによると、天皇の宝剣が海底に沈んだのは、安徳天皇が、神代の時代にスサノオノミコトに退治された大蛇と化して、剣を取り戻したからだという、などなど・・・。

 そして、琵琶法師による「平家物語」の「壇ノ浦合戦」の巻の演奏が終わった。まわりでそれを聞いていた観衆の中には、涙を流す者もいた。皆、琵琶法師の演奏に感動していた。

 「この感触は悪くない。この調子で、「平家物語」のプロジェクトは進めていいですね。」

 天台宗比叡山延暦寺の僧侶である慈円は、八条院の耳元でこう囁いた。そして、観衆が感動して、次々と大久佐八幡宮の境内を後にしていくのを見計らって、八条院たちは、大久佐八幡宮の社務所に宮司たちを集めた。宮司たちは、八条院たちの後について、社務所に入っていったが、全員、琵琶法師の演奏に感動したというよりは、困惑と不安の入り混じったような複雑な表情で、八条院たちについて行った。大久佐八幡宮の宮司たちは、この時初めて、美濃源氏の山田太郎・次郎兄弟がこの神社に奉納してきた刀の本当の意味を知ったのであった。

 「さて、今日の宮司の皆様の顔色を拝見すれば、宮司の皆様が困惑していることはよくわかります。この、世にも珍しいまっすぐな刀をどのようにするかは、皆様のご判断におまかせします。

 ああ、そうだ。この神社に、私が持っている刀を奉納したく思います。この刀です。以前、美濃源氏の方が奉納された刀と比べると、刀にそりが入っているでしょう?私の刀は天皇の宝剣ではないからです。ぜひ、私の刀も、美濃源氏の方が奉納された刀と一緒に、この神社に置いてください。」

 こう言って、八条院は、自分の持ってきた刀を宮司の井山一郎に渡した。そして、八条院は、続けて、こう言った。

 「今、日本は、源氏と平氏の戦いが終わり、やっと、ひとつの平和な国になることができました。しかし、平和とはもろいもので、いつ、どんなきっかけで、日本に再び内乱がおこるともわかりません。

 後白河法皇は、「日本に三種の神器(神鏡・勾玉・宝剣)と天皇が2つあるときは、日本が二つに割れている時だ。」とおっしゃいました。現在の日本の天皇は、後鳥羽天皇ただおひとりですし、三種の神器(神鏡・勾玉・宝剣)は、後鳥羽天皇が持っているものただ一組しか存在しません。だから、現在の日本は平和な一つの国である、とも言えます。

 私は、半分、安徳天皇と二位の尼がうらやましいのです。もし、この八条院が小さい頃、父や母が天皇家の仕事を投げ出して、一般の人々と同じ生活をしていたなら、今頃、父も母も弟も妹も、生きて、それぞれ生活を営んでいたかもわかりません。現在、私の家族の中で生き残っているのは、私一人だけなのです。

 ところで、大久佐八幡宮の宮司の皆様の願いの一つである「大山寺再興」の件ですが、ここにいる天台宗比叡山延暦寺の僧侶である慈円が、大山寺再興の手助けをしていただけることになりました。慈円のもとで、皆様の力を結集して、新しい寺院をこの地域に造っていきましょう。」

 そして、八条院に紹介されて、天台宗比叡山延暦寺の僧侶である慈円が、大久佐八幡宮の宮司たちにこう語りかけた。

 「私が生まれる前からの話ですが、比叡山延暦寺の僧兵たちは、大山寺だけでなく、敵対する様々な地方の寺を焼き討ちにしたり、僧侶を殺したりしているそうです。僧侶たちは、仏の世の中をこの世に映し出さなければいけないはずなのに、比叡山延暦寺の僧兵たちは、昔も今もそうですが、殺伐とした世の中の鏡のようになっています。ですから、大山寺を新しく建てるときは、私は、大山寺を日本の平和の象徴となるようにしたい。そして、二度と比叡山僧兵たちの焼き討ちに遭わないような寺を造りたいのです。

 これから、私は、皆様と話し合って、もう二度と、僧兵たちの焼き討ちに遭わないような平和な寺の礎を築きたいと思います。自分としては、あまり、あせって、寺を造ることはしないつもりです。じっくり時間をかけ、少しずつ、確実に、寺を大きくしていきたいと思っています。

 まずは、本堂から建設していき、そこに僧侶を置いていきますが、私一人の力でできるものではありません。私は、新しい大山寺の礎を築くことくらいしかできません。後は、若い世代の者に、どんどん、実権を渡していくつもりです。そうして、新しい大山寺が、この地に末永く繁栄できたらいいと思っています。ぜひ、皆様のご協力をお願いいたします。」

 八条院たち一行が京都に帰っていった後の大久佐八幡宮の社務所で、宮司の井山一郎は、新しい宮司の波多野秀助と話していた。

 50歳を過ぎたあたりから、そろそろ宮司の職を辞することを考えていた井山一郎は、熱田大宮司家から、大久佐八幡宮の新しい宮司として、源家の末裔である波多野一族の波多野秀助を任命する話を聞いたとき、自分は宮司の職を辞することを決心したのであった。

 今日は、大久佐八幡宮の新しい宮司である波多野秀助に井山一郎の仕事の引き継ぎをするために、二人一緒に八条院たち一行を迎えた。しかし、新しい大山寺を造ることに全面協力することはいいとして、神社の宝物の1つである美濃源氏の山田太郎・次郎兄弟から奉納された刀と、八条院様が奉納していった刀を、どのようにすべきなのか、その課題は、今、井山一郎から新しい宮司である波多野秀助の手に委ねられたのであった。波多野秀助は、井山一郎にこう話した。

 「源頼朝様は、25年間、私たち波多野一族を匿ってくれていた大久佐八幡宮には、とても感謝しておいでだった。頼朝様は、この25年間、自分の味方をして働いてくれたものには、必ず、手厚い報奨を与えてくださる方なのだ。今回、頼朝様は、大久佐八幡宮に感謝して、神社を近くの字東上(現在の大久佐八幡宮が建っている場所)に遷し、神社を更に大きく建てなおして、毎年、神社の例祭を盛大に行うように私に指示された。

 それから、頼朝様は、なぜか、美濃源氏の山田太郎・次郎兄弟から奉納された刀のことを知っていた。そして、いつか、権力を狙う者が現れて、その刀が利用される時が来るのではないかと心配していたよ。だから、その刀が、絶対に、国を内乱に陥れる者に利用されることのないようにという目的もあって、源家の末裔である私を新しい宮司に任命したのだと思う。

 私は、新しい神社が建ったら、そこに神社の宝物を納める蔵を造りたい。そして、美濃源氏の山田太郎・次郎兄弟から奉納されたこの刀と、八条院様が奉納されたこの刀を、それぞれ木箱に入れて保管しようと思う。ただし、この二口の刀の由来は、伏せておく。もし、誰かにこれらの刀の由来を聞かれた時は、「この地方から朝廷の官僚に出世した方がいて、その方が、厄除けのために奉納された物だ。」と説明するつもりだ。

 あと、新しい大山寺を建設する話だが、頼朝様は、寺院の僧兵たちに関して、平穏な世の中を乱すものとして、その存在を否定している。本来、寺の者は、武器を持ってはいけないというのが頼朝様のスタンスだ。だから、頼朝様のもとで新しい寺院を建設するときは、僧侶の武器を作ったり保管したりする施設は造られない。

 大山寺には、かつて、製鉄所があって、地元の治安を守ることを目的として、僧兵たちが武器を使う訓練をしていたことがあったと聞いている。頼朝様の意向を反映して、恐らく、新しい大山寺の本堂は、製鉄所の跡地の上に建てられることになるだろう。もちろん、大久佐八幡宮の私たちも、新しい大山寺の建設には全面的に協力していくつもりだ。」

 井山一郎は、新しい宮司である波多野秀助のこの話に満足して、大久佐八幡宮から去っていった。

 日本を平和な一つの国にするために、自分たちの味方をして働いてくれた者には、手厚い保護を与え、自分たちを敵に回して、国を二分する内乱を起こそうとする者は、徹底的に排除するという源頼朝の姿勢は、頼朝が亡くなった後も北条氏によって受け継がれていく。そして、何か決断を迫られることが起こった時には、自分たちの味方をして働いてくれた者には、手厚い保護を与え、自分たちを敵に回して、国を二分する内乱を起こそうとする者は、徹底的に排除するという姿勢で物事を決断し、次のステップに進んでいく。それが、鎌倉時代なのであった。

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