十七 辞任

 鉄次郎は、正直、疲れ果てていた。鉄次郎は、昭和20年(1945年)3月に入り、64歳になっていた。鉄次郎の家族や鉄次郎が所持している文化財については、鉄次郎の実家である愛知県西加茂郡石野村(現在の愛知県豊田市千鳥町)に疎開しているので、空襲被害の心配は今のところない。しかし、名古屋から遠く離れた東京の文部省国宝監査官でさえ、名古屋城本丸御殿の中にある1000面以上の狩野派絵師による障壁画・天井画のことを心配しているのに、名古屋城を管理している名古屋市役所は、なぜ、まだ今の段階になっても、障壁画・天井画を取り外して安全な場所に保管しようとしないのか。公園課長の人事異動をしている暇があったら、一刻も早く、空襲の被害から国宝を守るために動くべきなのではないのか。

 「自分は、名古屋市役所に対して、これほど影響力のない人間だったのか。」

 鉄次郎は、愛知県庁内の食堂の窓際でうどんを食べながら、窓越しに、名古屋市役所の建物の青くとがった時計のついた屋根を見上げていた。鉄次郎の頭の中には、自分が昭和2年(1927年)に愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事になった頃に担当した大山廃寺跡の発掘調査や報告書をめぐって起こった様々な出来事や、愛知県警特別高等課の人々との関わりあいが走馬灯のように巡ってくるのであった。

 「愛知県庁の一部の人々によく思われていない私が、名古屋市役所の人間を動かすことなんてできないな。」

 そして、鉄次郎は、こう思った。

 「組織の人間として、名古屋城の障壁画を守ることができないのならば、一個人として、国宝を守りたい。」

 昭和20年(1945年)3月7日、愛知県内政部教学課所属の史跡名勝保存主事小栗鉄次郎は、教学課課長と会議室に入った。鉄次郎は、茶色いスーツに白いワイシャツを着て黄土色のネクタイを締めて会議室に入り、国民服を着た教学課課長と向かい合って座った。鉄次郎は課長にこう言った。

 「私は、昭和2年(1927年)から愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事となり、今は、愛知県内政部教学課所属の史跡名勝保存主事として、働いています。しかし、私の仕事は、あまり、周囲の人間には認められてこなかった。愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事となった頃は46歳であった私も、今は、64歳になり、正直、今の状況には体力がついていかない。今月限りで史跡名勝保存主事の仕事を退職させていただきたいと思います。」

 すると、課長は、こう言って、鉄次郎を引き留めるのだった。

 「今のこのご時世では、あなたの仕事のことをよく思っていない人々が県庁内に存在するのは、当たり前のことなのです。しかし、あなたがいなくなったら、史跡名勝保存主事の仕事はどうなるのですか。あなたは、文部省の偉い人にも信頼されているのです。あなたをやめさせることなんてできませんよ。」

 このように言う課長に向かい、鉄次郎は、こう言った。

 「もちろん、私の仕事の後任者は、今、ここで、推薦しておきます。私の部下の伊奈森太郎君です。現在46歳である伊奈君なら、私の後を継いで、立派に、史跡名勝保存主事の仕事をこなしてくれると思います。なお、私の退職後は、引き続き、私を嘱託の調査委員として、雇っていただけるよう希望しています。」

 鉄次郎は、こう言って、退職届を課長に提出した。課長は、

 「あなたを退職させることができるかどうかはわからないが、一応、退職届は、受理しておくよ。」

 と言って、鉄次郎の差し出した退職届を受け取った。そして、2人は、会議室を出て、それぞれの場所に帰って行った。

 昭和20年(1945年)3月9日、国民服を着た愛知県内政部教学課課長は、国民服を着た愛知県庁内政部長の山田光太郎と、国民服を着た愛知県庁地方課長の田中軍次と、青いネクタイを締め、白いワイシャツを着て灰色のスーツを着て丸いメガネをかけた愛知県警特別高等課の渡辺周五郎と、クリーム色のワイシャツを着てこげ茶色のネクタイを締め、茶色いスーツ姿の中村佐吉、そして、海軍主計大尉である斉藤啓輔も加わって、愛知県庁内の会議室にいた。勲章を肩にずらりとつけ、上着もズボンも真っ白な軍服を着て、白い軍帽を机の上においた海軍主計大尉である斉藤啓輔は、この会議室の中では、最も偉く見えた。まだ、45歳である海軍主計大尉斉藤は、会議室内にいる愛知県内政部教学課課長ら皆に向かって、こう言った。

 「我々が、亡くなった喜田貞吉博士の歴史観を引き継いでいると考えている小栗鉄次郎が、愛知県職員の退職届を提出してきた。小栗が国体護持に反するような行動を今まで起こしてこなかったことは我々も認めている。しかし、小栗が、愛知県職員という肩書を持って、何か一言ラジオで発言した場合、その発言には、非常に重みがあるのだよ。これで、彼は、一般の市民と同じ肩書きになるのだ。嘱託の彼に一体、どんな権限があるというのだ?私は、小栗鉄次郎の県職員退職をもって、国体護持に反する行動をとると考えられる者たちのリストから彼を外そうと思っているのだが、君たちは、どう思う?」

 すると、今年で48歳になる愛知県警特別高等課の渡辺周五郎がこう言った。

 「そうですね。小栗が愛知県職員をやめるということになれば、県職員という肩書きの人間として、国民の戦意高揚を失わせる言動や行動を起こす事もできなくなります。こちらとしても、小栗の件は、最終的には、彼の辞任を持って、解決に至るというつもりでいましたしね。それでいいですね、山田内政部長。」

 71歳になっても、まだ、内政部長として勤務していた山田は、今年で65歳になる愛知県庁地方課長の田中軍次に向かって、こう言った。

 「我々もそろそろ愛知県職員を退職する年になったのだな。我々は、こうすることが愛知県を豊かな県にすることになると考えたから、軍需産業の誘致と愛知県の開発に力を注いできたのだ。そんな我々の予算を奪おうとする奴は、小栗でなくても我々の敵だ。愛知県は、観光や文化財保護よりも産業重視で豊かになっていく県なのだ。」

 「そうだ。そうだ。」

 と、地方課長の田中軍次はうなずいた。山田内政部長と田中地方課長の話を聞いて、海軍主計大尉である斉藤啓輔と愛知県警特別高等課の渡辺周五郎と中村佐吉は、口々に、

 「そんなこと、俺たちには関係ない。」

 とつぶやいた。しかし、この会議室の中にいる6人に共通している課題は、愛知県内政部教学課史跡保存主事である小栗鉄次郎に、問題を起こすことなく辞任してもらうことだった。

 そして、海軍主計大尉である斉藤啓輔が、会議室の中にいるメンバーに向かって、こう提案した。

 「小栗は、今まで、国体護持に反するような動きをすることなく、今日までやってきた。しかし、今月末で辞めると決まった途端、今までの気持ちが吹っ切れて、突然、どんな行動を起こすかもわからない。小栗に、辞任まで、今まで通りの態度でいてもらうために、小栗の退職届受理の情報は、3月31日まで漏らさないことにしよう。そして、3月31日に、小栗の希望通り、今日限りで、退職してもらうことを小栗に告げることにしよう。」

 すると、教学課課長が斉藤海軍主計大尉にこう質問した。

 「小栗を嘱託として職場に残すことについては、みなさん、同意していただけますよね。小栗が教学課からいなくなったら、みんな、本当に困るんです。私たちが困ると、内政部長も困りますよね。」

 すると、そこにいた5人のメンバーは、口々に、

 「それは、構わんよ。」

 と言った。

 「それでは、私は、これで失礼する。くれぐれも、小栗辞任の件は、3月31日まで、伏せておくように。」

 そう言って、教学課長に念を押した海軍主計大尉斉藤啓輔は、会議室にいた一同に敬礼して、会議室を去っていった。

 さて、昭和20年(1945年)3月9日、愛知県内政部教学課史跡名勝保存主事小栗鉄次郎は、愛知県庁内の別の会議室で、灰宝神社国宝収蔵庫に疎開させた国宝の現状を見るために名古屋を訪れていた、文部省国宝監査官の丸尾彰三郎氏と会っていた。小栗鉄次郎は、濃い灰色のスーツに白いワイシャツを着て、紺色のネクタイを締め、会議室に入った。文部省国宝監査官の丸尾氏は、紺色のスーツに淡い水色のワイシャツを着て、青色のネクタイを締め、会議室に入って行った。丸尾氏は、鉄次郎と共に愛知県庁内の会議室に入って、鉄次郎と向かい合って椅子に座ると、開口一番、鉄次郎にこう尋ねた。

 「ところで、名古屋城本丸御殿のなかにある国宝の障壁画と天井画だが、取り外して、安全な所に移動させたのかね?」

 「いえ、国宝の障壁画と天井画は、まだ、本丸御殿の中にあります。」

 鉄次郎がこう答えると、丸尾氏は、

 「名古屋市は、いつになったら、動くんだ!」

 と、激しい口調でつぶやいた。それを聞いて、鉄次郎は、なるべく低い声で、丸尾氏の耳元で囁くように、こう言った。

 「実は、私、今月いっぱいで、退職する届を教学課課長に提出したんです。」

 「えっ?課長は了承したのかね?」

 丸尾氏は、それは意外だった、というような口調で、鉄次郎に返事をした。鉄次郎は、再び、低い声で、こう言った。

 「いえ、私の印象では、課長は、私に辞めてほしくないようでした。しかし、私の辞表は持っていかれました。だから、私は、近々、史跡名勝保存主事の仕事を辞めることになると思います。しかし、今月いっぱいで辞めさせてもらえるのかどうかは、まだ、わかりません。」

 そして、会議室の中に沈黙の空間が流れた。再び、鉄次郎は、丸尾氏に、低い声でこう言った。

 「もしかしたら、私が仕事を辞めることで、名古屋城本丸御殿の中にある障壁画や天井画が、名古屋城の西北隅にある乃木倉庫や櫓に移動することになるかもしれません。丸尾さんもご存じのように、私は、愛知県庁の一部の人々から、余り、よく思われていない。そのために、愛知県警特別高等課からもにらまれている。つまり、私には、名古屋市役所を動かすほどの人望がないということになりませんか?そして、私が、産業重視の愛知県庁という組織の中にいるから、私が何を言っても組織が動かないということならば、私が組織の中にいる意味はない。それならば、いっそのこと、組織を離れ、一個人として動いた方が、物事が先に進むのではないでしょうか。

 私は、今年で64歳になりました。正直、現在のこの状況についていくには、体がしんどくなってきました。私の後継者には、部下の伊奈森太郎君を考えていて、いつか、私の退職が決まったら、伊奈君に、私の仕事を引き継いでいこうと考えています。そして、私は、嘱託の調査委員として残る希望を教学課課長に伝えました。」

 文部省の丸尾氏は、鉄次郎の話を聞くと、こう言った。

 「私が信頼して仕事を任せることができるのは、愛知県庁の中では、小栗さんだけです。だから、小栗さんが、主事を辞めて嘱託の調査委員になったとしても、私の仕事は、小栗さんにやってもらうつもりです。

 私は、名古屋城本丸御殿の中にある、国宝に指定されている199面の障壁画については、名古屋城の西北隅にある乃木倉庫や櫓の中に移動させるだけでは不十分であると考えています。そして、機会を見て、国宝に指定されている199面の障壁画については、灰宝神社の国宝収蔵庫に移動させることを考えています。このことは、文部省が愛知県庁の了解を得た上で、私自体が動きますので、小栗さんは、どのような立場にいようとも、私を助けてください。」

 文部省の丸尾氏の話を聞いて、鉄次郎は、一言、

 「わかりました。」

 と言った。そして、2人は、愛知県庁の会議室を出て、猿投村にある灰宝神社の国宝収蔵庫に向かったのであった。

 昭和20年(1945年)3月11日から12日にかけての深夜0時20分、名古屋市内に、米軍爆撃機B29による26回目の空襲が行われた。この空襲によって、名古屋市街地のほとんどすべての区が被害にあった。この空襲による死者の数は519人、負傷者の数は734人、25734棟の家屋が焼失した。そして、この空襲によって、刑務所や中学校、女学校、百貨店、中区役所、昭和区役所、熱田区役所、東別院、熱田神宮や愛知県官舎などの施設が全焼した。

 この日、たまたま愛知県官舎で寝ていた愛知県庁内政部長の山田光太郎は、逃げ遅れて、犠牲者となった。71歳であった。しかし、山田内政部長が亡くなっても、愛知県内政部教学課所属史跡名勝保存主事小栗鉄次郎の退職届は、県庁内をまわり、鉄次郎の退職は、3月31日まで、本人に伏せられたままであった。

 昭和20年(1945年)3月19日深夜の午前2時、米軍爆撃機B29による名古屋市内への30回目の空襲が行われた。この空襲による死者は826人、負傷者は2728人、39893棟の家屋が焼失した。この空襲によって、高田派本願寺別院、那古野神社、護国神社、大須観音が全焼した。この日の空襲によって、名古屋市中区にあった東照宮社殿の国宝指定建造物や那古野神社の天然記念物、七寺の国宝指定の建造物や国宝指定の仏像などが焼失した。

 小栗鉄次郎は、昭和20年(1945年)3月20日、紺色のスーツに白いワイシャツを着て、青いネクタイを締め、黒い革靴を履いた格好で疎開先の自宅を出て、愛知県庁出勤前に、七寺、宝生院が焼け落ちた所を確認してから登庁した。そして、22日の午後には、茶色いスーツに淡いクリーム色のワイシャツを着て、こげ茶色のネクタイを締め、黒い革靴を履いて、那古野神社や東照宮などを見回り、国宝指定建造物が焼けおちているのを見届けた。鉄次郎の着ていたスーツは、灰や炭や土まみれになり、昔、大山廃寺跡の発掘調査をしたときのように、みるみる汚れていった。

 そして、そこから北の方面に向かって歩いていると、鉄次郎の目に、いつも鉄次郎がひいきにしていた本屋が焼け落ちている姿が映った。鉄次郎が焼け落ちた本屋の前でたたずんでいると、本屋の店主が、汚れた国民服姿で、自転車に乗って、鉄次郎の前に現れた。鉄次郎は、しばらく、時間を忘れて、本屋店主と話しこんだのであった。

 昭和20年(1945年)3月24日から25日にかけての深夜23時56分、米軍爆撃機B29による名古屋市内への31回目の空襲があった。この空襲は名古屋市内にある軍需工場を狙ったものだったが、この空襲による死者は1617人、負傷者は770人、7066棟の家屋が焼失した。この時は土曜日の深夜で、鉄次郎は、疎開先の愛知県西加茂郡石野村(現在の愛知県豊田市千鳥町)で、名古屋方面からの空襲による爆撃音を聞いて飛び起きた。爆撃音は、1時間半ほど続き、鉄次郎のいた疎開先の頭上を通過するB29のものすごい音が、しきりに鉄次郎の耳に入って来た。鉄次郎は、浴衣を着て、布団にくるまりながら、米軍爆撃機B29の通過音や名古屋方面から聞こえる爆撃音を聞いていた。

 鉄次郎は、県庁の状況について不安を覚え、翌日の25日、日曜日であったにもかかわらず、愛知県庁に登庁した。鉄次郎は、22日の日に汚した茶色いスーツに淡いクリーム色のワイシャツを着て、こげ茶色のネクタイを締め、22日の日に汚した黒い革靴を履いて、疎開先から、電車で名古屋の金山駅に到着した。すると、鉄次郎の頭上に米軍爆撃機B29が1機、西南方向より東北方向に飛んでいくのが見えた。

 そして、鉄次郎は、歩いて愛知県庁まで向かった。歩いて県庁まで向かう途中、鉄次郎は、松坂屋百貨店の建物が爆風で大破しているのを見た。鉄次郎が県庁に到着すると、愛知県庁舎は、窓ガラスが数枚割れていたが、無事にそこに建っていた。そして、鉄次郎は、名古屋城も無事であったことを聞き、胸をなでおろしたのであった。

 そして、この日、名古屋市役所は、やっと、重い腰を上げ、名古屋城の屋根の上にあった2個の金の鯱を取り降ろして、地下に埋め、本丸御殿の中にある国宝の障壁画や天井画を、名古屋城西北部にある乃木倉庫や櫓に移動させることを決めたのであった。そして、名古屋城本丸御殿の中にある国宝の障壁画や天井画の乃木倉庫や櫓への移動について、鉄次郎は、一切、関与しなかった。

 昭和20年(1945年)3月27日、愛知県庁内政部教学課の中に一人の軍人が入って来た。その軍人は、肩に勲章をたくさんつけた白い軍服を着て、左脇には、白い軍帽を挟んで、教学課の入口に立っていた。海軍主計大尉斉藤啓輔である。史跡名勝保存主事の小栗鉄次郎は、この日、初めて、海軍主計大尉斉藤啓輔を見た。海軍主計大尉斉藤啓輔は、教学課の入り口から、こげ茶色のスーツに薄いクリーム色のワイシャツを着て、えんじ色のネクタイを締め、机の前に座っていた史跡名勝保存主事小栗鉄次郎の席の横までつかつかと歩み寄ると、鉄次郎に向かって、敬礼し、

 「大津橋から愛知県庁人事部までの間に防空施設を作りたいのだが、どのような書類を書けばよいのか?」

 と、聞いた。鉄次郎は、初めて会う立派な人に、突然、このようなことを聞かれ、一瞬とまどったが、しばらくして、心の中を立て直して、素直に応じた。鉄次郎は、海軍主計大尉斉藤啓輔に、名古屋城の防空施設を作るときに使った書類を示して、書式を印刷した紙を渡した。海軍主計大尉斉藤啓輔は、その紙を受け取ると、

 「ありがとうございました。」

 と言って、再び、鉄次郎に敬礼し、鉄次郎に背を向けて、教学課を出て行った。

 昭和20年(1945年)3月30日から31日にかけての深夜、米軍爆撃機B29による名古屋市内への32回目の空襲があり、千種区、東区、昭和区にある軍需工場が狙われた。この空襲による死者は29人、負傷者は9人、185棟の家屋が焼失した。

 そして、3月31日の朝になって、鉄次郎は、紺色のスーツに白いワイシャツを着て、青色のネクタイを締め、黒い革靴を履いて、愛知県庁に出勤した。鉄次郎がいつものように教学課にある自分の席に座っていると、国民服姿の教学課総務の高須君が、鉄次郎の横に来て、

 「小栗さんには、3月31日付で、退職辞令が出ます。」

 と告げた。

 鉄次郎は、正直、驚いた。鉄次郎が教学課課長に退職届を提出した時には、課長は自分をかなり引き留めていたので、退職できるのは、まだまだ先の話だと鉄次郎は思っていた。鉄次郎は、自分から「今月いっぱいで退職する。」と課長に話していたにもかかわらず、突然、不意打ちをくらったように感じた。そして、鉄次郎は、心の中でこう考えた。

 「もしかしたら、名古屋市役所が名古屋城の国宝を本丸御殿から乃木倉庫や西北隅櫓に移動させたのも、私の退職の情報をつかんでいたからかもしれないな。そうだとしたら、逆に、これでよかったのだ。明日から、疎開先で農業にでも従事するか。」

 そして、鉄次郎は、その日一日は、退職のあいさつと、鉄次郎の机が置いてある教学課の部屋を出る準備で終わった。鉄次郎は、内政部教学課史跡名勝保存主事小栗鉄次郎の机の中に残されていた2〜3個の弥生式土器を、疎開先にある自宅に持ち帰るために、新聞紙に包み、かばんの中にしまいこんだ。そして、まず、秘書課の部屋に行き、在籍していた秘書課長に、今日で愛知県庁を退職する旨を話し、「今まで、お世話になりました。」と、頭を下げた。灰色のスーツに白いワイシャツを着て青いネクタイを締めた格好の秘書課長は、驚いて、こう言った。

 「何を言っているんですか。小栗さんのかわりを務めることができる人物は、内政部の中にはいないだろう。あなたは、これでよかったと思うかもしれないが、恐らく、県庁職員を辞めても、しばらくは、引き継ぎのために、県庁に通うことになりますよ。」

 「わかっております。まずは、退職の挨拶まで。」

 そして、鉄次郎は、もう一度秘書課長に頭を下げると、秘書課の部屋を出て、隣にある地方課の部屋に向かった。地方課の田中軍次課長は、国民服姿で、課長の席に座っていた。そして、田中課長は、部屋に入ってくる鉄次郎の姿を確認すると、おもむろに立ちあがって、鉄次郎に握手を求めた。鉄次郎も田中課長の握手に応じ、

 「今まで、ありがとうございました。」

 と言うと、田中課長は鉄次郎にこう言った。

 「山田内政部長が空襲で亡くなられてから、私は、意気消沈してしまいましてね。私も今年で65歳になる。小栗さんの次に愛知県庁を退職するのは、私でしょう。」

 鉄次郎は、黙って、田中課長に頭を下げると、田中課長に背を向けて、地方課の部屋を出た。

 そして、地方課の部屋を出て、教学課に帰ろうと廊下を歩いていると、廊下の曲がり角で、向こう側から歩いてきた愛知県警特別高等課の渡辺周五郎と中村佐吉にばったり出会った。渡辺周五郎は、紺色のスーツに白いワイシャツを着て、青いネクタイを締め、丸いめがねをかけて、黒い革靴を履いていた。中村佐吉は、こげ茶色のスーツに淡いクリーム色のワイシャツを着て、からし色のネクタイを締め、こげ茶色の革靴を履いていた。鉄次郎は、渡辺と中村に軽く会釈をすると、そのまま、教学課の部屋に向かって歩きだした。渡辺と中村も、鉄次郎に会釈をし、まっすぐ、廊下を進んで行った。そして、鉄次郎は、すれ違いざまに、渡辺の耳元でこう囁いた。

 「おい、この世の中で、永久不滅なものなんて何一つないんだよ。栄えるものは必ず滅びるというのが、世の中の常なんだよ。昔から、日本の権力者は、必ず滅びたから、歴史が動いてきたんだ。今後、お前がどういう人生を送って行くのか、全くわからんぞ。」

 この言葉に、渡辺は、思わず、鉄次郎の方を振り返った。しかし、鉄次郎は、渡辺と中村の方を振り返ることなく、教学課の部屋に入って行った。

 鉄次郎は、教学課の部屋に戻ってくると、まず、国民服を着た、部下の伊奈森太郎に声をかけて、2人で空いている会議室に入って行った。そして、2人は向き合って席に座ると、鉄次郎は、伊奈に低い声でこう話した。

 「伊奈君には、これから、私が今まで史跡名勝保存主事としてやってきた仕事を引き継いでもらう。大丈夫。私は、これからも時々、引き継ぎのために愛知県庁に出勤するつもりだから。そして、私が退職届を教学課長に提出した際、退職後の私を嘱託として、調査委員に残してもらうように、課長にお願いした。恐らく、近い将来には、私は、嘱託の調査委員として、また、教学課に戻ってくることになるだろう。

 ところで、最初に伊奈君に引き継いでおく仕事は、文部省国宝監査官丸尾彰三郎氏と私との連絡係だ。私が退職した後は、文部省の丸尾氏からの連絡は、全て、伊奈君に通すことを丸尾氏は了承済みだ。これから話すことは、極秘事項なので、伊奈君もそこの所は、外部に漏らさないように注意してくれたまえ。

 今の愛知県史跡名勝保存主事の課題は、国宝に指定されている名古屋城本丸御殿の障壁画と天井画を、移動先の西北隅櫓や乃木倉庫から、猿投村にある灰宝神社国宝収蔵庫に移す事だ。明日から、文部省の丸尾監査官から私への連絡は、全て、伊奈君の所に行くようになっているから、文部省の丸尾氏から何か連絡が入ったら、何とかして、疎開先の私の自宅に連絡を入れてほしい。私が引き継ぎの時に愛知県庁にいるときは、私に直接話してくれればいい。」

 鉄次郎がこう言うと、部下の伊奈森太郎は、真剣な面持ちで、こう言った。

 「わかりました。それでは、小栗さんの疎開先の住所と電話があれば電話番号を私に教えてもらえますか?そして、私の連絡先も小栗さんに教えますから。」
 そして、小栗と伊奈は、お互いの連絡先を交換して、2人同時に会議室を出た。

 それから、鉄次郎は、国民服姿の教学課課長に退職のあいさつをし、黒いコートをはおって、鉄次郎の机の中に入れてあった数個の弥生式土器を入れた鞄を持って、愛知県庁を後にした。教学課課長は、鉄次郎が愛知県庁を去る時、鉄次郎にこう言った。

 「辞令は、今日から1週間後くらいまでにはできていますので、小栗さんは、1週間後くらいに辞令を受け取りに県庁に来てください。」

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