十七 新しい寺を造る

 平氏が滅亡した壇ノ浦の戦いが終わり、後白河法皇の「日本を一つの平和な国家にする」という決意には、並々ならぬものがあった。後白河法皇のそのような決意の表れとして、法皇は、平家一族によって焼き払われた東大寺の再建に力を入れていた。そして、後白河法皇が自らの手で、東大寺大仏開眼供養を終えた頃、源義経が後白河法皇のもとを訪れた。

 「義経が、「天皇の三種の神器の一つである宝剣と安徳天皇らは海の藻屑と消え、見つかりませんでした。」と報告してきたから、天皇の宝剣を新しく作り、安徳天皇ら源平合戦で亡くなった平氏一族を弔う寺院を建設中である。義経の話に基づいて、「平家物語」という国家的プロジェクトも現在進行中である。ところが、天皇の宝剣が大久佐八幡宮に渡っていることや、安徳天皇や二位の尼が生きているかもしれないという情報を、八条院が掴んできた。それに、義経は、合戦の最中、同じ源氏の武将の梶原景時とは犬猿の仲だったらしいな。

 だから、源頼朝は、義経に対して、冷たい態度に出ているのではないか。今頃、私に何の用があるのだ?」

 後白河法皇は、心の中でこのように呟きながら、源義経と接見した。源義経は、後白河法皇に会うと、次のように言った。

 「私は、様々な戦いにおいて、平家一族を滅亡に導いた。勲功のある私に対して、兄である頼朝の冷たい態度は、あまりにも理不尽ではないか。

 どうして、兄頼朝は、私のことを「よくやった。」と評価しないのか。私の兄頼朝への恨みは大きい。

 後白河法皇には、ぜひ、「頼朝を討つべし。」という宣旨を出してもらいたい。」

 「はあ?」と後白河法皇は、心の中でつぶやいた。

 どうやら、義経は、天皇の宝剣が大久佐八幡宮に渡っていることや、安徳天皇や二位の尼が生きているかもしれないという情報を、掴んでいないらしい。しかし、今、後白河法皇が、これらの情報を義経に漏らしてしまえば、義経は、この情報をもとにして、頼朝に謀反を企て、そのことで、日本がまた内戦に突入してしまうことになるかもしれなかった。

 そこで、後白河法皇は義経に次のように答えた。

 「今、平氏が滅亡したことで、鎌倉にいる源頼朝の権力は増大し、多くの武士が頼朝の配下となっている。私の出す院宣など、頼朝の出すものに比べたら、今は何の効力もないのではないか。」

 後白河法皇は、義経をこのように説得したが、義経は、後白河法皇の説得を聞かず、頑として、後白河法皇の院宣を出せと言い張るのであった。

 「こいつ、子供みたいなやつだな・・・だから、頼朝は義経に冷たく当たるのだ。仕方がない。面倒くさいから、頼朝追討の院宣を出すか。あとは、頼朝の出方を待とう。」

 後白河法皇は、心の中でこうつぶやいて、しぶしぶ、「頼朝追討」の院宣を出した。

 そして、「頼朝追討」の院宣は、頼朝のいる鎌倉にも届いた。この院宣を見て、頼朝は首をかしげた。

 「この院宣は何だ?後白河法皇の真意は何だろう?」

 「頼朝追討」の院宣を見た源頼朝は、鎌倉幕府の長官である大江広元に相談した。大江広元は、次のように答えた。

 「義経だけでなく、これから、鎌倉幕府に反逆してくる者はどんどん出てくるでしょう。反乱が、鎌倉から近い所で起きているうちはいいですが、遠くの地方で、鎌倉幕府に対する反乱が起きますと、反乱が起きるたびに、関東から武士を派遣しなくてはなりません。遠い所に武士を派遣することは、関東の武士個人にとっても負担の大きいことですし、幕府の財政にも響きます。ですから、美濃国、尾張国などの国や荘園ごとに守護(現在でいう都道府県警察)や地頭(年貢の取り立てや土地の管理や警察の仕事)を任命して、置いていくというのはどうでしょう。」

 源頼朝は、大江広元のこの案をすぐに実行に移した。そして、義経を鎌倉幕府の反逆者とみなし、平和な日本を再び内乱に陥れる者として、後白河法皇に、「義経を討つべし」という院宣を出すように要請した。後白河法皇は、すぐに、「義経追討」の院宣を出した。壇ノ浦合戦が終わって1年後の1186年(文治2年)のことであった。この時、「義経追討」の院宣に従って、義経追討軍を任されたのは、頼朝の妻となった北条政子の父である北条時政である。

 義経は、九州へ奈良へと全国各地を逃げ回り、最後は、奥州平泉(岩手県)の藤原氏のもとに身を寄せた。しかし、1187年(文治3年)、義経が奥州平泉(岩手県)の藤原氏のもとに身を寄せていることが頼朝に知れると、頼朝は、義経追討の院宣を奥州平泉(岩手県)の藤原氏のもとに送った。奥州平泉(岩手県)の藤原氏は、しぶしぶ、匿っていた義経を襲い、この時、源義経は自害した。

 源義経が亡くなっても、頼朝が追撃の手を緩めることは決してなかった。頼朝にとって、この戦いは、義経の命というよりは、自分たちの味方をして働いてくれた者には、手厚い保護を与え、自分たちを敵に回して、国を二分する内乱を起こそうとする者は、徹底的に排除するという頼朝の政治姿勢を世間に知らしめることを目的とした。そのために、守護・地頭を地方の国や荘園に設置し、今回、源義経を匿い、逃亡を手助けした者は、この世から排除した。1187年(文治3年)、源頼朝は、奥州藤原氏を討ちとって、奥州征伐を果たした。日本の歴史上、頼朝による奥州征伐をもって、日本の内乱である源平合戦は終止符が打たれたとされている。頼朝による奥州征伐の後、日本において、鎌倉幕府という1つの強力な政権のもと、鎌倉時代が始まる。これは、1867年に江戸幕府が滅びるまでの680年間に及ぶ武士の世の中の始まりであった。

 そして、注目すべきことは、源頼朝は、奥州征伐をして、奥州藤原氏を滅ぼしたけれども、中尊寺・毛越寺などの寺院には感銘を受け、手厚く保護したことだ。源頼朝は、寺院を一山まるごと焼き払った比叡山の僧兵たちや、奈良の街に火を放ち、東大寺や興福寺を焼いてしまった平氏一族のようなことはしなかった。

 1192年(建久3年)、日本の中世の扉を開いた男と言われる後白河法皇が崩御した。後白河法皇の崩御の後、源頼朝は、征夷大将軍に任じられた。1192年(建久3年)の源頼朝征夷大将軍就任によって、鎌倉時代が始まったとする説が日本においては一般的である。

 しかし、源頼朝征夷大将軍就任から7年後の1199年(正治元年)、源頼朝は、突然、53歳で亡くなってしまう。頼朝の死因について、源氏と平家の争いから鎌倉幕府の成立、北条氏の執権政治のころまでの87年間を日記風に記述した「吾妻鏡」は、何も記していない。いや、頼朝の死の前後の日にちの記述が、「吾妻鏡」からごっそり抜け落ちているのだ。誰かが何かの目的で、故意に「吾妻鏡」から頼朝の死を削除したのだろうか?それとも、長い日本の歴史の中で、偶然に紛失してしまったのだろうか?

 頼朝の死因は、落馬のせいであるとか、北条氏による暗殺であるとか、様々な説が飛び交っている。しかし、680年間に及ぶ武士の世の中を始めた源頼朝の死因は、現在もなお、日本の歴史の謎の一つである。

 しかし、自分たちの味方をして働いてくれた者には、手厚い保護を与え、自分たちを敵に回して、国を二分する内乱を起こそうとする者は、徹底的に排除するという頼朝の政治姿勢であるとか、諸国や荘園における守護・地頭の設置制度などの源頼朝の国家運営のやり方は、そのまま、北条氏(頼朝の妻政子の実家)に引き継がれた。従って、頼朝が亡くなり、北条氏の執権政治が始まっても、比叡山延暦寺の僧侶である慈円は、「新しく造る寺には、僧兵や武器を置いてはならない。」とする頼朝の考え方を守って、新しい大山寺の青写真を描いていた。

 「亡くなった頼朝様の言葉通り、「新しい大山寺は、僧兵や武器は持たない」という意志を表すために、新しい大山寺本堂は、大山寺が比叡山僧兵によって焼き払われる前には武器を生産していた製鉄所を全て埋めて、その上に建てることにしよう。そうすると、製鉄所や武器庫を全て埋める大きさの本堂だから、7間×7間(21m×21m)の大きさだろう。この大きさの本堂を建てるには、児神社社殿の前の土地を全て埋めた上で、更に、この土地の東側と南側を拡張する必要があるな。

 とりあえず、現在ある寄付金でできる工事は、昔の製鉄所や武器庫を埋めるために、児神社社殿の前の土地を全て埋めて、更にこの土地の東側と南側を拡張する造成工事までだな。あと、土地を埋めて更地にしたら、本堂の礎石を置いていくが、それは、また、寄付金が集まってからにしよう。

 それから、鉄鉱石の鉱山と鉄穴流しは、あのままにしておこう。地元の人が、自分たちの農機具を作るために砂鉄を採集するかもしれないからな。しかし、もし、寄付が更に集まったら、鉄鉱石の鉱山と鉄穴流しの東側一帯に、僧侶たちが生活する坊を建てたいな。

 あと、大山不動の向こうにある、比叡山僧兵に焼き払われた昔の本堂跡は、焼け残った仏像も含めて、あのままにしておこう。僧兵の恐ろしさ、平和の尊さを後世の人に伝えていくためには、あのような荒れ果てた場所も必要だろう。

 それでは、まず、児神社社殿前の造成工事からとりかかるぞ。人の手配をしなくては。寄付は引き続き集め続けなければな。若い修行僧の彗暁にこれらの手配をさせよう。」

 天台座主の仕事や国家的プロジェクト「平家物語」の仕事など、亡くなった頼朝からの信頼も厚く、亡くなった頼朝からいろいろな仕事を頼まれていた慈円は、新しい大山寺を造る仕事を、まだ若い修行僧の彗暁に指示していた。

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