十七 大山峰正福寺

 最澄が大山を去ってから、320年以上が経過した永久元年(1113年)、京都の東部に白河法皇が建てた法勝寺で、「玄海上人」と呼ばれる位の高い僧侶が、白河法皇からの使いの者と密談を交わしていた。「わが心にかなわぬものは、賀茂川の水、双六の賽、山法師」と言って嘆いたという話で有名な通り、国の最高権力者である白河法皇にとって、今、早急に解決すべき国難は、災害対策と国の治安問題であった。特に、「山法師」と呼ばれ、民衆に恐れられている比叡山延暦寺の僧兵対策は、国の治安問題を左右する重大事案であった。

 最澄が延暦4年(785年)に大山に修業にやってきた3年後、延暦7年(788年)に、最澄は、滋賀と京都の間にある比叡山の中に「一乗止観院」という小さな寺を建てた。そして、16年間、最澄は一乗止観院にこもって、一乗止観院の運営を軌道に乗せようと努力していた。そして、この16年間、最澄の心の中には、大山に修業に行った時に思い描いていた「五重塔の瓦やキノコのトンネルを造った帰化人たちを生んだ朝鮮半島や中国大陸とは、どのような場所なんだろう。一度行って見てみなければ、私の修業は終わらない気がする。」という思いがくすぶり続けていた。

 延暦23年(804年)、桓武天皇から国費留学の援助を受けることができた最澄は、空海らと共に、中国の唐に渡る。最澄は、37歳にしてようやく、19歳から20年近く夢を見てきた唐への留学を実現したのであった。そして、最澄は、中国の天台山に赴いて、天台教学を学び、典籍の書写をし、禅の教えを学び、密教の伝法を受けた。これが、現在の日本における天台宗の基礎となる。

 延暦24年(805年)、最澄は、1年間の中国留学から帰国すると、すぐに、中国で学んだ仏教の教えを日本の学僧たちに伝授した。最澄は、「全ての人は仏になれる。」と説き、それまで特権階級にしか認められていなかった僧侶という職業を一般の人々に開放した。そして、「全ての人は仏になれる。」という教えを忠実に再現するために、一乗止観院を僧侶の人材養成機関とした。

 そして、最澄は、弘仁13年(822年)に56歳でこの世を去った。嵯峨天皇は、当時、「比叡山寺」と呼ばれていた一乗止観院に「延暦寺」という寺号を与えた。そして、比叡山延暦寺には、貧しい者も富める者も、天台宗の教えに共感した者たちは誰でも、集まるようになる。だから、比叡山延暦寺は、後に鎌倉仏教を開くことになる法然や親鸞などの優秀な僧侶を輩出することができたのだ。しかし、最澄がこの世を去った弘仁13年(822年)から玄海上人が大山の歴史上に登場する永久元年(1113年)までの290年以上の間に、日本は、その様子を大きく変えることになる。

 最澄がこの世を去った弘仁13年(822年)から玄海上人が大山の歴史上に登場する永久元年(1113年)までの290年以上の間というのが、ほとんどの私たち日本人がイメージする「平安時代」という時代の姿だ。私たちの思い描く「平安時代」とは、ひな祭り人形に見られるような平安貴族が、女性ならば十二単というきらびやかな衣装を着て、男性ならば、頭に冠をかぶり、手に笏を持った束帯姿で、歌を詠み、囲碁をするというイメージだ。しかし、そのようなイメージは、平安京に住む一部の貴族の生活である。その平安京の一部の貴族というのが、藤原氏とその周囲にいる者たちのことである。私たち日本人が、平安時代に対して抱いているイメージは、ちょうど、外国人が、秋葉原や原宿に集まる若者を見て、「これが日本人だ。」と思うのと同じだ。

 最澄が亡くなった頃、地方では、農民の逃亡や戸籍の偽りが増えた。戸籍が信用できなくなると、農民から治められていた税は、減ることとなる。745年に行われた大化の改新によって制定された律令国家は、完全に機能しなくなった。それで、税金が減った貴族が考え出したのが、荘園という制度である。土地を開墾した農民は、自分たちが開墾した土地を守るために、貴族や寺社に土地を寄進する。土地を寄進された貴族や寺社は、農民から年貢をもらう代わりに、農民の土地を守る。そして、有力な貴族や寺社には次々と荘園が集まった。

 最澄が亡くなってから20年後、平安京では、藤原氏が実権を握った。藤原一族が、天皇の摂政や関白になって、政治の実権を握ると、荘園は、次々と藤原氏の下に集まった。その後、日本は、中国の唐と国交を断絶した。そして、鎖国状態になった日本には、国風文化という日本独特の文化が生まれた。ひらがなが使われ始め、古今和歌集や枕草子、源氏物語といった文学作品が生まれる。これが、現在の私たち日本人が平安時代という時代を語るときに思い描くイメージだ。

 そして、藤原氏が平安京で、このような文化を花開かせている間に、地方では次々と反乱が起きていた。地方の治安の悪化は、武士団の形成を招き、武士団の中には、荘園領主や国家機構に対して反抗の行動を起こす者たちが現れ始めた。藤原一族は、平安京で栄華を極め過ぎた。藤原摂関家が主要な官職を独占したおかげで、摂関家以外の貴族は、地方に国司として下り、地方において荘園を増大させて、地方の武士団と手を結ぶようになった。そして、藤原氏を始めとする中央政府も、自分たちの荘園を守るために武士団と手を結び始めた。

 これと同じことが、有力寺社の中でも起こるようになる。藤原氏のもとに荘園が集まるように、有力寺社にも荘園は集まった。有力寺社は、地方や中央において集めた荘園を治安の悪化や度重なる紛争から守るために、僧兵を置いた。

 僧兵とは、有力寺社の中にいる武士団である。最澄が亡くなってから、比叡山延暦寺の中で、時代の流れと共に新しく出来上がっていった組織が、僧兵という組織である。この僧兵という組織は、平安時代末期になると、強大な武力集団となり、興福寺・延暦寺・園城寺・東大寺などの有力寺院を拠点にして、朝廷や藤原氏に対して、集団で訴えや要求を起こすようになる。有力寺社は、自分たちの荘園をそのようにして、守って行ったのであるが、僧兵たちは、荘園を守ることのみならず、寺社同士の勢力争いにも使われ、ライバル寺社の焼き討ちなどもしばしば起こるようになる。特に、興福寺の僧兵は衆徒、延暦寺の僧兵は山法師と呼ばれて、人々に恐れられていた。

 治歴4年(1068年)、後三条天皇が即位すると、藤原氏の勢力は衰え始める。後三条天皇の次代天皇である白河天皇は、藤原摂関家の内部崩壊と共に自分の権力を増大させ、やがて、孫の鳥羽天皇が幼くして天皇になると、白河上皇は、院政を敷いて、鳥羽天皇を補佐するようになった。

 そして、白河上皇は、熱心な仏教徒であったことから、法勝寺などの多くの寺院や仏像を造るようになり、自らは、頭を剃って、法皇となった後も、院政は続いた。白河法皇が「わが心にかなわぬものは、賀茂川の水、双六の賽、山法師」と言って嘆いたという言葉は、言いかえれば、「それ以外のものなら、私の意にかなわないものはない。」ということだ。白河法皇は、平安時代末期、それほどの権力を持ち合わせていたのであった。

 最澄が大山を去ってから、320年以上が経過した永久元年(1113年)、京都の東部に白河法皇が建てた法勝寺で、「玄海上人」と呼ばれる位の高い僧侶が、白河法皇からの使いの者と密談を交わしていた。玄海上人は、40歳代の健康な僧侶である。白河法皇の使いの者は、玄海上人の耳元で、小声でこう言った。

 「治天の君(白河法皇のこと)は、山法師(比叡山延暦寺の僧兵たち)による度重なる暴力行為に頭を悩ませている。彼らは、比叡山延暦寺がやることに対して反対の意見を持った者になら誰にでも、牙をむく。たとえそれが中央政府であってもだ。そして、最近、山法師の力は強大になりすぎて、中央政府が彼らの監視のために武士を雇っても、武士の力だけで山法師の力を抑え込むことは難しくなりつつある。

 しかし、山法師は比叡山延暦寺の利害関係によってのみ、行動を起こす集団だ。そして、比叡山延暦寺の規模が大きくなればなるほど、山法師の武力は増す。ということは、比叡山延暦寺の規模が縮小すれば、山法師の武力は減っていくということになるのではないか、と、治天の君は考えておられる。それで、治天の君は、玄海上人を抜擢し、比叡山延暦寺の規模を削ぐような、大きな寺を造らせたい、と考えている。」

 「そのような大きな寺を造ることができる土地がどこかにあるのですか?」

 玄海上人が白河法皇の使いの者にこう聞くと、使いの者は、更に、身を乗り出して、こう答えた。

 「実は、尾張の国の北東部にこの作戦を実行に移す事が出来る場所があるのです。」

 そう言って、使いの者は、玄海上人に、入鹿村の地下に、おびただしい数の仏像がある巨大な地下施設があることを話した。そして、その地下施設は、入鹿村の南側にある大山連峰といくつかのトンネルで結ばれており、大山連峰では、入鹿村の地下施設にある仏像を借りて、多くの修行僧が入れ替わり立ち替わり、大山で修業をしている、ということであった。

 「ああ、その話なら私の耳にも入っています。治天の君は、そこに、天台宗の末寺を造り、その末寺を成長させて、比叡山延暦寺に匹敵する寺にしたいと考えているのですね?」

 玄海上人が白河法皇の使いの者にこう言うと、使いの者は、

 「さずが、玄海上人ですね。察しが良い。」

 とうなずいた。

 「しかし、比叡山延暦寺は、最澄が建ててから、300年以上の時間をかけて、今の規模になっています。比叡山延暦寺に匹敵する寺が、私一代でできますかね?」

 玄海上人が使いの者に聞くと、使いの者は、こう答えた。

 「比叡山延暦寺があそこまで大きくなったのは、朝廷とのつながりが深かったからだ。今回のこの作戦について、治天の君は、玄海上人には協力を惜しまないと言っておられる。この仕事、受けていただけますね?」

 そして、玄海上人は、尾張の国に出向き、白河法皇の使いの者から聞いた通り、大山村から大山連峰に入り、大山からトンネルを通って、入鹿村の地下施設を見学した。その後、玄海上人は、比叡山延暦寺にも出向き、天台宗の末寺を造ることを報告し、延暦寺の支援も手に入れた。

 玄海上人の下で働く僧侶たちは、大勢、大山連峰に入り、大山連峰にたくさんの坊を造った。そして、比叡山延暦寺の支援も取り付けた玄海上人は、大山に入り、入鹿村の地下施設へと続くトンネルの入り口あたりに坊を造った。大山連峰の中に坊を造った玄海上人が、比叡山延暦寺に匹敵する寺を造るために最初にしたことは、一条院屋の買収だった。

 最澄が大山を去ってから、320年以上が経過した永久2年(1114年)、一条院屋を任されていたのは、25歳になる一条院平蔵だった。入鹿村の地下施設に続くトンネルを通り、一条院屋に来た玄海上人は、一条院平蔵にこう言った。

 「私たちは、これから、大山の山中に大きな天台宗の寺を建設するつもりだ。その寺は、一条院屋から正面トンネルを通って、出た所に本堂があり、山の中に何千もの坊を持つ巨大な山岳寺院となる。

 今まで、一条院屋は、毎年来るか来ないかわからない修行僧を相手に商売していたのだろうが、これからは、天台宗の寺の組織の一部となって、一条院屋の運営費用も、寺から毎月の金額が支払われることになる。これで、一条院屋の仕事で生計を立てている人々の生活も安定しますよ。新しくできる寺の名前は、「大山峰正福寺」となる予定です。」

 このように言う玄海上人に対して、一条院平蔵が、自分の身分はどのようになるのか尋ねると、玄海上人はこう言った。

 「私たちは、一条院屋さんに大山峰正福寺のシャンバラになってもらいたいのです。一条院平蔵さんには、大山峰正福寺の仏像の守役を頼みたい。大山峰正福寺にとっては、重要な役どころです。私のバックには、朝廷がついていますから、一条院平蔵さんの収入も安定しますよ。」

 つまり、玄海上人の話の内容は、次のようなものだった。

 玄海上人が大山の中に建てる「大山峰正福寺」という天台宗の寺は、最近都で問題になっている比叡山延暦寺の僧兵の力を削ぐことを目的に造られる山岳寺院だ。つまり、比叡山延暦寺と同等かそれ以上の大きさの天台宗の寺院を造って、比叡山延暦寺に集まる僧侶の目を大山峰正福寺にふりむかせ、比叡山延暦寺で僧兵になっていく僧侶の数を減らすことが玄海上人の目的なのだ。

 「そのためには、私の目的に気付いた比叡山延暦寺の僧兵たちが、勢力争いのために、大山峰正福寺に攻めてくることも踏まえた上で、寺の設計をしなくてはならない。」

 と、玄海上人は一条院平蔵に言った。つまり、比叡山延暦寺の僧兵が大山峰正福寺に攻めてきたときに、大山峰正福寺があっさりなくなってしまうような寺であっては、寺を造る意味がないのだ。そして、玄海上人は、こう言った。

 「寺という建物がなくなっても、仏像と僧侶がいれば、寺は、いつでも再建可能です。だから、一条院屋さんには、これから、大山峰正福寺の僧侶の避難場所となり、かつ、仏像の避難場所となってもらいたいのです。そして、このことは、比叡山延暦寺の僧兵たちには知られないようにしなければならない。私たちは、これから、一条院屋さんのことを「シャンバラ」と呼ぶことにします。一条院平蔵さんには、シャンバラの初代守人となってもらいます。」

 「シャンバラ」とは、チベット山岳仏教では、伝説上の秘密の仏教王国のことであり、「理想郷」という意味もある。チベットにおいては、その秘密の仏教王国は、中央アジアのどこかにあると考えられているが、玄海上人は、「シャンバラ」を入鹿村の地下に造ろうとしていた。

 3世紀に、敵対する邪馬台国に対する狗奴国の軍事機密基地として、入鹿村の地下に造られ、6世紀には、朝鮮半島や中国から渡ってきた帰化人によってその中に作られたおびただしい数の仏像は、12世紀になると、朝廷の脅威となっていた比叡山延暦寺の僧兵対策のために、朝廷によって使われることとなった。9世紀に天台宗を造り、比叡山延暦寺を造った最澄は、大山で修業をした体験談を弟子たちに話はしたが、弟子たちの中で、その話を後世に伝えることができた者は、比叡山延暦寺の中には残らなかった。滋賀県と京都府の間にある比叡山延暦寺自体は、様々な権力闘争の果てに生き残ってきた一部の僧侶たちによって、運営されていたのである。

 そして、比叡山延暦寺で生き残ってきた一部の僧侶たちは、比叡山延暦寺の中にいる僧兵たちによって命を狙われているというのが、12世紀の比叡山延暦寺の姿でもあった。そのような比叡山延暦寺の中にいる僧侶たちの心に、キノコのトンネルの話など、聞こえてくるはずはない。

 そのことを噂で耳にしていたからこそ、一条院平蔵は、玄海上人に協力する気になったのである。そして、玄海上人は、大山峰正福寺を「西の比叡山、東の大山寺」「大山三千坊」と世間に言われるまでの巨寺とした。

 玄海上人は、最澄が大山を去った頃、今から300年以上前に崩れて瓦礫と化した五重塔跡地から山を登って越えた所に、大山峰正福寺の本堂を建設した。そして、その本堂が建てられた場所は、シャンバラから続く正面トンネルの入り口に最も近い場所だった。玄海上人が建てた大山峰正福寺の本堂の様子は、次のようなものである。

 300年以上前に崩れて瓦礫と化した五重塔跡地の山際から山を登るように屋根のついた渡り廊下を造り、山の頂上から更に向こう側に下りる、屋根のついた渡り廊下を造る。崩れて瓦礫と化した五重塔跡地から渡り廊下がたどり着いた山の向こう側は、西側と南側と北側が山に囲まれており、山に囲まれたその土地の東側は、不動堂につながっていて、不動堂から、大山村に下りる不動坂がある。そして、渡り廊下がたどり着いた山の向こう側の土地の北側の山腹には、シャンバラへと続くトンネルの入り口が口をあけていた。玄海上人は、その場所の山腹を弓なりに削るなどして、100平方メートルくらいの平地を確保した。

 300年以上前に瓦礫と化した五重塔跡地の山の向こう側に、100平方メートル位の平地ができあがると、玄海上人は、シャンバラへと続くトンネルの入り口を覆い隠すように廻廊を造った。廻廊は、一辺が54.3mの長さの四角形を描く廊下で、廻廊の中に、本堂と五重塔と18の小堂を建てた、廻廊の真ん中には、21.7平方メートルの本堂が建設され、本堂の南側前に五重塔が建設された。そして、本堂の左右には、それぞれ、6平方メートルくらいの9つの堂が建設された。

 玄海上人が本堂を造るときに最も機密事項としたのは、シャンバラへと続くトンネルへの抜け道だ。シャンバラへと続くトンネルは、北側の廻廊に設置された扉を開けて出入りできるようになっており、本堂の北側には、隠し扉があって、何かあったときには、本堂の北側の隠し扉から出て、廻廊の扉を開けて、シャンバラへ続くトンネルに入れるようになっていた。そして、シャンバラへ続くトンネルの入り口には、鉄でできた防火扉のようなものを造り、後から追ってきた敵がトンネルの中に入れないようにした。

 玄海上人は、最澄が修業をしていた大山を去るときに、自分の造った粗末な庵や崩れかけた五重塔の周りにキノコを敷き詰めていったその精神を大事にしようとした。300年以上たって、瓦礫と化した五重塔跡地は、土地を掘れば古代瓦が出土し、大木が育った普通の山の中になっていた。玄海上人は、「山を守る」というスローガンを掲げて、大山峰正福寺を「大山三千坊」と言われるほどの巨寺とした。大山峰正福寺に来た僧侶たちは、全てを自給自足でまかない、それぞれの坊にはそれぞれの役割があった。シャンバラの中にあったおびただしい数の仏像は、それぞれの坊に運ばれ、シャンバラの中にあるキノコのトンネルと木以外のものは、全て外に出されていった。

 しかし、それから40年近くたつと、シャンバラには次々と仏像が運び込まれ、シャンバラは再び、おびただしい数の仏像で埋め尽くされることになる。その頃、玄海上人は、亡くなり、後を継いだ玄法上人が大山峰正福寺を仕切っていた。シャンバラの初代守人である一条院平蔵は、その頃、65歳位となっており、そろそろ、息子に2代目シャンバラ守人を継がなくてはいけなくなり始めていた。

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