十八 大山寺炎上

 「比叡山延暦寺の僧兵が攻めてくるかもしれない。僧侶の者は、皆、武器を扱えるように毎日訓練をしておくように。仏像は、全て、シャンバラに移し、代わりに仏像の絵を描くなどして、仏像代わりに坊においておくように。シャンバラには、稚児たちを優先に住まわせる。大人の僧侶は、当番制で、大山の坊に寝泊まりする。比叡山僧兵には、シャンバラの場所を知られないように、くれぐれも注意すること。」

 玄海上人が大山峰正福寺を造り上げている最中の永久5年(1117年)、鳥羽上皇はまだ天皇であり、白河法皇が進める白河院政は絶大な権力を誇っていた。この頃、鳥羽天皇は、白河法皇の養女である待賢門院を自分の妻とした。そして、白河法皇が崩御する6年前の保安4年(1123年)、鳥羽天皇は待賢門院との間にできた子供を崇徳天皇とし、鳥羽天皇は鳥羽上皇になった。しかし、この頃は、まだ、白河院政の権力は絶大なもので、鳥羽上皇は白河法皇の足元にも及ばなかった。そして、白河法皇のバックアップを受けて、比叡山延暦寺僧兵の力を削ぐために、玄海上人が大山峰正福寺を造り始めてから15年後の大治4年(1129年)、白河法皇が崩御した。すると、白河院政に代わって、鳥羽上皇が鳥羽院政をスタートさせた。白河法皇が崩御した時、大山峰正福寺の玄海上人は、50代半ばを過ぎていた。

 白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇は、美福門院を寵愛して、自分の妻とした。当然、白河法皇の養女であった待賢門院と鳥羽上皇は不和となる。一方、鳥羽院政は、白河院政とは異なり、瀬戸内海に出没する海賊に対して、平氏の兵力を頼りにした。平氏は、瀬戸内海の海賊を鎮圧して、西国武士と主従関係を作り上げ、西国において、武士団を成長させていった。そして、鳥羽上皇は、比叡山延暦寺僧兵に対しても、平氏の武力を頼った。鳥羽院政の下で、平氏という武士団は、どんどん成長していくのだった。

 白河院政と同様、鳥羽院政にとっても、比叡山延暦寺僧兵対策は、国の治安の重要課題であった。そして、白河法皇がバックアップをしていた大山峰正福寺については、鳥羽上皇もバックアップを継続した。そして、鳥羽上皇は、玄法上人を大山峰正福寺に送り込んだ。玄法上人は、大山峰正福寺に出向き、玄海上人に会うと、こう言った。

 「私は、もともと、美作国(岡山県東北部)の住人で、平判官近忠という名前の武士です。私は、武道を捨てて、仏道に志し、諸国を行脚していたところ、この大山峰正福寺にたどり着きました。ぜひ、私を玄海上人の弟子にしてください。」

 白河法皇が、比叡山延暦寺僧兵対策として大山峰正福寺を造るときに抜擢した人物は、白河法皇が造った法勝寺という寺で住職をしていた玄海上人だ。白河法皇は、比叡山延暦寺の僧兵問題を比叡山延暦寺という、余りにも大きくなりすぎた寺の問題として解決しようとしていた。しかし、鳥羽上皇は違った。鳥羽上皇は、比叡山延暦寺僧兵を力によって抑えようとしたのだった。鳥羽上皇にとって、武士団である平氏は、比叡山延暦寺僧兵に対する抑止力であったのだ。

 平判官近忠は、秀才で、天台宗の仏法もすぐに覚えた。60代になっていた玄海上人は、そろそろ、自分の体力に限界を感じていた。比叡山延暦寺僧兵の力を削ぐため、崩御した白河法皇からのバックアップによって、玄海上人が造り上げた大山峰正福寺は、「西の比叡山、東の大山寺」「大山三千坊」と世間から噂されるほどの巨寺になった。しかし、比叡山延暦寺僧兵は、相変わらず、京の都では恐れられている存在で、比叡山延暦寺僧兵に逆らう者には容赦なく武力を使って攻撃する恐ろしい団体であった。玄海上人は、平判官近忠に「玄法上人」という名前を授けて、髪を剃り、法衣を与えた。そして、玄法上人は、玄海上人亡き後、大山峰正福寺の経営をその手にゆだねられた。

 玄海上人は、最澄が修業をしていた大山を去るときに、自分の造った粗末な庵や崩れかけた五重塔の周りにキノコを敷き詰めていったその精神を大事にし、「山を守る。」というスローガンを掲げて大山峰正福寺を大きくしていった。一方、鳥羽上皇が大山峰正福寺に送りこんだ玄法上人は、博識で秀才であったため、近隣のお金持ちや地位のある人々は、その噂を聞きつけて、こぞって、自分の子息を大山峰正福寺に修業に出した。大山峰正福寺には、稚児(子供の僧)が多く集まり、かつてないほど、寺は隆盛を極めていた。比叡山延暦寺には僧兵がいて、自分たちの考え方に逆らう者には、容赦なく武力で鎮圧していたため、京の都の人々の間では、山法師と恐れられていたが、尾張の国の北東部にある大山峰正福寺にとっては、遠い世界の出来事のように感じられるほどであった。

 白河法皇が崩御し、鳥羽上皇が鳥羽院政をスタートさせてから10年以上が経過した後の永治元年(1142年)、鳥羽上皇は、待賢門院との間にできた子供であった崇徳天皇を上皇にして、美福門院との間にできた子供で、まだ若干2歳であった近衛天皇を即位させた。そして、3年後の久安元年(1145年)、待賢門院は、44歳で崩御した。

 そして、この頃、京の都では、鳥羽上皇による比叡山延暦寺僧兵対策として、平氏の兵力がますます重用されることとなり、平氏の中央政界進出は、ますます加速することになる。比叡山延暦寺僧兵にとって、平氏は、明らかに敵となっていた。比叡山延暦寺僧兵たちは、平氏を京の都から追放したかった。しかし、鳥羽上皇と平氏との関係は、なかなか崩せるものではなかった。比叡山延暦寺僧兵の行動が平氏に筒抜けなのではないかと思われるほど、平氏は強かった。

 玄法上人は、比叡山延暦寺僧兵対策として、鳥羽上皇が大山峰正福寺に送り込んだ平氏だ。当然、玄法上人の大事な任務の一つに、毎年、行事があるごとに、総本山である比叡山延暦寺に出向いて、僧兵の情報を収集することがあった。比叡山延暦寺には、門跡寺院と言って、皇室など朝廷出身者のみで構成されている寺院が存在し、門跡寺院からは、多くの天台座主が輩出されている。しかし、天台座主自体が比叡山延暦寺僧兵に命を狙われる事態となっては、門跡寺院に僧兵を抑える力を期待することはできないと、鳥羽上皇は考えていた。玄法上人は、そのような門跡寺院の僧侶たちとは違い、自分の身分を隠し、秘密裏に動く仕事を多く受け持った。

 「比叡山延暦寺の僧兵が攻めてくるかもしれない。僧侶の者は、皆、武器を扱えるように毎日訓練をしておくように。仏像は、全て、シャンバラに移し、代わりに仏像の絵を描くなどして、仏像代わりに坊においておくように。シャンバラには、稚児たちを優先に住まわせる。大人の僧侶は、当番制で、大山の坊に寝泊まりする。比叡山僧兵には、シャンバラの場所を知られないように、くれぐれも注意すること。」

 玄法上人は、毎年、行事があるたびごとに出向く比叡山延暦寺で、何となく、自分が誰かに監視されているような感覚があることに気付いていた。そして、玄法上人が比叡山延暦寺に出向くたびに、京都方面にある末寺の住職から、最近、平安京の都では、不審火が頻発しており、朝廷の役人は、盗賊に襲われることが怖くて、安心して御所から外に出ることができない状態にあることを聞いた。そして、最初は平安京の端っこの地域で起きていた不審火も、日を追うごとに、御所に近付いてきている、ということだった。

 だから、玄法上人は、比叡山延暦寺から大山峰正福寺に帰ってくると、非常事態宣言をしたのだった。玄法上人は、いつ、比叡山延暦寺僧兵が大山を攻めてきてもいいように、武器を造り、僧侶たちに武器の訓練をした。そして、玄法上人が最も力を入れたのは、シャンバラへの避難経路だった。本堂の北側には、隠し扉があって、何かあったときには、本堂の北側の隠し扉から出て、廻廊の扉を開けて、シャンバラへ続くトンネルに入れるようになっていた。玄法上人は、それとは別に、本堂の床下に地下道を掘って、シャンバラへと続くトンネルと直結した。

 玄法上人が比叡山延暦寺僧兵対策を進めていく中、その日は、突然、訪れた。仁平2年(1152年)3月15日、比叡山延暦寺僧兵たちが大山に押し寄せて、山に火を放ち、大山峰正福寺は、一山まるごと焼き払われた。2人の稚児と共に本堂にいた玄法上人は、松明を掲げて立ちはだかる延暦寺僧兵に向かって、

 「どうして、このようなことをするのか。」

 と問うた。延暦寺僧兵は、玄法上人に向かって、こう言い放った。

 「この間の行事でお前が比叡山延暦寺に来た時に、地方の洪水対策について、朝廷と延暦寺が決定したことに対して、文句を言ったからだ。我々は、寺の方針に逆らう者は、容赦なく切り倒す。」

 そう言うと、延暦寺僧兵は、持っていた松明の火を本堂に放った。この時、玄法上人は、初めて気が付いた。大山峰正福寺に僧兵が攻めてきたときに備えて、玄法上人が武器を作り、武器の使い方を僧侶たちに教え、本堂を要塞のように造り変えたということが、比叡山延暦寺僧兵を呼び寄せてしまったということを。それは、玄法上人が武士の出身であったからできた発想であった。そして、そのことは、鳥羽上皇が平氏を比叡山延暦寺僧兵の抑止力にしたということが招いた結果であった。

 そして、鳥羽院政から後白河院政までの過程で、日本における貴族政治は崩壊し、源氏と平家が日本を二分して争い、源氏という武士団が平氏という武士団を破って、鎌倉時代という安定した武家政権の時代が誕生していくということを玄法上人は知らなかった。

 玄法上人は、大山峰正福寺が比叡山延暦寺僧兵の手によって一山まるごと焼き払われた責任は、全て自分にあることを悟り、僧兵が放った火が自分の下に迫ってくる中、僧兵が去っていくのを見計らって、本堂の床下へと続く扉を開けた。そして、自分の傍にいた2人の稚児を本堂の床下にある地下道へと続く階段に入らせると、2人の稚児にこう言った。

 「大山峰正福寺が比叡山延暦寺僧兵によって焼き払われた責任は私にある。だから、2人は、これから、この地下道を通って、シャンバラまで行き、皆にこう伝えてほしい。大山峰正福寺は、武器を持って比叡山延暦寺僧兵と戦う備えをしたから、比叡山延暦寺僧兵たちの手によって、寺が放火されたのだと。」

 それから、玄法上人は、本堂の床下へと続く扉を締め、自分は、扉の上に座り込んだ。やがて、本堂には煙が充満し、玄法上人は、煙の中で意識を失った。大山峰正福寺の本堂は全て焼け落ち、大山峰正福寺は廃寺となった。

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