十八 終戦

 昭和20年(1945年)4月7日昼11時、米軍爆撃機B29による名古屋市内を狙った34回目の空襲があった。この空襲は、千種区、東区、北区、中川区、猪高村にある軍需工場を狙ったものだったが、この空襲による死者は302人、負傷者は133人、5191棟の家屋が焼失した。この空襲によって、軍需工場と大曽根駅は全壊した。

 昭和20年(1945年)3月31日に内政部教学課史跡名勝保存主事の仕事を退職した小栗鉄次郎は、昭和20年(1945年)4月7日の午前9時半頃、疎開先である鉄次郎の実家のある愛知県西加茂郡石野村(現在の愛知県豊田市千鳥町)を出て、電車に乗り、退職辞令をもらうために、愛知県庁に出勤した。この間の空襲跡地の視察の時に汚した茶色いスーツに黒い革靴を履いて、淡いクリーム色のワイシャツを着て、こげ茶色のネクタイを締め、鉄次郎が金山駅に下りると、同時に、空襲警報のサイレンが響き、「各方面より、敵機が名古屋に侵入する模様である。」との放送があった。鉄次郎は、急いで、近くに防空壕をみつけて、中に入った。防空壕の中には、老若男女、子供と、様々な人たちがいたが、鉄次郎のようにスーツを着ている者もいれば、国民服を着ている者もいれば、防空頭巾をかぶったモンペ姿の婦人や子供、ネクタイを締めていない長袖のワイシャツにズボンをはいて上着を着たカジュアルな服装の者、着物を着ている者など、それぞれ、様々な服装の人々が防空壕に入っていた。鉄次郎が防空壕から空をのぞくと、米軍爆撃機1機が東の方面に飛んで行くのが見えた。そして、鉄次郎は、防空壕を出て、金山駅から徒歩で、愛知県庁に向かった。

 鉄次郎が愛知県庁に到着した午前11時半頃、再び、空襲警報のサイレンが響いた。鉄次郎が空を見上げると、編隊を組んだ米軍爆撃機が十数編隊ほど、県庁の真上を通過し、東の方面、恐らく、大曽根付近にある軍需工場に爆弾を落とす所が見えた。しばらく、鉄次郎は、県庁内の安全と思われる所に避難し、爆弾を落とす音がしなくなって、米軍爆撃機が周辺に見えなくなった頃、教学課の部屋に入って行った。教学課の部屋に入っていくと、国民服姿の課長が席に座っていた。鉄次郎は、課長のもとに行き、

 「辞令を受け取りに来ました。」

 と言った。課長は、無言のまま、辞令を鉄次郎に渡した。

 そして、鉄次郎は、まだ、退職のあいさつを済ませていなかった愛知県庁内の知り合いの人々に退職のあいさつにまわり、最後に、自分の後任に指名した伊奈森太郎君に会った。国民服姿の伊奈君は、鉄次郎から引き継ぎの話を聞き、最初は、おとなしく聞いていたが、話の途中に、こう言った。

 「今日は、早く帰りたいので、引き継ぎは、また、別の日にお願いできませんか?」

 鉄次郎は、

 「わかった。また、都合のいい日を見つけて、連絡を頼む。その日に、引き継ぎに行くから。」

 と言って、午後3時頃県庁を出て、疎開先の実家に向かった。

 それから、1週間は、鉄次郎は、疎開先の実家の空いた土地で野菜を作ったり、自宅に持ち帰って来た弥生式土器などの考古資料を整理したり、まだ終わっていない考古資料の研究に没頭したり、忙しい日々を送っていた。そして、昭和20年(1945年)4月18日朝、疎開先にいた鉄次郎のもとに、1通の電報が届いた。

 「出県せよ。」

 鉄次郎は、この電報を読むと、すぐに、浴衣から紺色のスーツに着替えた。そして、白いワイシャツに黄色いネクタイを締めて、疎開先の実家に持ちこんでいた県庁所蔵の書籍3冊を鞄の中に詰め込むと、台所にいた妻の千鶴に一言、

 「ちょっと県庁に行ってくる。」

 と言ってから、紺色の革靴を履いて、家を出た。

 それから、鉄次郎は、疎開先の実家から電車に乗って、金山駅に降り立った。名古屋市内は、1週間ほど前の様子とは全然違って、いつもの平和な名古屋市内だった。ここのところ続いていた米軍爆撃機B29による名古屋市内空襲は、最近は、行われていないようだった。 鉄次郎は、県庁に着くと、自分の後任者である伊奈森太郎のもとを訪れた。「出県せよ。」との電報は、伊奈君からのものだったからだ。鉄次郎が、愛知県庁内の会議室を借りて、紺色のスーツに白いワイシャツを着て、青いネクタイを締めた伊奈森太郎氏に会うと、伊奈氏は、まず、鉄次郎にこう言った。

 「一昨日、文部省の丸尾国宝監査官から、教学課史跡名勝保存主事小栗鉄次郎様あてに、

 「国宝疎開の件について、小栗さんに会いに行く予定であったが、行けなくなった。」

 という内容の電報がありましたよ。文部省の丸尾監査官は、本当に小栗さんが退職できたのかどうか、知りたかったみたいで。私の方から、丸尾監査官には、小栗さんが県庁を退職して、今は、疎開先の実家にいることを伝えておきました。」

 鉄次郎は、伊奈氏からの話を聞いて、

 「ありがとう。現在、名古屋城の乃木倉庫や西北隅櫓におかれている障壁画を猿投村にある灰宝神社の県国宝収蔵庫に秘密裏に移す件は、伊奈君の協力なしではできないことなんだ。これからもよろしく頼む。」

 といって、伊奈森太郎氏に頭を下げた。伊奈氏は、真剣なまなざしで鉄次郎をみつめ、

 「わかりました。」

 と言った。そして、鉄次郎は、かばんの中から、持ってきた3冊の本を取り出すと、伊奈氏の前において、こう言った。

 「今日は、疎開先の実家に私が持ち込んでいたこの3冊の県庁所蔵の本を伊奈君に渡しに来たんだよ。この他にも、伊奈君に引き継いでおきたい書類や本があるから、これから、私についてきてもらえないかね。」

 そして、鉄次郎と伊奈森太郎は、会議室を出て、教学課を訪れ、鉄次郎は、戸棚の中においてあった書籍を伊奈氏に紹介した。その後、4階にあった教学課を出て、大理石貼りの階段を登って、6階の倉庫の中に入り、倉庫内にあった業務事務書類を引き継いだ。

 そして、この10日後の4月28日、鉄次郎は、灰宝神社の県国宝収蔵庫のことを引き継ぐため、灰宝神社の最寄りの駅で伊奈森太郎氏と待ち合わせた。灰宝神社の最寄り駅である越戸駅は、名鉄三河線にある駅で、知立駅から電車で30分ほどの所にある駅である。濃いグレーのスーツに白いワイシャツを着て、紺色のネクタイを締め、黒い革靴を履いた伊奈氏は、県庁から金山駅まで30分くらい市電に乗り、金山駅から名鉄本線に乗って、20分位で知立駅に着き、知立駅から名鉄三河線に乗り換えて30分かけて越戸駅にたどり着いた。つまり、伊奈氏は、県庁から1時間半位かけて、越戸駅に降り立ったのである。灰宝神社は、越戸駅から東の方面に歩いて8分位の所にあった。

 茶色いスーツに薄いクリーム色のワイシャツを着て、からし色のネクタイを締めて、黒い革靴を履いた小栗鉄次郎は、越戸駅入り口で、電車から下りてきた伊奈氏をみつけると、

 「ここまで御苦労さま。」

 と言って、伊奈氏を迎えた。伊奈氏は、

 「いいえ、このくらい何でもありません。早く、県の国宝収蔵庫に行きましょう。」

 と、鉄次郎に話しかけ、2人は、越戸駅から東の方面に歩いて行った。

 4月も終わり頃になると、桜は散ってしまって葉桜になっているが、道端には、たんぽぽなど様々な花が咲いて、気候も暖かく、散歩には絶好の日和となっていた。いつ、また、空襲が起こるか分からない名古屋市内とは、打って変わって、平和で、戦争をしていることなど忘れてしまいそうな雰囲気の中、越戸駅から歩く8分の間に、鉄次郎は、県の国宝収蔵庫を灰宝神社の宝庫にしたいきさつなどを伊奈氏に話した。そして、2人が灰宝神社に着くと、鉄次郎は、社務所に寄り、社務所にいた、水色の着物に紺色の袴をはき、黒い草履と白い足袋姿の氏子の後藤氏と、クリーム色の着物に茶色と白のストライプの入った袴をはき、茶色い草履と白い足袋姿の福岡氏に話して、県の国宝収蔵庫の鍵を開けてもらった。鉄次郎と伊奈氏は、2人で県の国宝収蔵庫の中に入ると、鉄次郎は、伊奈氏に、収蔵庫の中に疎開している愛知県の国宝について、一つずつ、説明をし始めた。そして、全ての説明が終わると、鉄次郎は、伊奈氏にこう言った。

 「これは、文部省の丸尾国宝監査官からの指示なのだが、近々、この収蔵庫に、今は乃木倉庫や西北隅櫓に移動している名古屋城本丸御殿の障壁画や天井画などの国宝を疎開させる予定だ。しかし、そのためには、この神社の県の国宝収蔵庫の中をもっと、整理しないといけない。今のこの状態で、こんなに手狭なのだ。棚を増やすなどして、名古屋城の障壁画や天井画が入るスペースを確保しないと。それは、私が、時々、ここに来て、やっておくから、伊奈君は、文部省の丸尾監査官からの指示を県庁で待っていてほしい。そして、丸尾監査官からの連絡が入ったら、速やかに、私に知らせてほしい。

 名古屋城障壁画の灰宝神社県国宝収蔵庫への疎開の仕事は、文部省の丸尾監査官と私と伊奈君が核となって行う仕事なのだ。そして、このことは、極秘事項なので、くれぐれも、マスコミなどに情報が漏れないよう、気を付けてほしい。」

 そして、鉄次郎と伊奈氏は、収蔵庫を出て、社務所に行き、そこにいた氏子の人々に、収蔵庫の鍵を閉めてもらうようにお願いした。灰宝神社の氏子の人々も、県の大事な国宝を預かっているという自負を持って、この仕事に取り組んでいた。

 昭和20年(1945年)5月14日、午前8時頃、鉄次郎は、疎開先の実家で、敵機来襲の警報サイレンを聞いた。それは、1カ月以上ぶりに聞いたサイレンであった。鉄次郎が浴衣姿で家の中から表に出ると、鉄次郎の家の上を400機余りの米軍爆撃機が通過していくのが見えた。そして、400機余りの米軍爆撃機は、西の方面から名古屋市内に入り、爆弾を落としながら、東や南の方面に通過していった。名古屋市内方面は、たくさんの黒い煙が天までなびき、そのために、太陽は、黒くかすみ、5月の朝なのに、日は暗かった。この日、米軍爆撃機B29による36回目の名古屋市内空襲があった。この空襲による死者は338人、負傷者は783人、21905棟の家屋が焼失した。そして、この日、名古屋城天守閣や本丸御殿、徳川園が焼失した。

 そして、その空襲から3日後の5月17日午前2時半、鉄次郎は、疎開先の実家で、米軍爆撃機が名古屋市内を通過しながら落とす爆弾の音で目が覚めた。夜中、鉄次郎が浴衣姿で実家の外に出て見ると、名古屋市内南部方面の空が真っ赤に燃えていた。これを見た鉄次郎は、名古屋市内南部方面で、大きな火災が起こっていることを想像した。この日、米軍爆撃機B29による37回目の名古屋市内空襲があった。この空襲による死者は505人、負傷者は1300人、23695棟の家屋が焼失した。そして、この日、熱田神宮の本殿が焼失した。

 昭和20年(1945年)5月23日、鉄次郎の疎開先である実家に、文部省国宝監査官丸尾彰三郎氏より、速達が届いた。

 「24日、越戸にある灰宝神社の氏子総代福岡氏の自宅にて、相談したいことがあるので、来てください。」

 翌日、鉄次郎は、グレーのスーツを着て、白いワイシャツに青いネクタイを締めて、黒い革靴を履き、朝8時に疎開先の実家を出た。そして、名鉄三河線西中金駅まで20分位歩き、西中金駅から電車に乗って、10分ほどの越戸駅で下りた。いつもなら、そのまま東の方面に歩いて灰宝神社に向かう所だが、今日の鉄次郎は、越戸駅から近くにある灰宝神社氏子総代の福岡氏の自宅に向かった。鉄次郎が朝の9時ちょっと前に福岡氏の自宅に到着すると、着物姿の福岡氏の奥様が出てきて、

 「実は、うちは、突然都合ができてしまって、丸尾さんは、原田区長の家に泊めてもらっています。原田区長の家に行ってください。」

 と言った。鉄次郎は、福岡氏の奥様の言うとおりに、原田区長の自宅に行くと、紺色のスーツに白いワイシャツを着て、青いネクタイを締めた丸尾氏がそこにいた。鉄次郎は、原田区長宅で文部省国宝監査官丸尾彰三郎氏に会うと、

 「どうも、御無沙汰しております。」

 と言った。すると、丸尾氏は、部屋に入って来た鉄次郎に、さっそく、こう話しを切りだした。

 「5月14日の名古屋市内空襲によって、名古屋城天守閣と本丸御殿が焼失したことは、小栗さんも新聞等の報道で御存じのことと思いますが、このとき、本丸御殿の障壁画や天井画の移動先であった乃木倉庫と西北隅櫓は焼失を免れたのです。従って、国宝である本丸御殿の障壁画や天井画は、焼けずに無事でした。本当によかった。これも、小栗さんが尽力してくれたおかげです。

 しかし、米軍爆撃機は、いつ、また、名古屋市内のどこに爆弾を落としに来るかわかりません。今回、運よく生き残った名古屋城の障壁画や天井画は、今度こそ、安全のために、灰宝神社の県国宝収蔵庫に移動させましょう。

 移動日は、今日から10日後の6月3日から5日にかけてがいいでしょう。この10日間で、小栗さんは、伊奈さんと協力して、障壁画などを移動させるトラックの手配や灰宝神社県国宝収蔵庫の中のスペースの確保、焼失を免れた116面の国宝指定障壁画以外に移動させるものの決定を行ってください。文部省の方から名古屋市役所に直接掛け合って、名古屋城乃木倉庫や西北隅櫓の鍵は、6月3日の日に開けてもらいます。」

 文部省の丸尾監査官の話を聞いて、鉄次郎は、丸尾氏にこう言った。

 「灰宝神社県国宝収蔵庫の中のスペースの確保や焼失を免れた116面の国宝指定障壁画以外に灰宝神社県国宝収蔵庫に移動させるものの決定は、既に、伊奈君と話し合って済んでいます。あとは、トラックの手配だけです。そして、6月3日の日まで、米軍爆撃機が再び名古屋城や県庁や市役所を狙わないことを祈るだけです。」

 鉄次郎と丸尾氏の話し合いは、夜7時頃まで続いた。そして、鉄次郎と丸尾氏が原田区長宅で夕食を御馳走になっている時、ネクタイを締めていない長袖の白いワイシャツに紺色のズボン姿の原田区長が自宅に帰ってきた。今回、運よく生き残った名古屋城の障壁画や天井画の灰宝神社県国宝収蔵庫への疎開の件は、灰宝神社にて県の国宝を守っている原田区長や灰宝神社の氏子の方々の協力なしではできない仕事である。鉄次郎と丸尾氏と原田区長は、名古屋城の障壁画や天井画の灰宝神社県国宝収蔵庫への疎開の件について、午後9時過ぎまで話し合っていた。そして、丸尾氏は原田区長宅にそのまま泊まり、鉄次郎は、午後10時9分越戸駅発西中金駅行きの電車に乗って、疎開先の実家に帰った。

 そして、4日後の昭和20年(1945年)5月28日、鉄次郎は、疎開先の実家を出て、名古屋に向かった。名古屋城の障壁画や天井画の灰宝神社県国宝収蔵庫への疎開のためのトラックの手配や焼失を免れた116面の国宝指定障壁画以外に灰宝神社県国宝収蔵庫に移動させるものの確認を伊奈氏とするためである。長袖の白いワイシャツに紺色のネクタイを締めて、濃いグレーのスーツの上着を左手に持って、黒い革靴を履いた小栗鉄次郎は、午前11時半頃、1カ月と10日ぶりに愛知県庁に着いた。

 そして、愛知県庁の中の教学課の部屋に入って行った鉄次郎は、自分がいたときよりも、教学課の部屋の中が清潔になっていることに驚いた。もはや、ここに、自分の足跡はない。5月14日以来、名古屋市内の県庁周辺には、まだ、空襲が行われていないことを知って、鉄次郎は、胸をなでおろした。そして、紺色のスーツに青いネクタイを締め、黒い革靴を履いた伊奈氏といろいろ話し合った鉄次郎は、最後にこう言った。

 「この部屋にある巻尺などの文房具や写真機なども一緒に灰宝神社の県国宝収蔵庫に運ぼう。それでは、6月3日の日、名古屋城乃木倉庫で会おう。」

 昭和20年(1945年)6月3日の朝、紺色のスーツに白いワイシャツを着て、青いネクタイを締め、黒い革靴を履いた文部省の丸尾彰三郎国宝監査官と、こげ茶色のスーツに白いワイシャツを着て、からし色のネクタイを締め、黒茶色の革靴を履いた小栗鉄次郎と、濃いグレーのスーツに薄青色のワイシャツを着て、紺色のネクタイを締め、黒い革靴を履いた愛知県教学課史跡名勝天然記念物保存主事伊奈森太郎は、名古屋城乃木倉庫の前にいた。名古屋城の天守閣も本丸御殿も、5月14日の空襲によって、焼け落ちて、黒い炭の大きな塊となっている中、焼け残った乃木倉庫は、濃い灰色の屋根瓦も、真っ白な壁も、真っ白なアーチで縁取りをした白い頑丈なアーチ型の入り口も、倉庫の内側が黒い分厚い鉄でできた二重扉もそのままの状態でそこに建っていた。そして、今まで鉄次郎を監視していた軍部や愛知県警特別高等課の人々は、鉄次郎が退職した直後から、鉄次郎の周囲からいなくなっていた。

 鉄次郎たちの後ろには、愛知県が指定したトラックが2台止まっていた。6月3日から5日にかけての3日間で、鉄次郎たちが灰宝神社県国宝収蔵庫へ疎開させたものは、5月14日の名古屋城への空襲による焼失を免れた116面の国宝指定障壁画と天守閣や本丸御殿などを撮影した写真原板、昭和7年から始められた名古屋城実測調査に基づいて制作された名古屋城実測図、そして、県庁教学課におかれてあった巻尺などの文房具や写真機などであった。そして、トラックに積み残された残りの障壁画など900余りのものは、名古屋市本庁舎の倉庫や名古屋城乃木倉庫や西北隅櫓などに置かれたままとなった。

 昭和20年(1945年)6月9日、米軍爆撃機B29による39回目の名古屋市内空襲があり、熱田区、港区、南区にある軍需工場が狙われた。この空襲による死者は2068人、負傷者は1944人、1843棟の家屋が焼失した。

 そして、昭和20年(1945年)6月13日、伊奈氏から疎開先の鉄次郎の実家に次のような手紙が送られてきた。

 「小栗さんは、愛知県史跡名勝天然記念物及び国宝に関する調査委員に任命されるようです。」

 その翌日、愛知県から、史跡名勝天然記念物及び国宝に関する調査委員委託の辞令が鉄次郎の疎開先の実家に送付されてきた。とりあえず、この人事は、鉄次郎が教学課課長に退職届を提出したときに出した鉄次郎の希望通りの人事となった。

 昭和20年(1945年)6月9日以降、6月26日、7月15日、7月24日、7月26日と、名古屋市内には米軍爆撃機B29による空襲が4回行われた。米軍爆撃機B29による43回目の名古屋市内空襲が行われた昭和20年(1945年)7月26日、アメリカ・イギリス・中国の3カ国は、ポツダム宣言を発表した。ポツダム宣言とは、1945年4月30日にドイツの最高指導者であるヒトラーが自殺し、5月に無条件降伏をしていたドイツの処分管理と共に、日本の戦争を主導した勢力の永久除去、それに伴う新しい秩序が日本に形成されるまでの間の日本における連合軍の占領、日本の主権の限定、日本軍の完全武装解除、戦争犯罪人の処罰、反民主主義勢力の除去、経済と産業の維持の保証と軍需産業の禁止を定めたものである。そして、日本を占領する連合軍は、これらの目標が達成できたときに日本から撤退するとして、日本に、無条件降伏か、日本壊滅かの即時決定を迫った。しかし、戦争を遂行していた日本政府は、このポツダム宣言を黙殺した。

 昭和20年(1945年)7月26日から3週間後の昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分、米軍爆撃機B29は、広島に原子爆弾を落とした。そして、その3日後の8月9日午前11時2分、米軍爆撃機B29は、今度は、長崎に原子爆弾を落とした。これらの原子爆弾は、その後5年間で30万人以上の死者を出し、37万人近くの被爆者を生んだ。

 昭和20年(1945年)8月10日から13日にかけて、日本政府は、ポツダム宣言を受け入れることについて、アメリカ政府と何度か通信をやり取りした。当時の日本政府は、ポツダム宣言を受け入れるにあたって、天皇制を日本に残してもらうよう、アメリカ政府に要請していたのであった。そして、アメリカ政府との何度かの通信のやり取りの後、昭和20年(1945年)8月14日、日本政府は、ポツダム宣言を受け入れることを決定し、天皇による終戦の詔勅が発せられた。

 昭和20年(1945年)8月15日正午、天皇による玉音放送がラジオから流され、日本は、ポツダム宣言を受け入れ、連合軍に降伏することを決定したことが日本国民に知らされたのであった。

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