十八 寺を支えた者たち

 まだ若い修行僧の彗暁は、慈円から、新しい大山寺を造るための造成工事と、引き続き寄付金を集めることを指示されると、さっそく、比叡山延暦寺の修行僧の中から仲間を募り、尾張の国に向かった。

 実は、彗暁は、尾張の国の出身で、彗暁の祖父は、比叡山僧兵に焼き払われた当時の大山寺で修行僧をしていた星海で、祖母は、多治見の陶磁職人の娘の福寿女だった。祖父も祖母も亡くなって、もうこの世にはいない。しかし、彗暁は、まだ幼いころ、祖母から、比叡山僧兵に焼き払われた大山寺の話を聞いていた。そして、焼き払われた大山寺の地元の人々は、大山寺の再興を日々願っているという話も聞いていた。

 そして、彗暁は、成人してから、自ら、比叡山延暦寺の門をたたいた。自分を比叡山延暦寺の修行僧にしてくれたのは、慈円であり、彗暁は、比叡山延暦寺に入ってからずっと、慈円の弟子として、過ごしてきた。慈円は、そんな彗暁を知っていたから、今回の大山寺再興の件を彗暁にやらせてみたのであった。

 彗暁が仲間の修行僧とともに尾張の国に行き、新しい大山寺を造るために奔走していた頃、都では、承久の乱という、鎌倉幕府に対する後鳥羽上皇による反乱が起きていた。1221年(承久3年)のことである。

 後鳥羽上皇は、壇ノ浦合戦で海の藻屑と消えた天皇の宝剣の事件について知っている、最後の生き残りだった。後白河法皇も源頼朝も八条院も、後鳥羽上皇による承久の乱の頃は、全員、この世からいなくなっていた。

 後鳥羽上皇が天皇に即位したのは、平氏一族が、安徳天皇と天皇の三種の神器を持って、京都から西国に逃亡した1183年(寿永2年)だった。この時、後鳥羽天皇は、若干、3歳であった。安徳天皇ら平家一族が、天皇の三種の神器を持って西国に逃げたため、後鳥羽天皇の即位式では、天皇の三種の神器の受け渡しはなく、後白河法皇の院宣によって、即位式は実施された。

 「天皇の三種の神器のひとつである宝剣は、源義経率いる源氏軍からの報告によると、壇ノ浦で紛失したらしいので、天皇の宝剣を作る技術を持った職人に頼んで、新しい宝剣を作ってもらった。」

 と、崩御した後白河法皇は、亡くなった八条院にそう説明していた。

 後白河法皇は、新しく作られた天皇の宝剣を後鳥羽上皇に渡したと筆者は考える。しかし、後白河法皇は、壇ノ浦合戦で、天皇の宝剣が紛失してからすぐに、新しい天皇の宝剣を作って、当時の後鳥羽天皇に渡していたわけではなかった。

 話は変わって、伊勢神宮には、飛鳥時代(7世紀頃)の天武天皇の頃より、式年遷宮という行事が制度化されていた。伊勢神宮では、原則として、20年ごとに、内宮・外宮の正殿を始めとする諸神社の神殿を新しく造り替え、それに合わせて、装束・神宝・宇治橋なども新しく造り替えられる。20年に1度、全てのものをリニューアルするという伊勢神宮のこの制度のことを「式年遷宮」という。

 尾張の大山寺が比叡山僧兵の焼き討ちにあって、一山まるごと焼き払われた1152年(仁平2年)の9月には、近衛天皇のもと、第25回内宮式年遷宮が行われた。(外宮式年遷宮は、内宮の2年後に行われる。即ち、第25回外宮式年遷宮は、1154年(久寿元年)の9月に近衛天皇のもとで行われた。)

 第26回内宮式年遷宮は、第25回内宮式年遷宮から19年後の1171年(承安元年)に高倉天皇のもとで行われた。第25回外宮式年遷宮は、2年後の1173年(承安3年)に高倉天皇のもとで行われた。平清盛が太政大臣になって日宋貿易が始まり、平氏政権が強かった頃のことである。

 そして、第27回内宮式年遷宮は、第26回内宮式年遷宮から19年後の1190年(建久元年)9月に後鳥羽天皇のもとで行われた。第27回外宮式年遷宮は、2年後の1192年(建久3年)9月に後鳥羽天皇のもとで行われた。平氏が滅亡し、源義経と奥州藤原氏が滅んで、鎌倉幕府が始まり、源頼朝が征夷大将軍になった頃だ。

 ところで、第1回内宮式年遷宮から2年後に第1回外宮式年遷宮を行うという制度は、14世紀中頃(室町幕府の成立)までは、きちっと行われていたようである。その後、15世紀から16世紀にかけては(群雄割拠・下剋上の世の中、戦国時代)、式年遷宮は、行われてはいたが、内宮・外宮の時期はいい加減になった。そして、豊臣秀吉が関白となり、天下統一を果たした頃、1585年(天正13年)第41回式年遷宮からは、内宮と外宮の式年遷宮は、同じ年に行われるようになった。(10月13日内宮・10月15日外宮)

 それから、昭和の時代に入り、太平洋戦争が始まり、1945年(昭和20年)に行われる予定だった第59回式年遷宮は、延期となった。そして、1953年(昭和28年)に行われた第59回式年遷宮は、同じ年に内宮・外宮を実施している。(内宮10月2日・外宮10月5日)現在、一番最近に行われた式年遷宮は、2013年(平成25年)に行われた第62回式年遷宮である。

 話は戻って、1185年(文治元年)の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇と天皇の三種の神器のひとつである宝剣が海の藻屑と消えた。後白河法皇が崩御したのは1192年(建久3年)3月である。もし、後白河法皇が、伊勢神宮の式年遷宮に合わせて、天皇の宝剣を造る技術を持った刀職人に、宝剣をもう1本作ってもらうことにしたとしたら、それは、1190年(建久元年)9月に後鳥羽天皇のもとで行われた第27回内宮式年遷宮の時である。この時、後鳥羽天皇は、10歳になり、元服の儀を迎えていた。

 10歳の後鳥羽天皇は、元服の儀の時、初めて、後白河法皇から、天皇の三種の神器の一つである宝剣が、先代の安徳天皇とともに海の藻屑と消えたと、当時の源氏軍のリーダーであった源義経が報告してきたことを聞かされた。つまり、今、後鳥羽天皇の元服の儀のここにあるのは、天皇の三種の神器のうちの神鏡と勾玉だけである。では、消えた神剣はどうしたらいいのか。後白河法皇は、この時、後鳥羽天皇に、天皇の心得として、天皇の三種の神器は、「失くしたら、また、作りなおせばいいや。」という安易な気持ちで保持してはならないと戒めた。そして、八条院が、壇ノ浦で紛失したはずの天皇の宝剣を、尾張の大久佐八幡宮で見たことや、安徳天皇が生きているかもしれないという情報を聞いたことを、後鳥羽天皇に話した。

 「しかし、当時の源氏軍のリーダーであった源義経が、「安徳天皇と天皇の宝剣は、海の藻屑と消えました。」と報告してきた以上、安徳天皇と天皇の宝剣は、この世から消えてなくなったということで、日本の政治は動いていくのだ。だから、現在の日本の天皇は、後鳥羽天皇ただ一人で、後鳥羽天皇は、天皇の宝剣は持っていないのだ。

 しかし、今、伊勢神宮の式年遷宮に合わせて、天皇が持つ刀と同じ形の直刀(反りが入っていないまっすぐな形の刀)を職人たちに作らせて、ここに持ってきてもらった。この刀を、将来、天皇の宝剣とするのかどうかは、後鳥羽天皇が自分で考えて決めてくれ。ただ、今は、天皇の宝剣は紛失したことになっている。そして、天皇と天皇の三種の神器はこの世に1つしかなく、それらのものが2つあるときは、日本が2つに割れている時だ。」

 後白河法皇は、こう言うと、伊勢神宮の式年遷宮に合わせて、職人たちに作らせた直刀(反りが入っていないまっすぐな形の刀)を後鳥羽天皇に渡した。しかし、10歳になる後鳥羽天皇は、自分がどうしたらいいのか、わからなかった。いろいろ考えた末、後鳥羽天皇は、とりあえず、後白河法皇から渡された刀は、しまっておくことにして、今は、天皇の三種の神器のうちの宝剣は、ない、ということで、日々を過ごすことに決めた。

 後鳥羽天皇が18歳になった1198年(建久9年)、後鳥羽天皇は、自分の第一皇子である、3歳になる土御門天皇に譲位し、自分は、上皇となった。しかし、この時、後鳥羽上皇は、まだ、土御門天皇が若干3歳であったこともあり、亡くなった後白河法皇からもらった直刀(反りが入っていないまっすぐな形の刀)を、天皇の三種の神器の宝剣として、新しい土御門天皇に渡す事ができなかった。

 その後、後鳥羽上皇が30歳となり、後鳥羽上皇の第一皇子である土御門天皇が14歳になり、後鳥羽上皇の第三皇子が13歳になった。1210年(承元4年)、後鳥羽上皇の意向により、第一皇子である土御門天皇は譲位して、後鳥羽上皇の第三皇子である順徳天皇が天皇となった。この時、後鳥羽上皇は、二人の息子たちに、後鳥羽上皇が20年前に後白河法皇から聞いた、安徳天皇と天皇の三種の神器の1つである宝剣の話を伝えた。そして、後鳥羽上皇が20年前に後白河法皇から渡された、伊勢神宮の式年遷宮に合わせて職人たちに作らせた直刀(反りが入っていないまっすぐな形の刀)を、後鳥羽上皇は、順徳天皇に渡した。平氏が滅亡した壇ノ浦合戦から25年目にして、ようやく、天皇の三種の神器は、全てそろったのであった。

 ところで、尾張の国にある大久佐八幡宮は、壇ノ浦合戦で平氏が滅亡して以来、源氏一族の支援のおかげで、以前の神社から場所も移転し、建物も大きくなった。そして、秋の神社のお祭りは、流鏑馬が行われ、みこしが担がれるなど、盛大に行われていた。神社の経営は、順風満帆で、宮司の波多野秀助もうれしい限りだった。

 しかし、宮司の波多野秀助にとって、気がかりなことが一つあった。それは、後鳥羽上皇が天皇の三種の神器を全てそろえた1210年になっても、大久佐八幡宮には、「こちらの神社に25年前から奉納されている珍しい剣があると聞いている。ぜひ、見せていただきたい。」という申し出をしてくる者が後を絶たないことであった。

 「一体、どこで噂を聞きつけてくるのだろう?」

 と思いながら、そのたびに、宮司の波多野秀助は、その対応に追われた。

 宮司の波多野秀助は、見知らぬ人からそのような申し出があると、神社の宝を納めた蔵から、亡くなった八条院が奉納していった、天皇の宝剣よりは少し反りの入った刀を持ってきて、申し出をしてきた人々に見せていた。

 「これが、あなたが耳にした、25年前に奉納された刀です。この刀は、この地方から朝廷の官僚になって、中納言まで出世した方が、厄除祈願のために、この神社に奉納していったものです。どうです?この刀の反り具合は、実に巧妙な逸品でしょう?中納言様ともなると、このような素晴らしい刀をお持ちになるのですねえ。」

 宮司の波多野秀助がこのように言うと、「刀を見せてほしい。」と申し出てきた人は、いつも、「確かに立派な刀だ。」と満足して、帰っていくのだった。

 そして、宮司の波多野秀助は、神社の宝を納めた蔵に2つの刀をしまうときは、隠しておいた、美濃源氏の山田太郎・次郎兄弟から奉納された、まっすぐな刀の入った箱には、「この刀は、この地方から朝廷の官僚になって、中納言まで出世した方が、厄除祈願のために、この神社に奉納していったものである。」と、刀のうその由来を書いた紙を、刀と一緒に、入れた。そして、八条院が奉納した刀を入れた箱の中には、刀の由来を書いた紙を入れておかなかった。

 もし、宮司の波多野秀助がいないときに、刀を見せてほしいという申し出があったら、刀の由来を書いた紙が入っていない方の刀を見せるようにと、波多野秀助は、他の宮司にそう言い含めたのであった。

 「もし、安徳天皇が、壇ノ浦の戦いで亡くなっていなければ、今、32歳位となっているだろう。もし、安徳天皇に子供がいるとしたら、後鳥羽上皇の息子たちと同じ位の歳になっているだろう。

 私は、美濃源氏の山田太郎・次郎兄弟から奉納された、あの、まっすぐな刀のことは、もう、世の中に出すつもりはない。源頼朝様が亡くなってから、私の今の主人は北条氏だが、まだまだ、世の中は不安定で、いつ、また、日本の中で内戦が起きるともわからない。今、やっと、地元の念願だった、大山寺の再興が実現しつつあるのに、だ。

 このまま、日本は平和を維持していかなければならない。安徳天皇が、もし、生きていたとしても、今、世の中に出ることは、決してないと思う。なあ、彗暁もそう思うだろ?」

 宮司の波多野秀助は、大山寺再興のことで大久佐八幡宮に来ていた、比叡山延暦寺の修行僧である彗暁に、このように、話しかけた。彗暁は、宮司の波多野秀助に向かって、こう答えた。

 「そうだな。私も宮司さんと同じ考えだ。安徳天皇と、あの、まっすぐな刀の話は、私たちの世代の人間で終わりにしよう。安徳天皇とあのまっすぐな刀の話を聞いて、いきなり豹変してしまう人間もいるだろうし。

 ところで、寄付が集まったので、新しい大山寺の本堂を建設するために、児神社前の土地を埋めて整備したい。大久佐八幡宮の伝手で、何人か、人を集めてもらうことはできるだろうか?」

 比叡山延暦寺の修行僧である彗暁も、大久佐八幡宮宮司の波多野秀助も、新しい大山寺を建設するために、猪突猛進していたのであった。

 鎌倉では、亡くなった源頼朝の妻である北条政子の実家の北条氏の手よって、2代目将軍であり、北条政子の子供でもある源頼家が、23歳で暗殺された。1204年(元久元年)7月のことであった。鎌倉幕府では、源頼家が伊豆に追放された1203年に、源頼家の弟である、11歳になる源実朝を、3代目将軍として就任させていた。(しかし、政治の実権は、執権である北条氏が握っていた。)

 そして、1219年(建保7年、1219年は4月に承久という元号に変わる。)1月、3代目将軍源実朝は、兄の2代目将軍源頼家の息子である公暁の手によって、暗殺された。この時、3代目将軍源実朝は、26歳で、妻はあったが、子供はいなかった。従って、3代目将軍源実朝の死によって、源頼朝以来の源氏将軍の血筋は途絶えた。以後、鎌倉幕府では、亡くなった源頼朝の妻である北条政子が政務を行い、北条政子の弟である北条義時が北条政子を補佐するという体制ができあがった。鎌倉幕府は、北条氏の執権政治によって支えられていくことになったのである。

 そのような鎌倉幕府のごたごたを京都で見ていた後鳥羽上皇は、怒り心頭だった。

 後鳥羽上皇は、自分が天皇になった時から、天皇の三種の神器の一つである神剣が紛失していた、という事実を通して、鎌倉幕府を見てきた。壇ノ浦の戦いで、安徳天皇と天皇の三種の神器の一つである神剣が、この世から消えてなくなった、という源義経の報告があり、その報告をした源義経を、源頼朝が追討した。そして、亡くなった後白河法皇の話によれば、安徳天皇と、天皇の三種の神器の一つである神剣は、実は、この世に存在しているかもしれない、ということだった。これらの話を思い出すだけでも、後鳥羽上皇にとって、源頼朝率いる鎌倉幕府は、いい加減な人たちの集まりだと思えるのだった。

 伊勢神宮の第27回内宮式年遷宮のときに、天皇の三種の神器の一つである神剣が手に入り、天皇家には、天皇の三種の神器が、全て、そろった。しかし、今の権力の象徴である鎌倉の源氏将軍は、皆、殺されて、代わりに、天皇家ではなく、源頼朝の妻の実家である北条氏一族によって、日本の政治が支配されている。

 後鳥羽上皇は、3代目将軍源実朝とは親しくしていただけに、上皇にとって、実朝暗殺の事件は、ショックな出来事だった。自分が天皇になった時から、いい加減な人たちの集まりだと思ってきた鎌倉幕府であるが、実朝暗殺の事件によって、後鳥羽上皇の鎌倉幕府に対する信頼は、完全に崩壊したのであった。後鳥羽上皇は、「鎌倉幕府である北条氏を討ちたい。」と二人の息子である土御門上皇と順徳天皇に相談した。

 後鳥羽上皇の第1皇子である土御門上皇は、後鳥羽上皇の討幕活動には、反対した。しかし、後鳥羽上皇の第3皇子である順徳天皇は、積極的に、後鳥羽上皇の討幕活動に賛成した。順徳天皇は、積極的な討幕活動の一環として、父とともに活動を自由に行うために、仲恭天皇に譲位して、順徳上皇となった。

 1221年(承久3年)5月、ついに、後鳥羽上皇は、諸国の御家人(鎌倉幕府の支持者)、守護、地頭らに、「北条政子の弟である北条義時を追討せよ。」という院宣を発した。これが、後の世の中で、「承久の乱」と呼ばれた、後鳥羽上皇による鎌倉幕府に対する反乱である。

 この院宣を受け取った諸国の御家人(鎌倉幕府の支持者)、守護、地頭らは、最初は、「天皇家が鎌倉に宣戦布告した。」と動揺を隠せない様子だった。しかし、鎌倉幕府の北条政子は、鎌倉にて大演説をして、御家人(鎌倉幕府の支持者)の団結を図り、北条氏一族は、10万騎以上の武士を京都に進軍させた。この様子を見た誰もが、後鳥羽上皇の敗北を確信した。

 昔、比叡山の僧兵が、大山寺を焼き討ちにするために通り、また、昔、平治の乱に負けて、京都から逃亡した源義朝・頼朝親子たちが通った古代の官道の上を、鎌倉幕府の北条氏一族が率いる武士10万騎が、京都に向かって、進んで行く。そして、北条氏一族が率いる武士10万騎が進軍していく様子を見ていた者の中には、自ら、北条氏の軍に飛び込んで、一緒に京都を目指す者たちが、少なからずいた。北条氏一族が率いる武士10万騎は、京都への進軍の途中で、だんだん規模を膨らませていくのであった。

 比叡山延暦寺の修行僧である彗暁も、大久佐八幡宮宮司の波多野秀助も、この様子を見て、鎌倉幕府の強さと、後鳥羽上皇の敗北を察していた。もし、彗暁や波多野秀助たちが、壇ノ浦合戦でこの世から消えたことになっている、安徳天皇と天皇の神剣の真実をもとにして、鎌倉幕府にクーデターを起こしていたなら、きっと、今の後鳥羽上皇のようになっていただろう。今、目の前を通っていく10万騎以上の鎌倉幕府の武士たち一人一人が、「もう、日本の中で内戦は起こしたくない。このまま、日本は、平和のままでいたい。」という意志を持っていることは、彗暁や波多野秀助たちにも、よくわかった。

 彗暁や波多野秀助たちが、後鳥羽上皇のようにならなかったのは、きっと、大山寺再興に向かって、まっすぐに進んでいたからだろう。そして、源頼朝が大山寺再興を決断しなかったら、今の彗暁や波多野秀助たちが、ここで、京都へ進軍していく武士10万騎以上を見ていることはなかっただろう。大山寺は、比叡山僧兵の手によって焼き討ちにされ、廃寺となってもなお、地元の人たちにとっては、寺であったのであり、大山廃寺は、1つの寺として、地元の人々を守っていたのだった。

 1221年(承久3年)6月、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府軍に次のような院宣を下した。

 「この度の乱は、藤原秀康、三浦胤義ら謀臣による企てである。従って、北条義時追討の院宣は取り消し、藤原秀康、三浦胤義ら謀臣の逮捕を命ずる院宣を下す。」

 そして、上皇に見捨てられた、上皇方の武士である藤原秀康、三浦胤義ら謀臣は、東寺に立てこもった末、敗走したり、自害したりして、果てた。

 1221年(承久3年)7月、後鳥羽上皇は、隠岐島(島根県の北方50キロにある島)に配流となった。後鳥羽上皇は、隠岐島(島根県の北方50キロにある島)に行く前に、出家して、法皇となった。

 しかし、後鳥羽上皇は、髪の毛を剃る前に、藤原信実という絵師に、自分の肖像画を書いてくれるように頼んだと言われている。藤原信実とは、「三十六歌仙絵巻」の制作に携わったことで、都でも評判の画家だった。21世紀になって、中学校の歴史の教科書などにも出てくる後鳥羽上皇像は、出家して隠岐島(島根県の北方50キロにある島)に行く前に、藤原信実が描いた、41歳になる後鳥羽上皇の姿であると言われている。

 また、後鳥羽上皇の子供たちも皆、それぞれ、違う島や国に流された。そして、後鳥羽上皇の家族の者は皆、ばらばらになった。後鳥羽上皇の討幕活動に積極的に賛成した順徳上皇が譲位した、仲恭天皇は、廃位となり、後掘河天皇が即位した。後鳥羽上皇方の公家たちも、処刑されたり、流罪になったりした。

 多数の者が粛清・追放され、後鳥羽上皇方についた公家・武士の所領約3000か所が、鎌倉幕府に没収された。八条院が亡き後、後鳥羽上皇院政の財政的基盤であった、八条院領(八条院の持っていた荘園)も、鎌倉幕府に没収された。

 「承久の乱」の後、北条氏による執権政治によって支えられていた鎌倉幕府の権力は増大し、鎌倉幕府は、朝廷の皇位継承に影響を及ぼすほどになった。つまり、「承久の乱」以後、鎌倉幕府による武家政権が朝廷よりも強固なものになり、世の中は、武士の世の中となって安定した。比叡山延暦寺の僧兵たちによって焼き討ちにされた大山寺は、北条氏の執権政治に支えられた鎌倉時代(13世紀)以後、再建がどんどん進んでいくことになる。

 1221年(承久3年)7月、後鳥羽上皇が隠岐島(島根県の北方50キロにある島)に配流となった頃、比叡山延暦寺の修行僧である彗暁も、大久佐八幡宮宮司の波多野秀助も、児神社前に本堂を建設するための造成工事の真っただ中にいた。荒れ果てた土地の上に生えた木や草を取り除き、火災による灰を取り除き、製鉄所を埋め、児神社前の土地の東側と南側に盛土をして、土地を拡張した。そして、新たにできた広い更地の土を強固に固めて、7間×7間(21m×21m)の新しい本堂を建てても、沈まない、丈夫な土地を造らなければならなかった。

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