十九 山の中の寺院都市

 1222年(貞応元年)8月、後鳥羽法皇は、今晩も、星空を眺めていた。京都と違って、ここ隠岐島の星空は、比べ物にならないほど、きれいだった。晴れた日は、まるで、星が降ってくるようだ。

 今月に入ってから、これら無数の星の中に、彗星が現れ始めた。その彗星の本体は、半月のように大きく、色は白かった。彗星の尾の光は赤く、彗星の全体の長さは5mほどあった。この彗星こそ、77年前の1145年(天養2年)4月に日本に現れ、鳥羽上皇が、美福門院が、近衛天皇が見た、ハレーすい星であった。

 後鳥羽法皇は、今年で42歳になるので、ハレーすい星は、生まれて初めて見る大きな彗星だった。後鳥羽法皇だけでなく、この地球上に生きている人間で、ハレーすい星を2回見ることのできる人は、少ないだろう。だから、ハレーすい星を見た時の権力者たちの行動には、規則性がある。それは、自分の責任感の強さから、古い文献から学習していても、どうしても、ハレーすい星に恐れをなし、神様に祈りをささげずにはいられないという行動であった。おそらく、今頃、京都や鎌倉では、天皇家や北条氏たちが、不吉なことが起こらないように、祈りをささげているはずである。しかし、隠岐島にいる後鳥羽法皇には、そのような感情は存在しなかった。それは、後鳥羽法皇にとって、もう、自分は権力者ではない、という証しだった。

 後鳥羽法皇は、隠岐島に流されてきてから、和歌を詠み、刀剣を作るという充実した毎日を送っていた。特に、刀剣を作ることにかけては、後鳥羽法皇は、非常に熱心に取り組んだ。後鳥羽法皇は、刀剣を作るときは、いつも、本州から鍛冶職人を島に呼んで、手伝わせていた。そして、できあがった刀剣には、銘を入れる代わりに、十六弁の菊の紋章を入れた。これが、「菊御作」と名付けられている、後鳥羽院作の刀で、現在、重要文化財に指定されているものもある。そして、十六弁の菊の紋章が、日本の皇室の紋として定着したのは、後鳥羽院以後のことである、と言われている。

 「新古今和歌集」の編纂に深く関わって、和歌の世界に新風を吹き込み、一流の刀剣を作ることができた後鳥羽法皇は、武士と渡り合っていく政治家というよりは、日本の文化を根底から支えた文化人であったと言える。後鳥羽法皇は、ハレーすい星が再び日本に出現した1222年(貞応元年)から17年後の1239年(延応元年)2月に、配流先の隠岐島で崩御する。59歳であった。後鳥羽法皇の遺体は火葬にされたが、平安時代前期から近世前期にかけては、天皇・皇族の火葬は、普通だった。後鳥羽法皇は、崩御する直前に、「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」という、本人の左右の手形を、朱色で文面の真ん中に押した、遺書のようなものを残した。この、後鳥羽法皇直筆の遺書のようなものを一目見ただけで、生きていたときの後鳥羽法皇のセンスには、普通ではない、少し芸術家的なものを筆者は感じるのである。

 話は、尾張の国で大山寺再興に猛進していた、比叡山延暦寺の修行僧である彗暁に移る。彗暁は、1222年(貞応元年)8月のある晴れた夜、77年ぶりに日本の空に戻ってきたハレーすい星を見つけて、しばらく、考え込んでいた。

 「これは、おばあちゃんが「小さい頃に見た。」と、いつも話していた彗星と、同じではないだろうか。そうだ、天台座主の講義でも、少し学んだことがある。まるで、こちらにぶつかってくるような恐ろしい感じがするが、いつのまにか消えてなくなっていたという、あの星が、これか。」

 彗暁の祖母の福寿女は、比叡山僧兵によって一山まるごと焼き払われた大山寺の話をすると同時に、いつも、自分が子供の頃に見た彗星の話を、彗暁にしていたのであった。だから、彗暁は、この彗星を見て、一瞬、たじろいだが、すぐに、冷静になることができた。今頃、比叡山延暦寺では、僧侶たちが、災いが起きないように、祈りをささげていることだろう。しかし、彗暁の今の僧侶としての仕事は、大山寺の新しい本堂を建てるために、強固な地盤を造ることだった。

 「京都や鎌倉でお祈りを捧げているから、大丈夫。何もないさ。明日から、工事の手伝いと寄付集めを頑張ろう。」

 彗暁は、突然現れた、あの彗星に向かって、誓いを立てるのだった。

 彗暁がハレーすい星を見てから、40年後、彗暁は、新しく建った大山寺の本堂の中央に座る、高僧となっていた。彗暁にとって、この40年間は、新しい大山寺の本堂を建てるために、お金と人を工面する毎日だった。新しい大山寺の本堂が建つまでの間、彗暁は、比叡山延暦寺に帰ったり、自分が生まれた多治見の実家に帰ったり、大久佐八幡宮に泊めてもらったりして、毎日、生活する場所が変わっていた。そうやって、彗暁は、新しい大山寺で生活するための生活の基盤を確保していった。例えば、彗暁は、僧侶として、大山寺の中で暮らしていくために、必要な生活用品や仏具を全て、新しく準備しなければならなかった。新しい生活用品や仏具は、全て、彗暁の実家である、多治見の陶磁職人を通じて、格安な価格で準備してもらうということが、新しい大山寺の僧侶となる彗暁と、彗暁が生まれた多治見の実家とのお約束だった。

 その後、14世紀や15世紀にかけて発展していく大山寺の僧侶たちの生活を支えていたのは、彗暁の実家である、多治見の陶磁職人たちや、その知り合いの、瀬戸の陶磁職人たち、常滑の陶磁職人たちであった。

 「本堂の南側に、もうひとつ、新しいお堂が必要だ。鉄鉱石の鉱山と鉄穴流しがある場所の東側には、僧侶たちが生活できる坊を建てなければならない。私も、もう、60代になったから、若い修行僧を見つけてきて、仕事を引き継いでいかないといけないな。」

 60歳を過ぎて、体力は衰えていても、夢だけは、いっぱい持っている彗暁であった。

 そして、彗暁が亡くなり、彗暁の跡を継ぐ僧侶は、断つことなく、13世紀後半から14世紀の時代に入った。13世紀後半から14世紀の日本は、元寇が襲来した時代だった。北条氏率いる鎌倉幕府は、元寇を退けたが、元寇襲来によって鎌倉幕府の財政は逼迫し、鎌倉幕府が倒れて、室町幕府が成立した。

   「今年、鎌倉幕府から支給されたのは、山の向こう側に下りた所の土地だったよ。この土地を何に使う?大山寺を訪れる人たちのみやげ物屋でも経営するか?それとも、お茶屋でも開くか?お米を作るのがいいかな?」

 大山寺は、仏教が日本に伝来した昔から、国家の保護のもとに、国家のために祈り、修業をし、後継者を育ててきた。平安時代末期の玄海上人や玄法上人の時代は、大山寺は、国家の保護があったから、「大山三千坊」とも「大山五千坊」とも言われる天台宗第一の巨刹になれたのだった。

 平安時代と同じように、鎌倉時代以降中世の時代の大山寺も、国家のために祈り、修業をし、後継者を育てている。にもかかわらず、源頼朝が開き、北条氏が引き継いだ鎌倉幕府からは、大山寺を経営する補助金は直接支払われず、代わりに、土地が支給された。大山寺の僧侶たちは、国家から支給された土地を利用して、お金をもうけたり、お米などの食料を作ったりしながら、大山寺での仏教活動を続けてきた。

 中国の元が日本に攻めてきた一報を聞いた大山寺の僧侶たちは、日本はこれからどうなる事かと心配していた。しかし、どうやら、神風が吹いて、元の軍隊は退いたらしいという一報を聞いて、大山寺の僧侶たちは、胸をなでおろした。日本が中国の元に占領されたら、元は、大山寺を保護しただろうか。いや、元は、大山寺を廃寺にしてしまうだろう。鎌倉幕府の財政が、元寇によって、逼迫してきても、大山寺には、毎年、どこかの土地が支給され続けていた。従って、大山寺の土地は、どんどん増え続け、その土地を利用して、大山寺の僧侶たちは、様々な事業を展開し、大山寺のある山の中は、いつしか、様々な職業の人々が住む都市となっていた。

 そして、鎌倉幕府が倒れ、室町幕府が始まっても、国家から大山寺へ土地は支給され続けた。もはや、大山寺の建っている山の中に住んでいる人々は、僧侶だけではない。むしろ、大山寺の中で、様々な物を作る職人や、いろいろな物を売る商売人や、食料を作る農家など、僧侶以外の職業を持つ人々の方が、僧侶たちよりも幅を利かせていた。大山寺のある山の中は、寺院領という名のもとの都市であった。

 平安時代末期に、比叡山僧兵によって焼き払われた大山寺の山の中に児神社という神社が建って以来、鎌倉時代になって大山寺が再興したことで、大山寺のある山の中は、大山寺の僧侶と児神社の宮司が共存しているというにぎやかな状態であった。そして、それに加えて、商工業者たちも共存していた大山寺の山の中では、たくさんの人々が行き交った。大山寺から歩いて30分ほどの所にあり、官道に近い大久佐八幡宮も潤っていた。

 一方、鎌倉幕府が滅びると、天台座主慈円が大山寺の山の中に残した鉄鉱石の鉱山と鉄穴流しを、再び使い始める者たちが現れ始めた。その者たちは、最初は、大山寺の敷地の中で、鉄器や銅器を作って、商売をしていた商工業者たちであった。しかし、いつの間にか、大山寺の僧侶たちの中には、商工業者たちから鉄や銅の作り方を教わって、こっそり、武器を作る者たちが現れ始めた。「武器を持たない寺」として、源頼朝のもとで再興した大山寺では、いつのまにか、人の目を盗んで、再び、比叡山延暦寺の僧兵と変わらない行為に出る者が現れ始めたのだった。

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