十九 大山寺再興

 「それから、大山峰正福寺は、どうなったんですか?」

 「そうですよ、私たちが遺跡の中を見る限り、大山峰正福寺がその時代以降、永遠に廃寺になったとは、とても思えませんよ。」

 明治3年(1870年)12月最初の日曜日、入鹿池の底にある、一条院孝三の家の中で、一条院孝三の話を聞いていた青木平蔵と石川喜兵衛は、口々に、一条院孝三に詰め寄った。

 すると、その時、

 「失礼します。」

 と言って、ふすまが開いた。そして、手ぬぐいを頭に巻き、額から白髪が見え、みすぼらしい着物を着た老女が、平たい籠に野菜をのせて、部屋に現れた。かごの上には、ニンジンや大根、かぶ、サトイモ、ホウレンソウがたくさん載せられている。

 「ああ、江岩寺の中村住職の奥様のふねさんには、今日は、住職と青木様と石川様が私の家に泊まること伝えておきました。それと、今日収穫したこれらの野菜で、新しく、煮物とほうれん草のおひたしを作りますから、できたら、ここに持ってきますね。」

 老女がそう言うと、中村住職と青木と石川は、声を揃えて、

 「ああ、どうもありがとうございます。」

 と言った。老女は、3人に向かって、にっこり笑うと、部屋を出て行った。一条院孝三は、奥様の背中に向かって、

 「あ、その時、新しく、あと4つお銚子を持ってきてくれ。熱燗で。」

 と言った。

 そして、奥様が部屋を出ていくと、一条院孝三は、再び、囲炉裏に向かって座りなおし、話を続けた。

 「これから私がする話は、大山廃寺の言い伝えとして、大山村の皆が伝えている話とは、細かい点で、若干、異なっています。なぜなら、今、この時代に大山村の皆の間で言い伝えられている話は、徳川幕府の手が入っているからです。徳川幕府が、なぜ、大山廃寺の伝説を曲げたのかは、なぜ、徳川幕府が入鹿池を築造したのか、ということと深く関わってきますが、その話は、大分、後の方で出てくる話です。

 とにかく、仁平2年(1152年)3月15日、比叡山延暦寺僧兵たちが大山に押し寄せて、山に火を放ち、大山峰正福寺は、一山まるごと焼き払われました。そして、大山峰正福寺の太鼓堂と鐘堂以外の建物は焼け落ち、その時、大山峰正福寺にいた玄法上人と約半数の大人の僧侶たちは、焼け死にました。

 玄法上人の手によって、本堂の床下にある地下道に入った2人の稚児たちは、煤だらけの顔を流れる涙をふきながら、シャンバラにたどり着きました。そして、シャンバラにいる多くの大人の僧侶たちに、泣きながら、玄法上人が言った言葉を伝えたのです。」

 仁平2年(1152年)3月15日に比叡山延暦寺僧兵たちの手によって、大山峰正福寺が一山まるごと焼き払われてから、シャンバラで多くの仏像と武器と共に生き残ることができた、約半数の大山峰正福寺の大人の僧侶と稚児たちは、今後の比叡山延暦寺僧兵対策について話し合った。大山に攻めてきた比叡山延暦寺の僧兵たちは、どうやら、このシャンバラのことについては、知らないらしい。しかし、もし、比叡山延暦寺の僧兵たちがこのシャンバラのことを嗅ぎつけたら、きっと、彼らはこのシャンバラに攻めてきて、私たちは、皆殺しの目に遭うだろう。比叡山延暦寺の僧兵たちの戦闘技術は、自分たちの技術をはるかに凌駕していることは、誰の目にも明らかだった。武器だけ持っていても、武器を使う技術がなければ、武器はただの危ない物にすぎないのだ。そして、生き残った大山峰正福寺の僧侶たちは、鳥羽院政に判断を仰ぐことにした。

 体が弱く、まだ14歳位であった近衛天皇に政治判断能力はない。鳥羽上皇が比叡山延暦寺の僧兵対策として大山峰正福寺に送り込んだ玄法上人が、寺と共に焼き討ちにあって亡くなったという事実を受けて、鳥羽上皇は、ショックを隠しきれない様子だった。そして、鳥羽上皇がこの件について相談したのは、陰陽師の安部氏であった。

 陰陽師の安部氏の助言通りに、鳥羽上皇は、仁平2年(1152年)3月15日に大山峰正福寺に攻め込んで一山丸ごと焼き払った比叡山延暦寺僧兵の主犯格の男を狙って、密かに弓矢で射殺した。平安時代に入ってから、約346年間、公的な死刑は執行されていなかったため、この行動は、あくまでも、鳥羽上皇個人による極秘の行動だった。

 しかし、主犯格の僧兵を処刑したからといって、比叡山延暦寺僧兵の脅威は、何も変わらない。なぜなら、比叡山延暦寺僧兵たちは、延暦寺の組織の一部として、自分たちにとって都合の悪い勢力に牙を向けているのであって、世の中の争いごとがなくならない限り、比叡山延暦寺僧兵たちはいなくならないのだ。いつのまにか、世の中は、死刑を復活させなければならないほど、不安定になっていたのだった。

 そして、何よりも、今、鳥羽上皇が比叡山延暦寺僧兵たちの手から守らなければいけないのは、入鹿村の地下にあるシャンバラであった。シャンバラの存在自体、比叡山延暦寺僧兵たちには、絶対知られてはならないのだ。鳥羽上皇は、まだ、比叡山延暦寺僧兵たちの抑止力のためには、大山峰正福寺が必要であると考えていた。そのためには、玄法上人が2人の稚児を大山峰正福寺本堂の床下に逃がし、2人の稚児は、本堂床下からシャンバラに伸びているトンネルを通って、シャンバラに逃げたという事実も世間に知られてはならなかった。

 鳥羽上皇は、陰陽師の安部氏の助言通り、焼き払われた大山峰正福寺本堂から一山越えた南側に神社を建てることにした。その神社は、比叡山延暦寺僧兵によって焼き払われた大山峰正福寺で犠牲になった2人の稚児を祀るために建てられる神社で、子供たちが二度と戦いの犠牲になることがないよう、子供を守る神社ということで、「児神社」と名づけられた。そして、鳥羽上皇個人の心の中では、児神社は、久寿2年(1155年)7月に17歳で崩御した、鳥羽上皇の第9皇子である近衛天皇を祀るという意味合いもあった。久寿2年(1155年)11月16日、勅使として、鷹司宰相友行が大山に派遣され、児神社建立が始まった。

 児神社が建立されたばかりの久寿3年(1156年)4月、崩御した近衛天皇の後を受けて、後白河天皇が誕生し、元号が保元となる。そして、保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れ、同年7月に鳥羽法皇は崩御した。鳥羽法皇が崩御した直後、保元の乱が始まり、摂関家や朝廷からなる貴族も武士も、後白河天皇方と崇徳上皇方の2つに分かれて、平安京にて戦闘が始まった。この時以後、平安京の都は、戦闘の舞台となり、摂関家や朝廷に代表される貴族は没落していく。そして、貴族の代わりに権力を握っていったのが武士だった。

 鳥羽法皇が崩御してから25年くらいがたつと、今度は、権力を握っていた武士団同士が争うようになる。治承4年(1180年)、源氏と平氏という武士団の二大勢力による源平合戦が始まり、日本全国が源氏方と平氏方に分かれて、内戦状態となった。この内戦は、5年ほど続いた後、平氏は源氏に滅ぼされた。

 その後、源氏は、鎌倉に幕府を置いて、鎌倉時代という武士が日本を統治する時代となる。日本は、武士による統治の元、平安時代末期よりは平和で安定した時代が続く。その後、幾度かの内戦(権力争い)を経て、鎌倉時代以降、江戸時代に至るまで、日本を統治してきたのは、武士だった。天皇をはじめとする朝廷が日本を再び統治するのは、鎌倉時代以降670年以上後の明治時代になってからのことである。

 「武士は、戦いの技術を磨いてはいるが、戦いに出るのはいやだというのが本音のところだ。だから、鎌倉時代以降、日本を統治した武士の願いは、内戦の防止だった。青木さんや石川さんが尾張藩にいたときも、尾張徳川家からそのように言われませんでしたか?」

 明治3年(1870年)12月最初の日曜日、入鹿池の底にある、一条院孝三の家の中で、一条院孝三は、青木平蔵と石川喜兵衛にこう問うた。すると、青木が、

 「そういえば、明治政府が決めた廃藩置県によって、私たちが尾張藩を出ることを勧められたとき、上司である尾張藩主徳川義宣は、私たちに向かって、「徳川家康が政治を行う上で、最も課題としていたことは、内戦の防止だ。」と言っていました。」

 と答えた。一条院孝三は、続けてこう言った。

 「鳥羽上皇は、大山峰正福寺を比叡山延暦寺僧兵に対する抑止力のように考えていたが、武士だって、抑止力のように使われるのは、いやなのだ。大山峰正福寺は、その後、大山寺として、鎌倉時代に再建される。大山寺の再建を決めたのは、源頼朝だ。しかし、源頼朝がシャンバラの存在を隠そうとしたのは、比叡山延暦寺の僧兵から大山寺を守るためではない。武士の代表である源頼朝は、鳥羽法皇のやり方には反対だったのだ。」

 日本の内乱がひとまず終息した鎌倉時代以降、安定した時代に入って、地元の要望通り、大山寺は再建された。しかし、再建された大山寺は、玄海上人や玄法上人が造り上げた大山峰正福寺とは、全く別物であった。

 再建された大山寺の新しい本堂は、昔の本堂から南側に一山越えた所、児神社の南側境内の中に建てられた。つまり、入鹿村の地下にあるシャンバラと大山寺の本堂は、全く切り離されたのである。そして、シャンバラの中に置かれてあったおびただしい数の仏像は、順番に、大山寺の中にいくつも建設される坊に運び出されていった。比叡山延暦寺僧兵が大山峰正福寺にとっての脅威になってから50年近く、延暦寺僧兵に知られることのないよう、なりを潜めていたシャンバラは、再び活発に動き出した。

 「武器を持たない寺」というのが、新しく再建された大山寺のスローガンだった。大山寺は、比叡山延暦寺僧兵とは全く関わりを持たない修業のための寺となる。そして、修行僧が大山寺に出入りするたびに、仏像を外に出したり、中に収容したりを繰り返すシャンバラは、入鹿村の地下に存在し続けた。シャンバラの守人は、きのこのトンネルを守り、地下施設を整備していった。シャンバラは、550年前大化の改新後の一条院屋の頃の形態に戻っていた。

 ただし、シャンバラの守人の給料は、鎌倉幕府から支給されていた。そして、鎌倉幕府は、シャンバラの存在を世間には極秘にした。シャンバラの中には、まだ多くの武器が存在していたからだ。それらの武器は、鎌倉幕府が使うことはできるが、反乱が起きたときには、反体制派に奪われることも考えられる。そうなれば、日本は再び内戦状態となってしまう。鎌倉幕府が建てた寺では、武器と寺は全く切り離されなければならないものなのだ。

 一方、大山寺は修業のための寺なので、全てのことを自給自足で賄うために、大山寺のある山の中は、商工業者や僧侶らでごった返し、寺院都市とも言えるものが形成されていった。大山寺の外では、鎌倉新仏教が人々の間に普及していったが、大山寺は、あくまでも、僧侶の修業のための寺として、鎌倉新仏教とは一線を画していた。

 そして、鎌倉幕府が滅び、朝廷や武士の間で権力闘争がおき、再び政権を取ったのは、武士である足利氏であった。足利氏は、京都の室町に室町幕府を築いたが、大山寺やシャンバラのことを知らなかった。シャンバラの守人は、幕府からの支援が途絶えて、修行僧からの援助によって、存続していた。シャンバラは、完全に、800年前の大化の改新後の一条院屋に戻ってしまった。

 室町幕府は、足利幕府とも言われているが、足利氏のことをよく思っていない者も多かった。その後、室町幕府は、守護大名の細川・斯波・畠山の三氏によって運営される連合政権のような体制を取るようになる。しかし、室町幕府を支える守護大名も浮き沈みが激しいという状況で、足利氏のことをよく思っていない者は、足利氏が大山寺やシャンバラを知らないことを利用して、修行僧として大山寺に来て、シャンバラを利用した。そして、大山寺のある山の中で鉄鉱石を採集して、シャンバラの中で隠れて武器を作る者が横行した。

 やがて、日本は、様々な大名が地方に自分たちの国を作る群雄割拠の世の中になる。大名たちのうちで実力のない者は、下の者に滅ぼされることが当たり前の下剋上の世の中になり、時代は戦国時代に突入した。そして、戦国大名は、貴族や寺社と対立する者が多く、戦国大名同士も戦ったり、滅ばされたりして、日本は、内戦状態に陥っていた。

 そして、「武器を持たない寺」として、鎌倉時代に再興された大山寺は、360年が経過して、一人の戦国大名に目を付けられることとなった。

 大山寺のある尾張国の戦国大名は、尾張国の守護大名斯波氏に仕えていた織田氏である。織田氏は、守護大名の斯波氏が京都で政務を司らなければならなかったので、斯波氏の代わりに尾張国を治めていた守護代だった。しかし、守護大名斯波氏の勢力が衰えはじめ、守護代であった織田氏が尾張国の戦国大名となる。

 天文3年(1534年)、尾張国の戦国大名織田信秀の家に誕生した織田信長は、天文20年(1551年)に父信秀が亡くなると、18歳で家督を継ぎ、天文23年(1554年)に21歳で清須城に本拠を移した。清須城は、室町幕府守護大名の斯波氏によって建てられた城である。清須城は、濃尾平野のど真ん中、尾張国の中心部に存在し、交通の要所であった。

 織田家の中で、頭角を現してきた信長は、その後10年間を清須城の中で過ごした。信長は、清須城で過ごした10年の間に、家督争いに勝ち、尾張統一を果たしていく。そして、永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで、隣国の戦国大名今川義元を破った織田信長は、永禄5年(1562年)徳川家康と清須城にて軍事同盟を結んだ。この時、織田信長は29歳、徳川家康は19歳であった。

上へ戻る