十九 特別高等警察の廃止

 昭和20年(1945年)8月13日、愛知県史跡名勝保存主事伊奈森太郎氏は、鉄次郎の疎開先に送付した鉄次郎宛の手紙で、次のように述べた。

 「噂によると、日本は、アメリカをはじめとする連合軍に降伏をするようです。戦争が終わります。」

 「そうか。戦争が終わるのか。」

 鉄次郎は、浴衣姿でこの手紙を読み、疎開先の実家に持ってきた考古資料をボーっと眺めながら、何も考えられずにいた。

 昭和20年(1945年)8月15日正午、鉄次郎は、日本が連合軍に降伏することを決定したことを国民に知らせる天皇による玉音放送を疎開先の実家にあるラジオから聞いた。そして、それから1週間後の8月21日、伊奈氏が疎開先の実家を訪れてきた。その日は日曜日だったので、半袖のシャツにノーネクタイで茶色いズボンをはき、白いズック靴を履いた姿で鉄次郎の実家を訪れた伊奈氏は、浴衣姿で実家でくつろぐ鉄次郎に、

 「小栗さんは、疎開先を離れて名古屋市内に住む気はないのですか?」

 と、聞いた。鉄次郎は、伊奈氏に

 「名古屋市内に行っても、市内にはまだ、私の住む所なんてないだろう。疎開先に一緒に持ってきた考古資料をまた移動させるのも大変なことだし。私は、もう、石野村を離れられないかもしれない。」

 と答えた。すると、伊奈氏はこう言った。

 「そうですね。今、名古屋市内は、まだ、焼け野原で、名古屋市民は、焼け落ちた名古屋城天守閣や本丸御殿の近くに畑を耕して、野菜を作り、食料にしているようです。

 ところで、今後、灰宝神社に疎開させていた愛知県内の国宝は、どうしたらいいでしょうか。まだ、県の国宝収蔵庫の中に入れておくべきでしょうか。それとも、所有者のもとに返すべきでしょうか。」

 すると、鉄次郎は、こう言った。

 「戦争が終わったんだし、空襲はもう起こらないのだから、所有者のもとに返すべきだろう。灰宝神社まで国宝を取りに来ることができる所有者は、取りに来てもらえばいいが、それができない所有者には、少しずつでも、車の手配が出来次第、灰宝神社から所有者のもとに我々が運ぼう。」

 そして、鉄次郎と愛知県史跡名勝保存主事伊奈森太郎氏が鉄次郎の疎開先で今後について話し合った9日後の昭和20年(1945年)8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木基地に降り立ち、その3日後の9月2日、日本政府代表は、東京湾に停泊していた戦艦ミズーリの艦上で、降伏文書に調印した。そして、昭和27年(1952年)4月に日本がサンフランシスコ講和条約を締結するまでの7年間、日本は、連合国軍の占領下に置かれるのである。

 連合国軍総司令部(GHQ)は、昭和20年(1945年)10月、日本に対して、5大改革指令を出した。それは、次のような内容のものである。

 一、 男女平等普通選挙制度により、婦人参政権を保障する。

 二、 労働者の地位向上のための労働組合の結成を奨励する。

 三、 教育の自由主義化を進める。軍国主義者などを教育機関から追放し、修身(道徳)・日本歴史・地理の授業を停止し、国家と神道を分離し、教育の民主化を勧告し、教育勅語の奉読を廃止する。

 四、 治安維持法を廃止し、政治犯を釈放し、軍国主義者を公職から追放する。

 五、 財閥を解体し、農地改革によって、大地主を解体して、小作人を解放する。

 昭和20年(1945年)12月の1ヶ月間をかけて、灰宝神社の県国宝収蔵庫にある国宝のうち、名古屋城障壁画以外の国宝が、全て、所有者のもとに返還された。小栗鉄次郎と愛知県史跡名勝保存主事伊奈森太郎氏が車を確保し、熱田神宮や名古屋東照宮などの国宝を所有者のもとに送り届けたのであった。熱田神宮や名古屋東照宮など、建物は空襲で焼失したが、灰宝神社に疎開させた国宝のみは、焼失を免れ、無傷で所有者に返却されたのだった。国宝を手渡しするとき、国宝の所有者は、皆、鉄次郎や伊奈氏に感謝の意を表した。そして、昭和21年(1946年)1月、愛知県史跡名勝保存主事伊奈森太郎氏は、灰宝神社にて愛知県の国宝を守った神社の氏子たちに宛てて、感謝の礼状をしたためたのであった。

 そして、昭和21年(1946年)5月、名古屋市はトラック4台を借りて、灰宝神社の県国宝収蔵庫に疎開していた名古屋城本丸御殿障壁画116面や、焼失前の名古屋城天守閣・本丸御殿などを撮影した写真原板、実測図などを名古屋城に戻し、名古屋城の中で焼け残った西北隅櫓や乃木倉庫に保管することを決定した。天守閣や本丸御殿が空襲によって焼失したにもかかわらず、無傷で灰宝神社からもどってきた障壁画などの国宝を手に取ることができた名古屋市長は、国宝を守った灰宝神社の氏子たちに対して、感謝の意を表する礼状をしたためた。

 昭和20年(1945年)10月、連合国軍総司令部(GHQ)の5大改革指令に従って、治安維持法が廃止され、同時に特別高等警察の組織も廃止された。そして、連合国軍総司令部(GHQ)は、戦争犯罪人や職業軍人、戦争を推し進めた軍国主義者であれば、公務員や企業の経営者や教育者、マスコミ関係者など誰でも公職から追放した。その結果、昭和23年(1948年)5月までの間に、20万人以上の人々が公職を追放されることとなった。そして、連合国軍総司令部(GHQ)による公職追放は、連合国軍総司令部(GHQ)5大改革指令の1つである労働者の地位向上のための労働組合の奨励と同時に進んで行ったため、行政や一般企業、教育界、マスコミなどあらゆる業界において、共産主義者が幅を利かすという状態となった。

 この頃、世界では、アメリカと旧ソ連との間で冷たい戦争が激化しつつあった。日本がまだ戦争を継続していた昭和20年(1945年)2月、連合国軍によるヨーロッパの分割をめぐって、アメリカとイギリスと旧ソ連の間で行われたヤルタ会談において、アメリカと旧ソ連の間の対立は決定的となっていた。そして、昭和20年(1945年)7月、ポツダム宣言を作る際のポツダム会談によって、アメリカと旧ソ連の間の相互不信は、更に深まったものとなった。昭和20年(1945年)当時の連合国軍総司令部(GHQ)の占領下にあった日本において、共産主義者が幅を利かすような社会は、民主主義アメリカにとっては、あってはならない社会であった。

 連合国軍総司令部(GHQ)による公職追放が行われてから5年後の昭和25年(1950年)頃から、連合国軍総司令部(GHQ)は、5年前に公職を追放した、戦争を推し進めた軍国主義者を次々と社会に復活させ、代わりに、共産主義者を公職から追放するという政策に転換した。そして、昭和25年(1950年)以降、日本共産党員とその支持者とみなされた者たちが次々と退職に追い込まれ、1万人を超える人々が職を失った。廃止された特別高等警察という組織は、「公安警察」と名前を変えて復活した。公職を追放されていた多くの特別高等警察官が、その技能を買われて、公安警察官に復帰した。

 昭和20年(1945年)10月、45歳になる海軍主計大尉斉藤啓輔は、公職を追放された。そして、48歳になっていた愛知県警特別高等課の渡辺周五郎と中村佐吉は、愛知県警を罷免された。連合国軍総司令部(GHQ)は、昭和20年(1945年)10月当時に公職を追放された人々のリストを公務員や一流企業の人事関係者に回していた。従って、公職を追放された人々は、公務員や一流企業の就職試験や面接を受けても不合格となった。公職を追放された人々は、元の職場に復帰することができず、農業をやるか、職業安定所に通って、新しい仕事を見つけるか、自営業をするか、自分で考えて決めていかなければならなかった。海軍主計大尉であった斉藤啓輔も愛知県警特別高等課にいた渡辺周五郎も中村佐吉も、退職金なしで、仕事を辞めさせられたので、空襲で焼け野原になった東京や名古屋で、何かお金を稼ぐ方法を考えなければならなかった。

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