一 序

老僧の独白

「人は百年もたたないうちに死んでしまう。長寿を得たものも、確実に死んでいく。かたちのあるものは、滅びをむかえ、集まったものは散り散りになっていく。空に生まれ、空に死んでいく。人は皆、わたしもあなたも、この現象世界の中のどこにも、羽根を休める足場をみいだすことのできないまま、宙に舞いつづける蜂のようなものだ。財産も、家族も、肉親の愛情も、死のときにはなんの役にもたたない。あなたはそれをすべて捨てて旅立つのだ。だから、わたしたちが生きているうちにすべきことは、自分の心を成熟にむかわせることだけなのだ。そのことの重要さが、誰にも訪れる死の時に、わかる」

(「三万年の死の教え チベット『死者の書』の世界」(中沢新一著 角川文庫)50ページより抜粋)

 それから、筆者は、「文部省 史跡境界」の石標が点々と打ち込まれた細い道を、全速力で走って、戻って行った。筆者は、女坂に戻り、そして、江岩寺にたどり着いた。たまたま、江岩寺の住職が、法衣の姿で車から降りるのが見えた。

 愛知県の北西部に位置する小牧市に、人口約3万人を抱える桃花台ニュータウンがある。桃花台ニュータウンは、名古屋大都市圏の住宅需要の増大に対処するため、愛知県が、篠岡丘陵という、小牧市東部の丘陵地帯に建設したニュータウンである。

 昭和46年(1971年)、桃花台ニュータウン建設に伴う発掘調査が始まり、桃花台ニュータウン建設予定地である篠岡丘陵にて、7世紀(飛鳥文化が栄えていた頃)から12世紀(平安時代末期)にかけての古窯跡が、117基見つかった。これらの古窯跡を総称して、篠岡古窯跡群という。

 愛知県の中で、小牧市、春日井市、犬山市の一帯には、尾北古窯跡群と呼ばれる、時代的には、古代の古窯跡群が存在していた。小牧市東部の篠岡丘陵に存在した篠岡古窯跡群は、尾北古窯跡群の中で、中心的な役割を果たしていたと考えられている。

 つまり、7世紀(飛鳥文化が栄えていた頃)から12世紀(平安時代末期)にかけての古代には、現在の小牧市東部にある篠岡丘陵は、日本の窯業生産の中心地帯であった。平安時代、篠岡丘陵で生産された陶器は、畿内や関東の各地に運ばれ、京都にある中央政府において、主要な儀式に用いるよう定められたこともあった。

 その後、12世紀(平安時代末期)に入り、篠岡丘陵における窯業生産は、衰退を迎える。篠岡丘陵における窯業生産が衰退していった理由としては、窯業生産の原料となる粘土の不足と、貴族社会から武家社会へと社会の仕組みが代わっていったことが考えられている。そして、篠岡丘陵における窯業生産が衰退していった頃から、瀬戸や常滑での陶器生産が始まり、現在へと続くのである。

 さて、話は変わって、篠岡丘陵にある桃花台ニュータウンの中心地から北東方面に向かって、30分以上歩いた所に、天川山(大山)という山がある。その山の中腹に、古代から中世にかけて存在していた山岳寺院跡がある。この山岳寺院跡は、「大山廃寺」と呼ばれ、現在は、国の指定史跡となっている。

 この「大山廃寺」には、古くから、地元の人々による言い伝えが残されている。そして、地元の人々による「大山廃寺」の言い伝えの中で、後世になって、文献として残されたものがある。それが、「大山寺縁起」(寛文八年(1668年)的叟書)と「江岩寺縁起」(年代作者不詳)である。

 まず、「大山寺縁起」(寛文八年(1668年)的叟書)を、筆者が解釈した文章で、次に述べる。

 「昔、延暦年間に、伝教大師(最澄)が、この山(天川山つまり大山)に来て、山の中に小さな庵を建てた。そして、この庵を「大山寺」と名付けた。しかし、伝教大師(最澄)は、その後、どこかに行ってしまって、大山寺は、久しく中絶した。

 そして、永久年中に、今度は、比叡山法勝寺から玄海上人が来て、大山寺を再興した。玄海上人は、大山寺を、天台宗第一の巨刹となし、大山寺の名前を大山峰正福寺と改めた。大山峰正福寺は、寺としての活動を盛んにし、近隣の寺をことごとく配下の寺とし、大山三千坊といわれるほどの寺になった。

 ある日、美作国の住人で、平判官近忠という武道の達人が、仏道を志し、諸国を行脚して、天川山(大山)にたどり着いた。そして、平判官近忠は、玄海上人の弟子になることを欲した。平判官近忠は、玄海上人の弟子として活動していたが、天台の法もすぐに覚え、博識で、秀才だったので、玄海上人は、平判官近忠を賞賛して、玄法上人と名付けた。

 その後、玄海上人が亡くなり、玄法上人が大山峰正福寺を経営していくようになると、玄法上人があまりにも博識秀才なので、近隣の有力者たちは、こぞって、自分の子息を、大山寺に入れて、修業させた。大山寺に修業に入った有力者の子息の中には、三河の国の牛田という子供や、近江の国の佐々木という子供のように、一を聞いて百を察し、一度聞いたことはすぐに暗記し、理にも通じるような優秀な子供たちもいた。

 ところが、大山峰正福寺は、近衛帝の時代に行われた勅願の儀について、比叡山と法論を生じた。そして、比叡山の僧兵が大山峰正福寺に押し寄せて、寺に火を放った。大山寺の僧兵は、比叡山の僧兵と戦ったが、玄法上人は、本堂に安座し、指揮をせず、火が収まる様に念じたが、四方からの煙とともに、命を終わらせた。牛田と佐々木の二人の子供は、炎の中にかけて行って、命を落とした。大山峰正福寺は、仁平二年三月十五日に、大伽藍もひとつ残らず焼失した。

 その後、時が移り、近衛天皇の病気が重くなって、どの医者に見せても治らなかった。その頃、京都御所の内裏清涼殿に、夜ごと、異形の化け物が現れて、御所に住む殿上人を悩ませていた。それで、安部何某という者に相談して占わせた所、異形の化け物は、大山寺で焼け死んだ貴僧、高僧の魂であり、近衛天皇の病は、大山寺で焼け死んだ貴僧、高僧のたたりであるということであった。そして、異形の化け物は、弓で射て、退治しなければならないということになり、兵庫頭頼政に頼んで、弓で異形の化け物を射させよ、ということになった。

 兵庫頭頼政は、家臣の井の半弥太を連れて、御所の紫宸殿に出向き、異形の化け物が出てくるのを待った。そして、夜も深まった頃、陽明門の寅の方角より、光りながら、鵺のような声を発しながら、渡ってくるものがあった。兵庫頭頼政の家臣の井の半弥太が、そのものを獲ようと放った矢は、その化け物の真ん中を誤らずに射ぬき、化け物は、庭の上にどっと落ちた。兵庫頭頼政の家臣の井の半弥太がかがり火をかざして、その化け物を見ると、胴は虎、尾は蛇の形をしていた。兵庫頭頼政の家臣の井の半弥太は、「おのれ曲者よ。」と差し止めた。

 しかし、異形の化け物を退治しても、近衛天皇の病気は治らなかった。公卿たちが、どうしたら、近衛天皇の病気が治るか、皆で話し合った所、安部清業に任せてみてはどうかということになった。安部清業は、しばらく考え、次のように言った。

 「近衛天皇の病気が治らないのは、焼き払われた大山寺で亡くなった、稚児や僧侶たちの一念によるものである。従って、亡くなった稚児や僧侶たちの霊を祀る神社を建てたら、近衛天皇の病気も治るのではないか。」

 さっそく、鷹司宰相友行が、勅使として、久寿二年十一月十六日に大山に赴任した。そして、神社を建立した。その神社は、大山寺で亡くなった二人の子供を祀り、全ての子供が長生きすることを守る神社とした。これが、現在の児神社である。そして、近衛天皇の病気は、治った。

 神社の近くには、大山不動があり、金剛の滝、胎蔵の滝、王子の滝という3つの滝があった。

 焼き払われた大山峰正福寺の本堂は、十二間四方の大きさがあり、三十間の廻廊が廻りを巡っており、廻廊の左右には、お堂の数が十八あった。そして、本堂の前には、五重塔があった。大山峰正福寺の本堂は、比叡山僧兵の手によって、全て焼き払われたが、本堂の中に安置されていた弥勒菩薩は焼けなかった。また、太鼓堂、鐘堂等も焼け残った。大山峰正福寺は、鷹司宰相友行が都へ帰った後も神徳を称し、霊験あらたかであった。一切の罪や咎のない者を守りたもう。」

 次に、明治期に書かれたのではないかと推測されているが、作者年代不明の「江岩寺縁起」について、筆者の解釈した文章は、次の通りである。

 (大山寺が比叡山の僧兵によって、一山まるごと焼き払われて、廃寺となったところまでは、「大山寺縁起」と内容は同じである。)

 「その後、様々な諸宗の高僧が大山を訪れて、修行されたが、当山に伽藍を建立するまでには至らなかった。しかし、その当時、大山寺の中の寺屋敷に洞雲坊という寺があった。洞雲坊には、秋岩恵江という僧がいて、仁平二年に焼け残った仏像などを毎日、恭敬供養していた。

 第百六代天皇正親町天皇の時代、秋岩恵江は、古の大山峰正福寺の再興を願わんと、その当時の京都花園妙心寺を開いた高僧恵玄禅師法孫十洲宗哲大禅師を招いて、中興と仰いだ。そして、洞雲坊という寺の名前を洞雲山という山号に改め、秋岩恵江和尚の名前から二字を取って、寺号を、江岩寺と改称した。そして、恵玄禅師法孫十洲宗哲大禅師を勧請開山と仰ぎ、秋岩恵江和尚を第二世とした。

 洞雲山江岩寺は、法灯を連続して、今に至っている。」

 現在、江岩寺は、大山廃寺のある山のふもとにひっそりと建ち、大山寺の法灯を守っている。江岩寺の住職は、江岩寺が建立された元亀二年(1570年)以来、臨済宗妙心寺派から、何年かおきに派遣されてくる。江岩寺が蔵する、大山廃寺の物と思われる主な文化財には、塔跡より出土した瓦三種、薬師如来、十二神将、四天王、誕生仏、千手観音、地蔵菩薩、太鼓胴、宝筐印塔、鏡、書画等がある。

 そして、このような言い伝えが残る大山廃寺の発掘調査が行われたのは、昭和50年(1975年)から昭和53年(1978年)にかけてのことである。この間、5回の発掘調査が行われ、次のようなことがわかった。

 大山寺には、仏教が日本に伝来した6世紀の頃から、何らかの建物が建っていた可能性がある。その後、7世紀末から8世紀頃の白鳳文化や天平文化の時代に、大山寺の中には、軒丸瓦や軒平瓦を戴く三重塔か五重塔が建っていた。そして、同じ時代に、現在の児神社境内には、塔と同じくして、白鳳文化や天平文化の瓦葺の建物が建っていた。

 その後、塔は廃絶し、その他の瓦葺建物は、中絶した。しかし、10世紀末から11世紀前半の平安時代中期(藤原氏による摂関政治が栄えていた頃)になると、現在の児神社境内には、非瓦葺掘立柱建物が建設された。そして、11世紀末(平安時代末期、院政が始まった時代)になると、現在の児神社境内には、製鉄施設が造営されるなど、それまでとは、少し雰囲気の違う施設の建設が進む。そして、この時期の建物が建つ整地土上面には、焼土面が見られ、この時期の施設の火災による廃絶がうかがえるのである。

 この後、再び、大山寺の中に建物が造営されるのは、鎌倉時代以降となる。現在の児神社境内において、13世紀後半(鎌倉時代の中で、北条氏による執権政治が始まった頃)には、焼失したと考えられる古代の施設の上に、大規模な礎石建物が出現する。そして、その後、多くの堂宇が建ち、13世紀後半から14世紀頃(室町時代)が、大山寺にて多くの堂宇が建つ、大山寺の最盛期と見られる。

 14世紀以降については、発掘調査で遺構は発見されておらず、出土遺物の年代から考えて、織田信長による天下統一が始まった安土・桃山時代には、大山寺は衰退したと見られる。そして、この頃、大山廃寺のふもとにある江岩寺という寺が、大山廃寺の遺物を保管するようになり、現在に至っている。

 ところで、この発掘調査において、出土した遺物には、様々な瓦や土器、鉄製品、磨製石斧、砥石、宋銭などがあったが、寺院跡であるにもかかわらず、仏像が出土したという報告がない。言い伝えでは、大山寺は、「大山三千坊」とまで言われた巨寺であるのに、江岩寺に保管してある仏像だけが、大山寺の仏像なのだろうか?それとも、長い歴史の中で、盗掘されつくしたのだろうか?

 この小説「法灯を継ぐ者」は、古代から中世末までの大山寺の栄枯盛衰の様子を、参考資料をもとにして、創作した小説である。筆者がこの小説を書く際、大山寺の言い伝えや大山廃寺発掘調査報告書を参考にして書いたことは言うまでもない。しかし、大山廃寺発掘調査報告書が、大山廃寺は、古代から中世末まで連続する山岳寺院跡であると結論付けているのに対して、大山寺の言い伝えは、平安時代の部分と安土桃山時代の部分の記述のみに限られている。それでは、平安時代と安土桃山時代の間の時代には、大山寺において、一体、どんなことが起こって、大山寺は中世にも隆盛を極めた寺となったのだろうか。

 筆者は、その謎を解く鍵を、大山廃寺から歩いて30分ほどの所(桃花台ニュータウンの隣にある大草という地区)にある、「大久佐八幡宮」という神社に言い伝えられている歴史から発見した。「大久佐八幡宮」の神社に言い伝えられている歴史とは、次のようなものである。

 「大久佐八幡宮は、第56代清和天皇の時代の貞観十三年(871年)十一月に、駿河国(現在の静岡県東部)井山出身の井山八郎がこの地に移住し、古宮という地に建立されたのが始まりである。その後、たまたま、保元・平治の乱に敗れてこの里に逃れてきた源家の末裔波多野次郎の嫡男が、大久佐八幡宮にたどり着いて、深く帰依し、一族郎党の武運長久と敬神崇祖の涵養を計る中心となした。しかし、波多野一族は、世の中では、平家が権勢を誇っていることを恐れて、大久佐八幡宮にて潜伏生活を送っていた。

 波多野一族が大久佐八幡宮にて潜伏生活を送って、二十有余年が経ち、源頼朝率いる源氏軍は、ついに、平氏軍を、壇ノ浦にて滅亡させた。そして、平氏の壇ノ浦滅亡の一報がこの大草に伝わるや、波多野一族は、安堵の胸をなでおろし、真昼の来る思いを以て、古宮にあった大久佐八幡宮の社殿を、文治元年(1185年、平家滅亡の年)大草字東上の広大な地に遷した。祭文殿、拝殿、水舎など必須なる造営物のほとんどを完備して、遷宮を行ったので、大久佐八幡宮は、この尾北地方における大社としての格式が備わった。源氏一族の支援を受けて、東上の地に壮大な神社を造営した大久佐八幡宮では、毎年旧暦九月九日の例祭には、御輿遊幸や流鏑馬が行われた。

 しかし、その後、慶長年中(1596年から1615年の間)に、豊臣秀吉の太閤検地によって、神社の社領三十石を没収されてしまった。太閤検地による社領の没収の理由については、はっきりしたことはわからない。しかし、太閤検地による社領の没収によって、当時神社にて行われていた神事もことごとく衰え、古札を失ってしまった。

 しかし、大久佐八幡宮は、神社の規模は衰えたが、潰れることはなかった。江戸時代に入り、歴代の尾張藩主は、源家の末裔であることもあって、大久佐八幡宮を崇敬し、尾北の鬼門防除の神社とした。そして、慶応三年(1867年)、時の神祇管領吉田家について、神階を請い、勅旨を以て、正一位を賜わった。

 その一年後、時代は明治時代となり、明治政府は、大久佐八幡宮の格付けを、大山廃寺跡に建立された児神社と同じ村社とした。しかし、由緒あるわが鎮守の神が村社であることは納得できないとして、大久佐八幡宮は、大正12年2月、郷社昇格願を提出した。そして、郷社昇格願を提出してから約15年後の昭和12年10月、大久佐八幡宮は、郷社に列せられた。

 しかし、その後、日本は、太平洋戦争に突入し、敗戦の日を迎えた。大久佐八幡宮が郷社に昇格してから15年後、明治時代に行われた神社の格付けは廃止となり、神社は、全て皆、平等に、宗教法人となった。「宗教法人大久佐八幡宮」は、国の神社から氏子の神社へと移行して、現在に至っている。」

 さて、このような歴史を持つ大久佐八幡宮には、社宝も数多くあったが、昭和12年当時の記録に残るもののうち、現在6点の社宝が、木製の空の収納箱が残されたまま、所在不明となっている。

 これらの紛失した社宝の中で、筆者が、特に興味深く感じた社宝がある。それは、二口の白鞘刀である。

 一つは、無銘の白鞘刀で、記録によれば、刃渡り一尺八寸三分(約55cm)の長さがあり、来国次の作である。昭和13年9月に書かれた、鑑定界の権威である日本刀剣会顧問本阿弥光鐐の鑑定書が有る。その結果、この刀は、700年以前の作である。国宝級の逸品にして、時価六千円の得難き至宝にて、尾張中納言様御厄除祈願の時、当八幡宮への奉納物である。

 もう1つは、刃渡り一尺三寸五分(約40cm)の長さのもので、達磨正宗相川綱広の作である。焼刃刀身の反りといい、実に巧妙にして、本阿弥光鐐の推賞したものである。もう1つの刀とともに宝蔵に納められている。

 一体、これら2つの白鞘刀は、いつ、紛失したのだろう。この小説を書くために参考にした文献「大久佐八幡宮伝記」(波多野 孝三著 編集協力 大久佐八幡宮文化財保存会 平成十三年(2001年)七月発行)において、著者の波多野氏は、「はじめに」のページで、次のように書いている。

 「昭和60年(1985年)、大草区民の間から、神社の荒れた姿は放置できないという声がわきあがり、大久佐八幡宮修復委員会が発足した。奉賛趣意書を配布して、寄付を募ったところ、約四千万円の浄財が寄進された。大久佐八幡宮の氏子が約四百戸であることを考えると、氏子の神社に対する求心力がよみがえった明かしであろう。

 「大久佐八幡宮伝記」の著者は、昭和61年(1986年)に行われた大久佐八幡宮の昭和の大修復の役員の一人として、全造営物の修理に関わったが、その時、神社の歴史を伝える棟札など貴重な資料が、数多く保存されていることを知った。そして、三十六歌仙絵札の再現模写事業に併行した調査では、神社の歩みを伝える記録や古文書など貴重な資料が残されていることがわかった。文書類は無雑作に木箱に納められていた。そして、昭和十二年の社宝記録簿に記載されていながら、現在所在不明となっている文書・工芸品がそれぞれ数点あることも判明した。

 貴重な資料が散逸することは、まことに悲しく残念だが、貴重な資料の散逸の原因は、保管方法に問題があると言うよりも、私たち氏子が、神社の歴史的な歩みや、所蔵する文化財について、無関心、無知であったことが、最大の原因であると思う。奇しくも、今年数え年の傘寿(80歳)を迎えた「大久佐八幡宮伝記」の著者は、これらの貴重な資料を取りまとめた図録「大久佐八幡宮伝記」を、時には私見を交えた若干の解説を付記して、ご紹介することに思い至った。そして、小牧市内の大学や小牧市の文化財審議委員、大久佐八幡宮文化財保存会の役員等にご協力をうけ賜わり、図録「大久佐八幡宮伝記」は完成した。」

  ところで、この文章に出てきた、「三十六歌仙絵札」とは何だろうか。図録「大久佐八幡宮伝記」による「三十六歌仙絵札」の説明は、次の通りである。

 「嘉永二年(1849年)に、江戸麹町の池田屋吉兵衛が、大久佐八幡宮にて開かれた歌会のために、大久佐八幡宮に奉納した、三十六歌仙絵札が、紛失せずに、現在の大久佐八幡宮に残っている。現在の大久佐八幡宮の様子からは信じられない話だが、江戸時代幕末から明治時代にかけて、大久佐八幡宮の鵜飼家宮司は、神社に正一位という位をもらうために、危険を冒して京都往復を繰り返し、大久佐八幡宮においては、歌会を盛んに催していた。そして、256首もの歌が、福島県から熊本県までの広範囲な地から、大久佐八幡宮に寄せられていた。大久佐八幡宮に三十六歌仙絵札を奉納した江戸麹町の池田屋吉兵衛も歌を詠む文化人の一人であったのだろう。現在は、保存上の理由により、三十六歌仙絵札の写真が、大久佐八幡宮拝殿に掲示されている。」

 話は変わって、この小説「法灯を継ぐ者」を書くにあたって、参照した参考文献の話をする。参考文献は、小説の最後にまとめて記すが、この小説「法灯を継ぐ者」の執筆を飛躍的に高めた分岐点となる参考文献がいくつかある。

 まず、「大山寺縁起」を解釈し、その上に筆者の物語を作り上げていく上で、非常に重要な役割を果たしたのは、藤原信西の日記「本朝世紀」と、藤原頼長の日記「台記」である。この2つの日記は、多くが、京都の戦乱などで焼失したが、近衛天皇の時代の日記は、奇跡的に現在まで残っていた。彼ら平安時代末期の政治の中枢にいた者の日記を読むと、大山廃寺の言い伝えの訳のわからない部分が、小説になるのである。筆者は、藤原信西と藤原頼長には、感謝しなければならない。

 また、室町時代、隆盛を誇っていた大山寺が、やがて、ゆっくりと衰退していくきっかけとなったものが、この小説「法灯を継ぐ者」の中では、児神社に残された石製の手洗い鉢である。そして、この手洗い鉢から、筆者の頭の中に小説をひらめかせてくれたのは、大山寺の塔の礎石跡を発見した、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事の小栗鉄次郎が、昭和3年に書いた「大山寺跡」の調査報告書である。この報告書は、昭和50年(1975年)に大山廃寺が発掘調査を受ける前の児神社境内やその周りの様子を刻銘に記録しており、昭和50年(1975年)に行われた発掘調査が、大山廃寺の歴史を明らかにした反面、発掘調査によって失われた物もあることを、現在の私たちに教えてくれる。

 昭和3年に小栗鉄次郎が書いた「大山寺跡」の調査報告書の記述をもとに、成立年代作者不明の「永享記」という古典を読むと、室町時代の幕府と反体制派や比叡山延暦寺との争いが、中世、愛知県に再興した大山寺に暗い影を落としつつあったことがわかる。

 そして、安土・桃山時代に彗星のように現れた戦国武将織田信長は、実は、室町幕府の反体制派や比叡山延暦寺に対しては、室町幕府の政策を引き継いでいたことが、「信長公記」(太田牛一著)を読むとわかる。織田信長が、室町幕府や朝廷の権威には従順であったという事実は、信長の部下の豊臣秀吉や徳川家康にも引き継がれていく。

 この小説「法灯を継ぐ者」は、以上のような参考資料に基づいて、筆者が創作した小説である。  

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