一 元特別高等警察官の告白

「歴史の中には個人の思惑と違う、時にはそれに反することもある一つの流れがあって、事態は一進一退を繰り返しながらも、全体としては一つの方向にかなり不可避的に動いていくという現実を歴史家は実感としてもっている。」

(大学通信教育共通教材「一般教育・哲学」(財)私立大学通信教育協会編集 昭和六十一年三月発行 第T部第1章 歴史の哲学的問題(神山 四郎) U 歴史における自由と必然 4.場面の論理と全体の思弁のページより抜粋。)

 昭和45年(1970年)10月4日日曜日の昼11時、名古屋市栄にある名古屋国際ホテルの中の1つの集会室で、「中村様主催 有志の会」が催されていた。名古屋国際ホテルは、6年前に建てられた新しいホテルで、名古屋市の中心地栄にある。交通の便利がいい場所で開かれるということもあって、有志の会の出席者の数は、案内状を出した40人に近い30人と、まずまずといったところだった。そして、この有志の会に出席する人への案内状には、服装の規定は書かれていなかったが、なぜか、出席者は、全員、ネクタイを締めたスーツ姿の初老の男たちばかりであった。

 この有志の会の主催者である中村佐吉から案内状をもらって、ホテルの会場に駆け付けた渡辺周五郎は、受付をすますと、入口に一番近い所に置いてあった椅子に座りこんだ。渡辺周五郎もまた、丸いメガネをかけて、グレーのスーツに白いシャツを着て、細い紺色のネクタイを結んで、黒い革靴を履いていた。この有志の会は、立食形式のパーティーのようだが、73歳になる渡辺周五郎は、どうしても、手でネクタイを緩めて、椅子に腰をおろしてしまうのだった。この有志の会に出席している他のメンバーも、どう見ても全員60歳は越えている感じであって、立食形式のパーティーにもかかわらず、ほぼ全員、部屋の隅に用意されていた椅子を持ち出して、腰かけていた。

 有志の会が始まる11時を過ぎると、ホテルの従業員が集会室の扉を閉めに来て、すぐに出て行った。その後、受付をしていた、この有志の会の主催者である中村佐吉が、マイクを握って、有志の会の始まりを告げた。主催者の中村佐吉は、四角い黒ぶちのメガネをかけて、紺色のスーツに白いシャツを着て、細いこげ茶色のネクタイを結び、黒い革靴を履いた、渡辺周五郎と同じ73歳になる老人だが、この会の出席者の中では、一番元気そうな老人であった。

 「さあ、みなさん、座ってばかりいないで、立ってください。みなさんは、25年前まで警察官のエリートであった者の集まりでしょう。」

 そう言われて、そこにいた出席者は、全員、苦笑いしながら、しぶしぶ、席から立ち上がった。主催者である中村佐吉は、続けた。

 「みなさん、近くにあるコップを持って、ビールを注いでください。」

 そして、そこにいた出席者が全員コップにビールを注ぎ終わったことを確認すると、中村佐吉は、乾杯の音頭を取った。

 「さあ、我々の25年ぶりの再会を祝して、乾杯!」

 出席者たちは、全員、「乾杯!」と口々に言うと、ビールを一口飲んで、コップをテーブルに置き、主催者である中村佐吉の労をねぎらって、拍手をした。中村佐吉は、その拍手に答え、こう続けた。

 「今日は、25年ぶりの再会ですから、みなさん、積もる話もあるでしょう。あとは、食事をとりながら、ご歓談ください。」

 渡辺周五郎もほかのメンバーと同じように、ビールを片手に、ホテルの食事を楽しみながら、話をした。有志の会には、渡辺周五郎が知っている顔も知らない顔もいたが、話題は、多くが、大阪万博の話だった。渡辺周五郎も大阪万博には行ったが、人気のパビリオンをまわることなど、到底できず、見たかった月の石も見ることができなかったので、「万博で月の石を見た。」というメンバーがいると、夢中になって、彼の話を聞いた。

 渡辺周五郎が、話し疲れて、椅子に座って食事をしていると、主催者の中村佐吉が渡辺周五郎に話しかけてきた。

 「久しぶりだな。元気にやっているか?渡辺は、確か、特別高等警察官が廃止されてからしばらくは、喫茶店を経営していたと聞いたが。今でも店をやっているのか?」

 中村の問いに渡辺は答えた。

 「いや、この歳になって、店に立つのはもう無理だ。今は、娘に店を切り盛りしてもらっているよ。中村は、今は何をやっているんだ?こんなに、僕の知らないメンバーまで集めることができる所を見ると、きっと、今でも立派な仕事をしているんだろうな。」

 中村は、答えた。

 「今は、名古屋市の市議会議員をしている。議員の仕事をしていると、俺の知っている顔をちょくちょく見るよ。あの時、海軍主計大尉だった斉藤啓輔が、今では、立派な国会議員をやっていることくらいは、君もニュースで聞いて、知っているだろう?」

 そう言うと、中村は、渡辺の隣に椅子を引っ張ってきて、渡辺と向かい合った。

 「ところで、渡辺は、特別高等警察官が廃止されてからは、店の商売にかかりっきりで、俺たちとはあまり話をしなかったな。集まりの手紙を送っても欠席の返事ばかりだったし。今日は、やっと、俺たちの誘いに乗ってくれて、感謝しているよ。」

 中村がこう言うと、渡辺は答えた。

 「店が忙しくて、それどころじゃなかった。特別高等警察官が廃止されてからは、僕の収入は店の売上だけだったしな。子供が社会人として働いてくれたから、家族の者は何とか生活してきた。その子供たちも全員結婚して、孫も生まれている。店の方も子供たちに任せることができるようになって、僕は、今日、久しぶりに、中村の誘いに乗る気になったんだよ。」

 すると、中村は、渡辺にこう言った。

 「そうか。日本が戦争に負けて、職場が廃止され、お互い、この25年間は、大変だったな。渡辺も特高(世間の人々は、特別高等警察官のことを特高と呼んでいた。)出身ということで、風当たりが強かっただろう。よく、店が持ちこたえられたな。でも、皆が言うように、戦後25年も過ぎると、もはや、戦後ではないな。」

 中村のこの言葉に、渡辺は、こう答えた。

 「僕が特高出身だということは、家族以外の者には、誰にもしゃべらなかった。もちろん、家族の者にも口止めしておいた。そうでなければ、店を続けることはできなかった。特高出身の者が、戦後、どのような仕打ちを受けてきたか、風のうわさには聞いていたからな。」

 すると、中村は、こう言った。

 「渡辺は、ただ、運がよかっただけだよ。」

 その時、突然、中村が「あっ、そうだ、思い出した。」と言って、渡辺をまっすぐに見て、渡辺にこう聞いた。

 「渡辺は、小栗鉄次郎という男のことを覚えているか?俺たちが特高時代に、追っていた奴だが。」

 渡辺は、突然、中村の口から出たこの名前に少し戸惑ったが、すぐに、中村の方に向き直って、こう言った。

 「小栗鉄次郎か。よく覚えているよ。上からの命令通り、小栗を愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事からはずすことができて、小栗と会うことがなくなってからも、僕の記憶の中から小栗鉄次郎がいなくなったことはない。僕の記憶の中の小栗は、25年前の小栗のままだが、僕が小栗を辞任させた25年前に、小栗は64歳だったからなあ。あのおっさん、まだ、生きているか?」

 渡辺に聞かれて、中村は、こう答えた。

 「俺は、戦争が終わって、特高が廃止になった後、しばらくしてから名古屋市議会議員選挙に立候補して、以後、市議会議員の職についているのだが、仕事をしていく上で、小栗の顔はちょくちょく見たよ。小栗は、愛知県史跡名勝天然記念物調査会主事を辞任してからしばらくは、愛知県から調査委員を委託されていたみたいだが、今から15年くらい前に、猿投町会議員になった。でも、2年前に病気で亡くなったよ。88歳の高齢だったからな。もっと早く、渡辺に知らせてやりたかったが、渡辺は、俺たちに会おうとしなかったからな。」

 「そうか、あのおっさん、もう、生きてないのか。」

 渡辺周五郎は、中村佐吉から小栗鉄次郎が2年前に亡くなったという話を聞いてから、心の中で、こうつぶやいていた。

 「あのおっさん、自分が調査会主事を辞任する日、たまたま愛知県庁の中で僕と鉢合わせしたときに、僕にこうささやいた。

 「おい、この世の中で、永久不滅なものなんて何一つないんだよ。栄えるものは必ず滅びるというのが、世の中の常なんだよ。昔から、日本の権力者は、必ず滅びたから、歴史が動いてきたんだ。今後、お前がどういう人生を送って行くのか、全くわからんぞ。」

 あの日以来、おっさんに会うことはなかったが、確かに、おっさんの言う通りになったな。」

 渡辺は、中村佐吉主催の有志の会から家に帰る途中、ずっと、中村から2年前に亡くなったと聞いた小栗鉄次郎のことを考えていた。そして、帰宅した渡辺は、スーツを脱ぎ、浴衣に着替えて、ボーっとテレビを見ていた。すると、その時、たまたま、テレビ司会者の話したこんな言葉が渡辺の耳に飛び込んできた。

 「我々の番組の中で、昔、特別高等警察官をされていた方のインタビューを募集しています。もちろん、匿名にいたしますので、ぜひ、ご応募をお待ちしています。」

 有志の会に出席する前の渡辺周五郎であれば、テレビから流れてくるこんな言葉は全く無視していただろう。しかし、有志の会で、渡辺が特高時代に追っていた小栗鉄次郎が2年前に亡くなっていたという話を中村から聞いてから、渡辺の心の中には、確実にある変化が起こっていた。渡辺は、電話の前に立って、N放送局の電話番号を回していた。

 「はい、こちらは、N放送局です。」

 若い女性の声が電話口に聞こえて、渡辺周五郎は、

 「今、テレビの番組で、特別高等警察官のインタビューを募集しているのを聞いて、電話をしてきた者ですが。」

と答えた。すると、その女性は、  

 「はい、ただいま、この電話を担当の者に回しますので、お待ちください。」

 と言った。渡辺がしばらく待つと、番組の担当者が電話に出た。

 「お待たせいたしました。私は、N放送局の番組ディレクターの筒井と言う者です。昔、特別高等警察官をしておられた方のインタビューを受けていただけるという件ですね?お待ちしていました。もちろん、番組の中で、貴殿の顔と名前は出しません。まず、お名前の方をお聞きして、よろしいでしょうか?渡辺周五郎様ですね。連絡先もお聞きしてよろしいでしょうか?はい、ありがとうございます。突然ですが、渡辺様、11月2日の日は、スケジュールの方は、ご都合どうでしょうか?ああ、午前中なら、大丈夫ということで。それでは、お手数ですが、11月2日の午前10時にN放送局の方にご足労願えますか?ありがとうございます。11月2日の午前10時にN放送局の受付に来てもらえましたら、番組ディレクターの筒井を呼んでいただけますか?わかるようにしておきますので。はい、では、当日、N放送局でお待ちしています。お電話、どうもありがとうございました。」

 「やけに、丁寧な対応だな。よほど、インタビューを受ける奴がいないのだろうな。」

渡辺周五郎は、心の中で、こう、つぶやいた。

 「でも、黙っていたら、後世に生きる者たちには何も伝わらないだろう。小栗鉄次郎はいつも僕にこう言っていた。「私は、事実を知らせるのだ。」と。」

 しかし、この時点では、世間に「事実を知らせる」ことがいかに難しいことであるのか、渡辺にはわかっていなかった。

 昭和45年(1970年)11月2日午前10時、渡辺周五郎はN放送局の受付にいた。この日、渡辺周五郎は、中村佐吉主催の有志の会に行ったときと同じ、丸いメガネをかけて、グレーのスーツに白いシャツ、細い紺色のネクタイと黒色の革靴といったいでたちで、テレビ局に入った。しばらくすると、番組ディレクターの筒井と言う者が来て、渡辺は、Nテレビ局の1つの部屋に通された。番組ディレクターの筒井は、30歳位の若者で、白いシャツに茶色のズボンといったラフないでたちで、ネクタイも締めていなかった。番組ディレクターの筒井と言う者は、渡辺周五郎にこう言った。

 「私たちの生きるこの時代は、戦後25年を過ぎ、「もはや、戦後ではない。」と言われるほどになりました。そこで、私たちは、「特高の真実」という番組を企画し、戦前に存在し、今なお、ベールに包まれている「特別高等警察」にスポットをあてて、番組の中で、ベールに包まれた部分の少しでも明らかにできたら幸いであると考えています。

 これから、渡辺様には、テレビカメラの前に座っていただきます。そして、渡辺様に私どもの方からいくつか質問いたしますので、その質問に答えていただきたいと思います。もちろん、テレビ番組として放映される時には、渡辺様の顔も出しませんし、名前も出しませんし、声も変えます。それでは、渡辺様、お願いいたします。」

 そして、渡辺は、テレビカメラの前に座った。渡辺と向き合っていたテレビカメラの横には、番組ディレクターの筒井が座り、渡辺に質問をした。

 「渡辺様は、いつごろ、特別高等警察の部署に配属されたのでしょうか?」

 「私は、20代のうちは、普通の警察官をしておりましたが、30歳を過ぎた昭和3年(1928年)に突然、愛知県警察部の特別高等課に配属になり、昭和20年(1945年)10月に特別高等課が廃止されるまでの17年間、特別高等課に所属していました。」

 「渡辺様は、今は、何をしておられるのですか?」

 「昭和20年(1945年)10月に特別高等課が廃止されてからは、喫茶店の経営者になり、現在は、店を娘にまかせて、老後の生活を送っています。」

 「渡辺様が愛知県警察部の特別高等課に配属されていたとき、渡辺様はどのような仕事をされていましたか?」

 「上司が、日本の国体(天皇制)を崩壊させる可能性のある危険人物を特定して、私に知らせてきますので、その人物の行動を調べ、必要があれば、社会から排除するという仕事をしていました。しかし、私の感じでは、上司が私に知らせてくる日本の国体(天皇制)を崩壊させる可能性のある危険人物とは、天皇制に反対する共産主義者だけではないようでした。上司がどのような基準で危険人物を特定していたのか、部下の私にはわかりませんが、とにかく、私の仕事は、上司の指定する人物の日常行動を調べ上げて上司に報告し、上司が必要であると判断したときは、その人物を検挙するか、仕事を辞職させることでした。」

 「渡辺様の仕事の対象は共産主義者だけではなかったと感じたとのことですが、共産主義者以外に、どのような人々が、危険人物として、渡辺様の仕事の対象となったのでしょうか?」

 「私の仕事の対象者として、比較的多かったのが、学者や教員の仕事に従事していた人々です。戦争が激しくなってくると、反戦主義者も仕事の対象になりました。」

 「渡辺様は、愛知県警察部の特別高等課が廃止されてから、現在までの間で、様々な人々からバッシングを受けましたか?」

 「私は、自分が昔、愛知県警察部の特別高等課で仕事をしていたことを隠して生きてきましたから、バッシングを受けたことはありません。しかし、昔、特高の仕事をしていたということがばれて、仕事を変わった者がいたという話は、昔の仲間から聞いたことがあります。ですから、この番組を制作するときに、私の名前と顔は伏せていただくよう、お願いします。」

 「もちろん、渡辺様の顔と名前は伏せさせていただき、声も変えさせていただくつもりです。

 今日は、お忙しい中をわざわざ当局までお越しいただきまして、ありがとうございました。今回のインタビューのお礼といたしまして、薄謝と記念品をお持ち帰りいただきますので、帰りに、受付に寄ってください。今回の渡辺様のインタビューを交えた「特高の真実」という番組は、2月20日午後11時から、N局にて放映する予定ですので、よろしければ、ご覧になってください。」

 「ちょっとしたアルバイトだな。」

 N局の受付でもらった寸志と記念品が詰まった紙袋を片手に持って、渡辺周五郎は、帰路の地下鉄に乗っていた。そして、渡辺は、地下鉄に乗っている間、ずっと、考えていた。

 「僕のインタビューは、特高の真実を伝えているのだろうか?というより、僕は、愛知県警察部の特別高等課の歯車の一つであって、特高の上層部については、何一つ知らなかったということが、今日のインタビューでわかったな。

 僕の追っていた危険人物の一人である小栗鉄次郎は、辞職させることで仕事に決着がついたが、僕は、上層部から、なぜ、小栗鉄次郎が危険人物として僕の対象者になり、なぜ、小栗を辞職させる必要があったのか、はっきりしたことは何も聞かされていなかった。そんな僕のインタビューで、特高の真実を語ることなんてできないな。僕のインタビューで語ることができるのは、僕という人間の経歴だけだな。」

 そして、自宅にて、2月20日午後11時からのN放送局の番組「特高の真実」を見た渡辺周五郎は、この番組は、やはり、「特高の真実」を語っていないな、と思った。ただ、インタビューを受けた渡辺周五郎の名前と顔は伏せられていて、声も変えられていたという点で、渡辺は、プロデューサーの筒井と言う者が信頼できる奴だと思ったに過ぎなかった。愛知県警察部特別高等課で働いていた渡辺ですら、全体像を把握していないのに、全く関係のない者が、自分がかつて働いていた職場の真実を把握することは不可能であると渡辺は考えていた。

  大正14年(1925年)、国体(天皇制)の変革と私有財産制度を否定する思想(共産主義)を取り締まる「治安維持法」という法律が公布され、同時に、男子25歳以上を対象にして、普通選挙法が制定された。この普通選挙法の制定により、昭和3年(1928年)、第1回普通選挙が行われたが、この選挙では、労働者や農民大衆の政治的意識の高揚と共に、労働組合の組織化・耕作権の確保・中国への侵出反対を主張する労働農民党などの無産政党が49万票を獲得し、8名の議員を政界に送ることとなった。この選挙中に、日本共産党は、労働農民党に便乗して、天皇制廃止を主張する選挙運動を展開した。政府は、労働者や農民大衆の反戦運動と左翼的活動に対処し、社会運動の弾圧を強化するため、治安維持法を改正し、全府県の警察の中に「特別高等課」を設け、主な警察署には、「特別高等係」を配置した。

 警察の「特別高等課」は、「特高」と呼ばれ、過酷な尋問や拷問を行って、被疑者の自白を引き出したという記録が数多く残っており、当時の一般市民には恐れられていた存在だった。反政府的とみなされた団体や個人に対する監視や取り締まりが、特高によって行われた。しかし、どのような人々を「反政府的」とみなすのかというのは、個人によって、考え方が違う。この点を考えると、「職場の中のあいつが気に入らないから、反政府的とみなして、あいつをこの職場から追放する。」ために特高を利用しようとする者がいた、ということも考えられる。

 現在の私たちは、自分と異質の者を排除する組織は、弱い組織であるということを知っている点で、昭和初期の時代の人々よりも進化していると言える。強い組織であればあるほど、自分とは異質な様々な人々が存在している。弱い人間であればあるほど、自分とは異質の人間を遠ざけてしまう。これが、社会の人間関係というもので、昭和初期の時代は、日本政府がそのまま、どろどろした人間関係の真っただ中に存在していたと言える。警察の特別高等課は、反政府的な者たちを取り締まるという仕事をしていたのだが、実は、警察の特別高等課の仕事は、当時のどろどろした人間関係に対処していた仕事であったということも言えるのである。

 渡辺周五郎は、自分が出演したテレビ番組を見終わると、机の上に肘をついて、考え込んだ。

 「事実を知らせるということは、難しいことだな。少なくとも僕にはできないな。いつも僕に「私は、事実を知らせるのだ。」と言っていた小栗鉄次郎は、本当にまじめに仕事をしていたのだろうな。しかし、なぜ、僕の当時の上層部は、小栗を辞職させよという命令を僕に下したのだろうか?」

上へ戻る