一 やまない雨

「地図を広げてシャンバラを探しても見つけることは出来ない。それはカルマと徳の熟した者以外には見ることも訪れることもできない清浄な土地なのである。」

(ダライ・ラマ14世)

 明治元年(1868年)5月11日、小牧代官である須賀井重五郎は、羽織・袴の姿で、番傘をさして、入鹿池の河内屋堤の上に立っていた。番傘をさしていても、重五郎の袴の裾や履いている足袋や草履は、雨でぐちゃぐちゃに濡れている。重五郎には、番傘にたたきつける雨の音が異様にうるさく感じられた。重五郎が河内屋堤の上にしゃがんで手をかざすと、入鹿池の水は、すぐに重五郎の手に触れることができた。再び立ち上がった重五郎は、後ろで立っている2人の小牧奉行所の者に、できるだけ大声を出して、こう問いかけた。

 「このままでは、入鹿池の水が堤からあふれ出てしまう。杁を開放して、池の水を流した方がいいのではないか?」

 すると、後ろで立っていた小牧奉行所の者のうちの一人が、重五郎の耳元で、大声で、こう答えた。

 「この入鹿池の下流にある村の者たちは、「4月末から降り続く雨で田畑の水がいっぱいになっている、これ以上水がきたら、田や畑が悪くなってしまう。」と言って、杁の開放には反対しているそうです。入鹿池の水は、できるだけ、池に溜めたままにしておいてほしい、というのが、村の者たちの要望です。そうはいっても、4月から雨は降り続いていたので、名古屋にある杁方奉行所の許可を得て、捨て水をしたり、杁の一番戸と連子を開放したりして、池の水を流してきました。しかし、今、入鹿池の水高は、16mを越えています。杁を完全に開放するためには、杁の守役に池の中に入ってもらって、杁にある樋を開けてもらわなければなりませんが、これほど、池の水が増えては、人夫も恐ろしがって、もう池の中に入ってくれませんよ。」

 そして、重五郎の後ろに立っていたもう一人の奉行所の者が大声でこう答えた。

 「昨年、徳川幕府が大政を奉還して、明治天皇が即位し、今後は、摂政・関白・幕府などを廃止して、新政権が樹立されるという王政復古の大号令が出されましたよね。今年の4月に江戸城は無血開城され、今、徳川幕府勢力が彰義隊を率いて新しい政府軍と戦っていますが、恐らく幕府軍は敗れるでしょう。尾張藩も、もうなくなってしまうのです。私たちは、いつまで、今の状態でいられるのでしょうか。」

 須賀井重五郎は、少し考えてから、後ろに立っていた2人の奉行所の者に指示を出した。

 「土俵を堤の上に積んで、できるだけ、池の水を流さないようにしよう。人夫を雇って、早急に、入鹿池の決壊を予防するようにしてくれ。」

 2015年現在、愛知県犬山市にある入鹿池は、面積約1.5平方キロメートル、周囲の長さは16キロメートルの巨大な溜池だ。日本の中では、香川県にある満濃池に次いで2番目の大きさの農業用人工ため池である。入鹿池の貯水量は、約15000立方キロメートルで、入鹿池が満水になった時の面積は、152.1ヘクタールある。入鹿池の水によって、灌漑されている町は、1369町ある。入鹿池の水を調節している杁堤は、約73mあり、杁堤に続く大堤は、約175mである。

 入鹿池は、標高74メートルの入鹿村を水底とし、寛永10年(1633年)に尾張藩の事業として、工事が完成した。満水時の入鹿池の標高は、94mとなる。寛永10年(1633年)の江戸幕府将軍は、徳川家光で、この年、鎖国令が始まっている。寛永10年(1633年)の尾張藩主は、徳川家康の九男である徳川義直で、尾張藩付け家老である犬山城主は、成瀬正虎であった。そして、入鹿池は、工事が完成して、入鹿池の水の調節を担当する名古屋杁方奉行所のもと、小牧代官所の管理となってから235年の間、何の問題もなく、ここにあった。

 明治元年(1868年)4月から、入鹿池周辺は、雨天続きであった。この降り続く雨によって、入鹿池の水は増え続け、杁の一番戸と連子を開放しても、水高は、13mを上回っていった。入鹿池の杁の開放を受け持つ名古屋杁方奉行所からは見回り役人が泊まり込みで入鹿池に来ていたが、5月11日、入鹿池の水高は16mを越えた。5月11日の夜からは、入鹿池の下流にある村々の者たちは、昼夜とも見張り番を付け、入鹿池の無事を願って、入鹿池を見下ろす尾張富士に建つ大宮浅間神社で、数参りをした。名古屋の杁方奉行所は、人夫の割り当てや、空き俵やたいまつの割り当てを決定した。人夫たちは、堤に12段の土俵を積み重ね終わると、小牧代官らと共に、入鹿池を見下ろす尾張富士に登った。そして、お百度参りをしている入鹿池下流の村々の者たちに混じって、大宮浅間神社にお参りし、入鹿池の無事を祈った。

 しかし、5月12日になっても雨はやまず、入鹿池の水高は、ぐんぐん高くなっていった。そして、入鹿池の水高は、ついに、17mを超えた。入鹿池の水高は、もはや、奉行所の者たちにはどうすることもできないところまできていた。5月12日の夜、入鹿池から、みしみしと、地響きの音が聞こえるようになる。そして、5月13日の夜中2時頃、入鹿池の南西部にある杁の堤防が決壊した。畑では麦の芽が芽吹き、田んぼでは、田植えが終了していた。

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